番外 すべてはあなたのためだけに 4
翌朝、淡い朝日の差し込む廊下をアリガは足早に歩いていた。
「腹を切るぅ!?」
アリガのやや後ろを歩くツツミが、頓狂な声を上げた。
「何の病気か確定してないのにか?」
「確定しないのはいつものことじゃないか」
「それでも人の腹をかっさばくときは、だいたい目星がついてからって決まってるだろ」
「今回も目星をつけたから」
「本当かよ」
「ウツギさんは何の御病気だと、アリガ先生は思われるのですか?」
躊躇いがちに口を挟んだ若い女医はアリガの助手である。アリガの独断で執刀し、何かあっては困るという感情が見え見えだ。権力欲の旺盛な彼女は、そもそも異国出身で貧乏くじを引きがちなアリガに付けられていることをよく思っていないのだ。
力が欲しいならもう少し表情を隠せるようにならないと。アリガは助手を一笑して答える。
「石だと思うんだ」
「石?」
石は胎内で体液や魔力が結晶化する病の通称だ。発見は難しく、たいていは何かしがの病や怪我の次いでに見つかることが多い。消化系や排泄系に出来ることが多いものの、魔力の塊はそうとも限らない。何かの管で目詰まりする、あるいは内臓を傷つけると、失神するほどの激痛が走るという。
アリガはウツギの病室に向かいながら説明した。
「血の粘度が基準値より高かったし、問診で長く食欲減退と腹痛、吐き気の自覚症状があったことはわかっている。内在魔力に滞りがあったから、その辺りを目安に」
「単なる炎症かもしれませんよ」
炎症なら薬湯の組み合わせで抑え込めるし、安全だ。
一方、身体を裂いて内臓を直に覗き込む外科手術は、傷の縫合から始まった発展途上の技術だった。然るべき設備と腕のいい医師と存分な薬が揃って初めてできる。この大病院はそれを積極的に導入している国内唯一の場所で、アリガはヒノトと並んで執刀資格を持つ数少ない医者だった。皇帝が研究支援をしている兼ね合いで、開腹手術になれば費用はほぼ国持ちである点が利点だ。
ただし、医者の腕が悪ければ死ぬし、身体を刻んで、見当を付けた病がありませんでした、ということもなくはない。やや博打の気がある術なので、優良な実績の欲しい医師はもちろん、患者も皆、倦厭する。
リューヤは金がなかったから、国の支援を受けて開腹の手術を受けた。投薬だと助かる見込みの少ない疾患だったということもある。
だが、その父であるウツギの病は未確定で、助手の言う通り、単なる炎症なら身体を切り開く必要はない。薬での治療なら、仕事にもすぐ復帰できるやもしれない。
それでも。
「石だった方がわたしは怖い」
石はひとたび自覚症状が出たなら命に係わる。より重篤な合併症を引き起こすことが多いし、短期間で身体をひどく衰弱させるのだ。
納得しがたい顔を隠さない助手に、アリガは歩きながら資料の束を押し付ける。
「わたしの推測の詳しい理由はこれに目を通して。異論があるなら聞く。というか、患者に無断で手術はしないから。最終的に決定するのは、ウツギさん自身だよ」
「それでこんな朝っぱらから病棟に向かってるのかよ」
「わたしもツツミも昼まで外来担当で忙しいだろう? いまの時間しか空いてない」
「まー、検査結果の方は俺から説明したほうがいいっちゃいいもんなぁ」
「先生は」
組んだ両手で後頭部を押さえ、天井を見上げるツツミの隣で、助手の女医がアリガを睨み据える。
「ヒノト先生にでもなったおつもりですか?」
アリガはぴたりと立ち止まり、助手の女を振り返った。
ふっと微笑して、彼女に詰め寄る。
「おかしなことを言うのね、あなた」
女医が顔をこわばらせ、その隣でツツミが口角を引きつらせた。
「わたくしは、ひとりの医師として、何が患者の命を救う手立てとして最良なのかを論じていたつもりなのだけれど、あなたは違うのかしら――それとも、あなたの方が、わたくしよりも優秀な医師だと?」
「……わたしは」
「あなたがわたくしの患者を救えるというのなら、あなたが判断してくださってもよいのよ。別にわたくしがあなたの助手になっても、かまわないの」
