第四帖 紺碧と冷えた銀 4
婦人の名を、綾野(あやの)さん、と云った。
「ごめんなさいね、付き合わせて」
ようやっと到着した店の前で、日傘を折りたたみながら謝罪する彼女に、わたしは慌てて首を振る。
「いえ、わたしの方こそただ付いてきただけになってしまって……すみません」
この辺りに来ることは初めてといっても過言ではないわたしが、道案内などできるはずもなく、馬鹿な申し出をしたものだと改めて思う。
複雑な道だったにもかかわらず、すぐに目的の店を見つけられたことは幸いだった。あらかじめ目印を聞いておかなければもっと迷っていたに違いない。
「いいえ。心強かったわ」
わたしたちは微笑み合い、店の暖簾をくぐった。
古い町屋を改装して作られたらしい店舗の天井は高く、どっしりとした太い梁が通っている。人工的なものとは異なるひんやりとした空気にはお茶の香りが混じり、黒光りする木目美しい年代物の棚には大きな缶が陳列され、鈍い光を放っていた。奥はお座敷になっていて、お茶を試飲することもできるらしい。
「いらっしゃいませ」
ぱりっとしたシャツに黒いエプロンを身に着けた女のひとが、わたしたちを出迎える。綾野さんが事情を説明しに向かうあいだ、わたしは携帯電話を確認した。
加奈ちゃんと心美ちゃんには、喫茶店でのんびりお茶してもらっている。お茶屋さんまでの距離自体はそう遠くなく、迷わなければすぐに戻れると、彼女たちを説き伏せたのだ。
『無事、着きました。すぐ戻ります』
心美ちゃんにメールを打つわたしのもとに、店員とのやり取りを終えた綾野さんが戻ってくる。
「今、包んでもらっているから」
「よかったですね」
「露子さんのお陰。ありがとう」
本当に何もしていないのだけれど、そこまで感謝してもらえると嬉しい。
面映ゆさに目を伏せたわたしの手元で、携帯電話が震えた。心美ちゃんからだ。
『了解! 帰りも気を付けてね!』
「お友達から? 大丈夫?」
「はい、大丈夫です。お茶屋さんに無事着きましたって今メールしたので」
「そう。申し訳なかったわね。お待たせしてしまって……」
「いいえ。平気です」
友人たちは同伴を申し入れたものの、待っていてほしいと告げたわたしに素直だった。連れだって行く相手が、上品な老婦人という害のなさそうなひとであったこともあるし、何よりこの炎天下をぞろぞろ移動することは避けたかったのだろう。
「綾野さんはお連れの方とどこで待ち合わせなんですか?」
「デパートだったんですけれどね。用事が早く終わったから、迎えに来てくれるみたいなの」
「優しいですね……旦那さま?」
「いいえ。それがね」
綾野さんは口元を抑え、ふふ、と忍び笑いを零した。
「娘のね、婚約者なの」
「娘さんの?」
「えぇ。この前、娘と一緒に来てくれたときにね、誤って持って帰られたものを持ってきてくださったの。それでお茶をお出ししようとしたら、うっかり茶葉をひっくり返して」
「あぁ、なるほど……」
そういう経緯だったのか、とわたしは納得した。
「そうしたらこちらに用があるから、ついでに買ってくるとおっしゃってくれたの。でもそこまでお手を煩わすわけにはいかないでしょう?」
それで相手が用事をこなす間に、綾野さんが茶葉を購入するという段取りになったらしい。
「素敵なひとですね」
「えぇ、娘には、もったいないぐらいのひとなんですよ」
まるで自分の婚約者について惚気ているかのようだ。
その様子は、暁人さんが家庭教師に来ていたころの母を連想させる。母はいつもこんなふうに、暁人さんが息子ならと夢想して、父を拗ねさせていた。
「あら?」
唐突に、軽快なメロディが鳴り響き始める。
