BACK/TOP/NEXT

間章 全ては墓の下 1 


フランツ・ミズウィーリは母の友人だった。母が都で修学していた若い時分からの付き合いだという。良薬を求めて方々を旅していたフランツは、国境の出入りを繰り返していて、祖父の代からイェルニ邸に顔を見せていたらしい。
 他国出身だという父とも知人で、町の一角に長期滞在していた彼を、若かりし母に引き合わせたのも、ほかならぬフランツだったという。つまり、彼がいなければ自分たち兄妹は生まれていなかった。
 そういった経緯もあってか、たまに顔を見せる隣国の貴人は、ディトラウトたちふたりを、甥姪のようにかわいがってくれていた。
 セレネスティもまた、フランツを慕っていた。
「勉学は進んでいるかい?」
「都へ行くには問題がないっていわれたよ」
「得意な科目は何だい? あぁ、兵法以外でね」
「……なんだろ。算術?」
「……詩歌や舞踏は?」
「……どうして女って、それが必要なの? 男は歴史と政経と算術ができれば褒められるのに」
「男性だって詩歌や舞踏はもちろん必要だ。でも社交の方法が違うから、学ぶ優先順位が違うのさ。……まぁ、その様子では、先生方は相変わらずご苦労されておいでのようだね」
「えぇ? 僕はせーせきゆーしゅーなのに」
「セレネスティ。僕、ではなく、わたくし。女、ではなく、女性。男、ではなく、男性」
 フランツの指摘にセレネスティが、ぷく、と、頬を膨らませる。彼女も懲りない。ヒースから指摘されたばかりだろうに。
 フランツは陽気に笑って、ディトラウトに話し掛けた。
「ディンはどうだい? 騎馬や兵法の訓練が本格的になった頃合いだろう?」
「ディンは逃げてばかりなんだよ」
「逃げてないよ」
 口出しするセレネスティに、ディトラウトは反論した。
 授業はきちんと受けている。ただ、いつも、気が進まないだけだ。
「……成績も、悪くない、はずです」
「それはなによりだ」
「わたくし、より、ディンの方が、頭がいいのよ、フランツおじさま?」
「ほほう。セレネスティお嬢さま、それはどういうことか、わたくしめにご説明くださいますか?」
「教会史を全部覚えきってしまったの。いつ、どこで、どのように、なにがあったのか、ディンに尋ねると直ぐに返ってくる」
「それはすごいね。……君たちふたりは、本当に優秀だ。ご両親に、似たんだね」
 フランツが目を細めて称賛した。
 セレネスティが得意げに胸を張る。
 ディトラウトはフランツの言葉の含みを気取って、唇を引き結んだ。
 フランツが敢えて言及する両親とは、父のことだけを指すのだと、ディトラウトは気づいていた。
 飛び抜けて優秀で、若く、うつくしかった父。
 彼は一年半前にまぼろばの地へと旅立っている。最後まで、自分たちにとって、他人のような父だった。
 母はいまも強烈に彼を愛している。
 母屋の奥まった廊下に並ぶ肖像画が、それを表している。
「……アデレイド」
 廊下の奥、やわらかな日差しの差し込む一角で、父の肖像を背に立つ母が、フランツの呼びかけに微笑む。
「よくお越しくださったわ。……出迎えることができなくて申し訳なかったわね、フランツ」
 青みを帯びた銀の髪。霜を被った森のような淡緑の目。明瞭な目鼻立ちをした母は、子どもの目から見ても、とてもうつくしいひとであった。
「私が予定より早く着いてしまっただけだよ、アディ。君こそ公務は終わったの?」
「えぇ、おかげさまで、つつがなく。荷解きを終えたらお茶に致しましょう、フランツ。……それから、ふたりとも」
 ディトラウトたちに向けられた母の目は淡泊だ。何の感情も見られない。
 叱られるか、褒められるか。それは彼女の機嫌次第。
 ディトラウトは身体に緊張を走らせた。セレネスティもまたぴんと背筋を伸ばしている。
 アデレイドは踵を返しながら言った。
「フランツの出迎え、ご苦労でした。先生方のところへ戻りなさい。お待たせしてはなりませんから」


