間章 全ては墓の下 3
本当はもっと早くに妹を国外へ逃がしたかった。
だが亡命させるにも伝手がいる。ディトラウトが頼れる人間となればフランツ・ミズウィーリのみで、彼の国、デルリゲイリアは亡命者の流入を防ぐために、国境の出入りに制限をかけている。とりわけ貴族の出入りに厳しく、妹の入国を一度は断られている状況だった。だからこそディトラウトはフランツ側の支度が調うまで、待たなければならなかったのだ。
(間に合ってよかった……)
偽装した馬車に乗ったセレネスティを見送り、ディトラウトは安堵の息を吐く。領主の館から国境門まではすぐだ。これで彼女は安全な場所へと逃れられる。
次は、自分たちの番だった。
残っていた使用人たちの手を借りて荷物をまとめる。必要な資料類や日用品はあらかじめ運ばせている。それでもいますぐに出立を、と、できないところが悩ましい。
領主の館は夜半も灯を点している。それが絶えては怪しまれる。最低でも移動の完了する一晩は点灯している必要があった。
ほかにもぎりぎりまで処理していた書類や、決裁に必要な印章類を持ち出さねばならない。移動先は数カ所準備しているが、いまの情勢だとどこも長居はできない。下手をすると転々と旅暮らしだ。
それでも領地から出ようとは思わなかった。
ディトラウトは次期領主としては気弱で頼りなかっただろうに、セレネスティも、ヒースを初めとした使用人も、皆、ディトラウトを責めなかった。おおらかに笑って、足りないディトラウトを補うべく務めてくれていた。
アデレイド亡きいま、皆はディトラウトの領民だ。
彼らを投げ出すことはできない。
「ディトラウト様、あとは我々が行います」
「そんなわけにはいかないよ」
ディトラウトはひとりで抜けられない。随行する人手を必ず割く必要がある。それは今の使用人の人数を鑑みるに現実的ではない。後始末には総手で当たるほうがよいと判断して、ディトラウトはヘイデンの勧めを退けた。
窓から外を眺める。見渡せる町並みは暗かった。どの家も戸を固く閉ざしているからだ。住民の多くが町から離れているせいもある。
門にて点される火の明かりが、町の向こうでおぼろげに見えた。
「ディトラウト様、そろそろお着替えを」
「うん、ごめん」
執務室で片付けの仕上げを行っていたディトラウトをヒースが呼ぶ。彼の腕には乗馬服が掛かっていた。
ディトラウトは最初の移動に馬車を用いない。敷地を裏から徒歩で抜け、その後に馬を使う。馬車よりも速やかに離れるためだった。
ヒースはすでに乗馬服姿だ。外套も着込んで、すぐにでも出立できる装いだった。
ヒースは残っている者たちの中でも一番の乗り手だ。彼と騎士ふたりがディトラウトに随行する。残りの者たちは馬車で後を追う予定だった。
「まもなく騎士団の者たちが来られます。そうしたら、出発です」
「うん」
「大丈夫ですか? セレネスティ様と離れられて」
心中を見透かされ、ディトラウトは笑った。
「不安そうに見える?」
「そうですね。多少は」
「……妹離れするときだって、思うことにする」
ディトラウトはセレネスティに手を引かれてばかりの不出来な兄だった。
妹は妹でディトラウトの世話を焼くことで精神の均衡を保っていた部分がある。
いつかは自立が必要だと、互いに思っていたから。
よい機会なのだと、自分に言い聞かせている。
「心細いのはセレの方だと思う。僕はまだ……皆、いるし」
「セレネスティ様にはメアリたちがついています。大丈夫ですよ」
「そうだね。それで、僕にはヒースがついている。……うん、お互い、大丈夫だ」
ディトラウトが微笑む。
物心ついたころから傍にあった顔だ。
使用人たちはやさしいし、だれもが慕わしい者たちだ。
それでもヒースやセレネスティが与える安心感は別格だった。
長らく閉ざされていた箱庭のなかで、三人だけが。
「さぁ、執事長に挨拶を」
ディトラウトに外套を着せて、ヒースが促した。
ヘイデンたちとはここで一度わかれる。次は移動先での再会だ。
階下に降りて裏口へと回る。裏口前の倉庫の旅装に身を改めたヘイデンや彼の妻ルイズを含め、複数名の使用人たちが集まっていた。
彼らの表情が妙に固い。
ディトラウトは問うた。
「何かあった?」
「……定刻となっても、騎士が参りません」
「なに?」
館の警備に常駐する騎士の人数では全員の守りに対応できない。今日は詰め所から数人を寄越すよう、騎士団の長に指示していた。
「連絡は?」
「ございません。……今しがた、厩舎長……エルンを遣いにやりました」
「だめだ。呼び戻すんだ!」
