番外 秘密の花園
うっかり、迷子になった。
あー、とダイは空を見上げて己の迂闊さを呪う。ダイの周りは高い垣根に囲まれていた。いずれも古い薔薇の木。ここまで茂るにはかなりの年月を要する。
屋敷は……かなり遠くに屋根だけが見える。
残念ながらそちらの方角の道は閉ざされている。途切れず植えられた薔薇の木によって。
「……どっちから、来たんでしたっけ……」
木々の付ける花々の甘い芳香に囲まれながら、ダイは呆然と呟いた。
ミズウィーリ家の庭の薔薇園でダイが途方に暮れているそもそもの誘因は、ひとつの装飾品にある。
《久遠花》。魔術によって形を半永久的に留めた生花だ。作りだせる魔術師の数が激減したせいか、入手は困難を極めて、とうとう珠の細工以上に珍重されている。
ところがである。友人のアルヴィナがこともなげに作れる、などと宣ったものだから、材料となる花を調達するべく、薔薇園に下りることとなったのだ。最初は年老いた庭師に付きそってもらっていたが、ダイが必要以上に庭を荒らさないとわかるや、腰が痛むと呻きながらさっさと小屋へ引き下がった。
ぱちぱちぱち。ダイは手際よく茎に鋏を入れ、棘を落とし、手提げ籠に入れていった。場所を移動して再び、ぱちぱちぱち。摘み取りすぎぬように、注意深く花の量を見て。ぱちぱちぱち。
形も大きさも異なる色とりどりの薔薇を摘む作業に没頭した結果――迷子である。
「道に迷ったんですか?」
「そう、迷ったみたいです、ね……」
ダイは背後から掛けられた声に振り返った。
木と木の狭間にヒースが立っていた。
「ヒース!」
ダイは飛び跳ねるようにして彼のもとに駆け寄った。
「どうしてこんなところにいるんですか?」
ヒースは本来であれば屋敷で執務に勤しんでいる時刻のはずだ。しかし彼は現にここにいて、そして大いに呆れ顔である。
「ちょうど庭にいたら、あなたが変な方向へ行く姿が見えたから、追いかけてきたんですよ……。案の定だ」
「えぇー、声を掛けてくれればよかったのに」
「かけましたよ。まったく気づかれませんでしたけど」
「それで追いかけてきてくださったんです? 今日は暇だったんですか?」
「……置いていきますよ」
「あ、すみませんごめんなさい一緒に連れ帰ってください」
ダイは慌てて謝罪した。ここに置き去りにされては非常に困る。
ヒースは嘆息して、寄りかかっていた幹から背を離した。
「ディアナ、実は方向音痴?」
「違いますよ。花街とか裏町では迷いませんし」
「じゃあ何故」
「んー、多分、無意識に移動するのがいけないと思うんですよね……」
「わかっているんだったら無心で道は通らないください危ないですから!」
はぁい、と、ダイが返事をすると、ヒースはじろりと視線を寄越した。
「ほんとうにわかったんでしょうね?」
「もちろんですとも、わかっていますよ。実行できるかはまた別ですけど」
「まったく、あなたっていうひとは……」
そう呻くヒースの呆れ返った目がとても痛い。
「とりあえず、行きますよ」
「お世話になります……」
ダイは悄然としながら一歩踏み出す。
しかしその瞬間、突き出た薔薇の枝に衣服が絡み、ダイはその場にすっころんだ。
「ぶぶっ!!」
べちゃっ、という形容しがたい音と共に正面から地面に突っ伏す。籠の中の花が宙に投げ出されて周囲に散らばった。
ヒースが裏返った声を上げる。
「大丈夫ですか!?」
「だいじょうぶです……」
地面に伏したままダイは答えた。下がやわらかい腐葉土で幸いだった。とはいえ、無傷とはいかなかったようだ。肩や額がそこはかとなく痛む。
ヒースが傍らに片膝を突いてダイの身体を支え起こした。
「どうしてあそこで転ぶんですかあなたは!?」
「ば、ばらのえだがひっかかって……」
「あそこまで転ぶことはないでしょう! 心臓に悪い!」
「うう、すみません……」
ダイはよろよろ起き上がりながら謝った。転んだことは不可抗力だ。が、謝らなければならない気がした。
