第六章 再演する狂信者 4
シルヴィアナと別れて二日。彼女からの報せは何もなく、マリアージュは次の行動に移った。
ダダンとは別れ、アルヴィナと共にクリステルの屋敷へ入る。風呂に入り、食事をとり、羽毛の詰まった布団でゆっくり眠るという、文化的な生活を久方ぶりに味わいながら、さらに待つこと数日。
クリステルが方々への根回しを終え、マリアージュはデルリゲイリア城へと赴いた。クリステルの侍女を装って、堂々と入城する。ホイスルウィズム家侍女のお仕着せを借りて身に着け、アルヴィナから〈上塗り〉を施されれば、だれも怪しまない。
そうしてマリアージュはクリステルに付いてアルヴィナと共に広間へ足を踏み入れた。
そこで繰り広げられた問答は聞くに堪えなかった。
貴族の正当性だの聖女の血だのそれを保持する必要性だの――そのようなもの。
「わたくしは申し上げたわね、レジナルド・エイブルチェイマー」
教会の遣いと自らのを称する男を睥睨してマリアージュは告げる。
「聖女シンシアはもはや大陸の安寧に必ずしも寄与しないって。……あの言葉、訂正させてちょうだい。……聖女の血は大陸の安寧に寄与しない。女王候補の命を危険にさらし、この国をよくこうもひっかきまわしてくれたものね」
「……マリアージュ・ミズウィーリ」
マリアージュを凝視していたレジナルドはふと笑みを取り繕って一礼した。
「これはこれは……またお目見え叶いまして喜ばしい限りですが、何の権利をお持ちで聖女を貶められるのですかな?」
「権利? お前こそ何の権利があって、この国の王冠のありかにずうずうしくも口出ししているのかしら?」
「……なに?」
「勘違いはなはだしくて、笑い出しそうだったわ。……教会が保証する? 逆よ」
確かに教会は大陸中に根を張る一大組織だ。信心深さに差はあれども、だれもが聖女を信奉している。
だが、大陸会議でも明らかであったではないか。各国はもはや小スカナジアを中心として見ていない。
メイゼンブル公家の生き残り、大公アルマルディは宣言している。彼女こそ最後のメイゼンブル。
教会が認めなくとも、ほかのだれもが受け入れている。
「わたくしたちが、あなたたち教会を、容認しているのよ。聖女の遣いだと僭称するあなたたちを許容している――聖女は、わたくしたちと共に在る」
マリアージュの発言に大広間に集う者たちはみな不可解そうに眉根を寄せている。
レジナルドだけが色を失くして唇を戦慄かせ、しかし何も言わないでいた。
彼はわかっているのだ。
デルリゲイリアが、聖女の御印たる野ばらを国章とするこの国が、真に聖女の後継を名乗りでるのなら、大陸中の国がそれに追随するのだと。
(――どうしてそこまで聖女が重要なのか、わたしににはさっぱりなのだけれど)
この際、理解できずともよい。
重要なのは、そうなる、という確実性だ。
「……にが」
小さな呻きが響いた。
マリアージュは先ほど押しのけた男を振り返った。
バイラム・ガートルードが口角から泡を飛ばして叫びだした。
「なにが! わたくしたち、か……小娘め! 貴様こそ、何用だ! 場違いにもほどがあろうが! 誰か! この侵入者を引っ立てんか!」
「何用? 決まっているじゃない」
マリアージュは笑った。
「女王選に参加するために参上したのよ」
「お集まりの皆さまに申し上げます」
マリアージュの隣でクリステルが声を張り上げる。
「この度の女王選でのみ、わたくし、クリステル・ホイスルウィズムは、女王候補の資格を返上いたします」
群衆がどよめいた。
一気に集中した衆目を引き受けて、クリステルはさらに宣言する。
「なお、ホイスルウィズムは、女王候補マリアージュ・ミズウィーリを次期女王として支持いたします」
「戯れ言を……」
クリステルの発言をバイラムが一蹴する。
「ミズウィーリ家は取りつぶされた家だ。その小娘は女王候補ですらないのだ」
「いいえ、ガートルード卿」
これまで沈黙を保っていたロディマスが会話に割って入った。
「当主が不在となるならば、家は取り潰さざるを得ませんが、そこにマリアージュ様はいらっしゃる。ミズウィーリは存続しておりますよ」
穏やかに言って、ロディマスはマリアージュに微笑んだ。
