第五章 暴かれる罪人 2
「なんて間抜けだったんだろうと思います。答えは最初から目の前にあった。わたしが身に纏っていた。デルリゲイリアの国章こそが答えだった」
ペルフィリアも、ドッペルガムも、ゼムナムも、他の国々の国章はどれも、剣との組み合わせ。デルリゲイリアのみが野薔薇を有する。
「剣は騎士を示し、野薔薇は聖女を表す。……これだけでもう、他国よりも聖女と関わりの深い国だと言えます。そうでなければ、メイゼンブルが、国章に野薔薇を戴くことを許すはずがない」
では、デルリゲイリアという国はいったい何か。
堂々と野薔薇を誇示するその意味は。
「デルリゲイリアは……メイゼンブルの前身、スカーレットの宗主、ナヴル公家の血統なんですね?」
ダイの問いに否定はない。
ディトラウトが吐息した。細く長い息だった。
「どこで、気づいた?」
「大陸会議の議事録で」
ダイは彼に借りた本を瞼裏に浮かべて答えた。
「議事録を読むと、会話の流れが不自然でした。あなたがたが掲げる政教分離にマリアージュ様が反対の意を表明したとたん、サイアたち……ゼムナムを中心とする南方諸国が活気づいて、マリアージュ様の意見を後押ししている」
あたかもデルリゲイリアが代表者であるかのような流れだった。
「あなた方もご存知だったでしょう? 大陸会議の最中、本会議が始まる前にデルリゲイリアとゼムナムは接触して懇意にしていました。正直なところ、ゼムナムのような大国が、なぜデルリゲイリアを後援するのか、疑問でした。……けれども、デルリゲイリアが他国の宗主たりえる国だというなら、説明がつく」
「それは単なる推測に過ぎない」
「えぇ、でも、国章がわたしの仮説を正しいと証明しています」
「デルリゲイリアの国章が?」
「えぇ。それと、メイゼンブルの国章が」
かの国の国章は五輪咲き一連の野薔薇。だが元々、スカーレット時代においては二連の野薔薇だった。分家であったメイゼンブル家が主家のナヴル家を追いやった。その際に名と同時に国章も改められたのだ。
「魔の公国から失われた分の野薔薇を、国章に戴いている国が、デルリゲイリアです――メイゼンブルが滅びた今、聖女の血統を信奉する国々にとって、新たな宗主となり得る国。デルリゲイリアの女王は号令ひとつで、他の国々の方針すら定めることができてしまう……。だから」
ディトラウトたちは欲した。デルリゲイリアの女王を。
男が王となる赦しを宣下させるために。
セレネスティに真実、冠をもたらし、堂々と祖国を治めることが叶うように。
「デルリゲイリアがナヴル家の直系なら、おかしな点があるわ。女王候補の条件、近い親族にメイゼンブル公家がいなければならないという点よ」
「どこがおかしいというのでしょう?」
「必要性がないわ。わざわざメイゼンブルから姫君を受け入れる理由がないのよ」
デルリゲイリアの上級貴族は濃淡はあれども縁戚だ。聖女の血統の保持を重要視するなら国内の婚姻で事足りる。
スカーレット時代から続く同化政策の一環という点でもまるで意味がない。血を入れたところで属国化しない。野薔薇を戴く時点で、デルリゲイリアがスカーレットの正しい流れを汲むと他国の目にも明らかだからだ。
「そもそも、メイゼンブルの姫君の数は貴重なはずなのよ。だって、デルリゲイリアだけじゃない。ゼムナムにもドッペルガムにも、たぶん、他の国だって、聖女の親等に入っていることが、女王の条件だった……何代かは直系でも、血筋を保つために降嫁はさせていたはず。そうなると、嫁がせる姫の、人数が足りなくなるわ」
メイゼンブル公主は女だ。彼女が生める子の数には限界がある。同母の姉妹が産んだ娘までなら、姫と見なしていたのかもしれない。それでも、少なかろう。
そのような状況下で、メイゼンブルが利点もなく、姫をデルリゲイリアに嫁がせるだろうか。
「そこまで考えて、わたしは気づいたのよ、ルディア」
聖女の血は、ある。
デルリゲイリアに。
「メイゼンブルが貴重な姫をデルリゲイリアに嫁がせた理由。女王と縁戚でなければならなかった本当の理由」
脳裏を過ぎるのは家系図から消された娘たち。
そして、マリアージュ自身も収監された、宗教色を濃く表し、礼拝堂を備えた檻のような別塔。
「……メイゼンブルは、デルリゲイリアから、聖女の血筋として他国へ嫁がせる姫を、買っていた。聖女の血筋を増やすことこそが、この国の、デルリゲイリアの、本当の産業だったのではないかって」
