BACK/TOP/NEXT

第三章 試される虜囚 5


 ダイは喉を鳴らした。
「私にはできません」
「してもらう」
「どこの阿呆が自分の女王に自国を隣国へ売り渡せみたいなこと言えるんです、かっ!?」
 眼前に剣の切っ先を突き付けられ、ダイは言葉尻を跳ね上げた。鋼の纏う冷気に、知れず冷や汗が伝う。
「もちろん、君たち全員を人質に、マリアージュに決断を迫ってもいいんだよ」
 子供に諭すかのような優しい声音で、セレネスティはそのように切り出した。
「でもこちらも無意味に血を流したいわけじゃないんだ。君から話してもらえたほうが、マリアージュも理解しやすいと思ってね。わかる?」
 剣からセレネスティに目線を移す。
「何のためにそんなことを。国を手に入れて……どうしようっていうんですか?」
「それは君が生き延びた後、その目で確かめるといい」
「覇者になるためなんですか?」
 この西大陸のすべてを手中に収めるためだろうか。
 かのメイゼンブルのように――……。
「その答えを知るために、是非、大役をこなしてほしいな。君には悪くない条件だと思うよ。君の縁者はできる限り保護すると約束しよう」
 アスマたちのことだろう。
 併合したあかつきに、彼女たちの安全は保証する。そうセレネスティは提案している。
 ならば保護されなかった者たちはどうなるのか。
 ふとダイはペルフィリアがクラン・ハイヴと睨みあっていることを思い出した。今は休戦中だ。しかしいつ戦が再開されてもおかしくはない。そうなればダイの国の人々が、真っ先に前線へと送られるだろう。
 マリアージュも無事ではいられない。敗戦国の国主が平穏に生を閉じることはありえない。
「できません」
 ダイは女王に否を返した。
「自国を売り渡す真似は、私の主義に反します」
 セレネスティは、そう、と呟いた。
「残念だよ」
 彼女の指が宙に輪を描く。あたかも楽団の指揮者のように。
 それを合図としてダイの首に再び負荷がかかった。右手を引っ張り出され、前に突き出す形で固定される。
 骨が軋む痛みに顔を歪めるダイの視界で刃が揺れた。
「それにしても、思ったよりちっさい子だね。……ねぇ兄上、今更なんだけど、この子が女王お気に入りの化粧師で、本当に間違いないの?」
「間違いありませんよ」
 断言するディトラウトに、女王はふうんと鼻を鳴らす。
「まぁいいか。……さて、君の一部をマリアージュのもとに返してあげよう」
 梟が剣を構えなおした。
「はたして彼女は綺麗に箱詰めされた手を見て、自分に化粧をしていた君のものだってわかるかな?」
「セレネスティ女王陛下は実にイイ趣味してらっしゃいますね」
「いい人だろう?」
「えぇ。とってもお人が宜しいようで」
 渾身の皮肉をダイが吐くと、セレネスティは笑い声を立てた。
「手が誰のものかわかったら、褒美に君の死体に会わせてあげようと思うんだ。マリアージュは人が惨殺されるところって見たことがある? 君の身体が細切れにされる姿を目に焼き付ければ、きっと逆らう気もなくなるよ」
「私の女王がそんなことで意気消沈するようなひとなものですか」
 ダイは嗤いに喉を鳴らした。
「あの人は自分が侮辱されたとわかったら、骨の髄まで相手を嫌いぬいて、されたことを手帳に書き留めて、最後の最後までねちねちねちねちねちねちねちねち、万倍返しにする人です」
 刎ねたダイの首を差し出され、お友達でいろと脅されて、たとえ国のために一時はそれを演じても、いずれはその手を叩き返す。
 否、刃で以て切りつける。
 ダイの主君は、誇り高い女王だ。己の無力に泣いて、無理だと駄々をこねても、いずれは最後に立ち上がる。
 安易に屈服するものか。
「強がりだね」
「事実を述べたまでです!」
