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第一章 久闊の訪問者 4


 あの雨の夜のことを知る者はそう多くない。宰相にすら告げていない真実。それを何故、男に話す気になれたのか。相手は共に過ごした時間もわずかで、しかも情報を商うような男であるというのに。
 話さなければ嗅ぎ回られる。それを危惧したということもある。
 ただ単純に、嬉しかったのかもしれない。
 ありし日の二人の姿を惜しんでいるものが、自分以外にもいたのだということが。


 決して口外せぬことを厳命し、ダイから聞いた限りの話を伝えた後、男は顎をしゃくりながら黙考し始めた。
「……どうしたの?」
「……何でダイは、お前のもとに残ったんだ?」
「え?」
 躊躇いがちなダダンの問いに、マリアージュは唇を引き結んだ。彼は短く切られたその砂色の髪を、乱雑にかき混ぜている。
「……ダイは、ヒースと、通じてたりとかは、していないのか?」
 思考が止まったのは、一瞬だった。
 何を言われたのか悟ったマリアージュは、轟然と立ち上がった。
「……どういう意味なの? それは」
「だってそうだろ? それだけあいつから話を聞いて、一緒に来ないかと誘われて……それで何故ダイはここにいる?」
「黙りなさい!」
 男の言葉を遮り、マリアージュは手を伸ばして彼の襟元を力一杯引き寄せた。虚を衝かれたらしい。平時ならばびくともしないであろう男は、女に手繰り寄せられ、胸倉を掴まれた状態に顔を歪める。
「何しやがる!」
「煩い!」
 マリアージュは怒鳴り返した。
 刹那、どん、と扉が叩かれる。
「陛下!! 陛下!!! いかがなされました!?!?」
 今にも誰かが乱入してきそうな気配だった。沸点に達しようとしていた怒りが引き、マリアージュは努めて冷静な声音を扉に向けた。
「大丈夫よ。まだ入ってこないで頂戴」
「ですが」
「命令よ!」
 扉の向こうに控える兵たちは、焦れている。
 ダダンが深く息を吐いた。
「……ヒースは、ダイを置いていった」
「違う。あの子が私を選んだの」
 ミズウィーリ家の、侍女頭にも言われた。
 ダイ自身も、自分を疑わぬのかと、尋ねてきた。
 デルリゲイリアの情勢を連絡させるために、ヒースはわざと、ダイをこちらへ残していったのではないかと。
「お前とダイはそんなに付き合い長くねぇだろ? 従者一人を、どうしてそんな風に信じてやる必要がある?」
「あんたには……わかんないでしょうよ」
 男の胸元に額を押し付け、彼の衣服を握り締める手に力を込める。くぐもった声音は、自分でも笑えてしまうほどに震えていた。
「あの子は、私のために怒ってくれた、初めての子なのよ」
 ミズウィーリ家には少なくない数の家人が仕えていたが、マリアージュのために真剣に憤ったものはかつていなかった。それどころか、自分のことを心から考えてくれたことのある家人は、一人としていなかったのだ。
 ダイはマリアージュに向き合い、そしてマリアージュの為に怒った、初めての従者だった。
 その時、マリアージュはダイの仕事道具を床に投げ捨てるという横暴を働いたばかりだった。にもかかわらず、ダイは怒りの矛先をマリアージュにではなく、主人の無知を嘲る侍女達に向けたのだ。マリアージュを馬鹿にしているのか、と。
 ダイのあの行動は彼女生来の人の良さから来るのかもしれない。マリアージュに対しても怒ってはいただろう。
 それでも。
 嬉しかった。
 些細な出来事。しかしあの瞬間から、化粧師は自分にとって無二の存在になったのだ。
「誰がなんと言おうと、あの子には価値がある」
 マリアージュは顎を上げ、眼前にある男の顔を睨み据えて呻いた。
「選択を迫られたとき、ダイは慕わしく思っていただろう男ではなく、私を選んだ」
 あの日以来、ヒースと関わるときに時折見られた”少女”としてのあどけない笑顔が、ダイから削り取られてしまった。
 それを思うたび、あの娘がどれほどの苦渋を抱いて自分を選びとったのかを痛感させられるのだ。
 そんな彼女を、どうして疑えるだろう。
「……私はそれを信じるわ。あの子がここにいる……それで、充分よ」
 ダダンは微かに笑い、そうか、と小さく呟いた。
「考えりゃあのダイに、間者なんて真似できそうにねぇよな。不器用そうだ」
「不器用そうじゃなくて、不器用なのよ」
 ダイは思ったことがすぐに顔に出る。もし仮に彼女がヒースと繋がっていたとして、隠し通すことなどできはしまい。
「どうしてもっと早くそう思わないの? ばっかじゃない?」
「悪かったな」
 喧嘩腰に言い返してこないところを見ると、ダダンも考え至らぬ己れに呆れているらしい。上半身を伸ばした彼は、どこか悔しそうに溜息を吐く。
「間抜け」
「うっせぇよ!」
 マリアージュの皮肉に、ダダンは速攻で叫び返した。だが半笑いのその顔を見る限り、怒っているわけではないようである。緊張から解き放たれた反動か、こみ上げてくる妙な笑いにマリアージュは喉を鳴らした。ダダンも同様に居住まいを正して表情を崩す。
 その、瞬間だった。
 ばんっ!!!!