ダイの衣服についた腐葉土を払い落としながら、ヒースはあーだこーだとお小言を述べる。
それがふいに途切れて、ダイは訝りつつヒースを見上げた。
「……どうしたんですか?」
ヒースはダイの顔を見るなり、急に笑いに噴き出した。
「鼻の頭、真っ赤ですよ!」
怪我を労るというよりも、からかっている節がある。ダイは鼻の頭を押さえて、むぅ、と唸った。
「擦りむいてます?」
「えぇ。帰ったら軟膏を塗らないと……。それに髪! まったく……」
男はくすくす笑いながらダイの髪についた腐葉土や薔薇の花を取り払っていく。彼の指先に絡む黒髪を視界の端に入れつつ、今の自分はたいそうひどい有様なのだろうとダイは思った。
しかし、ヒースは笑いすぎだ。
「もう、自分でしますよ! そんなに笑わなくたっていいじゃないですか!」
ヒースの手を払いのけて、ダイは頬を膨らませた。
ヒースが抗弁する。
「笑ってませんよ」
「笑ってます! ひどいですよ! 人の不幸を見て笑うなんて!」
「だって、見事な転び方でしたし……。なかなかいませんよ。あんなふうにべちゃって」
転んだときの様子を思い出したらしい。ヒースが顔を笑みに歪める。ダイは口先を尖らせた。ひどいひどいひどい。肩を怒らせて男を睨み据える。が、それはむしろ逆効果だったようだ。ヒースはとうとう腹を捩じり、声を上げて笑い始めた。
「あははははははっ!」
「ヒース!!!」
ダイはヒースの胸を叩いた。彼はいたいいたいと言いつつも、言葉に反した涼しい顔でダイの手を受け流す。
ダイはばしばしとヒースの手を叩き続けた。彼は次第にダイに押されてとうとう尻餅を突く。
「痛いですって!」
「私のほうが痛いです! こけたんですよ!?」
「だから大丈夫ですかって心配しているでしょう?」
「笑いながら言ってても、ぜんぜん説得力ないですから!」
「すみません……ははっ」
ヒースは地面に手を突いて笑いながら謝罪する。まったく謝られた気がしない。
ふくれっ面で視線を落としたダイは手元に落ちたちいさな薔薇に気付いた。籠から零れ落ちてしまった白い花。
ダイは手を伸ばして花をひょいと摘まみ上げた。それを怪訝な顔のヒースの頭に飾り付ける。
「にあうー」
ヒースはきれいな男だからおかしくはない。
ヒースは顔をしかめて無言で花を叩き落とした。
「あ! 乱暴はやめてくださいよ! あとでアルヴィーに魔術掛けてもらうのに!」
「だったら遊ぶのはやめなさい!」
「先に私をからかったのはヒースじゃないですか! よく似合ってましたよ。ヒースようにひとつ作ってもらいます?」
「ディアナ!」
ダイは笑ってヒースに背を向けた。しかしダイが逃げ切るよりヒースの手が捕獲に回るほうが早かった。反転する世界。仰向けに倒されたダイをヒースが覗きこんでいる。
彼の手が腹部に触れた。
「え、ちょ、な」
くすぐられる。
「あははははははは!! ちょっ、やめてくだっ! ああはははははははひどいひどあはっ!!」
「まったく……」
ヒースが毒づきながら手を引く。その隙を突いて上半身を起こし、ダイは彼の腰に跳び付いた。男が均衡を崩して背中から倒れる。
ヒースがぎょっと目を剥く。
「ディアナ!」
「やめませんよ!」
ダイは反撃に出た。
やめてと必死に訴えたのに、さっきはよくも。
ダイはにっこり笑ってヒースをくすぐりに掛かった。意外にくすぐったがりなのか、ヒースは笑いに声を上げて身をよじっている。攻撃に出て、反撃を食らい、対抗をして。しまいには何だかわからなくなり、ふたり抱き合ってその場で笑い転げることになった。
息も絶え絶えに仰向けに横たわってヒースが呻いた。
「あー……疲れた」
「ほんとです……」
ヒースの腕を枕に寝そべったままダイも同意した。
本当に疲れた。こんなに笑い転げたのは初めてかもしれない。
「拾わなくていいんですか?」
ヒースが傍らの花を一瞥して問う。散らばった花のいくつかは、ふたりして暴れた際に押しつぶされてしまっていた。甘い香りが匂い立っている。