「でも死は恐ろしいんだよね」
「だ、れが……! 恐ろしいものですか……!」
「それだけ泣いていたら、説得力がないよ」
 ダイは下唇を噛みしめた。舌先が塩辛い。
 セレネスティが口元を覆って忍び笑った。
 彼女の横で、人影が揺れる。
 ディトラウトが上着の裾を裁き、ゆっくり階段を下りていた。真っ直ぐに敷かれた絨毯を踏みしめ、彼はこちらに向かって歩き始める。
 その蒼の双眸は凍み通り、色を宿さぬ瞳は暗く、夜の凪いだ海のようだった。
 彫像めいた彼の輪郭が、ダイの視界の中で白く滲む。
 鼻奥に集まる熱を堪えながら、ダイは男を睨み続けた。努力の甲斐なく眦(まなじり)から溢れた滴が、まるで火のように熱く肌を焦がして滑る。唇を傷つけたのか、舌先に鉄の味が広がっていた。
恐ろしいのではない、と、ダイは思った。
 憎いだけだ。
 まだこの男を信じようとしていた自分の幼さが。
 またこの男の救いの手を望んだ自分の弱さが。
 この男を、これでようやく厭えると思った瞬間。
『ダイはまだ、ヒースのことが好きなんだね』
 悲鳴を上げた自分の心が。
 憎くて、にくくて。
 たまらない。
 男が足を止める。
 逆光となって、その表情を確認することは叶わない。
「梟」
 沈黙していた青年が主君の呼びかけに従って剣を振りかぶる。彼が手首を刎ねやすいように、背後の兵士がダイの腕の位置を調節した。
「もう一度訊く」
 セレネスティが問う。
「こちらに従うつもりは?」
「ありません」
 ダイは決然と即答した。
「そう。……残念だなぁ。でもせっかくの体験だ。しっかり見届けなよ」
 セレネスティは言い含めた。
「君の手首が切り離されて、視界が真っ赤に染まる瞬間を!」
 彼女の絹に包まれた指先が、指揮者の如き動きを見せる。
 それを合図に閃く刃の向こうから、男の蒼の目がダイの姿を捉えていた。
 灯りもろくに灯されぬ部屋で、鋼の軌跡は鮮やかに輝く。
(こわくはない)
 本当なら、あの雨の夜に、もう死んでいたのだと思えば。
 空が切り裂かれ、風圧が前髪を揺らす。
『ついてくるのよ、最後まで』
 この後に及んで主君の声が閃き、ダイは苦笑しながら胸の内で謝罪した。
(ごめんなさい)
 ――……しかし。
 覚悟していた衝撃は、ダイに訪れなかった。
 恐る恐る確認した利き手はまだ腕と繋がっている。
 鋭い痛みはある。ただし激痛というほどのものではない。手首には横に線が走り、血がにじんでいる。しかしそれだけだった。
 ダイは面を上げた。すぐ間近にある剣の切っ先は、明後日のほうを向いていた。皮膚に掠ったのか。それとも風圧だけで割けたのか。なんにせよ、そのままの勢いで剣が振り下ろされていたらとぞっとする。
「陛下」
 ディトラウトが主君を振り返る。
 彼は梟の剣を握る方の脇の下に、己の腕を差し入れていた。青年の腕は跳ね上げられた形で宙に留まっている。
「お戯れはほどほどに」
 宰相の諫言を受けて、セレネスティが手を振る。青年は剣を鞘に収め、身を一歩退けた。
 ディトラウトがダイに背を向け、来た道を戻り始める。
「あ――……」
(ヒース)
 呼び止めたいのに。
 上手く声が出なかった。
「梟」
 セレネスティの呼びかけに青年が面を上げる。彼は梟と呼ばれているのだと、ダイは初めて認識した。
「その化粧師を特別室に案内してあげて」
「御意に」
 女王はダイを見下ろして口角を曲げる。
「大丈夫、居心地は悪くないと思うよ?」
 階段の登り切ったディトラウトが、セレネスティの手を差し出す。彼女はそこに自分の手を載せ、兄と連れだって歩き始めた。
 二人の影が紗幕の向こうに消える。
 扉の開閉音が響いて間もなく、梟がダイの腕を引き上げた。


