つるぎのはなし(SSC)


 傍付きとは称号だ。砂漠の輝石。屋敷の人間たちが、砂漠の者たちが、敬愛を込めて、宝石の姫、宝石の君、と呼ぶ花嫁花婿たちの教育官、最強の盾であり剣、最も傍にいて触れることを許された者としての。
 ソキから傍付きとして選ばれてから七日。ロゼアは屋敷の地下に呼ばれていた。屋敷の構造は複雑で立ち入りを禁止された区画はもとより、存在すら秘匿とされる区画が数多くあって、ロゼアも屋敷に地下があるとはこのとき初めて知った。
 入口は屋敷の裏手。砂漠の東を向く一角に位置する共同墓地の中にあった。泉を中心として放射状に水路がのび、芝生に覆われたそこにはいくつかの墓石が並び立つ。ひとつは花嫁になりきれなかった者の。ひとつは花婿になりきれなかったものの。ひとつは傍付きにも使用人にも何者にもなれず、そのふるいの過程で命を落としてしまったものたちのための。立場や死因によって区別されて収められるが、墓石の意味全てを把握するには傍付きとなり、花嫁花婿を無事に送り出し、その後、いくつかの仕事を経験しなければならぬという。
 身を清め、花嫁を持つ傍付きが――まだ、送り出していない傍付きが、祝賀の日に着る正装を与えられ身に着けて、ロゼアは先導者に従って墓場を歩いた。地下への仕掛けはその者が解いてくれた。お前も覚えておきなさい。と、彼は言った。見せるのは一度だけ。覚えておきなさい。案内人はロゼアの父母もたまさか身に着ける白の上下に花の刺繍が施された鮮やかな色目の帯をしていた。それは花嫁や花婿を無事に送り出した者に与えられる傍付きの正装だ。腰には長剣を佩いていて、その金具が夜明けの光に鈍く反射している。
 墓石の手前で足場となっていた石がふいに揺れて地下に沈みこむ。ざりざりと砂と石のすれ合う音が暗闇に反響した。足場が止まったとき、その先は真っ直ぐに伸びた通路となっていた。ロゼアは案内に従って歩き続けた。
 案内人の傍付きは見たことのない顔だった。傍付きは花嫁や花婿を送り出すと様々な役目を振り分けられて部署を移動する。だが同じ屋敷内だ。大抵の者たちは顔を合わせたことがあるし、世話になっている。まったく、顔を見たことのない者、は、限られる。
 たとえば、外部勤務者。
 屋敷の外で活動する者たちのことである。たいていは外勤、と略称を使っている。ロゼアの両親も外勤に所属している人間だ。
 外勤者は屋敷にほとんどいつかない。他国の学校へ留学したり、屋敷とは関係のない商家の奉公に出ていたりすることもあるらしい。そういった者たちは長期の休みを与えられると屋敷に帰ってきて、訓練に参加したり、座学で外で得た知識を内部勤務者たちに与えたりする。ロゼアの両親は彼らとは違い、五か国を渡り歩いて屋敷に戻り、しばらく過ごす、を繰り返している。
 ほぼ屋敷に戻ってこない者もいる。
 それが他国に居を構える者たちだ。彼らの職務がどういったものであるのか、ロゼアにはわからない。おそらく――嫁ぎ先の選定に、関わっているのだろう。
 通路の終わりは小さな礼拝堂だった。方角、歩いた距離から、おそらく本邸の大鐘楼の真下だ。天井の高さがその推測を正しいものとロゼアに知らせる。見上げた遥か彼方に丸く穴が開いていて、風と、光を礼拝堂に呼び込んでいた。
 礼拝堂にいた男女は誰もが案内人と同じ正装をしていたが、だれひとりとして顔を見たことがなかった。
「傍付きロゼア。そこに」
 礼拝堂の中心は天井からの光がふりそそぎ、まるい円を作っていた。光の中には花があった。屋敷の形。この花園を示す意匠。天空から見下ろすと屋敷は一輪の花のかたちをしている。渡り廊下、あるいは壁が、線となって砂漠に花を描いている。この場所の花は、線の代わりに古い文字で描かれていた。ロゼアには読めない。軽やかに躍るように綴られた装飾文字だった。
 その中心に、立ち、跪けと、待っていた女がロゼアに指示した。初老の女だった。彼女の隣には壮年の域に差し掛かったばかりの男がいて、天鵞絨の細長い包みを恭しく捧げ持っていた。
 ロゼアが跪くと、案内人の若い男、壮年の男、そして初老の女が三人並ぶ。彼らの正装が暗闇にうすぼんやり浮かび上がる。締められた帯は花の刺繍が施されているという一点のみ共通で、布地の質感も色も、刺繍の色形も異なっている。刺繍の花はともかく、色合いは何を意味しているのか知っている。
 彼らの、花嫁、花婿の色。
 壮年の男が天鵞絨の包みを解いた。一本の短剣が現れた。ロゼアが最も得手とする刃渡りの短剣だ。
「新しい傍付きに。祝福の風を。とこしえに寄り添う黄金の光を」
 老女が祝辞を唱えて、ロゼアに剣を渡した。
 ロゼアの剣。
 傍付きの証だった。
「屋敷では傍付きにのみ、剣が与えられる」
 朗々とした声で老女が言った。年齢を感じさせない張りのある声は闇を押し退けるようにして礼拝堂内に響き渡った。
 老女が口にしたことは屋敷の中ならば誰でも知っていた。花嫁花婿の世話役たちや警備の部署に移った者たちは武器を常に携帯できる。有事になれば候補者もその他の部署の者たちにも武器庫は解放される。しかし剣だけは。ナイフ、短剣、長剣、何でもいい。剣のかたちをした武器だけは、傍付きしか腰に佩いてはならない。手に出来ない。
「茎をきれいに伐りとれる武器は刃だけ」
 老女が呟いて目を伏せる。
「立ちなさい、ロゼア」
 ロゼアが立ち上がり背筋を正すまで待って老女は求めた。
「訓戒を」
 ロゼアは訝しく思いながらも従った。
 幼い頃から繰り返し唱えた屋敷の訓戒を諳んじる。