ダイは彼の懐から顔を出して微笑んだ。
「拾いますよ」
でも、今は少しだけ。
彼が動くまで。
そう、と、頷いて、ヒースが目を閉じる。
動き出す気配のない男にダイは問いかけた。
「戻らなくていいんですか?」
「戻りますよ……」
消え入りそうな返答を最後にヒースは沈黙する。
彼の吐息が寝息へ移ろうまでにそう時間はかからなかった。
ダイは驚きながら身体を起こした。
「えっ、寝ちゃったんですか!?」
ヒースはダイの問いに答えない。
密やかな呼吸。そればかりが返ってくる。
呆れ返ったダイは男の胸に頬を伏せた。とくとくとく。規則正しく心音が響いている。その音に、急に、我に返った。
(わ、たし、なにしてるんだろ)
こんな風にぺたりとひとにくっついて。
にわかに気恥ずかしさがこみ上げる。一方で、まだこの体温を味わいたいという誘惑に駆られてもいた。ダイの身体を包む男の腕の中は温かい。
これほどまでに近く男に寄り添ったことはヒースに対してだけではなく生まれて初めての経験だった。ダイの容姿と体躯は男女を問わず惹きつけるものであることを理解していた――あの母の子というだけで触りたがる輩は後を絶たなかったので、とりわけ男には間合いを取って生活するよう、アスマに躾けられていたということもある。
けれども奇妙なことにヒースに対してはその警戒が緩んでしまう。ダイはヒースに対して恐怖を覚えたことがない。彼の手はいつも冷たくもやさしいから。
くぅくぅと眠る男を眺めながら、ダイは再び笑い転げたくなった。
のんきなひと。こんなところでねむって。こどもみたいなかおをして。すごくやすらかなかおをして。
かわいいひと。
見ていて少しも飽きない。
皆は彼の冷たく厳しい顔しか知らないのだろうなと思う。知らないはずだ。知らないで、いてほしい。
ダイはその欲求の意味を考えなかった。あまりにも自然に思いつきすぎて、考えるという意識すらなかった。
いつの間にか、ダイ自身もことりと意識を失っていた。
遠い昔の話。
夜ごとヒースのそよぐ丘を駆け上って、仰向けに寝そべりながら月を眺めた。
よく練って打ち据えた黄金のような月。それは天のべっとりとした闇を、艶のある柔い紺色に薄めてくれる。
懐古に胸を突かれながら瞼を押し上げて、ヒースは顎のすぐ下にあった頭を撫でた。黒髪に指を滑らせ、花の甘い香りを吸いこみながら、温かな重みを抱き寄せる。
そしてもう一度目を閉じかけ――ヒースは瞠目して跳び起きた。
胸の上にあった小柄な身体が転がり腐葉土の下にべしゃりと落ちる。が、彼女に気を払うことはできなかった。自分のしでかしたことに驚愕していた。
(……ね、ねていた?)
慌てて時間を探る。
幸いにして半刻も経っていないようだ。しかし、四半刻以上も意識を飛ばしていたことにかわりない。
いままでにないほど深い眠りだった。
けれどもそれを素直に喜べない。
「うー……いっつ……」
ヒースの身体の上から滑り落とされた少女は、頭を抱えながらもぞもぞ土の上で身悶えている。
ヒースは少女の脇に手を入れてその身体を抱き起こした。
「ディアナ、大丈夫ですか?」
少女はまだ夢うつつを彷徨っているようだ。
蜜のようにとろりと目を細めて微笑む。
背を粟立たせる媚態。
硬直するヒースの肩口に彼女はぽすりと頬を預ける。
そしてヒースの腰に腕を回し、またくうくうと寝息をたて始めた。
「でぃ、ディアナ、起きてください」
起きてほしい。今すぐ。
切実な思いでヒースは少女の背中を叩いた。
んー、うー、と散々呻いたのち、ようやっと覚醒した彼女は、ヒースの先ほどの行動を再現するように現状に驚き、後ずさった拍子に背中から派手にすっころんだ。
ヒースが書いた他家への礼状。その末尾に署名していく作業を始めて早一刻。
「うー、うー、うー」
唸り続けるマリアージュにティティアンナが声援を送る。
「マリアージュ様! 頑張ってください! あと少しです!」
「もう嫌……」
「リヴォート様は本文すべてを書かれたんですよ! あと五十枚です! もう少しです!」
