第二章 呼ばずの来訪者 3
聖女シンシアの顔をダイは知っている。安息日に赴く礼拝堂に彫像があるからだ。どの礼拝堂の聖女像も、職人の手癖は見られても、顔立ちに大きな差はない。
魔の公国メイゼンブル、その都、大スカナジア。そこの大聖堂にある聖女像を写して造られることが、かの国の崩壊までは厳守されていたのだと後から聞いた。
その聖女にアルヴィナはよく似ている。
本当に似ているのだ。御堂で微笑む像が生身の身体を得て動き出せばこうなのでは、というほどに。
「シンシア・レノンはわたしの双子の妹だった。同じ日、同じ時間に、同じ母より生まれた。わたしの妹であり、親友であり、貧しい時代を生きた戦友だった……」
アルヴィナが語る。
遠い追憶を。
――神が去って間もない時代。混迷を極めた大陸の、いまはデルリゲイリアの国土となっている土地の片隅で、アルヴィナと魔女は生まれた。
魔女は生まれながらにして呪いを持つ災厄を呼ぶ女。彼女が、膨大な魔力を持つだけの善良な娘が、何の呪いを持つのか、誰も気にしなかった。ただ魔女は呪われ、長じるに従い膨大な魔力をその身にため込み、殺すことすら難しくなる。魔術も呪いも身近な時代、まだ、神の時代の名残、魔法すら残る時代、魔女は生きた災厄だと、多くの人々が知っていた。
姉妹は迫害された。
姉妹は村から離れた森に隠れ住んだ。母は魔女を生んで身を病んだから、幼い姉妹は身を守る術も、どうにか村に馴染む在り方も、何も学ばないまま育った。
そうして追い詰められた妹が、魔力を弾けさせて人を殺したとき、アルヴィナは泣きじゃくる妹の手を引いて故郷を出た。
奇しくも後に聖女の祝祭と呼ばれる日のことだった。
「シンシアは誰かを傷つけることが本当に苦手で、あの子の露払いをするのは、ずっとわたしの役目だったから、わたしは人を守る術も、殺す術も、もうその頃にはちょっとしたものだった」
茶器を両手で包み持って、アルヴィナは言った。
「僻地の故郷を出れば、どこもかしこも戦争をしていたわ。定住は難しくても、傭兵であれば、いくらでも仕事は見つけられた。シンシアは癒やしの術ならどんな施療師にも負けなくて……迫害されていたわたしたちが、常勝をもたらす姉妹として名を知られ始めるまで、そう時間は掛からなかった。特にシンシアは、深手もたちどころに治療する施療師として、人々に受け入れられ始めた。そんなころだった。アーノルドに出逢ったのは」
国主と家族、そして騎士団とともに身を焼かれて虫の息だった彼は、シンシアによって救われた。そのころ、女だけの旅に難を感じ始めた頃もあって、ふたりの旅は三人のものになった。
アーノルドは不思議な愛嬌を持つ、当時で言う道徳的で紳士な男だった。喪った王へ向けるはずだった忠誠をシンシアへ向け、敬い、守った。それは迫害され続けたシンシアの心身にたちどころに沁みて、彼女がアーノルドを愛するまで、時間はかからなかった。
同時にシンシアの評判もまたまことしやかに伝播していった。
戦乱に降り立つ癒やしの乙女。
暗雲たちこめる西の獣に嘆いた主神が遣わした聖女。
そうしてシンシアに救われた人々が、アーノルドに感化され、付き従うようになっていった。
聖女の騎士団が誕生した。
「……本当は、人々の御旗になんてなるべき子じゃなかった。あの子が他人の命を背負うことのなんたるかを理解してそれを引き受けたのだとは、今でも思えない。でも、求められたらあらがえなかった。あの子は、ずっと、世界からいらないと、いわれてばかりの子だったから」
ねえさん。
わたしね、うれしいの。
わたしも役に立てるのだって思えるの。
姉さんのお荷物じゃないわたしになれる。
わたしが姉さんを守る側になれるの。
それでね、大好きな人たちが笑顔になれる。
こんなにうれしいことはない。
ねえさん。
「何度も諫めたけれど、あの子は納得しなかった。そしてログ湖戦線で、わたしたちは引き返せなくなった」
シンシアを守るために人が大勢しんだ。
シンシアは彼らの命を背負うことを自覚し、聖女であることとは何なのかを悟ったのだ。
ダイがユマの死で国章持ちの真の意味を知ったように。
「わたしたちの目的はただ生き延びることから、大陸の安寧に変わった」