「噂をすれば」
鞄の中から音源たる携帯電話を取り出して、綾野さんが笑った。
「もしもし?」
電話を耳に押し当てながら店の外へと出ていく綾野さんと入れ替わりに、紙袋を二つ携えた店員のひとがわたしに歩み寄る。
「お待たせいたしました」
会計は済ませているとあって、わたしは綾野さんの代わりに商品を引き取った。
「あぁ、ありがとう露子さん」
店内に再び姿を見せた綾野さんは、紙袋のひとつをわたしの手元に残す。
「今日のお礼です」
「え、でも」
「いいのよ。見ず知らずのわたしに付き合ってくれてありがとう。本当に助かったわ」
綾野さんが贈ってくれたものは、お抹茶を使ったお菓子だった。
「……ありがとうございます」
百パーセント善意だったわけではないのに。
申し訳なさに苦く笑いながら、わたしは綾野さんに頭を下げた。
「お迎えが来ましたから、一緒に車に乗せてもらいましょう」
「あ、いえ。歩いて帰ります」
「そんなこと言わないで。さ、出ましょう」
綾野さんに促され、わたしは自動ドアを潜りながら暖簾を押し退ける。
そして看板の横で腕時計を眺めるひとの姿に、思わず立ち尽くした。
私服に身を包んだ、よく見知った男のひと。
「な……で」
問いともつかぬ呟きがわたしの唇から零れる。
振り返った彼もまた、驚愕に戦慄いていた。
「つ、ゆこさ……」
動けぬわたしたち二人をよそに、綾野さんが朗らかな声を上げる。
「お待たせしました、暁人さん」
関係を瞬時に理解して、わたしは彼女を振り仰いだ。
「……菫さんの、おかあさん……?」
「え?」
瞠目した綾野さんが、暁人さんとわたしを見比べ始める。
「……もしかして、お知り合いなの?」
「えぇ……」
「まぁ……」
ここは、暁人さんの職場やマンションとも、琴乃ちゃんの家とも、かなり離れている。その上、今日は平日だ。普通ならばこの時間、暁人さんはお仕事中のはずだった。
まさか、こんな場所で会うなんて。
「すごいわねぇ!」
このあまりの偶然に、綾野さんはかなり興奮したようだった。
「まさか暁人さんのお友達だったなんて! もしかして菫ともお知り合い?」
頬を蒸気させながら手を叩く彼女に、わたしは否定に首を振る。
「いえ、お名前だけです……」
「彼女は兄夫婦の友人なんです。……兄の家で、時々顔を合わせるんですよ」
「あら、そうなの?」
暁人さんの説明に、綾野さんが確認を求める。
わたしは黙って頷いた。兄夫婦の友人。まったくその通りだ。
そして暁人さんとは、友人ですらないのだという事実に、改めて胸が痛んだ。
唇を引き結ぶわたしの顔を、彼が怪訝そうに覗き込む。
「露子さん?」
わたしははっと我に返った。
「今日はお仕事じゃなかったんですか?」
笑みを慌てて取り繕って、質問を投げかける。
「夏休みを消化しなきゃいけなくて」
暁人さんは答えながら苦笑した。
「私用もあったし、休ませてもらったんだ」
「え? 会社にも夏休みってあるの?」
「うん。僕のとこは五日間ある。……お盆が忙しかったから休めなくて、今慌てて消化してるとこ」
そういえば、お盆のご家族の集まりにも、暁人さんは少ししか顔を出さなかったのだと琴乃ちゃんから聞いた。
「身体、壊さないでくださいね」
「ありがとう」
ふんわり穏やかに笑う暁人さんを見つめ、わたしは眩しさに目を細める。日頃は大きく感情を表さないひとだから、こんな柔らかい顔を見られるなんて、ひどく得した気分だ。
けれどわたしは綾野さんから向けられる視線に、すぐに表情を引き締めた。娘さんの婚約者に馴れ馴れしすぎやしなかっただろうかと不安になる。
「あの、やっぱりわたし、ここで失礼します」
