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第七章 血盟する王者 2


 助けてくれ。助けてくれ。たすけてくれ。いたい、いたい、いたい。
 喘鳴の合間に呻き続けるバイラムにルディアは一瞥もくれない。どころか周囲の困惑しきったざわめきも、彼女の耳には届いていないようだった。ルディアは曇りのない瞳にマリアージュだけを映していた。
 ルディアのその表情には覚えがある。恋人を失って、親弟妹を、国を捨てることを決めたアリシュエルが、ルディアの実の娘が、最後にマリアージュと相対したときの顔そのものだった。
 最有力の女王候補と呼ばれたアリシュエルは、マリアージュに激しい羨望を常に抱かせた。そして最後には、マリアージュが羨んだ、あのとてもきれいだった銀の髪を失って、最有力という女王候補の座や、一切合切をすべてマリアージュに押し付けて、デルリゲイリアから出て行った。
 いまや内海を隔てた別の土地で生きるアリシュエルが、マリアージュに残した命題。それの回答をいま彼女の母親に求められている。
 ――きっと、再び女王となるためには、女王選の日々の中、中途半端にしてしまったもの、すべてに片を付けておかなければならないのだ。マリアージュはそう得心した。
「再び女王になれたら、何をしたいかなら決まっているわ――ダイを連れ戻すことよ」
 マリアージュの回答は決まっていた。それを耳にした周囲が明らかな失望に眉をひそめると知っていても。
 ルディアはマリアージュの返答を予想していたと見える。彼女は顔色を変えず、ただ不思議そうに首をかしげる。
「なぜ、あなたはあの子にそうまでも固執なさるのですか? ……いえ。わかっています。あなたは教えてくださいました。あの娘はあなたにとって、女王としての顔を作る存在なのだと。ですが、どれほど卓越していても化粧は化粧。それは、侍女に任せていてよいものなのでは? あなたにとって大切な存在であるなら、探し出すだけでは足らないのですか? なぜこの場で――女王選の場で、化粧師のことを、一番に持ち出したのですか?」
 ルディアがダイの価値を理解していて、なおその上で尋ねているのだとマリアージュにはわかっていた。ルディアは貴族すべての代弁者として敢えて卑しい問い方をしている。
 女王に即位して以来、マリアージュは大勢から追及され続けた。
 女王の装飾品として傍に侍らせるには化粧師は相応しい。けれども第一の側近の地位は彼女に不要なのではないか。国章はもっと他では補えない才や地位のあるだれかに与えるべきで、たかだか〈職人〉にその座は過ぎるのではないか。
「だからこそ、よ」
 マリアージュは声を張り上げた。
「皆が、あの子を、不要だという。だからこそ、わたしという女王にあの子はなおさら必要なのよ」
 視線こそルディアから外すことはなかった。けれども言葉は彼女を通して観衆すべてに向けたものだった。
「皆、何を基準に、あの子を不要だというのかしら。わたしが女王候補だったころ、わたしだって侍女に化粧をされていたわ。白粉をはたいて、口紅を塗って、わたしの顔をそのままなぞるだけの化粧をね。皆だってそうだったはずよ……ご婦人方は思い出して」
 侍女の化粧はされる当人の特徴をそのまま強調する。
 そばかすは白粉の下から濃く浮き上がる。大きく赤い口は派手になる。
 化粧は美人にしてこそ映えた。生まれながらに美しくなければ輝けなかった。
 ――そうではないのだと、ダイの化粧がマリアージュに教えた。
「あのころのわたしには腹立たしいほどに有能な男がいたわ。でもどれだけ頭が切れても、わたしはわがままで無価値な小娘のままだった。……あの子の化粧がそれを変えた。あの子の化粧はうつくしい。怠惰なわたしを奮い立たせる力があるのよ。あの子に、初めて化粧されて、鏡を見た日のことを、わたしは決して忘れない」
 美しくなれた。それはマリアージュにとって希望だった。
 この忌々しい自分を変えられるかもしれない、と。
 己の卑屈さに足踏みする暗い日々に射した光明だったのだ。