目の前で零れる命を救えるのなら。
女医は応えない。
「この程度で顔色を変えるなんて、骨がないなぁ」
それこそヒノトなら豪胆に笑い返すだろう。
アリガは白けた顔で肩をすくめた。
「仕事をしないならいなくていいよ。医者であることを止めた助手はいらないんだ」
アリガへの好悪と仕事とを切り離せないのなら、命を預かる現場では邪魔にしかならない。
助手は鼻白んで立ち尽くす。泣きそうになっているところがまた未熟でかわいいなと思う。
「いくよ、ツツミ」
アリガはさっと踵を返すと、友人を手招いて、再び廊下を歩き出した。
ツツミからは検査結果を、アリガからは開腹手術を用いた治療についてを、そして助手からは投薬治療の説明を受けたのち、さして間を置かずにウツギは答えた。
「あぁ、ではアリガ先生の案で」
それはあまりにあっさりとした回答だった。アリガの背後でほかのふたりの困惑する気配がした。
「術後はしばらく陸での生活をしていただくことになりますが。その、傷の経過を診る必要がありますので……」
「かまいませんよ。息子のこともあるので、陸での仕事を探していたところです。これも主神の思し召しでしょう」
主神、という単語を。
(ひさしぶりにきいた)
いっとき郷愁にかられるアリガの隣で助手が焦った声を上げる。
「本当によろしいのですか? 本当に石が体内にあるかは、まだわからないのですよ?」
「かまいません。アリガ先生を信頼しております」
きっぱりと言い切って、寝台からウツギがアリガを真っ直ぐ見上げた。
「ご存知の通り、息子もここでお世話になって。息子は元気になりました。それは最初に治療してくださった、ヒノト先生の腕もありますし、経過をこまめに見てくださった、アリガ先生のおかげでもあります」
いつものように訥々とウツギは語る。
「ヒノト先生は引継ぎのとき、こうも言っておられました。アリガ先生は、ヒノト先生が世界でもっとも尊敬する、腕のよい医師のひとりなのだと」
『心安らかに任せて問題ない』
彼女ほど自分の後を任せられる医師はいないのだと、ヒノトはいたずらっぽく笑って、しかし真剣な声で、ウツギに耳打ちしたらしいのだ。
「自分は息子を助けてくださった、おふたりの診断を信じます。石があるというならあるんでしょう。どうか、自分から悪いものを早く取り除いて、助けてくださいませんか、先生」
自分の命は自分だけのものではないから、早く治りたい。安全な迂遠な道を選んで、結局のちのち腹を割く可能性があるなら、体力のあるいまがよい。
ウツギはそう述べて、了承の書類に、ぶかっこうな字で名前を書いた。
あんまり上手じゃないな、と、妙に失礼な感想を覚えて、アリガは自分に笑ってしまった。
幼いころからあんまりにも色んな人が自分を取り巻き、あれこれ言うものだから、よほどでなければ他人の行動に、何かを思わなくなっているはずだったのだ。
ウツギの手術は秋の終わり。黄金と深紅が青空に映える、紅葉も見ごろの日に行われた。
そしてウツギの体内からは、アリガの見立て通り、砂礫のような石が摘出されたのだった。
「ふーむ」
と、ヒノトが唸る。
病院へ久々に顔を見せた彼女は、玻璃の小瓶を明かりに透かしていた。中には金色に輝く砂が入っている。砂金のように見えなくもないが、大きさが不ぞろいだ。実はこれ、ウツギの体内からアリガが取り出した砂礫である。
「結構な量の魔結石じゃな。よかったではないか、ウツギどの。これは売れるぞ」
「色気のない台詞だなぁ」
「いくら手術が国もちになっても、退院したあとが大変じゃろう。手持ちの金があることにこしたことはない。貧しいのは辛いからな。いつ返すんじゃ?」
「退院までには返すよ」
溜まっていた書類仕事を片付けながら、アリガはヒノトに答えた。肩をすくめた彼女は標本箱に小瓶を戻すと、木製の丸椅子を引き寄せて、アリガの隣に腰かけた。
臨月も間近な腹を重たげに擦り、ヒノトが言う。
「助手が入れ替わったらしいな」