「ご健勝のご様子、お喜び申し上げます、マリアージュ様」
「テディウス宰相閣下も……御変わりなく何よりです」
と、社交辞令として口にしたはものの、マリアージュはため息を吐きたい気分だった。ロディマスは明らかにやつれていた。
城に残った彼は逃走するマリアージュに便宜を図り続けていた。リリスを支持する層の監視の目をかいくぐって方々へ手を回すことは並々ならぬ負担を彼に掛けただろう。そういった裏方をロディマスはあきらかに苦手としていたのに。
マリアージュはロディマスに尋ねた。
「わたくしに女王選に参加する資格はありまして? このようななりですけれども」
「えぇ、もちろん――その侍女の服装も、あなたの登場を彩る演出の一種と捉えております。なんならそのまま玉座にお着きになりますか?」
「ロディマス!」
冗談めかしたロディマスの発言にバイラムがいきり立った。
「血迷ったか!」
「血気も盛り過ぎて世迷言を繰り返しているのはあなたのほうですよ、叔父上」
「いえ、さっきのはガートルード卿の方が正しいのではなくて?」
バイラムに味方をしたマリアージュをロディマスが凝視する。マリアージュは肩をすくめてその視線を往なした。
「だってそうでしょう。わたしは不信任決議を食らって玉座から蹴り落とされたのですもの。そのまま玉座に座ってもよろしいだなんて、冗談でも口にしてはならないのではなくて? 宰相閣下」
「……マリアージュ……」
広間中が軽くどよめき、ロディマスが額に手を当てて唸った。
「持病の療養のために玉座を降りるって筋書き、話したよね?」
今度はマリアージュがロディマスに呆れる番だった。
「そのままで押し通すつもりだったの?」
「穏便に物事を進めるために、公式の発表はあるんだよ。それを自分から突き崩すだなんて、君もわざわざ面倒な道を選ぶね」
抑えた声量で話すロディマスの口調は気安い。彼の細めた目には笑いがある。
マリアージュがここに立つこと。それを彼は歓迎しているとわかって、マリアージュは口の端を持ち上げる。
ロディマスはひとつ頷いて、表情と口調を厳格なものに改めた。
「さて、それで、あなたは女王候補として、女王選の参加を望まれるのですね?」
「望みます」
「待たれよ」
カースンの当主がマリアージュたちの会話に割り入った。
「見たところ、ベツレイム卿がこの場におられぬようだ。女王候補を擁する家の当主の揃わぬこの状態で、女王の決選投票を行うのはいかがなものと具申する」
ベツレイムゆかりの者たちも投票し辛いはずだと、彼は指摘した。上級貴族はともかく派閥に属する下々は、主家と仰ぐ家の意向もわからないままでは投票できない。
マリアージュは奥歯を噛んだ。本当はこの混乱した状態で押し通したかった。
カースン卿からの意見が真っ当なものだったからか、ロディマスも一考せざるを得ない。困惑していた周囲も冷静さを取り戻し始めたようだ。降って沸いた女王選の話をどう扱うべきか、彼らは隣人と相談し始めている。
日を改めて、と、なっては終わりだ。時間を置くと、マリアージュが女王選に参戦する。その正当性を疑われてしまう。
「ご心配には及びません」
穏やかな声が広間に響いた。
「当主ならばここに」
人の群れから現れた女が、マリアージュたちと距離を詰める。彼女はロディマスの前で正装の裾を摘まんで、丁寧に膝を折った。
「ロディマス・テディウス宰相閣下。シルヴィアナ・ベツレイムでございます」
刺繍や宝飾、透かし織り、そういったものを限りなくそぎ落とした、生地と染めの良さだけが際立つ簡素な正装に身を包んだ女は、それこそどこぞの礼拝堂で祈りをささげることを生業としているような空気を持っていた。
シルヴィアナは社交界へ顔を出す前から、思慮深く気品にあふれた深窓の令嬢として有名だった。女王選でアリシュエルに劣るところがあるとすれば、社交的ではない、の一言に尽きた。シルヴィアナがもっと女王選に精力的であったなら、彼女が有力候補でもおかしくはなかった。
「シルヴィアナ嬢……まずはご無事に戻られたこと、お喜び申し上げる」
「ありがとう存じます、閣下。……しかとした挨拶にお伺いすべきところ、このような場でのお目通り、お許しくださいませ」
