第六章 交錯する政客 4
大通りの路肩には人々がひしめき合っている。
「ただの戦争好きだなんて陛下を悪く言うやつもいるけど」
その群れのなか熱っぽい眼差しで王城を見つめ、国主とその客人たちを待つ女の一人が言った。
「ほらごらんよ。陛下は好きで戦をするようなお人でないよ」
「宰相さまはおいでになるかしら」
「そりゃぁ国賓の見送りだもの。いらっしゃるだろうよ」
「ねぇねぇ、でるりげいりあってどんなくに?」
「帰ったらお父さんに聞いてみましょうね、坊や」
群衆の間を縫って歩いていると声を掛けられる。
「兵士さん、陛下はいつごろお出ましになるんだい?」
「もうちょっとだ」
「兵士さん! あっちで喧嘩だよ!」
「悪い。今、別の喧嘩の仲裁に呼ばれたところなんだ。そちらへ別の兵が行くようにすぐ手配する」
悪目立ちをしないように、あたりさわりない返事をしつつ、目抜きから一本外れた通りに入った。黙々と歩くうちに声を掛けてくるものもいなくなる。そして誰も自分に目を止めなくなったところで路地に入った。入り組んだ細道を歩いて突き当たり右手、錆びた扉を少しばかり開けて身を滑りこませる。戸布を押し上げて奥へ。軋む階段を踏みしめて三階まで上がり、納屋めいた部屋に足を踏み入れた。
そこでは椅子に座したベベルが長机に広げた金貨を数えている。
ダダンは扉を後ろ手に閉じつつ目深に被っていた兵帽を脱いで問いかけた。
「足りたか?」
「足りん」
ベベルは眼鏡を外して呻いた。
「が、お前と俺の付き合いだ。ツケにしておいてやる」
「そこはまけてくれるんじゃねぇのかよ」
「阿呆」
ダダンの冗談に即座、ベベルが罵声を飛ばす。そして彼は葉巻の端を切り落とし、ひと仕事終えた後の一服を楽しみ始めた。
ダダンとてあの金額でベベルの手間賃を賄えるとは思っていない。マリアージュからの依頼の前金すべてをつぎ込んでも足りぬと踏んでいた。案の定である。
帰国するマリアージュたちを見送るためにセレネスティたちが大通りを馬車で行進する。その嘘を実現するためにベベルには骨を折ってもらったのだから。
とはいえ、彼へ依頼したことはあくまで支援だ。人目に付く動きは当然ながら全てダダン自身が担った。
そのひとつとしてダダンは城の兵に成りすまして、女王の行進があると商工会の代表のひとりに伝えに行った。商工会とは商人たちの代表によって作られる会である。王政府の行事は街の混乱を避けるためにそちらへ全て連絡がいく。ダダンから報せを受けた長老はすみやかに仲間たちを呼び集めて街全体への連絡を行った。昨日の夜のことである。
「そういや言われた通りにあのジジイに話したら、すげぇあっさりことが進んで驚いたぞ俺は」
「あぁ。あれは城からの連絡を疑った試しがないからな」
ベベルは答えながら灰皿の縁を葉巻で叩いた。
「ただ王政府にすり寄りすぎるというのも考え物でな。それは城のやり方でない、だの、陛下はそれを好かない、だの、色々煩かった。年をとって頑固にもなった。……今回のことで糾弾されて終わりだろう」
存在しない行事を仄めかして民衆を扇動した者はだれか。かの老人は城から調査の手が伸びたとき、仲間たちから人身御供として差し出される。
「……好機は逃さず、か」
かねてからの邪魔者だったのだろう。予想はしていた。非難するつもりも、できる立場でもない。
「しかし考えたな。……民衆を動かしてかの女王の救出を図るたぁ」
「城内でファービィたちがうまくやってくれにゃ、全部水の泡だけどな」
ダイがマリアージュと合流し、セレネスティに帰国を宣言する。その場にファビアンが証人として同席していることが絶対条件だ。そして民が大挙して行進を待ち構えていると、全員が揃って耳にするという形が最も望ましい。
「まぁ、大丈夫だろ」
セレネスティがファビアンたちに弁解を尽くして、行進予定の取り消しを告知するかとも考えた。だが可能性としては低いと踏んだ。