「ティティ……あんた、だんだんダイに似てきたんじゃないの? むり! 無理よ! 休憩!」
マリアージュはぐったりとして机に突っ伏した。キリムが署名の終わった礼状を引き取って退室し、ティティアンナがひとまずお疲れ様でした、と声を掛けてくる。
「紅茶をお淹れいたしますね。そのまま少しお待ちいただけますか?」
ティティアンナが茶の支度に部屋を下がる。
マリアージュはため息を吐いて立ち上がった。
今日は本当によい日和だ。ぽかぽかと温かい。このような日に何が悲しくて部屋に篭っていなければならないのか。
(肩凝るわ……)
後でダイを呼んで揉み解してもらおうと決めたマリアージュは、具合よく窓の下を通りかかる化粧師の姿を見つけた。彼女を呼び止めかけたマリアージュは思いとどまる。
ダイの傍らを男が歩いている。ヒースだ。しかもふたりは何やらぎゃあぎゃあと言い合っている。
「なんだってあんなところで寝てしまうんですか!」
「最初に寝ちゃったのヒースじゃないですか! 私のせいにしないでくださいよ!」
「それにしてもどろどろだ。あーあ、着替えないと」
「それも私のせいですか!?」
「誰のせいとはいいませんよ」
「ひどい!」
「だから、誰のせいでもありませんって」
「ヒースがくすぐるから悪いのに!」
「私をからかってくるからですよ!」
「だってかわいかったですしかわいかったですしかわいかったですし」
「ディアナ!」
(……なにやってんの? あの二人……)
内容はわからない。
が、痴話喧嘩にしか見えない。
見ていて微笑ましいというか、呆れるというか、なんというか。
犬猫がじゃれあっているような雰囲気だった。化粧師の少女を揶揄しては声を上げて笑う男は、老成した得体の知れぬ男ではなく、まだ年若い青年であることをマリアージュに思い起こさせ、頬を上気させて表情をくるくる変える化粧師は、やはり物事を達観した少年などではなく、男装した愛らしい少女であるようにしか見えなかった。
あんな顔もできるのね、と見てはいけないものを目にしたような――けれどずっと眺めていたいような、奇妙な感覚に囚われる。
「失礼いたします」
ティティアンナが銀盆に盛った菓子と茶道具を台車に載せて部屋に戻る。マリアージュに窓際へ移動した理由を尋ねてくることもなく、彼女はてきぱきと休憩の準備を進めていく。
マリアージュは背後のティティアンナに尋ねた。
「ティティ」
「はい、なんでしょうか?」
「あんたディミトリと付き合い始めたのは何が切っ掛け?」
がしゃん、と茶器の落下する音が部屋に響く。
マリアージュは目を剥いて背後を振り返った。
「ちょっと、なにやってんのよ?」
「ももも、申し訳ありません……」
ティティアンナは取り落とした皿をあたふたと盆の上に置いた。
予備の取り皿を円卓の上に並べ置く彼女の手が小刻みに震えている。
「どうしたの?」
「……あ、あの、いつから私とディミトリのこと、ご存じで……?」
「いつからって……三年前ぐらいからだけど?」
ティティアンナは逆上せたのではないかというほど、耳まで真っ赤になった。
「ちょっと、大丈夫?」
「だだだだだだ、だいじょうぶです……。その……マリアージュ様はどうしてお分かりに……?」
「え? 見てたらわかるでしょ?」
侍女は次に青くなり、そうですか……と肩を落とした。
マリアージュは支度の整った席に着き、中身の満たされた茶器に口を付ける。
「結婚するんだったら早めにいいなさいよ。この家から夫婦が出るんだったら、ちゃんと祝ってあげるわよ」
「あ、う、あ、え、ありが、とう、ございます……」
マリアージュは紅茶を啜った。
何はともあれ。
この家から、祝福すべきことが生まれるならば――……窓から見下ろした、寄り添って笑うふたりの姿を思い描く。
(やっぱり、没落させるわけにはいかないわよね……)
卓の上に積み上がった残りの礼状を一瞥し、マリアージュは溜め息を吐いたのだった。