番外 功罪の等分 3
棚引く白の薄絹が、花季の蒼によく映える。
よく晴れた暖かな日。芸技の、と、二つ名を戴く国の城の奥、生命の緑あふれる庭園に建てられた古い祭殿で、婚礼の式を挙げる花嫁は、誰から見ても神話の楽園を歩む神々の使いのように美しかった。
細い手足をすんなりと包む透かし織りと異なって、頭部から足下まで覆う薄絹の被衣(かづき)には、真珠を花芯とした幸福を祈る花々が立体的に刺繍され、国の二つ名にふさわしい職人が、技術の粋を凝らしたものだと遠目にもわかる。その長い長い裳裾を持つ子どもも、梳き下ろした髪に野ばらを刺して、精霊のように足音もなく歩いていく。
祭殿の前で祭司と花嫁を待つ花婿も、彫像のごとき秀麗な顔に微笑を浮かべて、金の髪が陽光にちらと煌めくさまが、楽園からの祝福を受けるかのよう。
聖女が主神に次ぐ聖人として奉られてからのものとは異なる、古い様式の式典は、神と獣の住まう楽園を思わせて、幸いに満ちた未来を予見させるに充分なものだった。
古い庭園の収容人数は約百名。だが庭をぐるりと取り囲む二階建ての廊下にも、立ち見で参列できる様式だ。
ランディやユベール、ブレンダたち近衛が長剣を掲げて作る花道をゆっくりと行く。
庭の中にはロディマスご所望の賓客たち――憮然とした顔の貴族たちが行儀よく、日よけの下の席に着いている。これで文句を言うようなら、参列できなかった他の者たちのように、理由を付けて僻地かどこかへ「修行」に出されることだろう。
その貴族に混じって、アルマティンやアスマの姿がある。育ての親の表情は、ディアナの距離から目視できないが、きっと笑っているのだろうと思った。
彼らの少し後方には、ブルーノ・オズワルドのような、「ダイ」と付き合いのある商家。彼らの関係者、を装った、ダイの友人たち――ミゲルやギーグの姿がある。
ティティアンナたちを初めとするミズウィーリの使用人たちは回廊の一角に。アレッタやリノ、ミンティらダイの側近たち。城内で共に仕事をする顔なじみの文官たちも、回廊から顔を出して笑っている。
アルヴィナの姿は二階の柱の影に見えた。彼女は笑って腕を組み、装飾の美しい列柱の一本に寄りかかって中庭を眺めていた。
マリアージュとロディマスは拝殿の庇の下に設けられた席に腰かけている。東屋の下に四匹の獣を慰撫する主神の彫像が置かれただけの古い拝殿は、聖女の像を戴く大聖堂のように壮麗ではなかったけれども、庭園の緑と調和がとれて、十二分に神聖さを感じさせた。
像の前で祭司と、アッセに付き添われたヒースが待っていた。
祭司のところまで、階段が三段ほど。ヒースはやさしく笑って、段上に上がるための手を貸してくれた。長い裳裾を美しいけれども、不慣れなこともあってとても重い。けれども自分を映す彼の目はとても楽しそうに和んでいるから、それなら着飾ったかいがあるというものである。
ディアナはヒースと向かい合って立った。彼はディアナと同様、白を基調とした礼装に身を包んでいる。刺繍の銀糸に光が当たって布地が青白くほの輝く。やはり彼は、明るい色の方がよく似合う。デルリゲイリアに戻ってから、素性を伏せる意味合いや立場もあって、黒に近い濃い色目のものを身につけなければならないことを、ひそかに残念に思っている。
「さて」
と、台座の聖典に手を置いて、祭司が口を開いた。
「今日というよい日より、主神の下に一対の夫婦と、彼と彼女の幸いを願うものが集いました。すでに新しい家族としての宣誓を済ませておられる夫妻ではありますが、いまいちど改めて、夫婦となられるまでの道筋を振り返り、苦難と幸福の道に手を貸された、すべての人々に、そして楽園より我らを見守りし主神に、感謝の意を伝え、祝福を賜りたいと存じます」
光に満ちた中庭を眺めるアルヴィナに歩み寄る影がある。
その影をアルヴィナはちらと一瞥した。一般兵の隊服を着た若い男だ。彼はアルヴィナに目礼し、脇を通り過ぎようとする。
ため息を吐いたアルヴィナは、彼の行く手を阻むため足を出した。
「――普通を装いたいなら、足音を立てたらどうなの?」
「っと……手厳しいなぁ」
男は笑って柱の影に入った。
その姿が魔の燐光を帯びて崩れ、再構成される。
黒髪に深緋(こきあけ)の瞳をした美丈夫である。おおよそ、王城の奥には似つかわしくない簡素な出で立ちで、腰に一本の長剣を佩いている。明らかな部外者であり、アルヴィナの知人で、弟子でもあったし、端的に言えば《眠らぬ死者(同胞)》だった。