「あーうん。なんか替わったね」
「無関心じゃなぁ」
「そんなことないよ。次の子とは仲良くやれたらいいなって思っているよ」
「妾がおらんしな。皆、おんしを見直すじゃろう」
「見直すってどう?」
「実はおんしを怒らせるとこわーーいのじゃとわかる」
「えぇー」
「それから、おんしが本当に、真実、腕のよい医師なのだということを思い知る」
アリガは筆記具を置き、隣のヒノトを振り返った。
ヒノトは大きなお腹をして笑っている。臨月なのだ。ふと、子を産んだという、二度とアリガが会うことのないだろう、遠い故郷の友人を思い出した。
彼女は元気だろうか。
ヒノトが恭しくアリガの手を取って握りしめる。
「妾は知っておるよ。おんしがこの道を必死に走ってきたこと。眠れぬ夜をいくつも重ねてきたこと」
「君と一緒にね」
学院は楽しくも厳しかった。生死の無情さに泣いたことは何度もあったし、古今東西の書類に埋もれながら、夜を徹して課題に取り組んで、互いの目の下の隈を揶揄ったことも一度や二度ではきかない。
「医者になる動機には様々なものがある。どれがよくて悪いということもないが、おんしは二度と命を取りこぼすまいと、覚悟を持って薬や鋭い刃を握る医師なのだと、そう、改めて思うだろうよ」
ヒノトの言葉にアリガはふふっと笑った。
彼女の腕に己のそれを絡めて寄りかかる。
「ウツギさんに、こっそりわたしのことを褒めて言ってくれたんだって?」
「なんだ。ウツギ氏は話したのか。案外、口が軽いの」
「わたしはヒノトに頼られているんだと思ってうれしかったな――ねぇ、ヒノト」
親友のやわらかな腕に額を押し当ててアリガは言った。
「わたし、あなたのお館さまたちのようなこと、向いてないってつくづく思った」
「ふむ? なぜそう思う?」
「わたし、大切な人を除いて、興味を向けられない。患者さんは目の前にいるから、集中できるけど。基本、自分が大事で、しかもその仕方を間違っている。自分の子どもっぽさと浅はかさを痛感しているわけ」
為政者は大局を見なければならない。血族の権勢を維持するために両親が払っていた注意深さや周到さを自分は持たない。自分は尊重されて育てられたけれど、それはガートルードの長女だからであって、別にアリシュエルが大事ではなかった。だから、自分もそのように己を扱った。
何だってよかった。ロウエンといられるのなら。
それが間違っていた。自分で自分を軽んじていたから、ロウエンと話がかみ合わず、最終的に彼を失ってしまった。
万が一、自分が女王の王冠を戴いていたら、だれもがとても不幸になっていたに違いない。そう気づくまでに十年に近い年数が掛かった。
大切な人との幸せは、自己と相手、双方への尊重が寄りあわさって初めて成る。
「ここに来て、君に出会って、医者になれて、本当によかったな」
「その道筋をつけてくれた、ご両親には感謝じゃな」
ヒノトの言う両親とはアリガの実の親のことではなく、ロウエンの父母のことだ。医者の道を勧めてくれた彼らは、学院へ入れるためにアリガを養女にしてくれた。学院設立に出資した三か国いずれかの国民であることが、試験を受ける条件だったからだ。
「ご両親には定期的に顔を出すようにせいよ」
「それ、カイトにも言われた」
「年末は帰るのか?」
「いや、帰らない」
「休みはとるのにか? 久々に長く休むのじゃろ?」
新しい助手はもりもり働きたい盛りらしく、休む場合は任せてください、と、鼻息を荒くしていたし、上役も年末の休暇を勧めてきている。だからため込んだ有給を消化するつもりだと、先ほど少し話していた。
「引っ越しの手伝いをする」
「だれか越してくるのか?」
「お義母さまたち」
「……ふぁ!?」
ヒノトが目を丸くする。
アリガは身体を起こすと、引き出しから手紙を出した。義両親からの手紙だ。それをヒノトに渡して、仕事に戻る。
「ははぁ。おんしが帰ってこんので、おんしさえ苦痛でなければ、近くに住みたいと」