このおっとりとした婦人はどこか母を思わせて、とても好ましく思っていたけれど、菫さんのお母さんだというからには互いを深く知る前に、辞去したほうがいいに決まっていた。
「あらどうして?」
踵を返すわたしの手を、綾野さんがしかと掴む。
「暁人さんとお知り合いなら、なおさら遠慮することなんてないわ。ねぇ暁人さん、お手数ですけれど、露子さんを送ってもらえる?」
わたしの緊張に気付かないのか、綾野さんはにこにこと目元を緩めている。
「えぇ……もちろんいいですよ」
暁人さんは微笑を浮かべて首肯した。
ここで断れば逆に奇妙だ。
わたしは結局、婦人の手を振り払えなかった。
――……ゆえにわたしは目撃者となった。
駐車場へたどり着く、その寸前。
薄暗い角を男のひとと腕を絡めて曲がる。
菫さんの姿の。
四時を回ってもまだ空は明るく、むっとした熱気が薄暗い通りに篭っている。歩き出すと生温い風が肌を撫で、纏わりつく情事のにおいを吹き攫っていった。
「これからどうする? ご飯食べる?」
男の問いに、菫は頭の中で電車の時刻表を確認しながら応じた。
「んん、帰る」
「菫、ここのところ付き合い悪くないか? 今日も久しぶりだったっていうのにさ」
「ごめんね」
男は、菫の“友人”のひとりだ。
こういった“友人”は彼以外にも数人いる。だが未婚で菫が他人の妻となることを知らぬのは彼だけだ。他は揃って既婚者であり、菫の事情にも通じている。先日も遊びに誘ったら、式の前ぐらいは淑女でいてやれ、と説教される始末だった。
(わたしだって、暁人だけのおんなでいるつもりだったのよ)
結婚の話を持ちかけられたときは正直に嬉しかった。打算で動く人間だと自覚はあるが、恋人に生涯の伴侶となることを仄めかされて、喜ばぬ女はいない。“友人たち”とも縁を切るつもりだった。
暁人は、まさしく結婚するにふさわしい男だ。
美しく、有能で、偉ぶらず、優しく、経済力もあり、菫の両親にも好かれている。
何が不満か。何も不満はない。不満をもつべきではない。
だが暁人との共に過ごす時間が増えるほど、空虚さと苛立ちが菫の心中を浸食するようになっていった。気が付いたときには、この“友人”と連絡を取っていたのだ。
暁人が仕事をしている平日を選んだのは、せめてもの防衛線である。
早朝から待ち合わせ、軽い食事をとってぶらぶら歩き、よく利用するホテルへ。
そしていつの間にか、この時間だ。
男が、菫の腕を取った。
「ちょっとやだ、恥ずかしい」
恋人同士ではあるまいし、という言葉を菫は呑み込んだ。腕を絡めるなど、本音を言えばしたくはない。ここが自宅や勤務地から離れ、婚約者たる暁人のテリトリーから外れていたとしても。
「いいだろ別に」
男が強引に菫の腰を抱いた。
その情熱は、暁人に欠落している唯一のものだ。
唯一にして、決定的な。
暁人から情が感じられないというわけではない。式の準備も真剣だし、連絡が疎かなわけでもない。
しかしたとえば今と同じやり取りをして、菫が否を告げれば、暁人はあっさり手を引くだろう。残念というそぶりもなく、どちらでも構わないのだ、という淡白さを滲ませて。
その冷えた雰囲気を、近頃ますます感じるような気がするのは、十年来の女友達が指摘するように、マリッジブルーだからなのか。
溜息を吐く菫を、男はさらに強く引き寄せる。その温かさにほだされ、菫は少しだけだと言い訳しながら、背に回る男の腕を胸元に引き寄せた。
それが、いけなかった。
鋭い叱責が、建物の壁に反響する。
「菫!!!!」
自分のものとよく似た甲高い女の声。
菫はざぁと血の気引く音を耳にした。
綾野さんが日傘を手から滑り落とし、上品さを金繰りすてて、角から現れた女のひとに詰め寄っていく。
