第七章 血盟する王者 4
ペルフィリアは湾港都市だ。北部の多くは遠浅の海に面している。その海岸線を馬車で揺られていたディトラウトは、窓の玻璃にひらめいた光に面を上げた。宝石のような飛沫を蹴散らして、水鳥が空高く羽ばたいていた。その軌跡を目で追いながら眩しさに目をすがめる。鳥を飲み込む陽光は肌に暖かく、やわらかだった。
今日のディトラウトは城外の視察だった。日ごろは方々から城で接見を待つ立場だが、たまには相手の根城に踏み込んで、いらぬ企てがないかにらみを利かせる必要がある。幾種類もの暗号を用いてやり取りする城下の子飼いと、直接はなすべき事柄がいくつもあった。
また、城の外に足を延ばして、民人が醸造する空気に触れておきたかった――大陸会議からこちら、タルターザの蜂起、セレネスティの不調に加え、デルリゲイリアは女王不在で迷走、加えて最後に、ディアナのこと――……予断を許さない状態が続きすぎて、城下を直に目にする機会を失っていた。
もちろん、城下や地方へ常に気を払ってはいた。しかし伝聞のみの場合と、自らが赴いてみるのとでは、得られる情報はえてして異なるものだ。
(……静かだ)
それが、ディトラウトの率直な感想だった。
人通りがないわけではない。適度な往来がある。王都の外門では地方から農作物を積んできた荷馬車が列を成している。目抜き通りには露天商がいて、彼らの掛け声に応じる客の姿もある。居住区では細い街路の間に縄が渡され、洗濯物が風にはたはたとひるがえっている。
平穏だった。セレネスティが文字通り命を削りながら維持しようしているものの姿があった。
だが――子どもの声がしない。
海岸線に沿って広がる浜辺には黄金色の砂が足跡もなく広がっている。遠浅の海には舫われたままの小舟が波間に揺れていた。
「閣下、まもなくです」
御者が目的地への到着を予告する。ディトラウトは頷き返して、馬車が止まるときを待った。
馬車は王都の一角を占める湾港地区へと入っていた。
無補給船の姿はないが、それに準ずる大きさの中型、また小回りの利く小型船が泊地に並ぶ。それらを半円に囲む埠頭の施設群。先日、セレネスティが拡張を却下としたそこが、今日の最後の目的地である。
敷地面積を広げることはならないが、整備自体は必要だと認めている――魔術具が動くことを前提として設計、建造された港は、ディトラウトたちの推進する脱魔術化にそぐわないからだ。
ところが整備事業をよく見張らなければ、魔術復興派に属する貴族の横やりが入りやすい。そういった専横を防ぐ威嚇をこの視察は兼ねていた。
方々から遣わされた職人たち、官吏たちと顔を合わせ、言葉を交わし、事業の計画に変更がないかを確認する。
係留施設、荷役施設、保管施設、旅客施設。順繰りに見て回りながら、ディトラウトは最後に礼拝堂に足を踏み入れた。
礼拝堂は国から立つ者たちが旅路の安寧を願って祈る場として、旅客施設の奥まった場所にしつらえられている。すでに再整備の手が入ったようで、十分な広さを備えた祭室からは、真新しい塗料の濃い匂いがする。
備品もおおむね新調したらしい。並ぶ長椅子の縁もなめらかだ。それらに触れつつ奥へと進み、ディトラウトは祭壇の前で足を止めた。
聖女が、ディトラウトを見下ろし、微笑んでいた。
「聖女像ではない方がよいと、わたしは進言したのですが」
後方から男の声が響いた。ディトラウトはゆっくり振り返った。護衛が視界から退いて、声の主をあらわにする。顔の半分を布で覆った、筋骨たしかな男だった。商工協会から西大陸北部の監督を任される男として、彼は先の会議に出席していた。ベベル・オスマンと、彼は名乗った。
無補給船の乗船管理は商工協会とペルフィリア王都の役人が折衷して担っている。港の整備において意見を乞うために呼ばれていたのた。
無言のディトラウトに構わず、ベベルが淡々と言葉を紡ぐ。
「確かにここは旅立つものの出発点かもしれませんが、一方で終着点でもある。……聖女をあがめるのは、西独特ですからな。どのような神にも祈れるような場所にしては、と進言したのですが」