 扉板を叩きつける、けたたましい音が室内に響き渡る。
 マリアージュは驚きに瞠目し、ダダンと共に音源を振り返った。許可あるまで閉じられているべき扉が、大きく口を開けている。そこから男が一人、部屋に飛び込んでくる。
 彼は佩いていた剣を抜き去ると、ダダンにその切っ先を鋭く向けた。


「大丈夫?」
 腕を組んで研究室の扉口に背を預ける魔術師は、もう何度目かわからぬ憂慮の言葉を痛ましげに投げかける。ダイは柔らかく笑い返して、しっかりと頷いた。
「大丈夫です」
「これからのご予定は?」
「一度部屋に戻って荷物置いてから、マリアージュ様のところに」
「いつもの時間と違わない?」
「マリアージュ様、ルディア様との夕食会があるんですよ。その前準備として、今日は早めに」
「あぁなるほどねぇ。あの子もとびきりおめかししたいだろうしねぇ」
「アルヴィー、それはちょっと違う気が」
「あら、似たようなものじゃなぁい?」
 母親に背伸びをしてみせる子供のように、マリアージュはルディアと会うとき身奇麗にする。そして一番美味な料理と発泡酒を用意して彼女を迎えるのだ。
「眠れなければ夜にも部屋にいらっしゃい。ここの部屋の鍵は開けておくから」
 アルヴィナは寮に戻らずこの研究室で夜を明かすことも多い。今日もその予定なのだろう。
 彼女には、いつも心配をかけてばかりだ。
「アルヴィー」
「なぁに?」
 首を傾げる友人から視線を外して、ダイは問うた。
「……どうして、王宮に?」
 まだダイが城に上がる前のこと、ミズウィーリ家はアルヴィナに、正規雇用の話を持ちかけたことがあるらしい。しかし彼女はそれを突っぱねた。長期で縛られることを厭ったのだ。
 白砂の荒野にひとりで居を構え、必要以上に他と交わることを好まない。人当たりはよくとも、一定の距離を常に置く。
 それはダイに対しても例外ではなかった。アルヴィナは自らのことを語ろうとしない。失われた術を数え切れぬほど取得し、膨大な魔力で以ってそれらを操る。一体どこで技を学んだのか。実年齢すら。
 そんな彼女が、城で雇われることを選んだ。
 宮廷魔術師となれば今までのように自由気ままに振舞うことは許されないと知っていて、それでも。
「……私の、ためです、か?」
 アルヴィナはあの雷雨の夜に起こった全てを知る、数少ないものたちの一人だ。そして城で再会してからの彼女は、ダイをその精神が危うくなるたびに、支え続けてきた。
 魔術師の公募に彼女が応じたのも、きっと――……。
「……いえ、すみません」
 ダイは頭を振って踵を返した。このような場所で問うべき内容でもないだろう。
「ダイ」
 呼びかけに、足を止める。
 振り返った先で、アルヴィナは静かな微笑を湛えていた。
「頑張って」
 どんな理由であれ、どんな形であれ、変わらずに傍にいてくれることは嬉しい。
「ありがとうございます」
 苦笑して礼を述べ、ダイはその場を辞去した。
 大半の部署で定められている終業の時刻にはまだ早いとあって、寮へ向かう道は静かだった。
 背後に山脈を抱えるこの城は、西日を最も長く受ける。夕刻の柔らかな薔薇色が、白を基調とした回廊を染め上げている。その中にぽつりと落ちる自分の影は、世界にたった一滴落とされた染みのようだった。
 自室に辿り着くと、ダイはアルヴィナから受け取った荷物をおざなりに置いて、来た道を即座に引き返した。時間に余裕はある。しかし身体を侵食するこの得も言われぬ空虚さを、一刻も早く振り切りたかった。
「……あれ?」
 すれ違う同僚たちと挨拶を交わしながら執務室へと向かう道中。迎賓室の前で屯(たむろ)する人々の姿に、ダイは思わず瞬いた。
「どうしたんですか?」
「ダイ! 丁度よかった!」
 足早に歩み寄るダイに、顔見知りの女官が青褪めた顔を向けてくる。彼女は茶道具の載った台車を手に、立ち往生していた。
「大変なのよ! 陛下がお客様との接見中に、アッセ様が剣を抜いて、突然飛び込んでいってしまわれたの!」
「……えぇ?」
 状況を早口でまくし立てた女官の横をすり抜け、ダイは部屋を覗き込んだ。室内には顔なじみばかりが揃っている。マリアージュ、ロディマス、アッセ、そして――ダダンだ。
