第六章 交錯する政客 1
窓から見下ろす通りでは昨日にも増して人々が賑やかに往来している。
店主たちが露店の設営に励み、売り子は声を張り上げていた。塩で炒った種子や水飴、焼き菓子といった甘味。一椀単位で花びらまで売っている。路肩には大道芸が立ち、まるで祭りの様相だった。
「ダイ、お待たせ」
ダイが部屋の扉を振り返ると、ファビアンが立っていた。
「馬車が来た。出発しよう」
彼の後を追いかけて階段を下りる。一階ではクレアが宿を去る手続きを行っている。ダイは彼女に目礼してその背後を通り過ぎた。
玄関に出たダイを馬の嘶きが迎える。横付けされている馬車は鹿毛の二頭立てである。ファビアンの護衛二人は御者と何事かを話していて、肝心のファビアンは既に座席に腰掛けダイを待っていた。
彼の手招きに従って、ダイは駆け寄った。踏み台に足を掛けるダイにファビアンが言う。
「道が混んでいる。急ごう」
「クレアさんは?」
「ここにおります」
いつの間にか追いついていたクレアが補助の手をダイに差し出す。
「ファービィ様。淑女より先に馬車に乗る馬鹿がどこにいるんですか」
「……ここにいるよ。ごめん」
「あー、気にしないでください」
だいたいの場面でダイは男役だ。馬車の乗り降りで人の手を借りることなどまずない。
ダイはファビアンの対面に腰を下ろした。クレアが彼の横に並んで座る。扉はすぐさま御者の手で閉じられ、ほ馬車はほどなくして城に向けて走り出した。
「それにしても無事にお城に行けることになってよかったです」
ダイは向かい合う二人に微笑みかけた。
ドッペルガムが要請したファビアンの訪問に、ペルフィリアは昨晩遅くに許可を出した。二国は〈伝達〉の術越しにかなり揉めたらしい。
「本当にね」
ファビアンが同意した。
「突っ撥ねられることはないだろうとは思っていたけど」
「そういえばダダンも登城許可が下りるって頭から決めつけていましたよね。何か理由があるんですか?」
「ドッペルガムはクラン・ハイヴの友人だって言っただろう? やましい理由なく僕らを拒否することは、クランを怒らせかねない。ペルフィリアとしては避けたいことだ。だから城に入ることはできるだろうとは思っていたよ」
「なるほど」
「表面的には受け入れて、適当にあしらって帰らせるつもりだと思う。……この時間の指定からして、嫌なことはさっさと終わらせたいって、ひしひし伝わってくるよ」
登城するよう指定された時間は早朝。王城の官たちが朝議を終えてすぐと思しき時間である。
謁見は早くても昼過ぎだろうと予測していたこちらはペルフィリアの返答に舌打ちした。特にダダンは計画の焦点を昼下がりに据えていたせいか渋い顔を隠さなかった。遅延はできても早めることは難しいらしい。
「ダダンは大丈夫でしょうか?」
予定通り決行すると決めた昨夜からダダンは別行動をとっている。上手くことが運べば王都の外で合流する手はずとなっていた。
「大丈夫だと思うよ。僕ら以上にうんと用心深いもの」
ファビアンはダイを励ますように言った。
「ダダンのことはともかく、まず自分たちのことをちゃんとしないと」
居住まいを正してファビアンが言う。ダイは大きく頷いた。
「昨日も言ったけど……僕らから引き離されないように注意すること。……言質をとられないよう発言にも気を付けて」
「はい」
「そしてデルリゲイリアとペルフィリアが対立している、という話の流れになったら、僕らは身を引く。いいね?」
「わかっています」
「ダイ」
「はい」
「よろしく……頼むよ」
ダダンと打ち合わせた時間まで、一刻半。
それまでにマリアージュたちと再会し、ファビアンたちから離れないことが、絶対条件だ。
ダイは笑った。
「それは私の科白です」
関係ない身でここまで関わってくれる。そのことに感謝してもしきれない。
自分が彼らをこれから危険に晒すのだ。
ダイは頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
踵の音で空気を鋭く穿ち、廊下を往く女王の勢いは、一陣の風にも似ている。
壁際に寄る兵たちの誰もが緊張を隠せずにいた。それは女王に追従する者たちも同様だった。護衛、文官、女官、皆そろって顔を強張らせている。