セレネスティは領土拡大に意欲的だが民衆の意思は異なる。内乱の傷も癒えてまもない今は、穏やかな生活を望む者たちが大半だ。セレネスティたちが民の“ご機嫌取り”に苦心している理由である。
隣国と友好を深めていくことを彼らは好意的に受け止めるだろう。
今ここで急に行進の予定を取りやめれば、女王にとって邪魔な勘繰りをする者が現れる。
それを避けるためにはデルリゲイリアの者たちを外へ送り届けるしかないのだ。
ダダンは気を引き締め、変装を解きに掛かった。
不運な兵から失敬していた隊服を脱ぎ捨てる。下は身体の線に沿った防刃繊維である。下履きに足を入れて上着に袖を通し、剣を腰に佩けばいつもの旅装だった。
「髪が青いまんまだぞ」
ベベルの指摘を受けてダダンは頭のかつらを外した。
「青い髪たぁ、えらく派手だな」
「こうしておきゃ、みんなそこに目が行くだろ?」
「目撃者の印象を操作するためか」
「まぁな」
目立つ場所が一点あると、そちらばかりが印象に残る。したがって容貌や体格といった部分は他人から記憶されにくくなるのだ。
「……それに向こうも探す手間が莫大増えるしな」
髪や肌色の変化はダダンが染められる側だと兵たちに印象付ける。結果として彼らはダダンを追跡しにくくなる。捜索の目安が容貌以外にないということだからだ。
そもそも内在魔力が高いと肌や髪を変えることは難しい。染料の効果が長時間持たないのだ。早い者は染めて四半刻も経たずに戻ってしまう。
逆に長く色を保てる者もいる。ダダンは後者の側だった。
ディトラウトは、染まらない側なのだろう。
もし髪や肌の色を変えられるならデルリゲイリアの潜入時にそうしていたはずだ。
ダダンはふと思った。
間者をデルリゲイリアへ送り、女王選を操作しようとしていた。その点についてはわかる。
デルリゲイリアは地理的に兵を送りにくい。下手をすれば長期戦にもつれ込む可能性がある。それを避けてかの国を併合しようとするなら、内側から攻め落とすという方法は悪くない。
だがどうして他でもない宰相を、送り込む必要があったのか。
有能で信頼置ける人材はひとりでも多く手元に欲しい頃だっただろうに。
そもそも何故、そこまでして、デルリゲイリアを手に入れようとしたのか。
何故、方々へ侵略の手を伸ばしているのか。はたして本当にかつての魔の公国の座を狙っているのか。
ならばそれは。
何故。
(そんなこと、考えている場合じゃねぇか)
ダダンは頭を振って疑問を意識の隅へと押しやった。
脱ぎ捨てた兵服を麻袋に詰める。燃やすか水路に沈めるかして、後ほど処分するつもりである。
「色々、有難うよ、ベベル」
謝辞を受けたベベルが、葉巻を吸う手を止めた。
「……あとは上手く処理しておいてやる。だがお前はしばらくこっちへ来るな。西から出るならゼムナムを通れ」
「しばらく西を出るつもりはねぇよ。……長生きしろよ、ベベル」
「お前もな」
ダダンは踵を返して扉に手を掛けた。ぎ、と蝶番が小さく軋む。
「ダダン」
ダダンはベベルを振り返った。
「どうした?」
皿に灰を落としながら、ベベルが苦々しく囁く。
「……国の崩壊はどこにでもある。……自分の国に重ね見て、余計な苦労を負い込むな」
ダダンは笑った。ひらりと手を振って部屋を出る。
「そんなつもりで俺はあいつらに関わったわけじゃねぇよ」
階下に降りたあと今度は裏口を選ばずに調理場を回って酒場に入った。そのまま堂々と通りへ戻る。
そうしてダダンは王都を脱出すべく、雑踏の中へ素早く己を紛れこませた。
管楽が女王たちの登場を空高く知らしめる。
待ちかねた人々はいっとき静まりかえったのち、駿馬にまたがって現れた騎士たちに歓声を上げた。
小気味よく馬蹄を鳴らす葦毛の轡を並べ、一行をヘルムートとアッセが先導していく。続く四頭立ての馬車にはセレネスティとマリアージュが座し、ロディマスと梟も同席していた。