 なぜ。
 たすけられたのか。
 求められた役割を全て、突っ撥ねたというのに。


 がしゃん、という扉の閉じられる音で、ダイは我に返った。
 施錠による金属音が二度三度と響き渡る。鍵をかけ終わった梟はダイに一瞥すらくれず歩き去っていった。
 セレネスティの言は嘘ではなく、収監先となった牢は広く小奇麗だった。窓一つない部屋。天井は高く、通気口と思しき穴が複数ある。ただしそれらには網を被せられていた。壁は中心に向かって傾ぎ、その表面はなめらかに加工されて、登れぬようになっている。壁面に指の先を伝わせてみても、僅かなひっかかりすら覚えない。
 床近い場所には魔術の術式が刻まれ、仄明るく光輝いている。配置された調度品をその淡い光が照らしていた。据え付けの棚、書き物机、贅沢にも厚手の毛布の載った寝台。排泄物をいれるための壺が、その足元に転がっている。
 壺を邪魔にならぬ場所へと避けて、ダイは寝台に腰掛けた。牢屋にしては悪くない造りだ。裏町に並ぶ上級宿の一室に見える。閉塞感と扉の物々しさを無視すればの話だが。
 デルリゲイリアの王城の地下にも似たような牢があるという。最重要人を長期間禁固するための、特別牢だ。
 ふと足に硬いものが触れ、ダイは逆さに寝台の下を覗き込んだ。長い何かが蛇のようにとぐろを巻いている。目を凝らした末に、それが赤子の手首ほどの太さもある鎖だと判かり、さらに気が滅入った。
 繋がれなかっただけ、よしとするべきか。
 そもそも命があることを喜ぶべきか。
 ダイは寝台の上に横になり、疲労から息を吐いた。
 部屋には空調の術式が仕込まれているらしい。凍えるようなこともなさそうだ。しかし出入り口を塞ぐ冷たい鉄扉と、その向こうに広がる濃密な闇、耳の痛くなるような静寂は、精神を容赦なくすり減らした。
 軽度とはいえ負傷もあって、倦怠感が身体を包んでいる。
 魔は夜明け近い刻限であると告げている。それにも拘わらず目は冴えて、一向に眠れそうもない。
 その上。
(お腹空いた……)
 昼から何も口にしていないのだ。
 胃に居座る不快感を堪えるために瞼を閉じたダイは、ふとその裏に浮かんだ男の姿に、苦々しく息を吐き出した。
 ディトラウト。
 ダイがセレネスティと“謁見”する間、彼はいないもののように口を閉ざしていた。ダイを見つめる瞳も冷淡そのものだった。
 だというのに。
 最後の最後で彼はダイを救ったのだ。
 喜び震えそうになる心を、ダイは必死に諌める。
(なにか、理由があるはずだ)
 ディトラウトが同情ゆえにダイを救ったのなら、女王はあの場で不満を漏らしていただろう。
 彼女はそうしなかった。あっさりと引き下がった。ダイに殺さないだけの何かがあったとしか考えられない。
 けれど、どのような?
 手首を覆う白い包帯が目に入る。ここに収監される前に手当てされたのだ。塗りたくられた薬の臭いが鼻についた。
 放っておいて構わない傷にも、処置が施されたのは理由があるから。
 温情からではない。
 決して。
 膝を抱えて期待の目をする少女(ディアナ)にダイは再度言い聞かせる。
 膝を抱える少女が、すんと鼻を鳴らした。
 月色の眼がうらみがましくダイを射る。
 ダイは彼女を遠くへ押しやり、身体を起こした。
 上着を脱いで椅子の背に引っ掛ける。襟元をくつろげて靴を脱ぎ、寝台に上って毛布を広げた。それを胸元まで引き寄せる。
 ひとまず今は少しでも眠り、体力を温存することが先決だ。
 改めて身体を寝台に横たえて、枕の硬さを頭で押して確かめる。その感触に満足し、瞼を堅く閉じ――……。
 ……かつり。
 耳朶を打った音にダイは息を呑んだ。
 瞼を押し上げ、身体を起こす。しかし何も動いた形跡はない。元々動くようなものは何一つ置かれていない。室内は変わらず静まり返っている。
 ダイは気を取り直して、寝台に横になった。頭から毛布を被り、微睡に身を委ねる。
 かつっ……。
 先ほどよりも明瞭に、硬質の音が響き渡った。
 意識が一気に覚醒する。
 ダイは息をひそめて音源を探った。音は、鉄扉の外から鳴り響いている。
 こつ、こつ……こつ……。
 足音だ。
 軍靴の音ではない。足取りも、密やかだ。靴に打たれた鋲が極力響かぬように気を払っている。
 こつ……。
 足音は徐々に近くなり。
 こっ……。
 ふいに、止まった。
 この部屋と廊下を仕切る扉は厚い鉄でできている。胸部の高さに給仕口が設けられ、上部は格子窓となっていた。
 その太い鉄柵を握って、誰かがダイの様子を探っている。薄い影がその姿を床に描き出している。
 “あの男”だと。
 何故かわかった。
 靴の刻む音律、息遣い、あるいは、気配そのものが、来訪者は彼であると告げている。
「――……ディアナ」
 空気が、震えた。
 ダイは息をひそめた。毛布を握る。何用だと叫びたい衝動を堪える。
 やがて、踵を返す音がした。
 来たときと同様の足取りで靴音が遠ざかる。ダイは裸足のまま寝台から降りて扉に縋り付いた。
 握りしめた格子は、ほのかに温かい。
 頬を窓に押し付けて目を眇める。
 視界の端ぎりぎりに白い影を認める。
 その姿は霧に溶けるように、闇に呑まれて消えていった。


BACK/TOP/NEXT