「もちろんですとも。それにしても、ホイスルウィズム家に続いて、ベツレイム家まで代替わりとなりましたか」
「父はわたくしの帰宅に、たいそう錯乱されておいででしたので」
憂いを帯びた目を伏せて、シルヴィアナは胸に片手を当て、頭を垂れた。
「どうやらわたくしの不在が父にかなりの心労を掛けたようです。父には療養に努めていただき、急ではございますが、わたくしが父の後を継ぐこととなりました」
シルヴィアナが筒状にした書簡をロディマスに差し出す。当主の代替わりを申告する書状だろう。書類を紐解いて目を通し、うん、と彼は頷いた。
「承認を。正式なる書面はまた後日に。それで……あなたはどうなさる? 女王候補として女王選に臨まれる? それとも、ホイスルウィズム卿のように、ほかの女王候補を支持されるかな?」
「そのいずれでもございません」
シルヴィアナは立ち上がり、ロディマスを正面から見据えて宣言した。
「わたくしはベツレイムの家長を父より引き継いだばかり。これで女王に選ばれでもすれば、家が混乱いたします。……ので、わたくしもホイスルウィズム卿と同じく、この度の女王選においてのみ、女王候補としての参加を辞退いたします」
「そして、表立ってどちらを支持することもないと」
「いいえ、わたくしはどちらの候補を支持するか、申し上げます――女王選を制した方です」
(……なるほどね)
マリアージュはシルヴィアナの意見に感心した。
彼女はこういっているのだ。
勝ち馬に乗る、と。
「ベツレイムゆかりの者たちには自由に投じてもらって結構です。票を多く得た方にベツレイムは尽くします」
「結構。それでは最後に……」
ロディマスが不意に視線を上げた。
マリアージュやクリステルの肩越し、広間の後方を見つめて問いかける。
「――メリア・カースン嬢。あなたはどうなさいますか?」
人々が瞠目してロディマスの視線の先を追った。
侍女のいでたちをしたメリアが、胸の前で手を組んで震え上がった。
「あなたも女王候補のひとり。参加なさいますか? カースンの代表として」
「よいのですかな? テディウス閣下」
カースンの当主がロディマスを薄ら笑う。
「メリアまで女王選に参加させても?」
「……カースンの候補はあくまでリリス嬢でよろしいのかな?」
「ふたりが難しいのであれば、えぇ、そのように」
メリアの顔がさらに青ざめる。
その顔色をとてもではないが見ていられない。
(最低ね……)
マリアージュはメリアに心から同情した。
『お父様がそう仰ったもの』
メリアは父親をとても慕っていた。依存していたのかもしれない。きっととても、可愛がられていた。
『お父様は何もしていない』
この広間に立てば、父が己の生存を喜び、労苦を労わってくれると、メリアは信じていたはずだ。
現実の父親はメリアに一瞥すらくれない。
愕然と立ちすくむメリアの姿に、父に手を振り払われた幼いころの自分を重ね見て、マリアージュは下唇を噛んだ。
メリアが、あわれだ。
「メリア・カースン?」
ロディマスの追及にメリアは黙って首を横に振る。
ロディマスもまた同情の色を目に浮かべて述べた。
「候補としての参加はできなくとも、あなたには投票権が与えられる。よろしいですね?」
メリアは彼の確認に応えなかった。
マリアージュはリリスに向かって足を踏み出した。
「わたしは……至らない女王だった」
リリスに語り掛けながら、ゆっくりと距離を詰める。
「そんなこと、わたしにはわかっている。だれに言われるまでもない。わたしが一番よくわかっている」
女王候補の中で最も玉座に遠かった。
短気で無能。美も才覚もこの手にはなかった。
だから、ロディマスがマリアージュに死ねと告げにきたとき、それも仕方がないと思っていた。だれだって無能な者を王として戴きたくはないだろうから。
「でもね、不思議。わたしに女王でいてほしい者が、いるんですって」
リリスが恐ろしい形相でマリアージュを睨む。
せっかくの可愛らしい顔立ちが台無しだ。
「あなたにもいるのよね。あなたに女王でいてほしいと望むだれかが。だから、語らいましょう。おまえとわたし、それぞれどのような国を望むのか。そうしてあなたとわたし、どちらが治める国の民となりたいか、皆に決めてもらいましょう」