そして。
最後の二頭立ての馬車にダイはディトラウトと腰を下ろしている。
「どうして私、貴方と一緒なんですか?」
ダイの独白めいた問いかけに、隣に腰掛けるペルフィリア宰相は、街路へ手を振りながら応じた。
「ご不満で?」
「……そういう意味じゃなくて……本当なら貴方の席はあっちじゃないんですか? ロディがいるんですから」
宰相同士が並んだ方が釣り合い取れるのではないだろうか。
「定員が四名だから仕方がない」
ディトラウトの返答はダイの思惑から大きく外れたものだった。ダイは呆れて指摘する。
「梟さん外せばいいじゃないですか」
「彼は女王から離れない規則です」
「……さようでございますか」
深く嘆息するダイをディトラウトは叱咤した。
「不機嫌な顔はやめなさい。見られますよ」
ダイは胸中で舌を突きだし、ディトラウトに背を向けた。彼が手を振る逆側へ愛嬌を振りまく。同じ年頃の少女たちが笑顔を返し、ダイのささくれた心がほの和んだ。
「……こういうこと、よくするんですか?」
背中合わせのまま、ダイはディトラウトに尋ねた。群衆へ細やかに微笑を配る彼はとても慣れた様子である。
省みればこの旅は、ダダンが民衆に手を振るディトラウトを目撃し、ダイたちに一報を入れたことで計画されたのだ。
「少なくはないですね」
ディトラウトが答える。その声音には倦厭が滲んでいる。ダイは思わず揶揄した。
「実は嫌いでしょう。こういうの。いい気味です」
「貴女、前々から思っていましたが、実にいい性格していますよね」
「貴方ほどじゃありません」
「どうだか」
ディトラウトは笑みの切れ間に、は、と短く息を吐いた。
「まったく、頭が痛いですよ。私たちは貴女がたを手に入れ損ねたどころか、貴女がたと“お友達”であることを、最悪の形で公表しなければならなくなったんですから。後で癇癪を起こすだろう陛下をどうやって宥めればいいか」
「貴方の主君も癇癪を起こすんですね」
「貴女の主君よりも物損は少ないですがね」
ミズウィーリ家で頻繁に茶器を叩き割っていたマリアージュをディトラウトは当てこする。
不謹慎にも、笑ってしまった。その気配が伝わらなければいいが。
ダイは歩道に集う人々に集中した。王と仲良く並ぶ隣人たちに民はおおむね好意的なようだった。通りゆく馬車に向けて歓声を上げ、口笛を吹き、口づけを投げかけてくる。
「ねぇ……」
この後に及び、ダイは男の呼称に迷って口ごもった。
「なんですか?」
ディトラウトが焦れたように発言を促す。ダイは意を決し、喉に引っかかっていた問いを吐き出した。
「……こんな風に貴方の国と私の国、仲良くしていくことはできないんですか?」
それぞれの国の騎士たちが横に並び、女王たちが同じ馬車に腰を下ろし、側近同士で軽口を叩いていく。
親しい関係に。
「できません」
ディトラウトは即答した。
「国力はそちらの方が弱い。関係が深まればおのずとこちらに吸収されます。ならばいま併合しても同じことだ」
「全然違うでしょう」
「デルリゲイリアという国名が消える。結果だけを見れば同じです。……互いの内に益を見出したときのみ、国は同盟を結ぶことができる。ただの“お友達”は実質ありえない。呑みこまれたくないのなら、戦って周りをねじ伏せるといい。今回、私たちを出し抜いたように」
ダイはディトラウトを振り返った。彼は夢物語を口にするダイを嘲笑うかのように辛辣だった。しかしその一方で彼の言葉はダイたちのこれからを鼓舞するかのようにも聞こえた。
ダイは二人の間の座面に目をやった。赤子が座れる程度の空間が開いている。互いの距離を測りかねた結果だった。
そこにディトラウトの手がふいに落ちた。ずっと振り続けていたそれを休めることにしたらしい。
――……この手は、自分を確かに、殺そうとした。
