第四章 探索する俘虜 2
ダイは体調の許すかぎり、散歩を欠かさないようにしていた。
身体を鍛えるためでもある。だがそれ以上に、情報収集という意味合いが大きかった。
ダイに行動を許された範囲は海に面した棟の一区画に過ぎない。そのなかでも寝室から連なる数部屋――居室、展望室、書斎、遊戯室、浴室――と、棟の中央に据えられた庭園のみに限られている。
それでも、寝室に籠もってばかりでは拾えないものを手にできる。
冬の淡い陽光が散る廊下の中ほどで足を止め、ダイは窓の外を見た。川によって王城から隔てられた城下は遠いものの、目を凝らせば人の往来の多寡程度は知れた。
通りに見える人影は少ない。港に大型船の姿はなく、小型の船舶は繋留されたまま、海原に出る気配もなかった。雪を被った街並みは、息を潜めているかのごとく静かだった。
城下を眺めるダイに、護衛として付くマークが穏やかに尋ねる。
「いかがなさいましたか? シンシア様」
「ここの年末はいつもこんなに静かなんですか?」
ダイは騎士を仰ぎ見て問い返した。
デルリゲイリアでは工房も商店も年始に閉まる。よって年の瀬は年越しの支度でいつも慌ただしい。
ペルフィリアでは違うのかと問うたダイに、マークは否定を返した。
「今年は特別でしょう。この気候ですから」
「それは、品物が入ってきていないということ?」
「わたしはそういう方面には疎く、お答えできません」
よい回答だった。ダイに余計な情報を渡さない。
ダイは苦笑して窓辺から離れた。
違和感がある。
年の瀬のかき入れどきに、王都がここまで静かでよいものかと。本当に何もないのであれば、ディトラウトにもう少し余暇があってよさそうなものを。
ペルフィリア宰相は今日も忙殺されている。
「街はこんなにも静かなのに、宰相は今日もお忙しいんですね」
「……お寂しいですか?」
「どうしてですか?」
「……その、日頃、あの方はお忙しくされておいでですから」
「宰相なのですから、日中からこちらにいては問題でしょう。入り浸るようなら蹴り出しますよ」
ダイは壁に手を突いて、負傷した側の足を前へ振った。痛みはない。どうやら順調に回復しているようだった。
「マークさんからみて、どうですか。わたしが寂しいっていったら、あの人はこちらへ来てしまいそうなひとですか?」
「……あなたが言ったら、来られる、かもしれません」
「そんなに甘い人ではないでしょう。あなたのご主人は」
あの男はやさしい。
けれども、甘くはない。
躊躇いがちにマークが口を開く。
「私よりシンシア様のほうがあの方をおわかりのようだ」
「あの人に常に侍ることがお役目の、近衛であるマークさんより? そんなことはありませんよ」
「ですが、あなたは閣下のお考えを、よく、ご存知でいらっしゃる」
「違うと思います」
ダイはことさらゆっくり歩きながら、マークの言葉を否定する。
「わたしたちは、似ているだけです」
己の主君に忠誠を捧げていること。
国章を負っていること。
同じ道を辿っているから、わかることがあるだけ。
マークがゆるりと首を横に振る。
「そうでしょうか……。たとえば、閣下の好みといったものを、シンシア様は把握なさっていると、私は感じておりますが」
「食べ物とかの? でもそれって、話題にのぼりませんか。マークさんは普段、宰相閣下とどんなことをお話されているんですか?」
「閣下は……あまり、ご自身のことをお話はされません」
「仕事のことしか話さない?」
「そうですね」
つまり、職務に関係することなら話すのだろう。
マークはダイの世話を任されるほど、ディトラウトに近しい近衛である。世情に疎いはずがない。
王都がこの上なく静謐な理由も、ディトラウトがことさら忙しい訳も、この男はやはり承知しているに違いない。
ディトラウトに躾けられた騎士から、どのようにして話を引き出すべきか。
話の振り方を考えなければならないな、と、ぼんやり思いながら居室に戻ると、なぜかディトラウトが長椅子でくつろいでいた。