マリアージュはリリスに顔を近づけて挑むように告げた。
「――さぁ、女王選を始めるのよ」
女王選の基本構造は簡単だ。女王候補は社交を通じて人心を集める。投票者は候補たちの演説を通じて、ひいきの候補が支持するに足るかを判断する。
女王選は、芸技の国らしい盛大な催し物。玉座を掛けた遊戯。一族の趨勢の今後を大きく左右するその結果は、元の派閥でほぼ決まっている、くだらない人気取り。
だが始まったころはそうではなかったに違いない。
いざ女王になってみれば、あの日々がどれほど女王の資質をあぶりだし、女王に必要な研鑽を積むためのものであったかわかる。女王選とは帝王学を修めること叶わなかった少女たちの訓練の場。同時に、運も資質もまったくない娘が下手に女王となることを防ぐ防衛機構なのだ。
それをあのころ本当に理解していたのは、おそらくヒース・リヴォートのみだった。
(わたしに、資質はない)
マリアージュには、おそらく、運があった。
ヒースとダイを手に入れていたという、幸運だ。
父がヒースを、ヒースがダイを、マリアージュに引き合わせたときに、マリアージュの人生は大きな転換を迎えたのだから。
だが、いま、マリアージュの下に運命のふたりはいない。
(これはきっと、わたしの試し)
聖女の祝福がはたして本当にここにあるのか。
マリアージュが女王として立つことを許されるのか。
リリス・カースンは唖然とした顔をしていたが、この場を制すれば女王になれると気づいたらしい。唇を不敵な微笑で彩って、椅子から立ち上がった。
「お集まりの皆さま」
彼女はにこりと笑って椅子から離れた。
「闖入者に次ぐ闖入者。ホイスルウィズムとベツレイムはお家騒動を告白し、先代さまに至っては、侍女に扮してのご登場。しかもメイゼンブルの流れをいまに伝える聖女教会を公然と非難されて……この短い時間のなんと濃密でばかばかしいこと。皆さま、さぞや混乱されたことでしょう」
マリアージュの隣を通り過ぎたリリスは、群衆に語り掛けながらゆっくりと歩を進める。マリアージュは振り返って彼女を観察した。複雑に編み上げられた髪には宝石と久遠花が散らされている。マリアージュよりいくつか年下の華奢な上半身に沿った絹地が光沢に波打つ。腰から下は何重にも重ねた透かし織りと絹地が風を孕んで広がっていた。隙間なく施された刺繍によって描かれる薔薇と小鳥の意匠が見事だった。
広間の天井に釣り下がる装飾燭台を仰いで両手を広げる少女は舞台女優さながらだった。
「女王選まで始まって。あぁ、わたくしも皆さまと同じです。惑っております。だから、ご安心なさって。急に現れた、先代さまに投票すればよいのかしら。それともわたくしを? そんなふうにわからなくなってしまうのは、仕方がないことなのです」
胸に手を当てて小首をかしげる少女は可憐だった。自信に満ちていた。ここにきてふてぶてしく笑ってみせるところは、なるほど、姉のメリアを押しのけて悪だくみに加担するだけはある。
「大丈夫です」
リリスが力強く断言する。
「その惑いはいっときのこと。さぁ、落ち着かれれば、すぐにわかります。聖女の仔らである皆さまがなすべきことはひとつしかない」
その耳を傾けてください、聖女の声に。
聖女は望んでいる。祈りがあまねく大陸に広がり、混迷の時代の闇を払うことを。
「デルリゲイリアの土地のあちこちに、貧しき蛮族たちが流れこみ、わたくしたちの平穏を脅かし始めた。わたくしたちがせっかく望んであげても、金も宝石も美しい絹も、すぐに手に入らないと商人たちは抵抗する。美酒や美食はやれ贅沢だと使用人まで。ねぇ、みなさま、窮屈になりましたわね」
滔々と語った少女が神妙に告げる。
「わたくしなら、それを覆せます」
皆がリリスを見た。
その視線を受けてリリスは満足そうに微笑んだ。
「わたくしたちの不遇は、聖女の怒りです。主神の御許で力を尽くして西の獣を治めてくださっている御恩も忘れたわたくしたちへの。……だから、わたくしは、祈ります。祈り続けます。聖女の御心を正しく知る教会の皆様と足並みを揃え、必ずや過去の自由を取り戻しましょう」