もう蝉のせいにしないよ
「遅いよ」
先に待っていたみちるは、実に生暖かい目で叶を迎えた。
「……いや、それは、僕のせいじゃなくてさぁ」
半眼の彼女に、負けじと眉間に皺を寄せながら、叶は呻く。遅刻の理由はメールできちんと伝えたはずだ。乗っていた電車が、あちらの都合でしばらく止まってしまっていたのだから仕方がない。
「なーんてね」
みちるはにっ、と口元を引き上げる。
「大丈夫だよ」
なんだか、彼女にいいようにからかわれている。嘆息した叶の前で、みちるはテーブルの上に広げていた本を鞄にしまいなおし、飲みかけのジュースをすすり始めた。
「……ゆっくりしてていいよ」
まぁいいか、と気を取り直して、肩をすくめる。
「僕も喉渇いたから、何か注文してくる」
「あ、そう?」
「何かほしいもんとかある?」
「うーん、特にないかな。大丈夫。いってらっしゃい」
「ん」
ビルの一階に入ったカフェは、相変わらず人で賑わっている。グループで談笑している人もいれば、一人で英会話か何かをイヤフォンで聞きながら、勉強にいそしんでいる大学生らしき人も。また、咥え煙草のまま眉間に皺をよせ、ノートパソコンのディスプレイとにらみ合っている社会人もいた。
彼らの横を通り過ぎ、カフェラテを注文して、元の席に戻る。みちるは、店に置かれていたらしい雑誌をテーブルの上に広げ、ぼんやりと外を眺めていた。
「みちる?」
「いい天気」
くすりと笑い、彼女は言った。
「外は、蒸し暑いけど」
「夏だもん」
「入道雲でてるよ。あっち」
「あ、本当だ」
みちるの指差す方向を見る。遠く、高い雲が出ている。夏の空だと思った。
「とりあえずさ、今日は四つぐらい見て回るつもりだけど。体調は大丈夫?」
みちるの向いの席に腰掛けながら尋ねる。みちるの顔色は悪くはなかったけれど、訊いておくに越したことはない。部屋探しは急がなければならないが、彼女の体調に優先されるべきものでもないからだ。
「うん。昨日一日寝てたし大丈夫」
軽く伸びをして、彼女は言った。
「まさか私、こんなにひどいものだと思わなかった」
「仕事は結局どうなったの?」
「お休みとらせてもらえることになった」
「長いの?」
「うん。長いの。朔さんとか棗ねーさんは、ある程度過ぎたら楽になるっていってたけど、落ち着いて復帰してまた休んでってなったら、ややこしいし」
「よく店が許してくれたね」
「本当。一度お店で倒れてるからって、あっさり了承してもらえたみたい」
「え? 倒れたの?」
「……いわなかったっけ?」
「聞いてない」
さすがに倒れたことまでは聞いていない。叶は顔をしかめ、それを見たみちるが、苦笑する。
「でも……大丈夫よ。あの時は工房の匂いが鼻についただけだったから」
「当分、パン焼いたり菓子作ったりっていうのは、無理だね」
「そうね……腕が落ちないか心配。あっさり系のものでも作ろうかなぁ」
何かないかなぁと首をひねる彼女は、どうやらレシピを思案しているらしい。
「ま、時間的にも多分無理かな。これから行かなきゃいけないとこたくさんあるし。やることもあるし」
ひとしきり考えた後、彼女はそういってジュースのストローを咥える。叶はアイスのカフェラテを味わいながら、大きく嘆息した。
「ホント、時間ないよね」
「私はもう仕事休んじゃったからいいけど、叶は大変よね。私一人で回れるところは回っておくけど?」
「いや、一緒に回るよ。どうせ自業自得だし」
それに、と付け加える。
「これでみちる一人で回らせるようなことがあったら、僕ぜったい朔ねーさんやユトちゃんに殺される……」
「殺しは、しないと思うけど……」
「今からの何が怖いって、店長に会いにいくことじゃないよ。朔ねーさんとユトちゃんに会いにいくことが怖い」
義姉二人の笑顔を思い起こして、思わず身震いする。目線を逸らしながら冷や汗を流すこちらに、みちるは目を瞬かせた。
「そんなに怖いの?」
「前科一犯だもん。覚えてないの? 僕とみちるが付き合うようになった年の正月」
「……あー……思い出した」
事情を知ったときの、彼女らの恐ろしい剣幕。みちるも、滅多に無いにしても、本気で怒ると怖いため、彼女がそうならないように注意を払っている。が、彼女らはそれ以上だ。さすが、自分のような人間たちと対等、それ以上に渡り合っていく女たちなだけあった。
「ユトちゃんたちに怒られるぐらいだったら、僕は迷いなく店長に殴られるほうを選ぶね」
頬杖をついてげんなりと呻く。その様子がおかしいのか、みちるはくすくすと笑っていた。
「がんばりなさいよ、前科一犯」
「はいはい」
頷きながら、思う。
殴られることは覚悟している。とうの昔――彼女を、この
そして。
――ずっと、決めていた。
彼女に、家族を、あげようと。
何もかも失って、それでも自分の足で歩き、たくさんの人に愛される君に。
ただ、自分の全てをかけて、家族をあげようと。
その予定が、少し、早まっただけで。
とはいえ、そのきっかけを通じて相変わらず彼女を散々泣かして、彼女から電話を受け取った奈々子にお小言を食らった。さらに言えば、義姉二人にまた説教されそうでもあるのだが。
「……さて、それじゃぁそろそろ行こうか」
カフェラテのカップが空になり、一拍置いて、叶は言った。
「みちるもジュース飲めた?」
「うん。飲んだ」
立ち上がり、プラスチックカップを二つ取り上げて近くのゴミ箱に捨てる。椅子に座ったまま荷物をまとめていたみちるに、手を差し伸べる。彼女は躊躇いなく叶の手をとり、しっかりと握って立ち上がった。
そのまま、外に出る。
蝉時雨が、自動ドアが開閉すると同時、熱気と共に襲い掛かってくる。太陽の光の眩しさに目を細め、一度立ち止まった。傍らのみちるも同じ様子で、眩しそうに手を翳している。
「まぶしいね」
「うん、まぶしいね」
言い合って、歩き出す。
「蝉、すごいねぇ」
「気、狂いそうだよね。こんだけ騒いでると」
「ホントだね」
毎年のことだが、暑さを掻き立てる蝉の声には閉口させられてしまう――まさしく、気が狂うような。
それでももう、この声や暑さを言い訳にすることもない。この蝉の声を借りることなく、喧嘩したり、笑ったりしながら、自分は彼女の手を取り続けるのだろう。
ずっと。