けれど、守りもしたのだ。
ダイは民衆の歓声に応じるため、ディトラウトに再び背を向けた。
そのまま手さぐりで、男の指先に触れる。
彼の手が、強張った。
「……昨日は……ありがとうございました」
助けてくれて。
あの地下牢の前で剣を振りかぶるダダンに手を出したダイをこの男は確かに助けた。己の危険を顧みずに。
そのことに対してだけは男に感謝を告げなければと思っていた。
満足して引き戻しかけたダイの手を、ディトラウトのそれが引き止める。
ダイはディトラウトを振り仰いだ。彼は余所行きの笑顔のまま、民衆の呼び声に応じている。
しかし彼の掌はダイの手の甲を包みこみ、その指先でダイの五指の間に割って入った。
手袋越しに感じる男の熱に、地下牢で投げかけられた言葉の数々が、堰切るように溢れてよみがえる。
それらがもしマリアージュを裏切らせるためのものではなく、他意なく吐露した男の純然たる本心だったとしたら――……。
ディトラウトが、つよく、かたく、握る手に力を込める。
一拍のち彼は何事もなかったかのように、己を呼ばわう人々の方へその手を向けていた。
ダイもまたディトラウトから目を背けて、沿道に立つ人々へ笑顔を向ける。そして大きく手を振った。
彼の傍で生きる機会をまたしても拒絶した。そのことに対して一瞬でも過ぎった後悔を振り払うかのように。
視界の端に鮮やかな色が過ぎる。花吹雪。少女たちが色とりどりの花弁を撒いているのだ。そういえば今朝も花売りがひと椀いくらで売り歩いていた。
先を行く馬車では女王たちもそれぞれの思惑を隠したまま親密さを装っている。
潮風にはためく国旗。馬の嘶き。空高く響く喇叭の音色。
商売に精を出す行商。子供が、騎士の後を追いかける。女たちの笑い声。途切れぬ歓声。拍手。
叙事詩の一節のように煌びやかで。
子供の物語のように全てが作り物めいていた。
辿り着いた正門では共に帰国する仲間たちが待ち構えていた。旅用の馬車は行進するに向かないため別の道で先回りしていたのだ。ファビアンたち四人も彼らに同行し、文官たちにペルフィリアから危害が加えられぬよう見張り役を務めてくれていた。
「今回の旅は大変思い出深いものとなりました」
マリアージュが最上の作り笑顔で挨拶を述べる。それに応じるセレネスティもまた格別にこやかだった。
「えぇ。私も。……また是非にお越しください」
セレネスティのすぐ傍らには梟が控える。彼はその纏う衣装の色もあって、あたかも女王の影のようだった。
二人から少し離れてディトラウトが立っている。
彼はデルリゲイリアの一行を悠然と見渡していた。その双眸に感情の色はない。見送りに浮かべて然るべき微笑を取り繕うこともせずにいた。
ダイは馬車の踏み板に足を掛けてディトラウトを振り返った。彼もまたダイに目を止める。
視線が、交錯する。
「ダイ」
御者に促されて、ダイは急ぎ席に着く。
そして一息に閉じられた扉が、繋がれていた視線を、何の感慨もなく断絶した。
王都を遠方に望む高台にある聖堂。そこはかつて聖女に仕える者たちが粛々と祈りに励んだ場所だった。
装飾をそぎ落とした石積みの塔は心安らかにありたい者たちの拠り所であった。王都に入る許可を得られなかった者たちの仮宿でもあった。それをあばら家が取り囲んで、賑わったときもあったのだ。
全て、遠い過去の話。
貴族の家臣と身を偽った賊がすべてを焼き払った。男は手と喉と足に杭を穿たれ、夫の前で女は犯され、子の血肉は火にあぶられ、または引きずり出された臓物と共に鳥獣の腹に収まった。
主よ、聖女よ、この地を彷徨う全ての仔らに、祝福を。
胸の前で印を切りながら街道を行く一団を見送る。
やがて背後で足音が響き、低い声が彼を呼んだ。
「レジナルド様」
レジナルド・チェンバレンは声の主を振り返った。外套を目深に被った彼は訝しげな目をレジナルドに向けている。
