BACK/TOP/NEXT

快楽する色彩


 朔ちゃんは家ではのんびりと過ごす人ですが、出かけるときにはきちんと身なりを整えます。髪を結い、メイクを施す。爪を磨き、時に色をつける。アクセサリー類こそ控えめで、決して服装もまた派手ではありませんが、地味すぎることもない。頭のいい子だと感心した覚えがあります。
 その朔ちゃんが、時折口紅を忘れていくことがあります。唇に、色を塗り忘れていくのです。鏡を見つめ、出かける前に念入りにチェックをしているはずです。時折そそっかしいところもありますが、口紅を忘れているときは、とくに慌てているというわけでもないようでした。
 そういうときに限って、美しい色の紅を唇に差して、家へと帰ってくるのです。

 さて、その朔ちゃんですが、恋人がいます。その方はこの界隈ではとても有名でしたが、彼が朔ちゃんを訪ねてきた日まで、見たことがありませんでした。初見のときに覚えた戦慄を、私はしばらく忘れないでしょう。美しい青年です。体躯や顔立ちが整っている人というのは、たまさか見かけますが、そういう類のものではない美しさです。人に完璧と思わせる、人を、圧倒する、独特の空気こそが、彼の美しさの根源なのでしょう。
 誰もが息を呑む美しさの彼を、どうして朔ちゃんが射止めたのか、正確な理由は私の知るところではありません。ただ、私の憶測でよいのでしたら、一つ、理由を挙げることができます。朔ちゃんは、とてもとても奇妙なことに、あの人を「単なる美形」としか捉えていないようです。少し寂しい人だとも言います。茶化すように、怪しい人だといって笑いもします。完璧だと誰もが認めひれ伏す、美しい者を、瑕疵ある単なる人として捕らえるあの子の特異さが、おそらく彼を射止めたのでしょう。

 朔ちゃんが時折口紅を忘れていくときは、その彼と会うときだと、ふと、気づきました。
 私は不思議でなりませんでした。
 女性の方の心理といたしましては、恋人の方とお会いするとき、もっとも美しく着飾ろうとするのではないでしょうか。だというのに、恋人と会おうとするときに限って、朔ちゃんは紅を忘れていきます。目元を美しい色で飾っていますので、口元が薄くともさほど気になりはしませんが、それでも紅を引かなければ、画竜点睛を欠く、というものなのではないでしょうか。
 昔、父の気を引き、並み居る愛人と競うあうために、鬼のような気迫で以って化粧台の前に腰掛けていた母を思い返せば返すほど、朔ちゃんの行動は奇行にしか思えないのでした。

 その答えを見つけたのは、ある昼下がりのことです。

 その日、私は所用で出かけておりました。私の恋人も別の用事で家を留守にしておりました。朔ちゃんだけが、家に残っておりました。
 当初、私の用事は夜までの予定でしたが、思いのほか早く終わり、昼を回った頃にはすでに家についてしまっておりました。さて、どうしたものかと考えます。下駄箱に、見慣れぬ男ものの靴があったからでした。私のものではありません。無論、私の恋人のものでも。朔ちゃんは安易に知らぬ人をこの家に上げたりなどはしませんから、ならば残る回答は唯一つということになります。
 その手の声が聞こえたならば、耳を閉ざして外で時間を潰そうと考えておりました。
 しかし廊下に響くのは話し声です。しかも居間のほうから響いています。穏やかな声は内容こそわからないものの、睦事とは違うように思えました。私は足音と気配を用心深く殺して、居間へ近づき様子を探ります。
 朔ちゃんとその恋人は、食卓を挟んで向かい合って腰を下ろしていました。紅茶のカップが出ているところを見ると、お茶をしていただけのようです。
 そのまま、朔ちゃんたちの前に姿を現してもよいものか、私は考えあぐねておりました。
 躊躇っていた私の視界の中で、ふと、恋人の方が動きました。
 その方は、食卓の上に置かれていたものを、おもむろに手に取りました。絵筆のようなものです。いえ、実際、それは筆でした。紅筆、と呼ばれるものです。
 その方は、左手に持った銀色の筒にその筆先を丁寧に付けました。そして銀の筒を食卓の上に戻し、空いた手を朔ちゃんの顎に添えます。
 長い指、爪の先に至るまで、完璧だと思い知らしめる大きな手が、小さな朔ちゃんの顎を上向かせます。朔ちゃんは微笑みに目を細め、形よい唇を曲線に引き結んでいます。
 朔ちゃんの瞳には、普段私たちに見せることのない、艶やかさがありました。嫣然たる微笑は、女が男に見せる、かすかな誘いを含んでいます。彼女の恋人も笑います。その微笑もまた艶やかで、この微笑に、女はまるで火に惑わされる蛾のように、引き寄せられていくのかもしれません。
 紅筆の先が、そっと、朔ちゃんの唇の上に乗せられます。柔らかい筆が唇の輪郭をなぞり、鮮烈な紅にそれを染め上げていきます。韓紅は鮮やかながらも上品で、朔ちゃんによく似合っていました。
 うっとりと、朔ちゃんは目を閉じます。その表情に、満足げに、恋人の方も笑いました。
 女を自分の色に染め上げることに対する男の。
 男の色に染め上げられることに対する女の。
 傲慢な愉悦を、私はそこに見ました。

 自分の色に自分の女を染め上げる。そこに愉悦を見出さない男はいないでしょう。わざと紅を忘れてみせるその行為は、男の愉悦を引き出す駆け引きの一つなのでしょう。
 私はやはり、その場を後にすることにしました。言い置いていた時刻まで、我が家に足を踏み入れるつもりは、私にはもうありませんでした。
 だってそうでしょう?
 男は自らの色に女を染めることに快楽を見出すと同時、女が纏う、要らぬ色を剥ぎ取る行為もまた好ましいと思うのですから。
 そしてそれを知る男女の時間を荒らすほど、私は無粋ではないのです。


BACK/TOP/NEXT