思わず、マークを振り返る。
「蹴り出すべきですか?」
「……いえ」
噴き出すことを堪えたのか。マークが表情をぐっと引き締める。冗談が通じないというわけではないらしい。
ダイたちの反応に、ディトラウトが訝しげに眉をひそめる。
「何を物騒な話をしているのですか?」
「何でもありません。どうしました? 今日は一日会議って言っていましたよね?」
「夜の会食に変更となりました。ですから、夜は先に食べて寝ていてください」
ダイは了承に頷いて、ディトラウトの傍らに腰を下ろした。気怠さがどっと身体を襲う。散歩中は感じなくとも、まだまだ疲れやすい。
呼吸を整えるダイの隣で、ディトラウトが読んでいた冊子を閉じた。それを彼はダイの頭にぽすりと載せた。
頭上で傾く冊子を視界に捉え、ダイはその表紙の角を指先で慌てて支える。
「何ですか、これ」
「いらないんですか? ご所望の品です」
「……ぎじろく!」
奪われないように、冊子の端をぐっと握る。
ディトラウトが軽く笑って手を放した。
「そこまで喜ばれるとは」
「諦めていたもので」
大陸会議の議事録である。公的文書の貸し出しは安易に許可されるものではない。ねだったときも駄目元だったのだ。
「職権を乱用したんですか?」
「失礼な。それは私個人のものです」
「それは……わざわざありがとうございます」
「礼を言うのが遅い」
「許してください。驚いたんです。感謝しています。……いつまで借りていていいんですか?」
「今日明日とはいいませんよ。ですが、なるべく早く返してください」
「わかりました」
ダイは頂戴した冊子を膝上に広げた。
議事録自体は一度、小スカナジアから戻る道中で、読み通し終えている。細部の確認を急ぐ必要はない。ただ貸されたものと過去に目にしたものとの相違を確かめておきたかった。
革の表紙に挟まれた紙の束には厚みがある。剣に絡みつく五輪咲きの野薔薇――魔の公国(メイゼンブル)の国章が梳かし折られた紙が目次に使われている。その後に、参加国の経歴や主な参加者の名簿が続いていた。
本会議を含めた主要だった会議の議事録。会議内で提出された資料の目録もある。その写し自体は別添となっていて、ここにはない。
ぱっと見るかぎり、頁が抜き取られている気配もない。
「管理はマークにさせてください。女官たちの前では開かないように。……聞いていますか?」
「聞いていますよ……」
男からの注意に生返事をしたところで、ダイは頁を繰る手を止めた。
引っかかりを覚えたのだ。
目次に戻る。生成り色の紙に浮かび上がる白い紋章。剣と野薔薇。
頁をゆっくり進める。各国について掲載された頁の紙面には、目次と同様に国章が浮かぶ。
一目瞭然だった。
なぜこれまで気づかなかったのか不思議に思えるほど。
(うちの国にだけ)
国章に、剣がない。
デルリゲイリアを構成するものはただひとつ。
聖女の御印たる野薔薇のみ。
横から伸びた男の手が、ぱたりと冊子を閉じた。
ダイはディトラウトを仰ぎ見た。彼は静かな目をダイに向けていた。
「散歩を終えたばかりでしょう。少し休んでから読みなさい。身体に触りますよ」
「……過保護ですね」
「具合を悪くして後悔するのはあなただ」
「そうですね」
男が吐く建前の言葉に笑って、ダイは表情を引き締めた。
「……ひとつ訊いても?」
ダイの胸中を推し量るようにディトラウトの視線が検める。
ややおいてから彼は無言でマークに片手を振った。騎士が否やもなく退室する。
ふたりきりになるまで待って、ダイはディトラウトに問うた。
「……会議に参加した以外の国の国章に、野薔薇を戴く国は、何カ国ありますか?」
「ありませんよ。ただの一国も」
「……では、剣を戴かない国は?」
「あなたの国が、その唯一です」
メイゼンブルですら、国章に剣を抱く。聖女シンシアに付き従った騎士アーノルドを所以として。
デルリゲイリアのみが、野薔薇によって形作られる。
ダイはこくりと喉を鳴らして追及した。