「失礼ですが、あなたの生まれは大陸の外なのですか?」
どのような神にも、と、彼は言った。
主神以外の信仰があることを知るものは少ない。たいていが他大陸出身者だ。
ゆったりとディトラウトと距離を詰め、やや後方で立ち止まったベベルが肩をすくめる。
「外で長く過ごしました。まぁ、もう同じ長さだけここにおりますがね」
「……ここに聖女像を置かせるつもりはありませんでした」
西では聖女教会が幅を利かせているが、ほかの大陸では異なる。北と南は主神だけで、それでも度合いにばらつきがある。東はそもそも主神を信仰すらしていない。
あまねく民の礼拝の場とするなら、聖女を中心に据えた様式は適切ではない。ゆえに各々が各自の信仰する神に祈れる場としてだけ元々あり、改修時もそのように設計されていた。ところがご覧の通り。聖女が自己主張も激しく微笑んでいる。
「ですが、あなたは許した。……ここで妥協しておかなければ、ほかの部分に支障が出そうだった、といったところでしょうかな」
「要望を受け入れただけです。……わたしたちは信仰まで検めるつもりはありません。……信仰と政治は別ものだと、そろそろ知っていただきたいとは思いますが」
「それは……無理な話でしょうな」
ベベルからの否定的な相づちに、ディトラウトは眉をひそめた。
「あなたは何が言いたい?」
「わたしは警告に参った次第です」
ベベルが招力石を差し出す。大陸会議でさんざん使った消音の石。密談したいという意思だった。ディトラウトは目配せで護衛にベベルを警戒させ、彼が招力石を点す様を黙って見守った。
「閣下、あなたがたは、聖女を排除しようとしている、と、噂が流れています」
「それは……民の信仰を禁じる、と、いう意味合いで?」
「そうです。……我々はあなたが政教分離を進めているとわかっております。民人はそうではない。あなた方は少々、ことを急ぎすぎている」
わかっている、と、口に出さず、ディトラウトは首肯した。唇を引き結んでいなければ、時間がないのだ、と、訴えそうだったからだ。
政教分離とひと事でいっても、簡単ではないともとよりわかっている。国の行事はもちろん、人々の生活は、あまりに信仰と密着してある。
ディトラウト自身、そういう風に生まれ育ったのだ。だから、ひとつ、新しいことを導入する折には、説明する手間暇を惜しまなかった。もちろん、タルターザでも。
「説明が足りませんか……」
「説明でどうにかなるものではありませんな。自分の根源を変えろといわれるに等しいのだから、それを受け入れるだけの衝撃が必要ということでしょう」
「あの災禍では足りないと?」
「そもそもあの災禍が聖女によって引き起こされたと正確に理解している者が稀でしょう。違いますか?」
「あぁ……そうか」
ペルフィリア中を舐めた虐殺の病の因が、単なる権力闘争に留まらないと、民人は理解していなかったということだ。
あれは、聖女の血の呪いなのに、それを皆、知らないのだ。
「そういうことか」
根本的なことを見落としていたと気づき、ディトラウトは内心で舌打ちした。
「あなたはよい忠言をくださった。礼を言います」
「それには及びません。まだ、本題に入っていないのですから」
「……本題?」
「そうです。先ほどの……聖女を排除しようとしている、という噂を煽っているものたちがおります。ご存知でしょうか?」
「聖女教会」
自分たちの動きは聖女教会から権力を奪うものにほかならない。メイゼンブル崩壊でそれでなくとも余力のない聖女教会は、特に大陸会議以後、ペルフィリアの王政府を目の敵にしている。
「なぜその噂が急速に広まったかおわかりで?」
「……魔術衰退の理由に絡め始めたから」
前々からそういう動きがあると報告があり、今朝も子飼いから確定だと告げられた。
聖女教会は人々からの魔力の減退、魔術師の減少を、ペルフィリア王政府の方針と絡めたのだ。
魔術を軽んじ、聖女を日々から切り離そうとする動きこそ、人々から魔力を奪っている。