「あの子に足りないのは、わかりやすさよ」
 マリアージュはルディアとその背後にいる貴族に説いた。
「目に見える力や価値ばかりを重んじる女王にわたしはならない。……そもそもこの国が愛する芸術とは、そういった、わかりにくいもの、でしょう? えぇ、今のような余裕のない時代に、それは真っ先に無価値なものとして切り捨てられる対象となる。でも、それを、デルリゲイリアは尊ぶ国だったのではなくて? なら――力ある化粧師は、国の在り方の象徴として、女王の傍にいなければならない……そうでしょう?」
 芸技の国の女王が、己が技術(わざ)を恃んで生きる職人に国章を与えてなにがおかしいのか。
 マリアージュにはずっとわからなかった。
 あれほどマリアージュの心を救うものはなかったのに。
「わたしは人の弱さを、怠惰さを、愚昧さを許す。なぜならわたしの劣る部分が、あの子の力を発揮する土壌となったのだから」
 マリアージュがダイに救われたのと同様に、その逆もあったはずなのだ。
「……もちろん、自身の不足に胡坐をかくべきではない。けれど、弱さを、愚かさを、わかりにくくあることを、赦す国を、わたしはつくります」
 マリアージュは宣誓した。
「足らなくても、そこにあるだけで、何かを救う――芸技の国を、わたくしはつくります」
 これが、答えだ。
 マリアージュは吐息をこぼした。その幽(かそ)けき息さえ、ひどく響いた。沈黙の帳は厚く広間を覆って、長くだれも身じろぎひとつしなかった。
 いや、実は一瞬だったのかもしれない。
 ルディアが瞑目して口を開いた。
「……アリシュエルには、完璧であれ、と、言い続けました。幸せな道が開けると思っていたのです。ですがそれは、あの子のやわらかな部分を……すべてをかけて人を愛せるような部分を、切り捨ててしまっていたのでしょう」
 遠き地。
 海を隔てた異国で生きる娘をマリアージュは思った。
 アリシュエル・ガートルードはマリアージュが知るかぎり、完璧な女王候補だった。精巧につくられた人形をいつもマリアージュに想起させた。
 ――本当は、きっと、彼女は完璧でありたくはなかったのだ。
「だからあの子はわたしたちを捨てた。……あぁ、そう。ようやっと、わかりました」
 ルディアが微笑む。泣くことを堪えて無理に形作ったような、ぎこちない微笑だった。
「彼、は」
 彼女はそう前置いた。
「この国をもっと治めやすく、変えてくれると思っていました」
 ――ヒースのことだ。
 ルディアはあの男のことを述べている。
 周囲が訝りにざわめく。ルディアは意に介した様子を見せず滔々と語り続ける。
「理に乗っ取った在り方は強引でもわかりやすかった。実利の下では神のいる余地は存在せず、わたくしたちは聖女から解放されると思っていました。ですが、違うのですね。この国が目指すべきところはほかにあった。あなたの芸技の国ならば、聖女すら単なる隣人として不足と救済の輪に入る。……あの子が、あなたを選んだ理由がわかりました。ようやっと。……あの子はわがままを許されながら生きられる国を夢見ていた。それを叶えるのはあなただと、あぁ……」
 ルディアは深く吐息して言った。
「あの子はきっと、あなたを女王として仰いだ、最初の人間であったことを、誇りに思って逝ったことでしょう。そしてわたくしは切に願います。あなたの治める国の名声が、まぼろばの地に至るまで広く届くことを」


 バイラムやルディアが広間から連れ出されたあと、マリアージュたちも場を移すこととなった。大広間には血臭が強く漂い始めていて、女王選を続行できる状況ではなくなっていた。
 炭酸水や果物の砂糖漬けが用意された談話室へ何組かに分かれて入る。希望者は仮眠のための部屋に通された。女王候補たちが終結して各々の主張を披露した時間は実のところ一刻にも満たなかった。けれどもだれもが疲労困憊していて、決戦投票の前に休憩を挟まなければならないのは明らかだった。
「……僕は皆に平等であらねばならない」
 対面に腰掛けるロディマスが、肩を落としてマリアージュに告げた。
「あの勢いで投票までもっていったほうが、君にとって有利だったかもしれないけれど」