アルヴィナは語り続ける。戦乱の日々を。
聖女の騎士団は大陸を駆けた。平定するには、すべてを一国のものとするのが早い。メイゼンブルの前身、魔の公国(スカーレット)と手を結び、その力を借りて、騎士団は数年をかけて大陸の平定を成し遂げた。
魔の公国一強の時代の始まりだった。
「ここでわたしたちは、どうして定住を選んだのかしら。せめて、聖女ではなくて、あの子が普通の女の子でいられる場所を探して、国の中枢に取り込まれることを避けていたら。あの子は祭り上げられたかったわけじゃあなかった。ただただ、好きな人と一緒にいたいだけの子だったのに」
騎士団は政治の中に放り込まれた。不慣れな権力闘争に皆が翻弄された。善良で道徳心にあふれていた人々は、毒が染みるように、贅と権力に溺れていく。同時にシンシアの魔女としての性質が負の方向で表れ始めた。
国に平穏を取り戻すという名目の下、シンシアは生まれたばかりの子を取り上げられた上で、アーノルドによって殺され、その死すら、国と、ナヴル家の権力を確かなものとするための道具とされた。
シンシアは正しく《聖女》として神格化されるようになったのだ。
それはダイがこれまで礼拝の場でたびたび耳にしていた聖女の物語ではない。
聖女に祭り上げられた、哀れな娘の物語だった。
アルヴィナがダイをみて微笑む。
「……信じる?」
「信じます」
信じないわけにはいかない。
アルヴィナが言うのだから。
「……アルヴィーは、呪いを受けたっていってますけど、それはいつのことだったんですか?」
「シンシアが死んだとき」
アルヴィナが泣き笑いのように顔を歪めて答える。
「……あの子の死をどうにか止めたくてその場に留まっていて呪われた。その後は呪いを受けた直後の後遺症で、まともに動けなくてね。……シンシアの子が、聖女の後継として、スカーレットのものになることも止められなかった」
シンシアの娘は後に今日まで続く血筋の母となった。多くの子を生み、そしてそのまた娘が次のスカーレットの御旗となる。
「シンシアの娘も孫も、スカーレットに育てられた娘で、自分が利用されているとは考えもしない。覚悟を持った王者であって、シンシアとは違った。彼女たちにどう手をだすか考えあぐねている間に、シンシアは信仰の対象として、殺すことすらできなくなった。……あの子をどうしたら安らかに眠らせてあげられるのか、いまでもわからないの」
その聖女を生み出したいと、強欲にも人は願うのだ。
アルヴィナが険しい顔をして当然だった。
「止めましょう、アルヴィー」
ダイは膝の上で拳を造って告げた。
「新しい聖女さまを造ってはいけない。聖女さま……シンシアさんを、これ以上、道具として扱わせるわけにはいきません。ましてや、戦争を引き起こすための道具に、その名を使わせたらいけない」
「えぇ……」
聖女シンシアは、アルヴィナの妹は、人々の平安を祈って血に濡れた。
その彼女の再来を願って戦争を引き起こすなど、決して許されることではない。
アルヴィナが黙って冷めた香草茶に口を付ける。
彼女は疲れた顔をしていた。当然だ。彼女は終わりの見えない長い長い時の旅人なのだ。ダイと関わる前の彼女は、長く引き籠もっていたと述べていた。妹の血脈を道具とし続ける大陸をなすすべもなく傍観してきたのだ。
身近な人が使い潰され続けてきたと思いながらを永劫の時を生きる。その苦しみは想像もつかない。
だから。
「アルヴィー、ひとつだけ、お願いがあるんですけど」
「……なぁに?」
「聖女であったシンシアさんを、否定しないであげてほしいんです」
ふと胸に去来した思いを、ダイは伝えたかった。
「状況から、シンシアさんは、聖女にならざるを得なかったと思います。でも、きっと、覚悟がなかったわけじゃない。それこそ、ログ湖戦線で、シンシアさんの好きだった人がたくさん亡くなって、きっと、シンシアさんは最後まで、自覚的に聖女として振る舞ったと思うんです」
「……どうしてそう思うの?」
「だって、いくらスカーレットの人たちがシンシアさんが聖女だってわーわー騒いでも、そんなに皆に浸透しますか? ずーっと下の子孫であるわたしたちまで、聖女さまが伝わっているのは、やっぱり最初に聖女さまに触れた、大陸中の人々の記憶と、スカーレットの人たちの言ってることが、ちゃんと一致していたからだと思うんです」