「……その、意味は?」
「自分で考えるといい。……いまのあなたは、暇をもてあましているでしょう?」
答え合わせ程度なら、付き合いますよ。
ディトラウトは薄く笑って、卓の上から取り上げた茶器に口を付けた。
ダイは革張りの表紙を見つめた。
このように国章をまとまってみる機会はこれまで確かに少なかった。それでももっと早くに気づけたはずだ。小スカナジアでは国章を負う者たちが一同に会していたのだから。
『調べたいことがあるの』
(――マリアージュ様は……)
気づいたのかもしれない。
本会議から戻った直後の彼女は何かを考え混んでいた。ダイともうひとりを除いて、本会議には国章持ちも揃っていた。気づく機会は多分にあったはず。
あのとき、マリアージュは何と言っていただろう。
『フォルトゥーナは、どうして、うちの国に来たのかしら』
かた、と、茶器の立てた音に、ダイの思考は途切れた。
隣の男が立ち上がって、上着を着直している。
ディトラウトが扉の方へ歩き始める。ダイも立ち上がって、彼の後ろを付いて歩いた。
「行くんですか?」
「えぇ。少し抜けてきただけですからね。……まだ何か?」
ディトラウトが扉を開けて振り返る。いつもは長椅子で見送るので、付いてきたダイを不思議に思ったのだろう。
体力が残っていただけなのだが。
ふと、マークとの会話を思い出し、ダイは芸妓が客にするように、こてりと首をかしげてみせる。
「さびしいって言ったら、もう少しいてくれるのかと思って」
「……寂しいんですか?」
「いえ、特には」
ディトラウトの目が呆れとも付かない色に細められる。
その隣でマークが軽く咳払いをしていた。
ディトラウトは息を吐くと、ダイの右手をついと奪った。その手首のやわらかな皮膚の上に軽く口づける。
「ディトラウト」
「人をからかえる程度に健康になったようで何よりですが、ぶり返さないように大人しくしてなさい。……ではまた夜に」
ダイの手を放り投げて、ディトラウトは居室を出て行った。扉の向こうにあっさり消えた男の背を名残惜しむことはない。
彼は夜には帰ってくるのだ。
実際、ディトラウトは多忙であり、食事を共にできないこともある。それでも夜に目覚めると傍らにいた。予定が空いたときは顔を見せる。
だからディトラウトの不在には寂寥を抱かない。
逆に相対するときこそさびしさを感じた。
ディトラウトはペルフィリアの宰相で、ダイはあくまで彼に捕らわれたデルリゲイリアの人間だ。
互いの腹の内を明らかにすることはなく、軽口を叩くときでさえ緊張が横たわる。
そこに過去との差違を見出して感傷がうずく。
たった半年。もっといえば、数ヶ月。
てのひらからこぼれ落ちてしまった、ミズウィーリでの日々は戻らないのだと突きつけられて。
ごとん、と、置かれた木箱にダイは瞬いた。
「これ、何ですか?」
「閣下からシンシア様に贈り物だそうです」
「……貸し出しではなく?」
はい、と、鞄を運んできた女官が首肯する。ダイは不思議に思いながら、木箱を眺めた。
ひと抱えほどもある大きさの箱だ。飴色の表面には細かな細工が掘られている。持ち運びが可能なように革の撒かれた取っ手が付いていた。
年明けまであと数日を残そうかという日だ。ディトラウトは年始の祭事の準備に奔走していて、ここ数日は夜に顔を見るのみ。何かが贈られるといった話は、聞いていなかったように思うのだが。
ディトラウトがダイに与えるものは必要最小限。それこそ、生活に必需となる衣服ぐらいだ。
なのに、いまさら、贈り物。
ダイは訝りながら、女官が箱の留め金を外すさまを見守った。上部が左右に展開する型のようだ。
現れたものは小瓶の列だった。
ダイは息を呑んで、女官の手を押し退け、小瓶のひとつを取り上げた。中にはとろりとした液体が入っている。色粉の一種だ。
瓶をひとつひとつ卓の上に置く。数種の色粉と、下地と、化粧水と乳液と。色板もあった。箱の下部には筆や海綿の類が数種、収められていた。
「化粧道具……」