「そんなことはないでしょう」
 マリアージュは長椅子の背に重心を預けた。侍女のお仕着せから着替えた衣装は、執務の折によく袖を通していたものだ。
「皆に考える時間を与えるあなたは正しいわ」
「……そうかい?」
「これで皆がリリスを選ぶなら……そのときはそのときよ」
 現実を生きるには泥臭くあがかなければならない。祈るだけで救われるだなんて夢物語だ。
 だがその夢物語がよいと、皆が本気で思うのならば。
(まぁ、わたしのそれも、似たようなものだけれど)
 余裕のない世の中だ。弱き者は淘汰されるが必定。強き者が弱者に手を差し伸べるにしても、すべてを救えるわけではない。峻別するための基準がいる。それがわかりやすさだ。有能であること。見目がよいこと。弱いままで生き残りたいだなんてわがままだ。
 けれどマリアージュは弱いままで許されたかったし、無能だからといって蔑ろにされることはまっぴらだった。
 その自分が女王になるのなら、切り捨てることを当然としていいはずがない。
「閣下、そろそろ」
「わかった……」
 ロディマスに秘書官らしき男が耳打ちする。投票の準備が整ったのだろう。ロディマスは宰相として投票の場に立ち会わなければならない。
 立ち去る彼の足音に耳をすませながら、マリアージュはゆっくり目を閉じる。
 ――アリシュエルへの答えは考えた。
『あなたはどのような女王になりたいのですか?』
 ダイへの答えは、彼女を取り戻してから、考えればよいだろう。


 女王選の投票は原始的だ。女王候補の数だけあらかじめ渡された硬貨のうち一枚をひとつの箱に入れる。場には宰相や王城の政務官の数名が立ち会い、箱も貨幣も魔術具の一種で不正を許さない。前回の女王選は大聖堂で行われたが、今回は玉座の間に据えられた箱に硬貨を投じることとなった。
 待合の部屋の椅子に深く腰掛け、メリア・カースンはてのひらの上の貨幣を眺めていた。
 一枚にはカースン家の家紋が、もう一枚にはミズウィーリ家のものが刻まれている。
 二年前、前者はメリア自身を示すものだった。
 いまはメリアの持つ投票権を表すこの貨幣を、宰相の温情によって与えられた直後、父がようやっとメリアの前に現れた。
『よく戻ってきた、メリア』
 父はメリアを抱擁した。
『わたしはお前の帰りを喜んでいないわけではなかったのよ。ただわたしには家の繁栄を志す責務がある……』
 お前が戻ってきた喜びを隠すことはつらかった、と、父はメリアに囁いた。二年前、メリアが女王選に敗北する前のころのような、やさしい声だった。
 父は他にも何かを言った。すべてはメリアのためだった、というようなことを。
『リリスが女王になれば、またお前が中心となる。メリア』
 中心。
 人心の中心。
 リリスも同じようなことを言っていた。わたくしが中心になる。
 それは女王選が始まる前は確かにずっとメリアのものだった。メリアはひとつの輪の中心だった。そしてもっと大きな輪の中心になるはずだった。
 たくさん、みんなが褒めてくれるはずだ、メリア。
「カースン家令嬢メリア様」
 メリアは名を呼ばれて立ち上がった。投票の順番が来たのだ。
 野ばらの透かし彫りに縁どられ、ばらの真紅の布が張られた玉座の前に、箱がある。
 投票権なぞメリアには不要だった。メリアひとりが票を投じたところで、世界は劇的に変わるのか。否だろう。
 けれどもメリアは箱の前に立つことにした。
 硬貨を握りしめた拳に唇を押し当てる。
「お父様」
 メリアは別室の妹に寄り添っているだろう父に囁いた。
「わたくし、リリスの言うことも、マリアージュの言うことも……お父様のおっしゃることも、なにもわからなかったのです」
 ほかの女王候補たちのだれもが面変わりし、難しいことを口にしていた。メリアは努めて彼女たちの言葉に耳を傾けたが、何を示しているのかさっぱりわからなかった。
「だからお父様のおっしゃることが、きっと正しいって、わたくしは思います」
 父の言葉はいつもメリアにとっての正義だった。父の指示通りに動けば、メリアはいつも皆に褒められたから。