ディトラウトはヘイデンに叫んだ。
合流予定の相手が辿り着かないなら、不測の事態が起こったと考えるべきだ。
「急いでここを離れよう。早く馬車を回して……」
ばん、と。
音が響いた。
木戸を強く叩きつけたかのような音だった。
ディトラウトは言い止した口を噤んだ。
ばん、と、再び。
ばしん、と、今度は玻璃を叩く音が。
「ひっ」
「ルイズ?」
押し殺した悲鳴を上げた妻にヘイデンが駆け寄る。彼女の視線は窓辺に固定されていた。
その先を追った皆が一斉に硬直する。
くすんだ窓の玻璃に、赤黒い、人の手形が付着していた。
窓に押しつけられた血まみれの顔を、ディトラウトはよく知っている。
厩舎長だ。
「エルン!」
「逃げろ!」
だれかが叫び、使用人たちが散った。
同時に屋敷のどこからか、窓の玻璃の破砕音が響いた。
ヘイデンがディトラウトの腕を掴んで歩き出す。
「ディン様!……ヒース、来なさい!」
ディトラウトの傍らにいたヒースをヘイデンが呼ばわう。我に返ったヒースの手首を、彼の母親が取って引いた。
「母さん、何を」
「ヒース、父さんについて行って」
ヘイデンに半ば引きずられるようにして歩きながら、ディトラウトは後方から響くヒースとルイズの会話を聞いた。
ヘイデンがディトラウトたちを連行した先は半地下の倉庫だった。ディトラウトが踏み込んだことのない場所だ。膨れた麻袋や酒樽、木箱が壁際に積まれている。
ヘイデンはディトラウトの手を離し、倉庫の奥まで足早に進むと、唐突に膝を突いて敷布を捲り上げた。
床は小さな戸になっていた。ヘイデンが戸を引き上げる。暗闇に向かって細い梯子が伸びている。
「ディトラウト様、降りてください」
「ヘイデン!?」
ヘイデンが有無を言わさずディトラウトを穴に押し込む。その勢いに梯子から足を踏み外しかけ、ディトラウトは蹈鞴を踏んだ。高低差は幸いにしてそれほどでもない。四方の壁には整然と並ぶ酒の瓶。
葡萄酒の貯蔵庫だった。
「お前も入るんだ!」
「っつ……父さん!」
窮屈な貯蔵庫にヒースの身体が滑り落ちる。ディトラウトは押し退けられ、身体のそこかしこを棚の枠で打った。
「いっ……」
「ディン様、申し訳ありませんっ」
「ヒース、外が静かになるまでここで待ちなさい」
ヘイデンの穏やかな声に、ヒースがはっと面を上げる。
切迫した状況に反して、ヘイデンは微笑んでいた。その笑みがあまりに透明で、ディトラウトはぞっとした。
「ヘイデン」
「ディトラウト様、息子を頼みます……。ヒース、必ず、ディトラウト様をお守りし、支えてあげなさい。いいね?」
「待って」
「愛しているよ。お前は私の自慢の息子だ」
ヒースの髪をくしゃりとかき混ぜ、ヘイデンはすぐに手を引いて戸を閉めた。
ヒースが絶叫する。
「父さんっ!」
闇が視界を奪った。
間近で触れあうヒースすら、視認できないほどだった。
光の無さに目が慣れると、ヒースの青ざめた顔がぼうと見えた。
「ヒース……」
「ディンさま……」
大丈夫か、と、いう質問は声にならなかった。
何かが派手に転倒する音が、天井の戸越しに聞こえたからだ。
続けて、女の甲高い悲鳴が響いた。
その声の主をディトラウトは知っている。
「ルイズ」
「ディン様、かがんでください」
ディトラウトを貯蔵庫の中に押し込み、ヒースは己の外套を外した。それを大きく広げて自分たちふたりに被せる。
ヒースがディトラウトを抱えた。外套の下にすっぽりと隠れるように。
再び、頭上から大音声が降る。
ディトラウトは不安に駆られた。
「ヒース」
「しっ」
ヒースはディトラウトの口を押さえ、その腕に己の顔を伏せた。
彼は衣服を噛んで声をかみ殺している。
落ちた髪に隠されて、その表情は見えない。
ディトラウトもまた固く目を閉じた。
絶叫が聞こえる。
だれのものか、ディトラウトは考えない。
悲鳴、怒号、笑い声。
男女のものが交互に反響する。それらに打撃音、破砕音が入り交じる。
まるで嵐だ。
風雪と雷を伴う冬の嵐。
けれどいま起こっているものは、それよりも、もっと凄惨ななにかだ。
ことはいつまでもいつまでも、終わる気配を見せなかった。
――ぱた、と、音がした。
天井から落下するしずくが、梯子の木材を叩く音だった。
ディトラウトが覚醒すると、周囲は静けさを取り戻していて、天井の戸は開かれていた。
ディトラウトは己に覆い被さっていた外套を押し退けた。その主の姿を思わず探す。
「ヒース?」
応えはない。返ってくるは沈黙ばかり。
ディトラウトは外套を腕に掛けて、梯子を登った。