 強張った表情で立ち竦むマリアージュの横、情報屋の喉元に、アッセが剣の切っ先を突きつけている。入り口近くで腕を組むロディマスも、弟と同様にダダンを睨み付けていた。一方、敵意を向けられている当のダダンは飄々としたものだ。諸手を挙げながらこの国の宰相と騎士団長を見つめ返している。
「な、なんなんですか? どういう状況なんですかこれは?」
「よぉ、ダイ」
 部屋に踏み込みながら説明を求めると、ダダンがひらひら手を振って応じた。
「なんかえらい歓待のされ方だが、どうなってんだこれ?」
「ダダン、マリアージュ様に何かしたんですか?」
「知るかよ。俺、なんかしたか?」
 ダダンは傍らのマリアージュを振り返る。マリアージュは肩をすくめ、知らないわよ、と口先を尖らせた。
「女王陛下、こちらへ」
 ロディマスが硬い声音でマリアージュを招く。しかし彼女は不快そうに眉をひそめただけだった。
「状況を説明しなさい、ロディマス。これは一体どういうつもり?」
「陛下に危険が及ぶと、判断いたしました」
「宰相、私はその根拠を教えなさいと言っているのよ」
 ロディマスは答えない。
「アッセ」
 アッセも同様だった。
 マリアージュは腰に手をあて、嘆息した。
「ダイ、扉を閉めて。鍵を下ろして」
「え? あ、はい」
「ダイ、するな」
 ダダンから視線を動かさぬまま、アッセが制止に声を上げる。
「すみません」
 ダイは苦笑した。期待に応えられず、申し訳ない。
 しかし自分は、マリアージュの家臣だ。ロディマスとアッセの行動の理由が読めぬ限り、彼女の命令が最優先である。その上、アッセによって危機にさらされている男は、ダイの知人なのだ。
 外に集う人々を数歩下がらせて扉を閉める。鍵を下ろすと、扉の四隅に刻まれた魔術文字が、淡く発光して揺らめいた。仕掛けてある〈防音〉の魔術が作動したのだ。以後、この部屋で交わされる会話が外に漏れることは一切なくなる。
「さぁ、聞き耳立てる輩もいなくなったわよ。状況を説明しなさい」
 腕を組んで鼻を鳴らすマリアージュに、ロディマスは観念したようだった。
「他国の間者を取り締まろうとしたまでだよ、陛下」
「……間者?」
「あぁ? なんのはな――……」
「とぼけるな」
 怪訝そうに眉根を上げるダダンを、アッセが低く一喝する。
「僕らは君に会ったことがある」
 ロディマスが言った。
「まだ母上がご存命の頃のことだ。独立の援助を求めて、深淵の翠から女王がやって来たことがある。その一団の中に、お前はいたはずだ」
「……深淵の翠って……」
「ドッペルガムだ」
 ダイの呻きに、アッセが応じた。
 新興国家ドッペルガム。
 西大陸の中央部に位置する古い森の中にあるという国だ。新興国家の名の通り、建国されて日が浅く、詳しい話を知る者は少ない。ダイも名前をちらほら花街の客から聞いたことがある程度である。
「あ、あんた、ドッペルガムの人間だったの?」
 マリアージュが口元を引き攣らせると、ダダンは否定に首を振った。
「うんにゃ。違う」
「嘘を吐け!」
「いや、あんたらのいうことが嘘だってんじゃねぇよ。俺は確かにドッペルガムの奴らと、この国に一度来たことがある」
「やはり――……」
「まぁ話は最後まで聞けって」
 一層、表情を険しくしたロディマスを宥(なだ)め、ダダンは笑った。
「だけど間者じゃぁねぇな。あの世間知らずのお嬢様と魔術師に、護衛と案内を兼ねて雇われたことはあるが、あれきりだ。亡きエイレーネ女王の援助を受けて、あの国が形だけでも無事に独立を果たした後は知らんね。俺もずいぶん長いこと、あの国には寄ってねえよ」
 発言の真偽を定めようとしてか、宰相たちが沈黙する。ダダンは口の端をさらに深く吊り上げた。
「俺も思い出した。ロディマスとアッセ……この国の王子だな? あんときお前らはまだちびっ子だったもんな。庭先で妹君と犬っころと笑ってはしゃいでた……。暢気なもんだって思ったのを思い出したぜ」
「きさま!」
 ダダンのあげつらう物言いに、普段は声を荒げることのないアッセが珍しく激昂をみせた。