「あなた、こんなところで一体何をしてるの!?」
「お、お母さんこそなんで……?」
「まず私の質問に答えなさい!」
ぴしゃりと問いを遮る綾野さんに、その女のひとは青褪め戦慄いていた。
彼女は、とてもきれいなひとだった。
モデル、あるいは女優のように、華のある整った顔立ち。風に流れる髪は栗色で、大きな目を囲む長い睫には、マスカラが丁寧に塗られている。夕方だというのに、崩れたところの一切見られないお化粧は艶やかで、黄みを帯び始めた陽光の下で、はっとなるような美しさがあった。
このひとが、菫さんなのだ。
暁人さんの、お嫁さんになるひとなのだ。
なのにどうして、彼とは違う男のひとの腕に抱かれているの。
いったい、なにがおこっているの。
親子が言い合いを繰り広げるなか、わたしは暁人さんを恐る恐る仰ぎ見る。
その端正な横顔が、色を失くしたまま凍り付いていた。
「暁人が悪いのよ!!」
金切り声に、わたしは菫さんを振り返る。血走った目をこれ以上ないほど見開いた彼女の指が、小刻みに震えて暁人さんに向けられていた。
「あき、あきひとが! だって、いっつもわたしなんていてもいなくてもいいんだ、みたいなたいどで……! わたしなんていても、いなくてもおなじ、みたいなたいどで……!!」
「馬鹿を言うんじゃありません!!!」
綾野さんは娘の主張を一息に切り捨てた。
「いったいどう見ればそんな風に思えるの!? 人のせいにするんじゃありません! その上、自分の欲求が満たされないからってそれを他の男で穴埋めしようだなんて……!!」
愚かしいこと甚だしい。
その言葉が、わたしの胸を、矢のような鋭さをもって、貫いた。
ほろりと、涙が転がり落ちる。
「そこまでにしておきましょう」
いつの間に移動していたのだろう。
暁人さんは今まさに菫さんの頬を打とうとしていた綾野さんの手首を、素早く宙で掴み取った。
「ここで言い合いを続けていてもどうにもならない」
「あ、きひと……」
縋るように呼びかける菫さんを一瞥するに留めた彼は、傍観者となっていた男のひとに向き直る。
「話を聞きたいので、一緒に来ていただいていいですか? 申し訳ないですが」
「な、なんなんだあんた……?」
男のひとの問いかけに、暁人さんは嘆息混じりに応じた。
「彼女の婚約者です」
「……は!?」
発言の意味がわからないと、男のひとは愕然とした面持ちで叫んだ。
通行少ない路地裏めいた通りには、菫さんの啜り泣きがこだまし、倦怠感が靄のように漂っている。
「……大丈夫?」
暁人さんがわたしの前に佇んで、頬に伝う涙を視線で示した。
「怖かったね。……ごめんね、巻き込んで」
そうっと、泣く子を労わるように触れる手に向けて、わたしはいやいやと首を振った。
ちがう。
違うのだ。
暁人さんは何も謝る必要はない。巻き込まれたから、怖かったから、泣いているのではない。
この涙は、わたし自身の醜悪さによるものだ。
目頭が熱く、喉の奥が引き攣って、わたしは息苦しさに喘ぎながら目線を上げた。
そのぼやけた視界の中で、暁人さんが呆然と立ち尽くしている。
胸元を握りしめながら、わたしは胸中で呻いた。
(あぁ、そうだ)
わたしはただでさえ混乱する彼を、困らせるわけにはいかないのだ。
わたしは慌てて目元を拭い、暁人さんに微笑みかけた。だいじょうぶ。大丈夫ですよ。暁人さんのせいではないんですよ。泣いてしまったのは、決してあなたのせいではないんです。
微笑に込めた意思が伝わったのか、暁人さんがほっと息を吐く。
けれどその顔はすぐさま厳しくなって、踵を返す乾いた音が狭い通りに大きく響いた。