だからこそ、シンシアはすみやかに聖女になった。人々の信仰の対象になり得た。
「わたし、聖女さまがいて、よかったなって思うんです。いえ、別にわたし、そんなに信心深くないんですけど」
「知ってる」
くすりとアルヴィナは笑った。
「ダイもマリアも、全然、神に祈らないよね」
「安息日にはちゃんと礼拝にいきますよ? ……あとはまぁ、冠婚葬祭のときとか」
思い出す。
うたかたの旅。
そこで目にした幸福な新郎新婦のこと。
聖女の像を前に、ディアナが往く道の平らかなことを祈ってくれた、愛しい男のこと。
「だれかの幸いを願うとき、とても苦しいことがあるとき、祈る先があることは、幸福なんだと思うんです」
ひとはひとりのとき、神が、信仰が寄り添うなら孤独ではなくなる。己を律する助けとなる。だれかを想う心を表せる。
祈るばかりでは何も成さない。だが、祈りは甘えでも逃避でもない。福音なのだ。
「他の大陸では主神さまだけの信仰が主なんですよね。でもここは、さらに聖女さまにまで見守って貰えている。そのことが、たくさんの人を勇気づけたこともあったと思うんです。それは、大好きなひとに、皆に、笑っていてほしいという、シンシアさんの望みが叶ったといえませんか。シンシアさんが、成した偉大なことじゃあ、ありませんか。だから……」
そこまで、嘆かないで。
シンシアの生きた道を。
彼女が成したことを。
きっと多くの人を救い続けてきたに違いないから。
否定しないであげてほしかった。
好きな人と一緒に笑って過ごしたい。それを願っただけであろう娘も、その願いを叶えるために、本来であれば不要な責務を、あえて背負ったはずの彼女のことも。
「……わたしね、ダイ」
アルヴィナが囁く。
「……過保護だって、言われていたの」
その頬は濡れている。
角灯の明かりを照り返し、透明な雫がきらきらと輝いている。
「過保護すぎるのもよくないって、叱られて……。でも、止められなかった。本当は、わたしが、わたしこそが、あの子を使っていた」
妹を守る。
その大義名分がなければ生きていられなかった。
「そうね、わたし。ちゃんと……ちゃんとあの子のしたことも、すごかったね、って、言ってあげなきゃ、いけなかったね……」
ほろほろと泣きながら、アルヴィナが呟く。
「ずっとあの子をどうしたら眠らせてあげられるのか考えていた。でもきっとそうじゃない。聖女であることはあの子の不幸じゃない」
ありがとう、ダイ。
アルヴィナは微笑んだ。
聖女のようにとても清らかで美しい笑みだった。
子どもが泣いている。
無力な小娘が泣いている。
ふっと目覚めると、馬車は停止していた。
遮光幕の外は薄暗い。夜なのだ。微かに揺らめく橙の光は篝火だろうか。
レイナは寝台から身体を起こした。
「……最悪な目覚めね」
教会の準備した長距離用の馬車は、小スカナジア貴族向けの最上級のものだ。制動の魔術が組み込まれ、内部に設えられた調度品も乗客に相応しい然るべきもの。当然、寝台も安眠を確保するに充分な品質であったが、自分に良い夢を見せてくれない時点で粗悪品も同然だ。
りん、と、鈴を鳴らす。
シーラがこんこんと扉を叩いて開いた。
「お呼びでしょうか」
「なぜ馬車は止まっているの? 今日のうちに国境を抜けるんでしょ。夜通し走らなきゃ」
「申し訳ございません――検閲で少々。その間に、難民が集まってきております」
わっと、馬車の外で、子どもの泣き声が響いた。
甲高い声。幼い娘のそれ。
道理で、と、レイナはため息を吐いた。
泣き声はますます大きくなっていく。
「失礼いたします、レイナ様。遠ざけるように命じます」
「必要ないわ、シーラ。馬車を降ります」
「は……レイナ様!?」
レイナは靴を履き、夜着の裾を翻して馬車を降りた。慌ててシーラが追いかけてきて、毛織りの上衣をレイナの肩に着せかける。
馬車の周囲には大勢の流民が集まっていて、護衛の騎士たちが彼らを苦慮して彼らを遠ざけようと試みていた。
「ね、何してるの?」
「あ……申し訳」
「いま何をしているの? 問いに答えて」
「聖女さま!」
騎士の手をすり抜けて、レイナの前にぼろを着た女が膝を突く。