そろりと顔を出す。
倉庫の中にはだれもいない。
上に上がる支えとするべく、床に手を突いたディトラウトは、ぬめる感触に顔をしかめた。貯蔵庫の入口を中心に、赤黒い液体が広がっている。
梯子を濡らしていたしずくの正体を悟る。
ディトラウトは息を吐いて、梯子から上がった。
見回してひとつわかったことは、すべては終わったあとだということだ。
むせかえるような鉄臭さ。
濃い血臭が立ちこめていた。
破られた麻袋。いくつかは持ち去られている。木箱はすべて蓋が暴かれ、木樽は横倒しに転がっていた。
その影で横たわる男女がいた。
彼らを見下ろし、呆然と立ち竦む。
ヘイデンと、ルイズだ。
イェルニ家によく仕えた夫婦は、揃って胸の前で手を組み、瞼を閉ざして永遠の眠りについていた。
予想していた。
彼らが無事でないだろうことは。
頭上から繰り返し反響する絶叫は彼らのものだったのだから。
顔から腕から。露出した肌という肌に殴打の痕がある。
爪は剥がされ、手は血にまみれていた。骨を折られたか。数本の指が奇妙な方向へ曲がっている。
彼らの下半身には、ぼろぼろの布が広げられていた。ディトラウトは震える指で掛布を捲った。体液と血にまみれたルイズの下半身に、ディトラウトでも何が起こったか察することは容易だった。
もとのように布を広げ直して、ディトラウトは震えながら吐息した。
「……ヒース」
彼がふたりをこのように整えたのだろうか。
そうだとしたら、どのような心地で。
ディトラウトは外套の襟元を引き寄せて倉庫を出た。
住み慣れた館はこれまでに見せたことのない陰惨な情景を広げていた。
一目で金目になるとわかるものは、すべてはぎ取られて持ち出されていた。丁度品の引き出しは開けられ、飾りの宝石のみがえぐり出されている。
廊下のところどころに使用人たちが倒れていた。皆、最後までディトラウトの傍に残ってくれていた、忠義の厚い人々だった。ひどい殴打の痕に顔の腫れ上がった者もいれば、胸や腹部を鋭器で滅多差しにされた者もいた。
ディトラウトは泣きながら、彼らひとりひとりの頬に触れて、謝った。
集団で領主の館を陥落せしめた何かが、単なる賊や暴徒の類いであるとは考えなかった。襲撃者たちの正体は次期女王の座を巡った貴族二家の諍いを始まりとした、国すべてで広がっている殺戮の熱病によるものだとしか思えなかった。
もっと早くに館を離れていれば、皆はこのような非業の死を迎えずにすんだ。穏やかにまぼろばの地へ旅立てるはずだったのだ。
腫れて重い瞼を見開き、鉛の詰まったかのような身体を引きずって、ディトラウトは廊下を進んだ。扉の開放された部屋を覗き込み、生存者を、ヒースの姿を探した。目にした遺体はすべて廊下に横たえられていて、ヘイデンたちと同様、祈りの形に手を組んでいた。
玄関広間でディトラウトはありえない遺体を見つけた。
剣を抱いて眠る騎士。
彼はセレネスティの馬車に付いて、隣国へ向かったはずだった。
ここにいるはずのない男だ。
「な……どう、して?」
動揺に息が上がる。心臓が大きく鼓動する。
ディトラウトは周囲を見回した。
二階へ上がる階段の絨毯が、大きなものを引きずった跡に波打っていた。
胸元を押さえながら、ディトラウトは階段を上った。
二階には客間がある。その一室の扉が開け放たれている。絨毯の波は道しるべだった。ディトラウトは客間を覗いた。
長椅子に横たわる少女がいる。
亜麻色の髪が長椅子に散らばっていた。
「……メアリ」
ヒースの妹だ。
身体は寝台の掛布で覆われている。胸の前で合わさる手から伸びる腕や、長椅子から零れる脚は剥き出しだった。長椅子の傍に、彼女の身体を覆うべき衣服が、蛇のようにとぐろを巻いていた。
彼女の母にしたような、布を捲る無粋な真似を、ディトラウトは慎んだ。
ヒースの後ろを付いて回る自分に、よくしてくれた幼馴染みがメアリだった。セレネスティとは格別に仲が良かった。アデレイドの死から今日まで、自分たち兄妹をよく支えてくれていた。
いつもころころと表情を変えていた顔が涙に濡れている。
ディトラウトは我に返って、妹の名を呼んだ。
「セレ……セレネスティ」
メアリがここにいる。
セレネスティもいるはずだ。
ふたりは共に出立したのだから。
なぜ彼女たちが戻ってきたか。理由は後でかまわない。妹の無事が知りたかった。
客室は奥の寝室の扉が開いていた。
ディトラウトは覚束ない足取りで近づき、扉を開いた。
そのとき、いっときだけでも、安堵したのだと思う。
この世でふたりきりとなる。
きょうだいがそこにいた。