「どうせカイトも仕事で地元とこっちを往復しているし、あっちは義妹家族が継ぐしで、こっちに住んでもいいんじゃないかってなったんだってさ」
「で、おんしは何と返事を?」
手紙を畳んで返すヒノトに、アリガは微笑んで答えた。
「よければ、一緒に住みませんかって、返したよ」
親愛なるあなた。
どうか笑わないで。
埋められない欠落もまたわたしなのだと、この未熟さを、残酷さを、幼さを、よしと受け入れるまでに、こんなにも時間が必要だった。
がむしゃらな恋はもうできないけれど。
相も変わらず、人を大切に扱う術(すべ)もわからないままなのだけれど。
いまはせめて、差し出された手は、資格があるとか、自信がないとか、どうこうではなくて。
ただやさしく握り返してみたいのです。
「せんせーおはよー」
「おはようございます、先生。寒くなりました」
「おはよう、リューヤ。おはようございます、ウツギさん。えぇ、今日は冷えますね」
そろそろ初雪か、という月である。
今日は外来当番が昼からなので、アリガは回診に病室を訪れていた。寝台で身を起こすウツギとその息子は、ふたりで開いた本を覗き込んでいる。
ウツギの傷口と簡単な問診を済ませたあと、アリガは彼らに尋ねた。
「何のご本ですか?」
「虫の図鑑ですよ」
ウツギが示した頁には蝶が描かれている。
蛹から羽化したばかりのそれが鮮やかな翅を紙面いっぱいに広げている。
いまにも飛び立ちそうな、写実的な絵だ。
「ヒマリから手紙が来たんだ!」
「ヒマリから?」
ヒマリはリューヤが蛾を見せて怖がらせた少女だ。ここでの治療が終わって転院し、彼らのつながりは切れたはずだった。が、彼女もリューヤを憎からず思っていたらしい。
リューヤは頬を紅潮させ、弾むような声で言った。
「今年の祭りを見に来るんだって!」
歳末の祭りは皇都でも最も大きな祭りで、それを目指して物見遊山に来るものも多い。ちなみにアリガの義両親も、年々、盛大になっていくこの祭り見たさに引っ越しを考えたところが少しあるのではと思っている。
熱心に図鑑の頁を捲りながらリューヤが叫ぶ。
「今度は絶対、きれいな蝶を見せてやりたいんだ!」
「がんばってね……」
蝶の羽化はたいてい春先である。が、ここで子どもの夢を壊すほど大人気なくはない。アリガが知らないだけで、冬に飛ぶ蝶もいるのかもしれないし。
「リューヤは蝶が好きだね」
「母さんが好きだったんだ」
「なるほど」
蝶柄の小袖が実母の普段着だったらしい。きれいな翅を広げて飛ぶ蝶を、母親とふたりでよく追いかけたという。
ウツギが照れたような、どこか渋い表情で呟く。
「蝶はこの時期におそらく見当たらないので、退院したら、かんざしか何かを見繕ってやろうかと……」
「あぁ、それはいいですね」
問診表にウツギの経過を書き込みながら、アリガは相槌を打った。
「先生は」
ウツギが躊躇いがちに口を開く。
「ご存知ですか。その、そういう、よい、小物を扱う店……」
その問いを、単なる世間話として取ることも、素知らぬ顔で受け流すことも、アリガにはできた。
アリガは筆記具を走らせる手を止め、少し考えてから答えた。
「残念ながら、あまり、興味がないもので。その手に詳しい先生がいるので、訊いてみます」
「あ、いや、そこまでしていただく必要は」
「退院できたら、ご案内しますよ」
ウツギがぽかんとした顔でアリガを見上げる。
アリガは書類鋏を閉じて言った。
「そのついでに、お茶でもしましょう。先日は、残念にも中断してしまいましたから――それじゃあ、リューヤ、またね」
「うん。お仕事がんばってね、先生」
「ありがと」
アリガは白衣を翻して廊下に出た。
清掃の行き届いた廊下を、医師や看護師が忙しなく往来している。この辺りの病棟は経過が良好な者がおおいからか、団体部屋からは談笑する声も響いている。薬湯や香のにおい。暖房器具の上げる湯気。あたたかさの保たれた病棟に、冬のひだまりが窓から落ちる。
今日もわたしは生きている。
(それでいいのね、ロウエン)
あなた(わたし)の幸いのために。
――アリガは歩き出した。