 フランツの出迎えを理由に授業が免除されるかという考えは甘かった。ディトラウトは兵法の教本を抱え、セレネスティに引っ張られて騎士団の詰め所まで走った。
 息を切らして駆け込んだ自分たちを、気のいい騎士たちが、早いお着きで、とからかい半分で迎え入れる。ディトラウトにはわかっていた。彼らはセレネスティを歓迎しているのだ。
 活発なセレネスティは気性の荒い男たちにも気後れしない。半ば孫娘のような扱いを受けている。一方のディトラウトは気弱な性格からか、いずれ主となるからか、あるいはその両方の理由からか――父に、あまりに似ているからか。皆から一線を引かれていた。それもまた、ディトラウトを気鬱にさせる要因だった。
 ほとほと疲れて館に戻れば、身体を拭いて着替えである。部屋付きの侍女が部屋に待っていた。
 苦手な授業がある日は通常、ヒースがその役を担っているのだが。
「ヒースは?」
「晩餐の準備の手伝いに回っております」
「……少し話をする時間ってあるかな」
「ディン様……わたくしがヒースに代わってここにいる理由、おわかりでございますか?」
「……忙しいから?」
 侍女がこっくりと頷く。
 ディトラウトは口元を引き結んだ。
 着替えを終えたあとは自由時間である。ディトラウトは本を抱えて部屋を出た。
 客人を迎えた屋敷は久方ぶりに浮き足立った雰囲気を有していた。アデレイドの機嫌がよいからだろう。準備に往来する使用人たちの足取りもどこか軽い。
 広間にも大勢の使用人たちが集っている。だがその中にヒースの姿はない。
 侍女のひとりが目敏くヒースを見出した。
「あら、ディン様。何用でございましょう?」
「……ヘイデンは?」
 ヘイデンは執事長だ。ヒースの父でもある。ヒースはヘイデンの補佐を務めることが多かった。
「執事長でしたら、ミズウィーリ様のところです。……ヒースもそちらでございますよ」
「……ありがとう」
 ディトラウトは羞恥に頬を上気させて礼を述べた。
 つま先を客室棟へと向け、急ぎ侍女から逃げ出す。侍女はおかしそうに笑っていた。
 ディトラウトが誰を探していたのかを、彼女はすっかり見通していたようだ。
 この屋敷の人間は誰もが知っている。
 ディトラウトが気を許す相手はたったふたり。
 セレネスティと、ヒースのみ。
 ヒースの邪魔をしたいというわけではない。顔を見て、安心したいだけなのだ。
 フランツの滞在する客室には、確かにひとの気配があった。扉を叩きかけ、ディトラウトは我に返る。足を運んだ理由を何と答えよう。フランツを訪ねたとでも言い訳すべきか。
 しばらく逡巡していると、ヒースの声が扉越しに響いた。
「……私を都へ?」
 驚きを多分に含んだ声音だった。
 もちろん、ディトラウトにとっても、寝耳に水の話だ。
 次に続く穏やかな声は執事長のものだった。
「セレネスティ様が都へ向かわれる前準備のためだよ」
「それは……誰かが行かねばならないのはわかりますが、私をあちらで修学させるというのは?」
「お前の才はここで終わらせるに惜しいものだからね」
「そんなことはありません」
「そんなことはある」
「それにしたって、いまでなくともよい話でしょう」
「いまだからこそだ。……私がアデレイド様からの呼び出しを、知らぬと思っているのかね?」
 ヘイデンの声が俄に剣呑さを帯びる。
 吐息すら許されぬほどに痛い静寂が満ちた。
「……とうさん、ぼくは」
「命ぜられても拒否しなさい。私たちに遠慮する必要はない」
「……ヒース」
 フランツがふたりの会話に割って入る。
 彼はヒースを呼んでいたが、どちらかといえば、ヘイデンの側をたしなめているようだった。
 ディトラウトは扉の脇に座り込んで、息を潜めた。
「ヘイデンの古い友人が、君の後見を務めてくれることになってね。私はそれを知らせに来たんだ。非常に優秀な青年だから、彼の傍にいることは、君にとって本当に勉強になるだろう。年も君と近い。きっと、仲良くなれる」