 我ら花園の庭師たれども五王の手足たらず。
 我ら鍬を持てども刃を持たず。
 我ら花を愛でしも手折ることならず。
 我ら輝石の守護者たれども世界に仇名すものならず。
 我ら剣を持てども賊ならぬ者にはその先を向けず。
 我ら輝石を研磨せども身に着けることならず。


「足元に花を描くものはその訓戒です」
 息を詰めて足元を見る。古い文字。踊るような一文一文が、屋敷に勤める者たちすべての戒め。
 満足げに老女が頷いて、次に剣の鞘を、と囁いた。黒皮のこしらえの鞘だ。鍔に振れる部位の金属には足元と同じ文字が刻まれている。その文字は、碧で、トルマリンの色で、ソキの瞳の色で、うすく塗られていた。
 足元の花と見比べると、鞘にのみ刻まれている一文があった。思わず、指でなぞる。碧の文字は光を受けて砂金のように艶めき煌めいていた。
「ロゼア」
 老女に呼ばれて顔を上げると彼女は微笑んでいた。
「お前の触れている一文はこの屋敷のどこにも刻まれていません。鞘と、傍付きたちの心にのみ、あるものです。いまからそれを教えます」
 彼女はロゼアと同様に訓戒を諳んじた。我ら、花園の庭師たれども五王の手足たらず。我ら鍬を持てども刃を持たず。我ら――……。
 最後に耳にしたことのない、訓戒を。


 花が、輝石が、咲き誇る場所を、輝かんとする処を。
 この身に求めるまで。





 勉強机の椅子に座るメーシャが、絨毯に座って武器の手入れするロゼアを眺めていた。
「その短剣って、ロゼアがもともと持ってた奴?」
「そう。傍付きになったときにもらうものなんだ。……学園じゃ二本も佩けないから、こっちに片付けてる」
 ロゼアは傍に置かれた木箱の中に手入れの道具を収めながら説明した。学園に入学したとき、武器庫で短剣を手に入れ、それを優先して腰に佩かなければならなくなったので、傍付きの剣は箱で待機となってしまったのだ。
「でも毎日手入れするんだなぁ」
「手入れしないと悪くなるし」
「うん。でも大変だなぁ。短剣と……さっきの、糸?」
「うん。鋼糸」
 鋼糸はひと巻だけ持っていて、毎日磨いて、定期的に特殊な脂を塗る。糸の隣には皮の包みがある。中には錐が入っている。剣と同様に毎日研ぐ。
 ソキのいない間に済ませる作業だ。興味があったらしくメーシャが見に来たのだ。
「大変そうだな」
「そうでもないよ」
 慣れているし、落ち着ける。とみに、剣を磨いて研いでいるときは。
 磨き研ぎ終えた短剣を鞘に納めて、ロゼアはおもむろに鞘の一文を指でなぞった。
 花が、輝石が。
 この身に。
 ロゼアは箱に剣をそっと収めて蓋を閉め、鍵を掛けて特殊な紐で結んだ。それを抱え上げて棚の高い位置に収める。
 待ちかねたように立ち上がるメーシャを振り返って、ロゼアは笑った。
「そろそろソキを迎えにいこうか」