ディトラウトは女王の背を追いながら、これまでの経緯を胸中でなぞった。
〈深淵の翠〉ドッペルガムから使者訪問の打診があったのは昨日の夕刻である。かの国との直接的な国交はこれまでほとんどない。そのあまりに突然な要請に、誰もがいっとき耳を疑った。
様々な事情を鑑みて許可を下した手前、ドッペルガムからの客人を無碍には扱えない。迎賓館に籠城するマリアージュの件もある。邪魔者の来訪にセレネスティの機嫌は最悪だった。
それでもセレネスティ自身が接見に出向く理由は、招かざる者たちにわかりやすく誠意を示すためだ。国主自らが出迎えたとあれば、たとえ四半刻で追い返されても、冷たくあしらわれたとは言えまい。ドッペルガムにも面目が立つ。
だが事態は想像以上に厄介だった。
謁見の間に足を踏み入れたとき、ディトラウトはそれを思い知った。
登城手続きは怖いほどに滞りなく済んだ。
迎えの官に先導されて本館を進む。辺りはとても静かな反面、遠巻きの視線が煩わしい。
辿り着いた場所は梟によって利き手を落とされかけた部屋とよく似ていた。磨き抜かれた白い床を縦半分に割る絨毯。それが導く先には国章の掲げられた演壇と玉座。
屈強そうな兵が脇を固める扉から、ペルフィリアの女王たちが入室する。
ファビアンたちが一斉に席を立つ。ダイもそれに倣って立ち上がり檀上を見上げた。
現れた者たちは六名。そのうち半数は揃いの隊服を身に着けた兵だ。彼らは檀上の両端に散って待機した。残り三名はダイも知った顔である。セレネスティ、梟、そして、ディトラウト。
ダダンの打撃は彼に後遺症を与えなかったようだ。病み上がりには見えない。
そのことに、安堵した。
セレネスティは一瞬だけ瞠目し、すぐに表情を消して玉座に着いた。ディトラウトがその脇に立つ。梟は二人の後方に侍していた。
「此度はこのように急な拝謁を許可くださり、心より御礼申し上げます」
発言を許可する合図を待って、ファビアンが胸に手を当て一礼した。
「私はドッペルガム筆頭外務官、ファビアン・バルニエ」
ファビアンの肩越しに見えるその横顔は深い笑みに彩られている。
「お初にお目通り賜り光栄です。セレネスティ・イェルニ・ペルフィリア女王陛下、並びに、イェルニ公、ディトラウト・イェルニ宰相閣下」
ダイは挨拶を口上するファビアンに視線を移した。天窓から射す光がその背を照らしている。彼の皺ひとつない正装は黒真珠を思わせる濃い緑。そこには同色の絹糸で樹木と剣をあしらった意匠が縫い込まれている。
国章を纏うことは女王の側近にしか許されない。
ダイやディトラウトと同様に。
そのことはペルフィリアがファビアンの登城を容認した理由とも無関係ではないはずだ。
(本当に、よく引き受けてくださりましたよね……)
必ずしも彼に危険が及ばぬという保証はない。ファビアンの安全はあくまでペルフィリアがクラン・ハイヴとの開戦を回避したがっているという前提の上になりたつ。
彼を巻き込んだことを今更のように恐ろしく思った。
「こちらこそ、噂に聞く〈深淵の翠〉より客人をこのようにお迎えすること叶い、たいへん光栄に思います」
セレネスティは鷹揚な微笑でファビアンを労い、彼の斜め後ろに控えるダイに目を移した。彼女は舐めるようにダイを観察し、その蒼の瞳を冷やかに細める。
「ただそちらの方はドッペルガムの方ではないとお見受け致します。如何なる事情で無関係の方をお連れしたのか説明していただけますこと?」
玉座の肘掛にしな垂れかかり、セレネスティが鋭く言い渡す。
「私が目通りを許可した者は、貴方とその供、三名にのみです。五人目の客人は認めておりません」
「僭越ながら申し上げます、女王陛下」
ダイは一礼して前へ進み出た。
「許可は頂戴しております」
セレネスティが不快そうに目を眇める。
ダイは彼女を真っ向から見据えて微笑んだ。
「申し遅れました。私はデルリゲイリア女王マリアージュより国章を賜り、専任の化粧師を勤めております――ダイと申します。セレネスティ女王陛下にご挨拶を申し上げるべく、遅ればせながら参上いたしました」
ダイの発言をセレネスティは鼻で嗤った。