「私は父の……両親の下を離れたくありません」
「ご両親のことを想うなら離れなさい。ヘイデンとて好んで君を離そうとしているわけではない」
 フランツの口調は厳しかった。
「……ヘイデンはご立派な方だ。傍に置いて守るばかりが愛ではないと、よくご存知だよ」
「……知っています」
 ヒースの声は滲んでいた。
 ディトラウトより年嵩の少年は強い。
 彼が涙する姿をディトラウトは見たことがない。
 皆、興奮が収まったのか。声が低められる。会話がいっそう聞き取れなくなる。
 ややおいてひとり分の足音が、ディトラウトの方へ向かって響いた。ディトラウトは慌てて手近な椅子の影に身を隠した。
 開いた扉からヒースだけが現れる。彼は室内へ一礼し、足早に離れていった。
 閉めの甘かった扉の隙間から、フランツとヘイデンの会話が漏れ響く。
「嗤ってしまうな。ヒースにあのようなことを言えた立場ではないのに」
「助かりました。感謝いたします」
「言うな。私はヒースを」
「ミズウィーリ卿、あれは私の息子です」
 僅かな沈黙を挟み、フランツが吐息した。
 彼は笑ったようだった。
「うらやましいな。君たち親子が」
「……ご息女は、お健やかでおいでですか?」
「元気だよ。アンの命を吸ったとしか思えない」
「フランツ様……」
「失礼。……まぁ、それぐらい、健康だ。マリアージュは母や祖母の体質を、受け継がなかったのだろうね」
 フランツは深く、ため息を吐いた。
「あぁ、わたしも、君のように、子を愛せたら、よかったのに……」


 自らの子を愛せない。
 その共感からあの気むずかしい母はフランツ・ミズウィーリに心を開いているのだろう。
 屋敷の中や、騎士団の詰め所や、街の方々で目にする親子を通じて、ディトラウトは知っている。
 アデレイド・イェルニの愛情は、自分たち兄妹のどこにもない。
 大広間に設えられた晩餐の席。
 家長の座に着く母を、ディトラウトは盗み見た。フランツと言葉を交わすとき、アデレイドは微かに口元を緩める。だがその雪解けめいたやわらかさが、ディトラウトやセレネスティに向けられることはない。自分たちふたりはフランツが招く会話にのみ参加することを許され、あとは礼儀作法に気を配りながら、黙々と食事を口に運ぶしかないのだった。
「明後日の昼にはデルリゲイリアへ戻るの? もう少しゆっくりしてもよくてよ」
「そうしたいのは山々だが、私は長期間、領地から離れすぎている。これ以上はお叱りをうけるよ」
「叱責? するの? あなたの女王が? ……だれのせいでこうなったのか、と、言い返しなさい。ひどいことだわ」
 母が美しい顔を歪める。
 唾棄するように、彼女は言った。
「だれもかれも、本当にひどいわね。聖女の血に固執するあまり、人の願いを踏みにじる」
「アーディ」
 苦笑したフランツが、やさしく母の愛称を囁いた。
「わたしは、もういいのだよ。……長旅も、これでしまいにする予定だ。クランも騒がしくなった。すでに護衛を大勢つけなければ、旅なぞ到底できない時代が来た。君も気を付けなさい。国境を守る領主として、なおさらね」
「……それほど悪いのね」
「とりわけクランでは、近々、何か起きそうな気配がある。今年も南でルッツホルトとアーベンクラウドが斃れた。聞いているだろう?」
「忠告、痛み入るわ。……新しい国が建ったでしょう。あれはどうなの?」
「ドッペルガム? さぁ、私もまだ聞かない。だが、苦労はするだろう……」
 ディトラウトが物心ついた前後のころだ。
 大国が斃(たお)れた。聖女の血をいまに伝えてきた古き国だ。かの国が滅びた影響を受け、毎年、どこかの国が消滅している。
 新しい国が興っても長くは続かない。砂上の楼閣のようにすぐ崩れてしまう。
 母の下に届けられる記録の一部を、ディトラウトは知っている。遠い国の出来事のように思っていたが、影響がここまで波及しているということなのか。
 フランツがアデレイドに微笑む。
