私のいとしいその人は(Aristocrat)


 夕暮れどき、部屋に響くピアノの音が私を眠りから呼び覚ます。

 私のいとしいそのヒトは、古びたレンガ造りのアパートの、ひろいひろい二階の部屋と、鎮座ましますグランドピアノ、そして煙草をあいしてる。
 防音設備のない部屋で、叩きつけるように紡がれる音色は、彼のヒトの魂そのもののようで、崇高で美しく。
 アパートの住人の誰一人、こうるさいと評判の、堺のおじいさんだって苦情を言わない。
 荒々しいピアノの音を聴きながら、私はしばらくまどろむ。
 こちこちこち。またまた年代ものの古い時計が、大きな音で針を動かす。長針がぐるりと半回転したのを見計らい、私は毛布を引きずって彼の下へ。
 猛々しい音を、とてもとても真剣な顔で奏でていたそのヒトは、私を見つめておんなになる。

 あら、やだ、おこしちゃった?

 ううんと私は首を振る。これは、毎日お約束のやり取りだ。
 床に触れる冷えた私の素足を確認し、彼は私を抱き上げる。
 私が膝の間におさまると、彼はそのとてもきれいな指先で、ぽおんと丸い音を紡いだ。

 今日は何にしましょうお姫様。

 私はこえを失っているので、その質問に答えられるはずもないのだけれど、彼はきちんと訊いてくれる。
 私は心の中で曲のイメージを思い浮かべて、彼をじっと見上げるだけでいい。

 たのしいきょくがいい。

 そうすると、私の声が聞こえるはずはないのだけれど、彼はいつも私の望んだ曲調を選ぶ。

 じゃぁ、こんな曲はどうかしら。

 私を膝の間に招き入れる、とてもいとしいそのヒトは、古びたレンガ造りのアパートと、ひろいひろい二階の部屋と、鎮座ましますグランドピアノ、そして煙草をあいしてる。
 次にあいをそそぐのは、キャンディーカラーのマニキュアと、ローズユミローズの香水と、シャネルのオンブル、ランコムのマスカラ、ポールのファンデ。そして肌に優しいスキンケア用品。
 ドルチェのドレスと宝石と、洗いざらしのシャツと猫。
 できれば次はその中に。
 私も入っているといい。