大人になる方法 4
日曜日。
一週間、なんだかぐずついた天気が続いたけど、その日は晴れやかだった。私はカフェで本を読みながら、先輩を待っていた。
恋人を待つのって、こんな風に、どきどきする、ものなのかな。
小説の文字を追うのもそぞろに、時計と外を交互に見比べて、私は先輩の姿を探している。まだ、待ち合わせの時間まで、大分あるのに。
いけないいけない、と、小説に再び視線を落とした私は、耳に届いた軽いノック音に面を上げた。
そこには、先輩がいる。
でてきなよ、と仕草が言っている。私は満面の笑みで頷いて、本をトートバッグの中にしまいなおしていた。
「ありがとう、ございました」
私から両親への話が終わり、先輩は辞去を口にした。沈黙に沈む両親を置いて、私とトモは先輩を見送りに外に出る。
「いいよ」
先輩は私の感謝の言葉を、さらりと受け流した。
「僕がしたくて、したことだし。いい方向に向かうといいね」
「はい……」
「にーちゃ」
くい、と先輩のズボンの裾を引いて、トモが言う。先輩はトモに視線を合わせるために腰を落とすと、そのくりくりした小さな頭をよく撫でた。
「ごめんね。多分もう来ない。お姉ちゃんを、守りなよ」
「まもる?」
「そう、まもるの」
「先輩」
私が呼びかけると、先輩は立ち上がって首を傾げた。
「何?」
「あ、あの、今度の日曜日、お暇ですか?」
「……日曜日?」
「はい」
私は、焦っていた。
多分、先輩が、もう私と係わり合いにならない、つもりだから。
こんな中途半端なままじゃだめだ。先輩を巻き込んで、迷惑をかけただけで、終わっては。
「あの、お礼がしたいんです! ううんむしろお詫びで! 先輩には、いっぱい迷惑かけちゃったし! ……あの、お昼ごはんだけでも、おごらせてください! ……その代わり、もう、学校では、付き纏いませんから」
多分、先輩はこれで私とのことを終わらせるつもりでいる。たとえ私がそのまま先輩に食い下がったとしても、先輩はもう優しくしてくれない。そんな気が、する。
早口でまくし立てた私は、肩で息をしていた。先輩はそんな私をぼんやりと観察したあと、いいよ、と言った。
「じゃぁ、一回だけ、ご馳走になろう?」
先輩におごるといっても、そんなにたくさんお小遣いがあるわけじゃない。なにせバイトだって始めたばかりだったから。お財布の中身と相談して、私はランチメニュー豊富なパスタ専門店を選んだ。和風パスタ、洋風パスタ、種類が豊富なランチが、千円以内で食べられる。
一緒に店内に入り、席に着く。注文は先輩が取ってくれた。私が注文をいう隙を与えないところがすごいと思う。
「うわーおいしそう……」
「うん。ホント、美味しそうだねぇ。頂きます。ご馳走になるよ」
「はい。どうぞどうぞ」
一応お箸も用意されているこの店で、先輩はスプーンとフォークを使って器用にパスタを平らげていった。本当、どこで習うんだろうそういうフォーク捌き。あの夜までパンをかじっているところしかみたことなかったけれど、先輩の食べ方は驚くほど綺麗だ。
一方不器用な私は、スプーンとフォークで綺麗に食べるなんて方法、できなくて、大人しくお箸でパスタを食べている。
「ご両親とは、あれからどう?」
半分ほど食事が済んだところで、先輩が話を切り出した。
「……ちゃんと、話し合うようになりました。その結果、離婚しても、私は仕方ないかなって思ってます」
「そう」
「本当に、ありがとうございます。うちの親も、よく、お礼を言えって」
「たいしたことは、してないけど」
大したこと、だった。
私にとっては。
先輩がいてくれなかったら、私、親とあんなふうに向き合うこと、できなかった。
「ありがとうございます」
私の謝辞に、先輩は満足そうに微笑む。続けてパスタを口に運ぶ先輩に、私は尋ねた。
「どうして先輩は、あんなふうに、うちの家に、付き合ってくれたんですか?」
本当だったら、私が先輩に告白した理由を聞いて、怒ってもよかったはずだ。
もう二度と私と口を利いてくれなくなってもおかしくはなかった。
なのに先輩はただ呆れただけで、私に付き合って、家族との対話の時間を作り出してくれた。
私、先輩の恋人でもなんでもない、赤の他人なのに。
「家族って、簡単に壊れるって、僕は思ってる」
先輩は口の中のものを咀嚼し終わり、水に口をつけながら言った。
「でも壊れていいもんでもないよ。修復する方法が少しでもあるなら試したほうがいいし、僕はそれを知ってた。だから実践してみた」
まるで理科の実験を試してみたといわんばかりの軽さだ。驚きに何もいえないでいる私に、先輩は一度笑ってみせる。
「家族が壊れると傷が残るよ」
けれどそのすぐ後に先輩が浮かべた表情は、とても暗かった。
「後々まで、ずっと尾を引く傷が」
「せんぱ」
「知り合った以上、そんな傷、負ってほしいとも思わなかったし」
こくり、と喉を鳴らして水を飲み干した先輩は、静かにコップをテーブルに置く。
「……それに、家族をいらないだなんて、いうのが腹立たしかった」
喉から手がでるほど欲しくても、手に入らない人間だっているのに、と、先輩は付け加える。
呆然と見つめながら私は言った。
「……先輩の家も、何か」
「今は違うけど。昔は色々あったよ。僕が君に実践したことは、僕が昔されたこと」
それ以上、先輩は家のことについて語らなかったけれど、私はなんだか納得していた。
私が、先輩に覚える、妙な親近感。
そして、先輩が、テレパシーのように、私の心を汲める意味。
「僕の家は変わったけれど、君の家が変わるとはかぎんないから。それは、君のがんばりどころかなぁ」
「……はい」
頷きながら、私は黙ってパスタを口に入れる。それを咀嚼しながら、ふと思った。
あれ、先輩の家族が修復されたっていうんなら、家族が欲しくても手に入らない人っていうのは、誰のことなんだろう?