「もう、せっかくのお天気が台無しになるじゃない。何しに来たの?」
「それはご挨拶だなぁ、アルヴィー。もちろん、ヤヨイが世話になった夫妻を祝いに来たんだ。《魔封じ》もきつくしてきたから、天気ぐらい短時間なら心配ないって」
男はちらと首元をくつろげる。《魔封じ》に関する彼の言は確かなようで、すき間なく肌の上に施された赤黒い文様が見えた。王城勤務のためにアルヴィナが施している術より、もう二、三段階、強めのもののようだ。
彼は柱の影から祭壇に立つ若い夫婦を眺めて言った。
「あのおふたりさんのこと、ヤヨイが喜んでたよ。いまヤヨイはこっちに来られないからさ。俺が代わりに様子を見に来たってわけ」
「リルド君が来ればいいじゃない。大陸会議で関係を持ったんだから、招待状なら手配できたわよ」
「ソレ、応じたら、あの夫婦に俺たちが肩入れしたことになるじゃんか。どこかと太い関係を持っているって、公になるような真似はできないなぁ」
「色々と融通してくれたのに?」
「俺とアルヴィーの仲だからさ。俺も西に滅茶苦茶になって欲しくはなかったし。そもそも大陸間で干渉できるように、国じゃなくて協会をつくったんだって」
「気軽に国を亡ぼす癖にねぇ」
「別に理由なく壊したりしない。国を潰すときは単なる荒療治だよ――この呪われし世界の平穏を願うものとしての仕事さ」
胡散臭い御託を並べるこの男は、今回の騒乱でも散々世話になった商工協会の長である。
いっとき借りていた魔術師――ヤヨイの主人が彼だ。
結局のところ、平生の協会を知るものからすれば過分なほど、かの組織が《聖教騒乱》に首を突っ込んできた理由は、この男の一存による。彼が承認しなければ、あの国と国を音声でつなぐ魔道器具の貸し出しはもちろん、一国が無補給船を用いて各国の為政者を集めて回る真似などできなかった。商工協会からの遣いとして現れたリルド・フレイヤが抱えてきた大量の招力石も、この男の私財にほかならない。
「……色々と、ありがとね」
アルヴィナが礼を述べると、男は笑って肩をすくめた。
「俺たちの姐さんが、孤独の穴から這い出てくることのできた祝いだよ――安いもんだって」
男はそう言って、この騒乱の中心にあった夫婦を眩しそうに見た。
祭司の声が朗々と響いている。
「……つまるところ、我々は弱さと愚かさを持って生まれたからこそ、楽園を堕さずにはおられなかったヒトガタであるのです。しかし、それを嘆くことなかれ。主神は我々の強さと弱さを揃えなかった。だからこそ、この魔を縛する地にて、我々は互いを補い合い、支え合い、高め合うこと叶う。そのかたちのひとつが夫婦であり、すなわち主神の祝福を表しているのだと――……」
様々なことがあった。
幾度も己の無力と無知を感じたし、その都度、誰かの手に助けられた。
その逆もおそらくあった。だからこそいまここに、たくさんの人が集ってくれているのだと信じたい。
祭司の説法が終わり、からんからんと鐘が鳴る。
ディアナは夫の腕を取った。おめでとう。おめでとう。どこからともなく祝福の声が花びらに乗せられて自分たちの下に届く。
「ゼノさんたちから、お祝いの手紙が来ていましたよ」
と、ディアナは夫に囁いた。
「控え室に届けられていたんです。帰ったら一緒に読みましょうね」
「わたしのところにも何通か届いていました」
「ゼノさんから?」
「まさか。他国のあなたのご友人の方々から」
つまり、ゼムナムのサイアリーズや、ドッペルガムのファビアンたちから。
「あなたを利用して国を転覆させるような真似をしてくれるなと」
「わたしをどう利用したら国が転覆するんでしょうね?」
「わかりませんよ。あなたの命が懸かったら、目論むかもしれません」
「えぇ……?」
「滅びかけた国を永くもたせるよりも、国をひっくり返す方が楽ですよ。おそらくね」
そういうことを言う人だから、サイアリーズが面白がるし、やたらファビアンが心配してくるのではないだろうか。
ディアナは呆れてヒースを見上げ、彼はその視線を笑って往なす。
ふと女王が席を立って、パチンと手を打った。
「――お集まりの皆さま方」
マリアージュの張りのある声が庭園の中に響き渡る。