「女王は来年に出産だろう? ペルフィリアはまだ安泰だよ」
「そうね……仮に出産が上手くいかずとも、アズラリエルはまだまだ、若いものね」
「少なくとも、彼女が女王である間は時間が稼げる」
 アデレイドの物言いはとげとげしい。それをフランツは紅茶を口に運びながら受け流した。
「こちらにはまた遊びにくるよ」
「来なくてよくてよ」
「そう言わないでくれ。寂しいじゃないか。なぁ? ふたりとも」
 フランツから話の矛先を急に向けられる。
 ぱちぱちと瞬くディトラウトの横で、セレネスティがにっこりと笑い、もちろんです、と如才なく応じた。


 フランツの来訪がなかったら。
 母はますます頑なになっていく気がする。
 晩餐の席でのことを寝台で思い返していたディトラウトは、枕に向かってため息を吐いた。
「おじさんがこなくなったらいやだな……」
「ホントだよね」
「……っ! セ、ふぐっ」
「しー、ディン、声が大きい」
 いつ忍び込んだのか。
 別室で寝ているはずのセレネスティが、夜着のままディトラウトの寝台の縁から顔を出していた。
 ディトラウトは口元を押さえるセレネスティの手を力任せに剥がした。
 その間にセレネスティは布団を捲り上げ、ディトラウトの寝台に上がり込む。
「セレ!? 帰りなよ! 怒られるよ!」
「うるさいなぁ。今日もうじうじしてたから、せっかく慰めに来てやったのに。感謝すべきところじゃないの? 兄上」
「……別にうじうじしてないし」
「してた」
「してない」
「まー、いいけど」
 言い合ううちにセレネスティはディトラウトの隣を陣取っていた。寝台はふたりで眠るに充分な広さを有しているが、そういった問題ではないのである。
 セレネスティはにやにやと笑っている。腹立たしいが、一方で同じ色の瞳に安堵も覚えた。
 ディトラウトが大人しくなった頃合いを見計らい、妹はごろりと仰向けになった。ディトラウトもそれに倣った。天蓋の刺繍を並んで眺める。
「……お母様、今日は機嫌よかったね」
「うん。そうだね」
「叫んだりしなかったし。お父様が主神さまのところへ行かれてから、初めてかな」
「おじさんがくるの、お葬式のとき以来だからね」
「うん。……ディン」
「なに、セレ」
「僕も……都へ行ったら、お母様みたいに、なるのかな」
 イェルニ家は聖女の血を濃く継ぐ古い血筋だ。
 その血を効率よく残すために、妹は都へ行かねばならぬと皆が言う。
 その真の意味を自分たちはまだ知らない。
 母、アデレイドもまた、若いころに都へ行った。
 そこで過ごした日々がいまの彼女を形成したのだと執事長は語った。
 ――アデレイド様は生来、繊細なお方なのです。
 あなたのように、ディトラウトさま。
 母の心は砕けたまま戻らなくなったのだ。
「……僕がセレの代わりに都へ行ったらだめなのかな」
「駄目に決まってるだろ。人には主神さまが与えた役割っていうものがあるんだよ。ディンはディンでちゃんと自分のお役目をこなさなきゃあ」
「ぜったい、セレがここに残った方がいい気と思うんだけどな」
「ディンは難しく考えすぎなんだよ」
「最初に難しいことを考えたのはセレだよ」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ」
 ディトラウトは憤然と鼻を鳴らした。妹はしばらくけらけら笑っていたが、やがて表情を消し、布団の下でディトラウトの手を探り当てた。
 性差の現れ始めた彼女の手は、ちいさく、汗ばんで、冷えている。
「……僕は、大丈夫。……ディンが次のご当主なら、何かあっても、いつでも、帰れるってことだからさ」
「セレネスティ」
「だから、早くちゃんとしてよね、兄上」
 セレネスティは決して強いわけではない。
 男の言葉遣いで闊達に笑う彼女の心は、兄であるディトラウト以上に繊細なのだ。
 ディトラウトは妹の手を強く握り返した。


BACK/TOP/NEXT