「ディトラウト、あなたは言っていましたね。最初から。デルリゲイリアのことを、芸妓の国だって。……あなたがアスマたちのことを尊重してくれているのだって、嬉しかったけれど、よくよく考えればおかしな発言でした」
ヒースはデルリゲイリアの人間ではない。ミズウィーリにいたころは家の建て直しに、女王選の準備に奔走していた。仮に休息があったとしても、情婦を買うようなことはなかったはず――出逢ったばかりのころ、彼は花街を忌避していた。
そのような男が、娼婦を芸妓と呼ぶと、知るはずがない。
「娼婦を芸妓と呼ぶようになったのは、アスマが娼館を営むようになってから。お客さんたちにすら定着して間もない呼称なんです。それをあなたは、わたしと知り合って間もないころから、使っていた」
よしんば知識としてはあったにせよ、彼の口ぶりはまるで、娼婦としての芸妓という単語を、言い慣れているかのようだった。
言い慣れて、いたのだろう。
彼が娼婦を芸妓と呼ぶことこそが、彼が異国の人間であることの証左だった。
「アスマに聞いたことがあります。国の外からくるお客さんたちは、高級な娼婦を芸妓と呼ぶ。彼らはデルリゲイリア特産の工芸品や美術品を扱う商人たちです。彼らは、物品だけではなく、人も運んでいました。詩人や演奏者といった芸術家たち……そういったひとたちに準えてのことだったと」
彼らに倣ってアスマも店の女たちを芸妓と呼び始めた。
ただの劣情のはけ口ではない。芸に秀でた者なのだという自負を与えるために。
そんなふうだったから、ダイは長らく勘違いしていた。
「違うんですね。本当はそうではなかった。全部、逆だった。彼らが本当に運んでいたものは、人が主体だった。工芸品や美術品は、彼らが運ぶ、芸妓、の、付属品に過ぎなかった。芸技の国という呼び名も、初めは芸妓ありきだった。全部、逆だった」
デルリゲイリアは、芸、を、輸出する国。
それは詩吟や舞踏や楽曲といったものではなかった。
ディトラウトは、ヒースは、それを知っていた。
「だから、店の子たちが芸妓と呼ばれても違和感を覚えず、デルリゲイリアを芸妓の国と呼んだ……」
その芸妓こそ、デルリゲイリアの特産品。
メイゼンブルと他国を繋ぐ鎖として嫁ぐ、聖女の血統の姫君だった。
ルディア・ガートルードに驚いた様子はない。なにを愚かな、と、憤る様も見られない。ただ、微笑んでいた。その表情がマリアージュの推測の正しさを証明していた。
「メイゼンブルの姫として他国へ行った娘たちは、少なくとも成人に近い年までは、デルリゲイリアで過ごしている。彼女たちを他国へ内密に移動させるのよ。主導は女王によって行われたにせよ、協力者は必ずいたはず……たとえば、娘たちの両親、最低でも、上級貴族の当主。その地位に就いていなかったとしても、先代女王エイレーネと義妹であった、ルディア・ガートルード。あなたなら」
「聖女シンシアとは、魔女であったのですよ、マリアージュ様」
マリアージュの言葉を遮ってルディアは言った。
「莫大な魔力を身のうちに抱え、歴史が変革される折に姿を現す。災厄をもたらす、魔女。……歴史に名を残した数々の女たちの中で、シンシアは聖女として讃えられた希有な娘でした。ですが、彼女は真実、魔女でした。後世、わたくしたちの代に至るまで、シンシアの存在は、彼女から受け継いだ血は、その血へ向けられる信仰は、わたくしたちをいまも呪い続けている」
自嘲に口の端を歪めたルディアは、着せかけられた上着の胸元を、その手が白くなるほど強く握った。
「メイゼンブルが滅びたとき、エイレーネは喜びました。これでわたくしたちは解放される。これ以上、娘を玉座に就けぬ男たちの慰み者として、聖女の血を生み出す腹として差し出さなくてもいい。デルリゲイリアの初代女王が願った、人柱を必要としない国の路を歩き出せるのだと」
メイゼンブルとデルリゲイリアの癒着がどのようにして始まったのか。真の理由は定かではないが、おそらくは魔の公国がメイゼンブルと名を改めたころだ。デルリゲイリアの建国と、スカーレットの転覆、どちらが先かはわからないが、かの一族が多く集った国がデルリゲイリアだったのだろう。
政変に負けた者たちは大スカナジアから北の端まで逃げ延びた。だが、魔の公国の報復に遭った。かの国の属国に交易すべてを封鎖されかけた。そうなれば自滅は時間の問題となる。
国として自立するために交渉し、その結果が聖女の血を魔の公国へ売り渡すことだったに違いない。