「この度はお忙しいなか、よくわたくしの化粧師の祝いの場にお集まりくださりました。彼女の主人として皆さま方に厚く御礼を申し上げます」
ディアナはヒースと顔を見合わせ、急ぎ賓客たちに恭しく頭を下げた。主君の発言は予定に全くないものだが、彼女の言葉に合わせて動くに限る。
ちらと視線を動かすと、マリアージュの隣に座っていたロディマスも、目を困惑に泳がせている。どうやらこの挨拶は、完全にマリアージュの独断専行らしい。
ロディマスの後方に控えるアッセも平静を装っているが、どう動くべきか迷っている様子だ。
「本日、このような式をふたりが皆さまに披露目することになりましたのは、多くの方々から幸いのときを目にしたいとご要望いただいたためでした」
と、貴族対応をするヒースによく似た、慈愛深き微笑を浮かべてマリアージュは語りだした。
「ふたりが主神に夫婦の誓いを立てたときは、この西の獣の混乱から日も浅く、ふたりが出逢い、愛をはぐくみ、そして夫婦となったことを知らしめるのによき日が選べず、主神とその言葉を伝える教会、そしてわたくしたちのみの立ち合いという密やかなるものになってしまったのです」
滔々と言葉を紡ぐマリアージュの笑みが怖い。
「けれども今日、野ばらもよく咲く美しき日、ふたりの婚礼は皆さまの記憶に刻まれることになるかと存じます」
(……えぇっと、つまり、皆の要望で式もしたし、わたしたちが結婚したことはわかっただろう。もう横やりを入れてくるな、ってことでいいんですかね?)
マリアージュの言葉を胸中で意訳する。
だが、本当にそれだけだろうか。
どうしてこれほど、胸騒ぎがするのだろう。
その予感は夫も感じているらしい。表情こそ笑顔だが、嫌そうな気配を醸し出している。
自分たちの読みは正しかった。
「さて……皆さまと同様、この夫婦にも、今日と言う日はしっかりと、記憶に刻まれなければなりません」
マリアージュが話の中心をこちらに向け始める。
「少し小耳にはさんだことがございます。婚礼の記録を文字に残さぬ土地では――衝撃的な光景を目に焼き付けて、婚礼の記憶と成すのだと」
ディアナは冷や汗をかいた。
ちら、と、ヒースに視線を向ける。
彼もマリアージュが何を語りだすか思い至ったらしい。顔をやや青ざめさせている。
「衝撃的な光景とはすなわち――新郎を殴る」
「はぁ!?」
ヒースが目を剥いてマリアージュを振り返る。
女王はにこにこと笑って話を続けた。
「失礼。……新郎を目に見えるかたちで痛めつける。まぁ、そのようなことをするらしいのです」
それはあれだ。
ペルフィリアでヒースとふたりで旅をしたときに目にした、田舎の風習の話だ。
マリアージュが結婚するに当たり、少し、すこーしだけ、その衝撃的な光景について話したのだが。
ディアナも縋るような心地で主君に声を掛けた。
「あ、あの、マリアージュさま……」
「と、いうことで、本日はわたくしが、責任をもって、わたくしの《国章持ち》を、二度と泣かせることがないように」
マリアージュが実に優美な仕草で、己の手を片手ずつ揉み解す。
「その賢いお頭(つむ)に、今日という日が刻まれるように」
ぽきぽき、と、ひどく物騒な音がした。
「今度こそ、戒めてあげたいと思っているの。ねぇ、ヒース?」
庭園が一気に騒がしくなる。
参列した貴族は唖然となり、新郎新婦の友人たちは困惑に顔を見合わせ、裏の事情まで精通する数少ないものたちは苦笑する。
商工協会の長は口笛を吹き、その隣でアルヴィナはあらあらと笑った。
「ちょっと、やめてくださいよマリアージュ様! その馬鹿力で人を殴ったら、顔が変形します!」
「安心なさい。腹にするから」
「そういう問題ではございません……どうしてそう暴力に走るんだ」
「そうですよ、骨が折れちゃいますから!」
「わたしが殴ったぐらいで骨は折れないわよ。ヒース、そこに直れ!」
「陛下……いや、マリアージュ。お願いだから人前でやめてくれるかな。女王の威厳が皆無だから」
「アッセ、その男の襟首を掴んで。押さえつけて」
「はっ、え、いや」
「やめてください!」
「せーのっ!」
主神たちの像の前、宰相に背後から押さえつけられながら、それでも手を振り上げた女王の掛け声が高く響く。
人々は固唾を呑んで場を見守り、そして。
笑いが、庭園に弾ける。
撒かれた祝福の花びらが、風に吹かれて天高く舞った。