「あぁ、届いていましたか」
部屋に響く男の声にダイは背後を振り向いた。明るい時間帯に久方ぶりに見る宰相は、ダイの元まで歩くことなく、長椅子にやや乱暴な所作で腰掛ける。深く吐息し、ラスティに水を要求した彼は、整えられていた髪を崩すと、卓上に広げられた化粧道具を一瞥した。
「あなたが使っていたものの全種類は揃えられなかったのですが……それで足りますか?」
「足ります……」
品数は少ない。けれども、充分だった。仕事をせよと命じられれば、いますぐに始められる程度に。
「……どうして、これを?」
「起きていられる時間も増えたでしょう」
水に口を付けながら、ディトラウトが答える。
「常にしていないと、腕が落ちると言っていましたしね。起き上がれるころには揃えておこうと思ったのですが、存外、時間がかかってしまった」
「練習していいんですか?」
「えぇ。女官の顔になら」
「あなたの顔には?」
「……取り上げますよ」
「嘘に決まっているじゃないですか」
ダイはディトラウトと距離を詰めた。彼は干した高杯を卓に置いて、襟元を引っかけた指で緩めている。
長椅子に片膝を載せて伸び上がり、ダイは男の頭を胸に抱いた。
「……ありがとうございます……」
「……えぇ」
自分は。
この男のこういうところが、好きなのだと思う。
自分の、本質を、大切に扱ってくれるところが。
昔からそこだけが変わらない。
ディトラウトがダイの腰を腕で支える。彼はじっとダイの胸に抱かれていた。居室に戻った直後と違って、呼吸はひどく穏やかだった。
「今日はもうゆっくりできるんですか?」
「会合の類は終わって、裁可待ちの分を捌きにこれから戻ります」
ダイは身体を離して、男を見下ろした。金の髪がくしゃくしゃに跳ねている。髪を乱したくなるほど、苛立つことがあったに違いない。ディトラウトはたまに、子どもみたいなことをする。
男の髪を元あったように撫でつけて、ダイは彼の膝上から退いた。
ディトラウトが微笑んでダイを見上げる。
「今晩はいつもより早く戻れると思います」
わかりました、と、ダイは微笑み返した。
「なら、今日の夕食は待っています」
休憩を終えて執務室へ戻る道すがら、ゼノの視線が鬱陶しい。
「シンシアちゃん、すっごく喜んでたな」
「の、ようですね。……何が言いたいんですか?」
「べっつにぃ」
本当に、鬱陶しい。
ディトラウトはやや足を速めて歩いた。ゼノは遅れず付いてくる。
「いいじゃん。照れる必要ある?」
「照れとかそういうものでは……それに、今回のものは、彼女を喜ばせるためだけにしたものではない」
「……打算有りってこと?」
「その通りです」
化粧道具を贈ってディアナが喜ぶことはわかっていた。あれは彼女の根幹だから。己の芯を労られて喜ばぬものはいない。
化粧の腕を鈍らせたくはないだろう。自分もまた様々な理由から、彼女の腕を落としたくはない。
彼女の化粧が、まだ、役立つと思っている。
主君は納得していなくとも。
ディトラウトは息を吐いた。
出逢いからして彼女を駒とするため。マリアージュを大人しくさせるために利用して、いまも彼女が道具とならないかを考えている。
主君を違えた国章持ちとして対峙するときのほうがどれほど気楽か。
今日のようにディアナに微笑まれると、縋って懺悔したい心地にさせられる。
「お前、難しく考えすぎだよ。男が打算なく女にものおくることなんてないだろ。……あの子が喜んでるんだから、そこだけを見てたらいいって」
「……あなたのその物事を単純にするところは、才能ですね」
「単純に見過ぎるから、家を継がせられないってなったんだよ」
「そうでした……」
ゼノの家は宰相や大臣を多く輩出する名家だった。
ゼノとは彼の家の血筋である師の紹介を受けてからの付き合いだ。
ゼノと執務棟に足を踏み入れる。
刹那、空気の変化を覚えた。
最低限しか人員を配しないはずの奥が慌ただしい。
文官がディトラウトの姿を認め、青ざめた顔で報告する。
セレネスティが、喀血したと。