「戯言をおっしゃるのはおやめなさい。既に化粧師の方はマリアージュ女王と登城しておいでです」
「それは誠に奇妙なこと。女王候補の折より女王マリアージュの信任賜る化粧師は私ひとりでございます」
「愚かな事を口にしているのはそちらです。マリアージュ女王とその随行のものたちには、マーレンより私の兵が案内として付いていました。その兵から化粧師の方も確かに王都に到着したと報告を受けております。立場を謀り、我が城に土足で上がり、私の目を汚した罪、極刑に値すると思いなさい」
「ではお伺いいたします。セレネスティ女王陛下、御身はその化粧師とお会いになりましたでしょうか?」
セレネスティが喉を詰まらせる。
ダイは詰問を続けた。
「この上着が示す通り、化粧師は女王第一の側近。陛下が催してくださる宴の場では挨拶に伺うことが決まっております。陛下は我が主、女王マリアージュから既に化粧師を紹介されたとおっしゃるのでしょうか?」
セレネスティが眉根を寄せ、唇を強く引き結ぶ。
ここで是と答えた場合、ダイがマリアージュたちとの面会を要求すると、セレネスティにはわかっただろう。
存在しない人間は引き出せない。ファビアンの存在を思えば偽物を用意することもできぬはずだ。
「―……お畏れながら、陛下はどなたかと私を、勘違いされておいででは?」
ダイは諭すように問いかけた。
「陛下もご存知とは思いますが、マーレンでは賊の襲撃を受け、案内に雇っていた者が負傷しております。私はことなきを得ましたものの、体調を崩して王都の宿で静養に努めておりました。その先で奇遇にも知り合いましたバルニエ外務官に同伴をお許しいただき、此度こちらに参りました次第でございます」
「……宰相」
セレネスティの呼びかけに、ディトラウトが面を上げる。
「はい」
「化粧師の方が城下で休まれていると報告を受けてはいたかしら?」
「……いいえ」
僅かな沈黙を挟んで、ディトラウトは補足した。
「ただ化粧師の方がマリアージュ女王と城においでになったかは確認しておりません」
セレネスティは兄に頷くと、申し訳なさそうにダイを見た。
「貴方のおっしゃる通り、勘違いしていたのでしょう。……マリアージュ女王の側近の方に、不快な思いをさせてしまいました。謝罪いたします」
その態度の転換は拍子抜けするほど潔い。
「マリアージュ女王もさぞや貴方の到着を心待ちにしていたに違いありません。さっそく案内させましょう」
彼女は壁際に控える兵たちを手招き、ダイの下へ行くよう手振りで命じた。受諾した彼らが段を降りる。梟もその後に続いた。
「バルニエ外務官はこちらに残られてください。〈深淵の翠〉のお話を、是非とも伺いたく思います」
「どうかお待ちください」
ダイの周囲を取り囲む兵たちをファビアンがやんわりと制止する。
セレネスティが眉をひそめた。
「何事かしら? バルニエ外務官」
「女王陛下、どうか我儘をお聞き入れください。私に女王マリアージュとも目通りする許可を」
ファビアンの請願にセレネスティは気分を害した様子である。
ファビアンは女王の冷淡な視線を完璧に無視し、にこやかに笑って説明を始めた。
「陛下はご存知でしょうか。遡ること八年前、我が国ドッペルガムは建国を宣言したものの、どの国からも相手にされず困り果てておりました……。そんな時に手を差し伸べてくださった方が、デルリゲイリアの今は亡き先代女王、エイレーネ様でいらっしゃったのです」
デルリゲイリアが祝福したことで、〈深淵の翠〉は諸外国に認知された。
ダダンがドッペルガムの間者だと疑われる元となった件はこのことだろう。
「デルリゲイリアは我が国にとって、大恩ある国」
ファビアンは言った。
「その国の女王であらせられる御方にも、ぜひともご挨拶させていただきたく存じます。……セレネスティ女王陛下」
ファビアンは、どうか、と懇願する。
「私にマリアージュ女王に拝謁するご許可を」
セレネスティが瞑目する。
間を置いて目を見開いたとき、彼女はファビアンに否と返した。
「もしご希望でしたら後程改めてマリアージュ女王とお引き合わせ致しましょう」
彼女は唇に微笑を刷き、目をゆっくり細める。