「さて」
ぽん、と先輩が両手を合わせる。私ははっと我に返り、先輩のお皿を見た。なめたように、綺麗に平らげられたお皿がそこにある。
「ご馳走様でした」
そういって伝票をもち、先に立ち上がろうとした先輩を、私は慌てて制した。
「ちょ、まっ、まってください!」
「何?」
「ここ、私の奢りです!」
「あ? あぁ……そっか」
伝票を持って、普通に支払いにいくつもりだったらしい。
「ごめん、つい癖で」
「く、癖なんですか」
「じゃぁご馳走様」
そしてコートを持ってやっぱり去ろうとする先輩を、私は慌てて引きとめた。
「あーあー先輩! ま、まってっ! 座って!」
「……何?」
先輩が今度こそ、うっとおしそうに私を見る。その眼差しの威力は強力だ。美人は怒ると怖いってよく聞くけど、本当なんだ。
私は血の気の引いた指先を握りこみながら、先輩に言った。
「す、座ってください」
先輩は小首を傾げて、私の言葉に従ってくれる。
よかった。これで手を振り払われて出て行かれたら、私もう成す術がなかった。
私も席に着く。あと少しだけ残っている私の分の冷めたパスタを見つめながら、私は言った。
「あの、もう一つだけ、わがままだけど、お願いが、あるんです」
「お願い?」
先輩の鸚鵡返しの問いに頷いて、私は前を見た。
やっぱり綺麗な人。天使がいたら、きっとこんな感じなんだろうな。
私は、五月蝿い心臓の音を抑えるように、胸元を握り締めながら、先輩に請うた。
「やっぱり私、先輩に、抱いて欲しい」
私。
先輩のこと、好きだったんだ。
家で両親に向き合う勇気をくれた先輩の手を意識して、私は初めて気が付いた。振られてなお、先輩に食い下がった、その理由。私自身の想い。
私を振って立ち去りながら、先輩のほうこそ、途方にくれた目をしていたの。寂しい目をしていたの。
それが、たまらなく、切なくて。
あぁ、私はおそらくあのときから、ずっと先輩に恋をしていた。
私のほうが、先輩の手を、握り締めてあげたかった。抱きしめて、あげたかった。
「セックスでは大人になれないっていいましたよね。でも、違うと思うんです。抱くっていう行為は、心を抱くって意味なんじゃないかと思うんです。先輩言いましたよね。心と言葉を重ねて、人は大人になる――きっと、人を抱くっていう行為は、体じゃなくて、心を重ねてるんだと思って」
先輩、いつも遠くを見てましたね。
私、その先輩の瞳ごと、抱きしめたかった。
先輩は、笑った。
無理やり筋肉を動かしたような、道化師のような笑い方で。
「僕の心と君の心が重なることなんて、ない」
「いいんです。私が先輩の心を抱きたいだけなので。だから、抱いてください」
「無茶苦茶じゃん、その論理」
今度こそ可笑しそうに、先輩は声を立てる。なんだかその笑い方がかわいくて、つられて笑いかけた私に、先輩の冷や水のような声が突き刺さった。
「イライラしてるから」
言葉と共に、その笑いを消した先輩の瞳は、ぞっとするぐらいに酷薄だった。
怜悧な美貌が浮き彫りになって、その場の温度が一気に下がった気さえする。私は、呼吸を止めた。ううん。呼吸が、できなくなったのだ。
先輩の放つ冷気が、肺に、突き刺さりそうで。
「君を抱くにしても乱暴にしかできないよ、僕は」
脅すように、先輩は静かに告げた。
「それでもいいの?」
多分、先輩なりの警告だった。
けれど、後戻りはできなかった。
私は微笑んで、言った。
「はじめては、せんぱいがいい」
先輩はいつも遠くをみていた。
いつもいつも、遠くをみていた。
時々、苦しそうだった。
ふと、私は女の人を思い出した。
昇降口で、鍵を握る手に、口付けしていた人。
どうして、その人を思い出したのかは判らない。
けれど、その人も先輩と同じように、苦しそうだった。