君との未来に花を(うりゃま寄稿品)


 とけかけた、小豆色の路肩の雪に、花を一輪。



 西洋テイストを取り入れたモダンな建物の並ぶ街、神戸。洗練されながらも、どこか田舎のような素朴さを感じられるこの土地を、私はとても気に入っていた。
 転勤してきて、初めての冬。私はいつものように、朝食をコーヒーショップのモーニングですませていた。
 赤煉瓦造りの外観をしたビルの1階にある店内には、窓に面した3人掛けのカウンター席と4人掛けのテーブルが1卓しかない。炒ったクリスタルマウンテンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、コーヒーサイフォンのたてる水泡の音がかすかに響くその店の、窓際の端が私の定位置だ。

 朝刊をめくりながらヘッドラインに目を通していた私は窓越しにふと、道路を挟んだ歩道に屈みこむ、小さな背中に気がついた。中学生か、高校生か。つやつやとした黒髪を、昔の女学生よろしく2本のお下げにした少女だった。
 なんとなしに少女の姿を視界にいれていた私は、まったく動く気配のないその背中に、もしや具合が悪いのでは、と不安を抱いた。季節は冬。窓の縁には霜が降りて、ぎざぎざ模様を描いている。足を滑らせて怪我を――といった可能性も、ないわけではない。
 少女の姿を認めてから15分後、私はホットサンドウィッチをコーヒーで飲み下し、店を飛び出していた。

「大丈夫?」

 私の声に、少女がはっと息を呑んで面を上げた。頬を寒そうに上気させた、あどけない面差しの少女だった。
 化粧気のない、つるりとした肌。ぬばたまの黒瞳(こくどう)が私を捉える。しばらく私を見上げていた少女は頬にぱっと朱を散らすと、学生鞄を抱えて立ち上がった。
 一礼した彼女はまさしく脱兎の勢いでその場を去る。
 私は唖然としながら少女を見送り――……存在を、そのまま忘れた。

 私が彼女を思い出したのは、次の年、同じ日。

 どこかで見たことのある光景だと思った。お気に入りのコーヒーショップ。定位置でモーニングセットをとる私。通りを挟んだ向こう側に、丸まった背中。二本のお下げ髪。
私は食事をゆっくりと終えた。窓から見える背中はまだ動いていなかった。支払いをすませて道路を渡り、去年と同じように、声を掛ける。

「おはようございます」

 少女が弾かれたように面を上げる――……去年と同じ、彼女だった。
 声をかけたものの、なんと続ければよいのやら。あー、えー、などと、私が口ごもるあいだ、少女は曖昧な笑顔を浮かべ、そしてまたもや私に背を向けた。
 彼女の素早い足取りは、不審者に対する反応そのもので、その遠ざかる華奢(きゃしゃ)な背中を見つめながら、私はかなり傷ついた。
 溜息を吐き、出社のために踵を返す。
 つま先が、かさり、と白い何かに触れた。
 私は足元を確認した。
 路肩に、花が落ちていた。

 この神戸という地の奇妙な真新しさの理由を少し考えれば、その花の意味にはすぐに気付いて然るべきだった。
 白い花弁を持つそれは、土に還った何者かに、手向けられたものなのだ。
 今日という日が一体何にあたるのか、煩(うるさ)いぐらいにメディアで報道されている。
 私がようやっと日付と少女の行動を関連付けて考えたのは、その白い花を拾い上げた瞬間だった。

 次の年も、少女はいた。
 三度目の挑戦、という言葉が脳裏を過ぎる。私は朝食の手を止め、マスターにまた戻ると言い置いて外に出た。
 じっと動かぬ少女の背中を、少し離れて観察する。

 少女は、花を添えている。

 毎年、この時期には雪が降る。
 昨日も降っていた。
 厳寒な朝。人に踏みしだかれ、ぐずぐずにとけた雪が溜まる路肩。そこに、花を1輪。
 少女は、花を添えている。
 灰色のアスファルトの上、彼女の白い指先と花弁の色が鮮やかに映えていた。