その奥の蒼の目は口元に反し、欠片も笑ってはいなかった。
「……バルニエ外務官、今はここに残りなさい。貴方は私との謁見を求めて、私の予定に穴を空けさせた。にもかかわらず私と顔を合わせてすぐに他の女王へ目通り願う。その非礼を貴方はご理解なさっていらっしゃるのかしら?」
その声は肌を粟立てるほど冷たく鋭い。憤懣やるかたなしといった女王の様子に兵たちが青ざめる。
一方のファビアンは直接的に非難されたにもかかわらず飄々としていた。
「あぁ陛下! 気分を害してしまったようで申し訳ありません! お詫び申し上げます! 陛下への礼を失するつもりは全くなかったのです!」
無駄に声を張り上げ大仰に首を振る。神経を逆撫でる、役者めいた動作だ。
「私はただ、マリアージュ女王にご足労願うことは、できないでしょうか、と思ったまででございます。ペルフィリア、デルリゲイリア……そして私、ドッペルガム。三国の人間が一同に会する機会はそうあるものではありません。陛下から貴重な時間を頂戴するならなおさら有意義なものにしたい」
「マリアージュ女王が不在では不満なのかしら? バルニエ外務官」
「マリアージュ女王が不在でなければご不満であらせられますか? セレネスティ女王陛下」
ファビアンが邪気のない笑みを浮かべる。
「セレネスティ女王陛下におかれましても、この千載一遇の好機を無為にすることは損失かと思いますが」
「……よくわかりました」
セレネスティは頷いてファビアンを見た。
「バルニエ外務官。貴方のおっしゃる通りなのでしょう。ですが三国の会談ともなればそれなりの支度が必要です」
要請は受け入れられない。彼女はきっぱりと宣言した。
「二兎を追う者は一兎をも得ず。私よりもマリアージュ女王との会談がお望みならお帰りなさい」
そっけなく告げてセレネスティが玉座から立ち上がる。
「お待ちください」
衣装の裾を翻す彼女をダイは呼び止めた。
「陛下は陛下の御前に私とバルニエ外務官が共にあるという意味を軽視しておられます」
「……どういう意味かしら?」
「私がバルニエ外務官とご一緒させていただいたのは、官に我が主ともお会いしていただくためです。私の意思は女王マリアージュの意向。我が主の了解なしに、バルニエ外務官をお帰しになるとはいかがなものでしょうか」
「私とてドッペルガムの方を無碍に扱うつもりはありません」
セレネスティが即座に反駁する。
「ですが私としても私と友好的な関係を結ぶつもりのない方に裂く時間を持ち合わせてはおりません」
「三か国で歓談してはという提案がいかに貴女と敵対することになりうるのですか?」
「貴方の女王がこの場にいなければ、という時点で、私を愚弄しているとは思わないのかしら?」
彼女は冷やかにダイを睥睨する。
「マリアージュ女王陛下は側近の教育を間違われているようね。口の利き方を慎みなさい。それとも貴方は本当に陛下の側近なのかしら。やはり身分を謀っているのではなくて?」
「証明いたしましょうか?」
セレネスティが口を噤み、怪訝そうに顔を歪める。
「……身分証を差し出すおつもりかしら?」
「お望みなら」
ダイはセレネスティに微笑みかけた。
「ですがそれでは芸がありません。ここはひとついかがでしょう――……私の技を、ご鑑賞いただく、というのは」
ダイは唾を嚥下して、乾いた喉を湿らせた。
「我が国デルリゲイリアは〈芸妓の小国〉と銘を持っております。楽師、詩人、画家に彫刻家。諸侯は様々な業師を雇い入れ、生み出される芸術を愛で、時に競わせる。私もそういった者たちの端くれであります」
「化粧を余興にするとおっしゃられるのかしら?」
「その通りです」
「……くだらぬことを」
その発言はセレネスティのものではない。
沈黙を保っていたディトラウトのものだ。
「化粧師と自称される方よ。手打ちにされる前に早々に去られるがよろしいでしょう」
「宰相閣下とお見受けいたします。この場で私の提案を唾棄することこそ我が国を軽んじ、敵対する意図ありと取られかねないのでは?」
ファビアンがダイを一瞥する。それ以上は言うなという警告だ。
わかっている、と胸中で呟きながら、ダイはセレネスティに追求した。
「――……して、ご返答のほどは?」