野薔薇の国章はせめてもの意趣返しだったのかもしれない。
「エイレーネはメイゼンブルとのこれまでを、聖女と決別するために、子らへは伏せることを決めました。ですが……わたくしたちは逃れられなかった。メイゼンブルという支柱を失った国々は斃れ、そして、生きもがく者たちは、わたくしたちに聖女の姿を見て、また、救いを求めてきたのです」
嚆矢はひとりの少女の来訪だ。
ルゥナと名乗り、後にフォルトゥーナと名を改める少女。彼女は故郷を搾取から守るため、国としての独立を、無謀にも目指していた。
「メイゼンブルからの解放はエイレーネの悲願でした。形は少々異なれども、目的の似た少女たちに共感し、エイレーネは支援を約束しました。それがどのような意味を持つかも知らずに」
単純な好意による行いを他国は別の意で捉えた。
次代の魔の公国。
聖女の国の誕生。
「……愚かなものたち。最たるは男たちです。わたくしの夫となった、バイラムもそう。聖女が絶えたなら、今度こそ男が権力を握っても許されよう。そう思うものすら現れた。我が国を新たな聖女の国として見なし、手を伸ばさんとするもの、我が国の後ろ盾を得て、堂々と玉座を得んと足掻くもの」
男たちは国の代表を名乗って次々と現れる。
エイレーネは彼らに言った。
聖女の血。それはいまや俗世にまみれた。
魔の公国の崩壊は、主神の思し召し。大陸の浄化である。
それを理解せぬ、欲深かき者たちよ。
彼らに治められんとする――穢れた国よ、滅びよ。
「……バイラムは聖女をいまなお絶対視する一団を招き入れ、その後、聖女の血の濃い娘たちが姿を消した。聖女の血に価値を見出す国々は多くある。ならば、その行き先は……」
「もういいわ」
マリアージュはルディアに背を向けた。
歩き出しながら呟く。
「わたしは、皆がどこにいるのか、確信が欲しくて、ここに来た。……だから、もういいわ」
「……確信を得て、どうなさるのですか?」
「取り戻すに決まっているでしょう」
「……取り戻す?」
ルディアの呆けた声色に立ち止まり、マリアージュは首を捻って振り向いた。
「そうよ」
「……どのように?」
「わからないわ。でも、そのためには、玉座に返り咲かないとね。とにかく、いま、デルリゲイリアを引っかき回している輩の目的に目星がついたから、その阻止からかしら」
「……お逃げにならないのですね」
「逃げるって何から?」
「責務からです。……わたくしはあなたが、玉座を厭っているのだと思っておりました」
「嫌いに決まっているじゃない」
マリアージュはため息を吐き、改めてルディアへと向き直った。
「ルディア様。わたしは、女王になりたくもなかったし、なれるとも思っていなかった。アリシュエルのことがあって、あなたがわたしを指示しなければ、わたしは女王になんてなれなかった。いまもそう、なれるとは思っていない」
「おかしなことを。女王になれないといいながら、女王を目指すとあなたはおっしゃる」
「女王にならなければ、ダイを探せないのよ」
「……ダイ、を、ですか?」
タルターザの内乱について、ルディアは知っているのだろうか。ふと、気になったが、説明する時間をマリアージュは惜しんだ。
「あの馬鹿。行方不明なの。探すためには、権力が必要なの。だから、女王にならなければならないの」
「あの娘がそれほど大切ですか?」
「さぁ。でもね、あの子がいなければ、わたしはただの小娘なのよ」
ルディアが怪訝そうに瞬く。
マリアージュはゆったりとした歩調で彼女と距離を詰めた。
「わたしはね、あなたの娘ほど頭はよくないし、器用でもないわ。短気なことも自覚している。わたしは、単なる小娘よ。でもね、そのわたしを、あなたの娘が最初に陛下と呼んで、それを真実とするために、わたしの化粧師はだれよりも働き続けたわ。あの子がわたしに女王としての仮面を被せる。たとえ女王でなくなったとしても、わたしに見合った役割の仮面を、あの子なら作りだすでしょう。だからわたしにはあの子が必要だし、探し出すの。でも、女王になったら、この国を守ることはわたしの責務だから、わたしは攫われた子たちも取り返すわ」
マリアージュはルディアの前に片膝を突いた。
汗ばんだ額に口づける。
「あなたに主神の祝福を、ルディア・ガートルード。女王になりたてのわたしを、支え続けてくれてうれしかった。でも……真実は、語っておいてほしかったわね。あなたなら薄々感づいていたのではなくて? ヒース・リヴォート――ディトラウト・イェルニの思惑について」