「アッセ、剣を下ろしなさい」
 静謐なマリアージュの声音が彼を制する。
「あんた私を前に流血沙汰起こすつもり? あんたたちがこの胡散臭い男を警戒した理由はわかったから、剣を下げなさい」
「しかし陛下」
「下げろって言ってんの。ぶん殴るわよ」
 マリアージュが苛立ち顕に踵を鋭く踏み鳴らす。アッセは兄に判断を求め――頷きあって、剣を下ろした。
 ほっとした様子で、ダダンがマリアージュを振り返る。
「おーおー女王陛下ありが……ぐおっ!?」
 男の脛を蹴り飛ばして謝辞を遮り、マリアージュは不快そうに眉をひそめた。
「あんたも私に厄介ごと持ち込んでくるんじゃないわよ」
「このくそじゃじゃ馬! 大体俺を呼びつけたのはお前だろうが!」
「さてどうだったかしら?」
「あーもー喧嘩やめてくださいよ。収拾付かなくなるんですから」
 ダイは睨みあう二人の間に割って入った。これ以上、状況をややこしくされてはたまらない。
「君、本当に間者じゃないんだろうね?」
 ダイの背後でロディマスが低く唸った。ダダンは頭に手を置いて、さてなぁ、と気のない返事をする。
「警戒するなら好きにしろや。俺はどこの国にも属さねぇよ。……国なしだからな」
「くになし?」
 ダイの疑問に、ダダンは笑うだけで答えなかった。
「……それで、ずいぶん長いことお話されていたようですが、女王陛下」
 慇懃無礼な口調で、ロディマスが詰問する。
「一体どんな話題を?」
 ダイの背筋を一筋、冷たいものが伝っていく。マリアージュとダダンが揃って話すことなど限られている。おそらくはダイが伝えそびれていたこと――ヒースについてだ。
 仰ぎ見たマリアージュは、肩に落ちた髪を煩わしげに払った。
「ペルフィリア行きについてよ」
 全員の意表を、完璧に突いた内容だった。
『……は?』
 その場にいた一同の声が、この上なく綺麗に重なる。眉根を寄せたロディマスが、主君の言葉を訝しげに繰り返した。
「……ペルフィリア、行き?」
 当事者であるはずのダダンもまた、状況が読めぬという顔をしている。
「えっと……だから」
 しどろもどろに次の言葉を探す主人の姿に、ダイは合点が行って、軽く頭痛を覚えた。
(また思いつきですか……)
 マリアージュには以後、その場しのぎで後先考えずに発言することを、是非やめてほしい。
「ロディマス。ペルフィリアへ表敬訪問する話が出ていたわよね? 確か」
「え? あぁ、うん」
 ロディマスは肯定した。
「先方には選出の儀に出席して戴いていたし、ペルフィリアはそろそろ女王即位五周年の節目でもあるから……」
「でしょ。至急、その日程について打診してみて頂戴」
「は?」
 ぽかんとした表情で、ロディマスはマリアージュを見返した。見ればアッセも同様だった。
「だから、ペルフィリアに行くわ。ダダンにはその案内をしてもらうのよ」
「……おいおい、なんのはな……っつ!」
 踵で足を踏み抜かれ、ダダンが言葉半ばで口を噤む。ダイは彼に心から同情して天を仰いだ。
「あ、案内といっても、陛下。そんな得体の知れぬ男を雇わずとも、街道沿いを行けば」
「……俺でなくとも構わんが、ペルフィリアに行くには案内を雇ったほうがいいのは確かだぜ」
 足元に視線を落としながら、ダダンが口を挟む。
「先代が崩御してから、あんま使節を他国に派遣してねぇだろ? 街道の現状把握してんのか? ここ数年で治安なんかもずいぶん変わってる。国から出るなら、案内人は必須だと思うぜ」
「と、いう話を、この男としてたのよ」
 明らな嘘だと誰もが思っていただろう。ただ、すべてがそうだとは言い切れない。実際、ダダンはペルフィリアからこちらへの道程に精通している。
「ロディマス、何をしているの? 私は至急って言ったのよ」
 呆然としていた宰相が、マリアージュの叱責で我に返る。
「いや、でも」
「命令よ。宰相」
 ロディマスは納得のいかぬ面持ちながらも、承諾に腰を折った。
「御意に、女王陛下」


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