つまり、今の日々がいっかな改善しないのは、セレネスティたちのせいだと、教会は主張しているのだった。
「教会は、聖女をより信仰すれば、魔力が高まると主張しています。これが、妄言と言えなくなってきた話はご存知でいらっしゃいますか?」
「……いいえ」
ディトラウトは正直に告白した。聖女教会、特に過激派の動向は監視させているが、水面下のことを看過するまでには時間差がある。
ベベルは居住まいを正し、まっすぐにディトラウトを見据えた。
彼は自らも半信半疑だと言いたげな表情で、得たばかりだという情報をディトラウトに囁く。
「……教会で三日三晩祈りを捧げ続けて、新たに計れるようになった子どもがいるそうです」
祈りは魔力を高め――やがて聖女を生み出す。
人々よ、教会に足を運べ。祈りを聖女にささげよ。
魔力が高まらないのは、その邪魔をする者たちのせいだと。
教会は人々に説いて回っていると、ベベルは述べた。
薔薇のつぼみもほころび始めた中庭は、やわらかな陽光で満ちていた。暦としての冬が明けたばかりのこの時期、中庭で歓談するとは尚早のような気がしていたが、喜ばしいことに昼餐会に相応しい日よりだった。
指定の円卓に着席していく参加者たちを、庭に面した一室から眺めながら、ダイはセレネスティに声をかける。
「風も穏やかでよかったですね。薄布が外れずにすみます」
「それはお前にも言えることだろう」
窓辺に寄せたひとり掛けの椅子に腰かけ、書類に目を通していた王は呆れた目をした。
「被り物が飛ばないように、きちんと留めておけ。……変なところで自分にかまわないからな、お前。気をつけろ」
「わかっています」
「……本当にわかっているのか?」
と、彼は何やらマリアージュのように疑ってくる。心外である。
ダイは窓の玻璃に移りこんだ自分の影を一瞥し、頭から被る薄布の留め具を固定しなおした。
今日のダイは朝から謁見室で王都の代表者と顔を合わせるセレネスティに付き合っていた。まもなく始まる昼食会の伴もする。化粧直しはすでに終わり、いまは昼食会の参加者を観察しながら、衣装の着付けに不備がないかの再確認を、ラスティから受けているところだった。
昼食会の参加者は、イェルニ兄妹の足をすくうことを狙う貴族が主だという。年末年始に臥せっていたセレネスティの快癒を祝う、という名目で、咲き初めのばらを愛でようという企画らしいが、屋外を希望するあたりが悪趣味きわまりない。これでセレネスティが体調を崩しでもすれば、身体を慮る体で女王の座はそのままに第一線から退くよう、彼に諫言するという魂胆らしい。
初めてその流れを聞いて腹を立てたダイに、セレネスティは嗤って言った。
『責任は負いたくない。だが、権力はほしい。……そんなものだよ。そもそもきちんと責任をとれるような輩は、もう残っていない。小心者の鼠で、どこにも逃げられないから、この国で生きている』
金も人脈もある人間はとうに大陸の外へ逃げたし、責任感のあったわずかな人間は、セレネスティに付き合って、結果、いまは皆まぼろばの地だ。
ここにいるなら――できることは無限にある。
セレネスティに化粧をする。彼の傍に侍る。それだけでも多大な助けだと皆が口を揃える。
そして、ディトラウト。
あの男と、ひとつの目的の達成を目指して、互いの不足を補い合う。他愛のないことを話し、ときに食を共にする。
雷雨の夜に失ったと思われていた日常を、形は少々異なれど、取り戻しつつある。
薄氷を踏むような危うさがあるとはいえ、ペルフィリアでの日々は恐ろしく充実していた。
(あのひとは……)
窓の桟に掛けた指に力が入る。
(わたしを、どうしたいんだろう)
ずっとほしかった、と、彼は以前に述べていた。
いまもそうだろうか。ゼノがダイに望むようなかたちで、傍にいてほしいと望んでいるのだろうか。
近く、ダイは選ばなければならない。
生死すらわからぬ主人に殉じるか。
それともいま、傍で苦しむ男の下に残るのかを。