ルディアは何も言わない。それを肯定の意ととって、マリアージュは立ち上がった。
「黙っていた理由については、また会えたら教えて頂戴」
ルディアを残して歩き出したマリアージュは、ふと、思い立って、部屋の戸口で足を止めた。
「聖女もきっとただの小娘だったはずだわ。彼女を聖女やら魔女やらにしているのは、結局、周囲の人間なのよ。……多分ね」
マリアージュが部屋を出ると、ダダンは寄りかかっていた壁から背を放した。
「もういいか?」
「えぇ、待たせたわ」
「まったくだ。すぐにでるぞ……それで、次は何をする?」
「まずはここから無事に出してちょうだい。それで、温かいお茶を飲みたいわ」
閉じられてゆく扉の向こうで、女王がダイを見据えている。頭から被せた薄布越しでさえ、その眼光の鋭さは見て取れた。彼は――セレネスティは、これから晩餐会へ赴いて、快癒した姿を見せねばならないのだという。
本当は起き上がることすら困難を極めるというのに。
ディトラウトがダイに先んじて歩き始めた。ダイとともに私室へ向かう彼は、着替えてから女王の会食に同席しに戻る予定だという。
ダイは男の背を見つめながら呟いた。
「……休む、ことは、難しいんですね」
「セレネスティの後継はこの国にいない。併呑した国の血筋の娘ならいますが、生粋のペルフィリア貴族は彼女に玉座を許さない。……セレネスティは揺るがぬ女王であることを、示し続ける必要がある」
ペルフィリアは病んでいる。
長く長く、病んでいる。
殺戮の爪痕に、いまも苦しみ続けている。
人々の根底に巣くう不安に蓋をするために、セレネスティは健在だと誇示せねばならない。
「……あなたがたが国を握ってこんなに年数が経っているのに? 女王になる資格を持った子が、生まれもしなかったんですか?」
「そうです。わたしたちはね、本当に、名家の血統の女子を、すべて失ったんですよ」
母体となりうる者がいない。
だから、子も生まれない。
「男は当主になれますが、血筋としては保証されない。長らく議論をして、結局それも、うやむやのままここまで来ている。というのも、あのあと、生まれた子どもが、皆、男子だからだ」
娘が生まれても早々に死産となった。
女王を戴こうにも叶わない。
「だから、大陸会議で、あなたたちは男性の王位継承を主張したんですね」
「えぇ。……男に玉座が許されれば……それが、ほんの数年であってもいい、身を偽る必要がなくなれば、身体の負担も軽くなります。その間に、次の王について、議論したい」
「そのまま玉座に就くのではなく?」
「……投げ出すことはなさらないはずです。ですが、王として有り続けるには、あのかたは、身を病みすぎた」
たとえ、玉座を退いて、静養に努めても、どれだけ長く生きられるか。
そう、ディトラウトは懸念している。
彼の王はまだ、マリアージュと年のそう変わらぬ、青年だというのに。
ディトラウトが硬く拳を作る。
「こうなるまえに、わたしは、あのかたを、真実の王として差し上げたかった」
「あなたらしくないですね」
ディトラウトが足を止め、ダイを振り返った。
眉をひそめる彼に、ダイは肩をすくめる。
「その言い方、諦めているみたいです。あなたらしくもない。……大丈夫です。まだ、間に合います」
血の気の失せたディトラウトの拳に、ダイはそっと触れた。
爪が食い込むほど強張った彼の五指に、こちらのそれを差し入れる。
ほどけた指先をてのひらで包み込む。
「わたしが、化粧をします。そのあいだ、あなたの王は紛うことなき女王です。《上塗り》はさせません。……魔を抜けば、健康になる。わたしが、あなたの王を診ます。だから、あなたも少し、休みましょう?」
セレネスティはもちろん、ディトラウトも限界だろう。
彼はずっとだれにも不安を吐露することなく走り続けてきたのだ。
「『休んで、食事して、心身が回復すれば、未来を思えるようになる』……そうでしたよね?」
かつての彼の言葉を借りて悲観的になるなと告げる。
ディトラウトは、口の端を緩めた。
笑ったようだった。
彼の手がダイの手を握り返す。
頭上に影が差して、彼がダイの肩口に項垂れる。
彼の手は、冷たくて、震えている。
たすけてほしい、と、湿った声で彼は言った。
「あのひとは、わたしの……」
王、と、言ったのか。
おとうと、と、言ったのか。
あるいはその両方だったのか、ダイにはわからなかった。