彼女はちいさな娘を抱いていた。泣きわめく彼女こそがレイナを眠りから引き起こした原因のようだった。
「すみません。すみません。でも、どうか慈悲を。この子を教会で……どうか」
震える女が何を言いたいのか、レイナにはわかった。子どもを教会で引き取ってほしいというのだろう。徳の高い教会の聖職者は、孤児を引き取って養育する。レイナにこの子どもの庇護者になってほしくて、無謀にも前に飛び出たのか。
子どもは泣いている。
「やだぁ、やだやだ……おかあさん……」
「いい子にして……レイナ。お願いだから」
『――レイナ、いい子にして』
レイナはぱちくりと瞬いて、子どもを見た。
「その子、レイナっていうの?」
「は……はい」
「ふぅん……」
レイナは母子の前に屈んだ。
泣く子どもの濡れた頬に触れる。娘は母にひしりとしがみついたまま、驚いたように震えてレイナを見た。
「おそろいね、お名前」
ひく、と、娘がしゃくりあげる。
レイナは彼女ににこりと笑って、母親に視線を移した。
「ねぇ、レイナにこの子を引き取って欲しい? いいわよ、お揃いに免じて」
「レイナさまっ……!?」
うるさいシーラを片手を上げて黙らせる。
レイナは母親に向かって慈悲深く微笑んだ。
「この子が望むなら、レイナがちゃあんと教育してあげる。キレイに磨いて、真っ当な生活をさせてあげる。さぁ……レイナ」
娘の顎を掴んで、レイナはその涙に濡れた目を覗き込んだ。
「えらんで」
年はいくつだろう。
五つ。いや、もっと下だろうか。
痩せた身体。脂でべたべたの髪。涙でかさかさの肌。薄汚れて、汚らしい。
けれど、目だけは上々。賢そうだ。
「レイナ……おかあさんといる……」
「レイナ!?」
「ふふっ……ふふふっ……ははははっ!!」
レイナは声を上げて笑った。
娘から手を離して手を叩く。
「賢いね、さすがレイナ! だれがあなたを守れるのか、ちゃあんとわかってる。えらいね!」
「あ、あの」
「レイナの愚かなお母さま」
レイナは女に向き直った。彼女の薄汚れた顔に、自身のそれを近づける。
くさい。くさくてたまらない。何より頭が悪くて反吐が出る。
「ねぇ、どうしてレイナが、あなたのちいさいレイナをきれいに磨いたあと、売り飛ばすかもしれないと考えないの? もしくは、磨くことすらしないかもしれないわ。あなたを追い払いたいためだけにその子を引き取ったあと、捨ててしまうかも」
「そ、そんな」
「だってレイナには何の義理もないでしょう? 何の利益もないでしょう? ……お母様、あなたはレイナのためを思って勇気を振り絞り、レイナの前に跪いたのね。でも……その勇気は、その子の手を何があっても離さないことに使うべきだわ」
『レイナ、レイナ、これはあなたの幸せのため』
皆の幸せのため。
母は聖女になって。
あなたの行く末を必ず照らすから……。
レイナは身を引いて、にこりと笑った。
手首に巻いていた銀の鎖を外して、ちいさなレイナの手に握らせる。
「かしこいレイナ。あなたもいつまでもお母様にしがみついていないで、立ちなさいな。母といたいなら、お荷物でいてはいけないの」
そうでなければ食われてしまう。
搾取に慣れた、汚らしいケダモノに。
「行きなさい。見逃してあげる。聖女さまは無益に人を痛めつけない。そうよね?」
ちいさなレイナが母の腕から滑り落ちて立ち上がる。
「聖女さま、ありがとう」
レイナは背中でその声を聞いた。
シーラが走り寄ってくる。彼女を見ずにレイナは命じた。
「手を洗いたい」
「すぐに支度します。ですが……なぜ、あの子どもに?」
レイナは立ち止まって両手を見下ろした。
「……施しが必要でしょ。レイナ、聖女になるんだもの」
「レイナ様」
騎士が歩み寄ってきてレイナの名を呼んだ。
「お待たせいたしました。出発いたします」
気安く名を口にした愚か者を冷たく見据えたあと、レイナは機嫌を取り戻した。
そうそう、サイアクな夢のせいで忘れかけていたことを思い出した。
自分はうきうきしてここまで来たのだ。
「ここを越えたら、デルリゲイリア……あぁ、マリアージュさまと、ダイに会えるのが楽しみね」
あのふたりの驚く顔を想像するだけで、少し、小躍りしたい気分だった。