昼餐会の会場に出席者が揃ったと連絡が入り、セレネスティが立ち上がる。騎士たちの先導でダイたちは待機していた部屋を出た。
庭園は花の馥郁とした香りに満ちている。窓辺で感じたように、陽射しは温かだったが、空気はややひんやりとしていた。
ダイの護衛であるマークがまず自分たちの先を行く。その次がダイだ。セレネスティはダイの後。最後にはヘルムートと、騎士が数名つく。
視線を、感じる。
(見られている……)
衆目は肌を刺すように鋭いものだった。
覚悟はしていた。ダイに付きそうマークは、ディトラウトの側近中の側近だった。出身である家の格式も高い。宰相は滅多なことでは彼を他者へ貸し出さない。
注目を浴びるにはそれだけでも十分なのに、加えて夜明けの青の衣装を身にまとい、女王の傍に常に侍っている。
俯きたくなることを、ダイは堪えた。
『あなたの存在はどこへ行っても異端です』
ふと、懐かしい声が耳の裏によみがえった。
『ただ真っすぐ、前を向きなさい。主人の恥とならぬよう』
ちょうど今のころ合いだったか。ミズウィーリ家の片隅で、侍女頭から礼儀作法の教育を受けることになったのは。
ほろ苦い記憶に、ダイは苦笑を漏らした。
セレネスティの席を通り過ぎたところで、マークが佇立する。係の従僕が引いた椅子に着くべく、セレネスティが身をかがめた。彼の豪奢な衣装が縺れないように手助けをしていたダイは、ふと卓布の裾にきらめく銀色の何かを認めた。
「陛下、お待ちを」
とっさにセレネスティに耳打ちする。
彼が動きを止めるまで待って、ダイは卓布の襞に絡む銀を注視した。
(……耳飾り?)
それは鳥を模した銀の装身具だった。小指の爪ほどの小さな細工だ。訝りながらとっさに手を伸ばしかけ――手袋の色にぎくりと身をこわばらせる。
『あなたのその動きは、自らの命の重みを理解していないせいだ』
ダイは手を引き戻してその場を退いた。
『護衛が付く。それはすなわち、守られる側だ、ということだ。あなたに危険が及べばあなたを守れなかった護衛の首は飛ぶ。わたしたちの怪我ひとつで、側に控える官は責められる』
自ら。
興味にひかれるまま、確認してはならない。
「そこの」
ダイは従僕を呼んだ。
まだ年若い彼に耳飾りの存在を囁く。彼は顔色を変えて、ダイと場所を入れ替わった。銀の鳥を取り除きにかかる――……。
「待ちなさい」
ダイは、彼を制止した。
「……シンシア?」
「お待ちください、陛下」
訝るセレネスティに、ダイは腕で下がるように示した。彼は抵抗なく従った。従僕は困惑した顔で指示の続きを待っている。
(王の席に。装身具が落ちたまま? ありえない。事前に、何度も確認しているはず)
確認した女官がとり落とすことも考えられない。
(銀の)
このような装身具をつけて働く女官もいない。
(鳥)
ぎんの。
「マーク」
「はい」
「叩き落としてください」
「はっ」
ダイの命令に短く了解を述べたマークは従僕に代わって銀の鳥を手刀で落とした。
その瞬間だった。
ぱしん、と、紫電が視界を縦に走った。
「陛下!」
ダイはとっさにセレネスティを抱きかかえて背後へ退いた。さらにそのダイをマークとヘルムートが背に庇う。彼らの身体ごしに、ダイは蒼白となった出席者たちを見た。
「わっ、わああぁああああっ!!」
従僕の悲鳴が響き渡る。首を伸ばして騎士たちの向こうを垣間見ると、従僕の腕に大鷲が爪を立て、くちばしで彼の肉を食んでいた。血が飛沫いて、花瓶に生けられた白ばらを染める。従僕は椅子を巻き込みながら派手に転倒し、腕を抱えてうずくまった。
彼を痛めつけた猛禽は燐光に包まれながら虚空に溶けていく。
あれは。
(遣い魔……)
銀の細工を核とした、魔術で生み出された鳥。
参加者の貴婦人たちが喉奥をひきつらせて席を立つ。
「ひっ……」
「全員、止まりなさい!」
反射的にダイは叫んだ。
混乱の色を帯びた数多の眼差しがダイに集まる。ダイはセレネスティから離れ、その視線の主たちを見渡した。奇妙な空席がないかを確認しながら、傍らのヘルムートに告げる。