 ただ。
「ですがひとつだけ、お父様、間違っていることがございますの」
 メリアは拳を口元から離して箱の上にかざした。
「わたくし、中心になることがどういうことなのかわかりません。……中心になりたいって、思ったことは、ないのです」
 ひとつの輪の中心になれば、使用人が、母が、父が、たくさんの誉め言葉をくれた。
 そこに愛を感じていた。
 メリアは両親が大好きだった。
 特に父が好きだった。
「……ですから、今回はわたくし、お父様に背いてみますわね」
 開いた手から零れた硬貨が、箱の中で弾んで金属音を立てる。
 その音の響きは、父の最後の抱擁と同じぐらい、冷たかった。


「じゃあ、いってくるんだわ」
「あぁ、気をつけてな」
 ミゲルはギーグに手を振って彼の皮工房を後にした。早朝の朝日がまぶしい。
 陽射しを目が慣れるまで、手で影をつくってやり過ごし、裏街に蜘蛛の巣のごとき細かさで張り巡らされた細道を歩き出す。
 花の満ちる季節も盛りで、目抜きに出るまでもなく、通りには人の往来にあふれていた。彼らの表情は明るく、足取りにも余裕があった。王都は長らく急に増えだした浮浪者に加え、王位で揉めていた貴族たちのせいで街中が殺伐とし、護衛なしにはまともに歩けないほどだった。ギーグの工房もしばらく閉めていたほどである。
 それがふた月ほど前に女王が定まったと布令が出た。国の治安もまずまずに戻り、ギーグは工房の再開を決め、ミゲルも店を開けることにしたのだった。
 恋人に合わせて生活を朝型に変えて年をいくつか数えた。以前は夜の好きなときに自分の店を開けるだけだった。いまはギーグの工房の始動の前にそこを出る。郵便物を回収しに商工協会へ立ち寄り、自分の店へ向かうまでがいつもの経路。今日、久々にたどる道である。
 店のほど近い場所に商工協会が管理する郵便の事務所がある。デルリゲイリアでは職人の組合が強権を誇り、他国に比べて商工協会に頼る機会が少ない。けれども郵便は別格だ。商工協会の誇る三大権益のひとつ。かの団体を〈境なき国〉に押し上げた機能である。
 最寄りの商工協会に預けた手紙や荷物を指定された別支部へ移送する。ギーグの工房のように所在地の明確な場所なら費用次第で協会会員が届けることもする。
 商工協会が画期的だった点は郵便機能の範囲がまさしく世界全土に及ぶ点だ。大陸を跨ぐことすら可能な輸送を安価に、それこそ平民にも手の届くものとした。
 ミゲルはデルリゲイリアの外から来た人間だ。店のこともあるし、遠方の知己もいて、手紙はそこそこ届く。
 事務所の中は込み合っていた。気軽に出歩くことができるようになったからだろう。
「今日は多いよ」
「久しぶりだからねぇ、仕方ないんだわ」
 受付で郵便物の入った袋を受けとる。なかなかの重量だった。気の利いた協会員から背嚢を借りたものの、自分の店にたどり着いたとき、汗みずくになってしまった。
「あー、時間かかりそうなんだわ、これ……」
 机の上に広げた郵便物の山に辟易する。
 水瓶も空だし、今日は店の片づけのみに終わりそうだ。
 ミゲルはため息を吐きながら、手紙の差出人にぱらぱら目を通し、ふと、そのうち一通を取り上げた。
 初めはいたずらかと思った。
 封書を揉んでなかに異物が入っていないことを確かめ、眉をひそめながら封切する。中には商工協会で販売している安物の便せんが二枚きり。文字は打鍵したもの。
 文面に目を通すと喉が渇いた。
『……そちらを後にして随分になるね。こちらはようやっと落ち着いた。アリガも学院の試験を終えていまはそわそわしているよ』
「……なんだい、これ」
 胸を押さえながら思わず呻く。
『……なので、長期の休みがとりづらくなる前に、彼女の帰郷に付き合おうと思っている。迎えの手配を依頼したい……』
「だれが、書いたんだい?」
 ミゲルの震える手から封筒が落ちた。
 そこには死して久しい友人、ロウエンの名が、差出人として記されていた。


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