「よろしかったのですか? あの者たちをそのまま行かせて」
地下道の調査をさせた男たちは全て見張らせている。そして完遂如何にかかわらず仕事を終えた彼らを処分することとなっていた。しかし今回は思わぬ伏兵がいたらしく、返り討ちに遭ってしまったのだ。
負傷して戻ってきた者たちが報復に打って出る機会を窺っていることは知っている。
だが、レジナルドはそれをよしとしなかった。
「あの者たちを殺して一体何になるというのですか?」
むしろこのようにして方々の国府と繋がりあることが知れたからには触らずにおくに限る。
「彼に城内への侵入を手引きした者が我々だとセレネスティもいずれ気付くでしょう。そうなる前に次の布石を打ち終わらなければなりません。余計なことをする暇など我々にはない」
レジナルドは踵を返し、男の傍らを通り過ぎた。
「いきましょう。この場にもまた監査が入るでしょうから」
都から一刻ほど道を進んだところで、使節団の歩みは突如としてとまった。ほどなくして御者がファビアンたちを呼びに来た。ダイやマリアージュと同席していた彼らを呼ぶものがいるのだという。
一行は遮蔽物のほとんど見られぬ野原のただなかに留まっていた。街道の脇には痩せた木がまばらに生えている。その木陰にずんぐりとした影がある。小さな幌馬車が停まっていた。
馬車馬の頸を撫でながら、男がアッセと会話している。その男の名をダイは呟いた。
「ダダン」
馬車から降りたダイたちを認め、彼は片手を軽く上げてみせた。
「よ。無事に出て来られたか」
「ダダンこそ!」
ダイは思わずダダンに駆け寄った。宿で別れた彼とは王都の外で合流することとなっていたが、いつどのようにしてかは知らされていなかった。ずっと彼の安否が気になっていたのだ。
「ファービィたちも、悪かったな。色々付き合わせて」
「いーえ。礼には及びません」
ダイの隣で足を止め、ファビアンが笑った。
「陛下も納得済みですよ。あとは……貴方がちゃんと皆に会いに来てくだされば何も」
ダダンは肩をすくめて笑った。
「近々な」
「ダダン、この馬車はなんなんですか?」
ダイは話が一段落する頃合いを見計らって問いかけた。ダダンが背後の幌馬車を仰ぎ見る。
「ファービィの馬車だ。荷物も中に入れてある」
「助かります」
ダダンに謝辞を述べたファビアンはやや寂しげに笑ってダイを見た。
「じゃぁ、ここでお別れだね、ダイ」
自分たちの立つ場所が街道の分岐点であることにダイは今更ながら気が付いた。
ファビアンたちはこれからこの馬車を駆って南へ進むのだという。彼らをせめて近場の町まで送り届けたいところだが、ダイたちも国境のある西へ急がなければならない。休憩を最小限にし、最短距離を採る予定となっていた。王都は脱出したが出国まで妨害を受けないとは限らないからだ。
ありったけの感謝をこめて、ダイはファビアンの手を握った。
「本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
童顔を照れ臭そうに歪めた彼は一拍置いて真顔になる。
「でも、あまりむやみに礼を言うものじゃないよ。……国官同士の貸し借りは国のそれになるからね。僕はあくまで国益のために君の状況を利用した。君に感謝されるいわれはどこにもない」
わかるね、と念を押すファビアンにダイは喉を鳴らして頷いた。
感謝も謝罪も、告げるべき時を選ばなければ、大事になる。そういうことなのだ。
満足そうに笑ったファビアンはマリアージュに向き直った。好奇心を抑えきれなかったのか、彼女も馬車を降りてきていた。
「機会がございましたら我が国へお立ち寄りください。心より歓迎いたします」
マリアージュは了承に深く顎を引いた。
「貴方がたの女王陛下に、よろしく伝えて頂戴。ドッペルガムへの旅路に、聖女の祝福があらんことを」