「サガン老。この場の封鎖の手配を。会場の設営に関わった全員を直ちに集めてください。下男下女もです」
承知、と、ヘルムートは首肯し、部下に指示を始める。
「医者も呼べ」
ゆっくり歩み出たセレネスティが口を挟んだ。
「……だれか、彼を運んでやれ」
従僕たちが集まって負傷した同僚を運んでいく。
それを横目で見送ったセレネスティは、血痕が跳ねたままの椅子に、優雅な挙措で腰掛けた。会場を睥睨したのち、卓の上に肘を突いて、組んだ両手の上に顎を載せる。
「さて」
セレネスティが口の端を引き上げる。
ダイが塗った濃い口紅が、王は冷笑したのだと、薄布ごしに主張した。
「面白い余興でした――だれが企画したか、ゆっくり討論しようじゃあありませんか。ねぇ、皆々さま」
昼食会で女王の暗殺未遂。
夜に視察から戻って早々に報告を受けて、ディトラウトはセレネスティの下へ急いだ。
番をする騎士が扉を開ける時間すらもどかしく、王の執務室に踏み込む。
セレネスティは奥の仮眠室で長椅子に横たわっていた。
「陛下!」
「……うるさいよ、兄上」
彼は目の上を腕で覆ってうめいた。
「声量を落としてくれないかな。頭が痛い……」
「……失礼いたしました。……お怪我は?」
「ない。……シンシアに庇われたからな」
予期せぬひと言で、顔が意図せず強張る。
セレネスティがぬるい目でディトラウトを見た。
「そう悲壮な顔をしないでくれる? ……僕らふたりとも、何もない。負傷者は係の官一名。報告書はそこ」
「……そうですか」
無事であるならかまわない。ディトラウトは気を取り直してセレネスティが示した円卓に視線を移した。
書き上げられたばかりらしい調書が置かれている。それを取り上げて、さっと目を通す。
事態を把握して、ため息を吐いた。
「遣い魔ですか……」
遣い魔は伝言を言付けるだけに留まらない。術式を変えればその用途は多様だ。ただし、実態を持たせて攻撃的な行動をとらせるともなれば魔力を食うだろうし、術式も複雑になっていく。
「飛び散った核の中に、招力石の破片があったらしい。これで魔力を補填していたみたいだ」
「時限式ですか?」
「ううん。梟いわく、そんなことができる魔術師は、百年は前に滅んでいるってさ。……術式が複雑すぎるらしい」
一瞬、デルリゲイリアの不世出の魔術師の姿がディトラウトの脳裏を掠める。だが、犯人が彼女である可能性はすぐに消した。彼女が絡んでいるなら、ディアナがいなくなる方が先だ。
「今日の奴らはいったん帰したが、一度保留だ。まずは関係者の中で死体になっているやつがいないか。明日になればわかるだろう。……兄上の視察はどうだった?」
「諸々ありますが、最も気になったのは聖女教会の動きです」
ベベルから聞いた話をディトラウトはセレネスティに報告した。セレネスティが弾かれたように身体を起こし、露骨に顔をしかめる。
「祈りで魔力が増える? そんな馬鹿な」
「しかし市井ではそれが真剣に信じられ始めているようですね」
帰りがけ、裏を取るように子飼いにも指示を出してきた。
「その報告を待とう。……今日は下がれ」
意表を突かれてディトラウトは瞬いた。
陽は落ちているが、まだまだ夜は長い。晩餐が始まろうか、というころだ。
「下がるには早いですが」
「どうせ明日から忙しくなる。今日はもう戻れ」
「しかし」
「兄上……」
セレネスティが呆れの目でディトラウトを見上げ、これ見よがしにため息を吐いた。
「鈍くない? よく愛想尽かされないね。シンシアのところに戻れって言ってるんだよ、僕は」
「……どういう心境の変化でしょうか?」
「アレを帰すな」
こちらに引き込め。
主君の命令の意味するところを悟り、ディトラウトは苦渋の声を絞り出す。
「この地獄へは、自ら足を踏み入れた者のみを伴うべきです」
「お前がそうさせろ」
王の返答はにべもない。
セレネスティは決然と言った。
「兄上は優しくあればいい。恨みも呪いも――僕が負う」
王はそれ以上の問答をディトラウトに許さなかった。
ディトラウトは隣室まで下がり、無言のまま扉を閉じた。