 今度は、声をかける前に少女が私に気が付いた。頬をこれ以上ないほど上気させ、重ね合わせた手を幾度となく組み換えながら、しどろもどろに彼女は切り出す。

「あ、あ、え……っと、去年も、いました、よね?」

 私は頷き、訊き返した。

「ここで、何を?」

 少女は高架橋の下に軒を連ねる商店を振り返り、わずかに逡巡(しゅんじゅん)して答えた。

「ここ、私の両親のお店だったんです。ケーキ屋さんでした」

 穢(けが)れを知らぬ雪のように、澄んだ声だった。
 私は少女の視線の先を追い、店を見た。上部がアーチを描く扉には、銀鼠色のシャッターが下りている。開店時刻ともなれば、エスニックテイストの布が店先に並んで風にはためき、若い女性でにぎわうことを私は知っている。その光景は、少女の言と異なっていた。

「あの朝も私の両親は、仕込みのために、ここにいて」
「あの、朝」

 鸚鵡返(おうむがえ)しに口にした私は、私はつい先ほど耳にしたアナウンサーの声を思い出した。淡々と読み上げられる記事。1月17日、今日は、阪神大震災から……年目の。
 少女の曖昧な微笑から、沈黙に宿る意味を知る。

「それで、毎年、花を添えているの?」
「はい」

 少女は頷いた。

「でも、どうして1輪だけしか添えないの?」

 それも風に吹かれれば空に舞い上げられて消えてしまうような、小さな切り花ばかり。
 疑問を口にした私に、少女は目を丸めて呻く。

「えぇ? だって花束なんて添えたらご迷惑じゃないですか。ここ、お店の前ですよ」

 確かに、と私は苦笑した。

「あと私、別に両親の死をいつまでも悲しんでこうしてるわけじゃないですから。お父さんとお母さんは、いろんな苦しいことから解放されて、ここでずっと、大好きなケーキ作りに専念してる。……私はただ二人に、元気ですよって報告しているだけなんです」

 私が不用意に浮かべてしまった同情の眼差しをはね退けんと、少女は毅然(きぜん)と述べた。

「もう行くの?」

 学生鞄を持って立ち上がる彼女に声を掛ける。その声音には、惜しむような響きがあった。
 少女は意外そうに目を見開き、はにかんで白い歯をみせる。

「三年も連続で声をかけられてしまうっていうことは、私、すごく目立つのかなって思って」
「さんねんれんぞく」
「お兄さん、去年も、一昨年も、お会いしました、よね?」

 確信を込めて問いを口にした彼女は、いつも逃げてしまってごめんなさい、と謝罪する。
 私は覚えられていたことへの照れ臭さに、頬を掻いた。

「えぇっと、そこのコーヒーショップが」

 言葉を区切って、私は行きつけの店を指差す。食べかけの朝食を置き去りにしてしまった席が、ここから見えた。

「私の、行きつけなんだ。窓際に座っていたら、君が見えた」
「毎年?」
「毎日あそこにいるね」
「よほどお気に入りなんですね」

 少女は笑った。ふうわりと。雪が青空の下に落ちてくるときのような柔らかい笑みだった。

「そう、コーヒーとホットサンドウィッチが最高に美味しいんだ。マスターもいい人でね」

 君もどう? ご馳走するよ。まだ、時間に余裕があるなら。
 つるりと出た誘いの言葉に、はっと我に返る。
 このように声をかけるなど、不審人物そのものではないか。
 私はひどくうろたえ、前言を撤回すべきかどうか迷った。所在なげに手を胸に当て、あぁ、とか、いや、と呻きながら、少女の様子を覗う。
 彼女は私の誘いに驚いた様子でしばらく立ち尽くしていたが、突如ふっと吹き出して、あどけなく笑った。

「じゃぁ寒いので、カフェオレご馳走してください」

 その反応に私は気を抜き、もちろん、と大きく頷いた。
 小さな予感を胸に抱きながら。



 ――とけかけた、小豆色の路肩の雪に、来年はきっと、花を二輪。