第九章 終演する領主 2
ダイは男の身体を抱きしめて、彼を刺した犯人を振り仰いだ。
女が立っていた。ドッペルガムの人間ではない。服装からして、地元の民に見える。彼女は血の滴る短剣を二客の高杯が載った盆で覆い隠し、とても、とてもうれしそうに笑っていた。
その身体が飛び掛かった兵たちに引きずり倒される。
盆が床に落ちる。転がった高杯が床の上でくるりと円を描いて水をまき散らした。
「あは……あはははははははははっ!」
後ろ手で縛られ、うつ伏せで床に押さえつけられながら、それでも女は笑っていた。
「ざまぁみなさい! 偽善者め! 国を救うため? どんな御託を並べたところで、あなたたちがわたしの国を滅ぼしたことには変わりがないのよ!」
「黙らせろ!」
ファビアンが兵に命令する。彼にしては珍しくこれ以上ないほどの怒気がこもっていた。
「主神の御許で旦那さま方に詫びろ! お前が殺した皆に叩頭しろ! 侵略者! 偽善者! 詐欺師! おまえが、おまえが――……!」
女の口に布が嚙まされる。
ダイはヒースを抱いたまま震えていた。
女の声に聞き覚えがある。薄布ごしに何度も話した。
彼女はペルフィリアで、ダイが化粧を教えた――……。
「ダイさま、お気を確かに」
ヒースの衣服を短剣で割いていたクレアが、呆けていたダイの手をそっと握る。
彼女は案じる声で囁いた。
「ここを離れましょう。イェルニ宰相のことはお任せください。あなたもひどい顔色です」
「……や……いやです」
ダイは小刻みに首を横に振った。
ヒースはまだ生きている。浅い呼吸を繰り返しながら、焦点の合わない瞳を彷徨わせ。ダイの腹に頭を押し付けて、こちらを見上げようとしている。
まだ、あたたかい。
でもここでいま、身体を離したら。
彼はいっきに冷たくなって、動かなくなってしまう気がする。
「どいて」
魔術師の法衣を着た男がクレアを押し退け、ヒースの傍らに膝を突く。
彼はヒースの傷を一瞥すると、顔をしかめて手をかざした。燐光が零れ落ちて、魔術の陣が展開される。
ダイは震えながら彼を呼んだ。
「セイス、さん」
セイスはダイに一瞥もくれず、ぶつぶつと魔術の呪を呟いている。
彼の代わりにファビアンが答えた。
「セイス、さっき、陛下たちと城に着いたんだ。いてくれてよかった。いま、医者も手配している。きっと助かる」
「……いや」
ファビアンの言葉をセイスが渋い顔で否定した。
「僕の治癒が追い付かない。あの女、ただ刺しただけじゃないんだ。剣を抜くときに捻ってる。中の臓器と血管がずたずただ。いま、死んでいない方が奇跡に近い」
「アルヴィーを呼んでください!」
「間に合わない」
ダイの主張に対するセイスの回答は簡潔だった。
「遣い魔を飛ばしても、連絡がつく前に彼は死ぬ」
ファビアンが深くため息を吐き、セイスが陣を閉じようとする。
ダイは彼の手首をつかんだ。
「続けてください」
「ダイ」
「いいから! 勝手に殺さないでください!」
「……いったん、遣い魔を飛ばさせて。クレア、服をもっと割いて。出来れば脱がせて。次の血管を防ぐ」
「僕も手伝おう」
「ファビアンは人払いして」
腰を屈め掛けたファビアンにセイスが告げる。
治療の陣を閉じた彼は懐から銀の粒を取り出した。
彼は《遣い魔》を生み出した。その速度はアルヴィナに比べて遅いと思った。鳩の形を成した彼の魔力がセイスの端的な伝言を受けて飛び、彼もまた治療に戻る。
ヒースの呼吸は一向に落ち着かなかった。彼の手が宙を彷徨っている。ダイは彼の血で真っ赤の手でそれを握りしめた。安心したように、彼の息が深くなる。
ただ、その大きく冷たい手は、いつまでも痙攣していた。
「僕はアルヴィナさんの魔力を登録していないから。この王都で一番、魔力が高い人を目指すように指定したけど、鳥がすぐに見つけてくれるかは賭けなんだ。ごめんね」
「いいえ……」
「ダイは彼に死んでほしくないんだね」
「当たり前です!」
「なぜ?」
純粋に疑問らしい。
セイスはふざけていない。ただダイがどうしてここまで狼狽し、必死にヒースの命をつなぎとめたがっているのか、わからないのだ。
「命がけで保護した人だし、目の前で死なれるのは嫌だよね。でも、彼は笑っている。死ぬことを受け入れているんだ」
セイスの言う通り、ヒースの顔は穏やかだった。ダイの手を握って、ここで死ねるのなら、と、思っていることは、指摘されずともわかっていた。元々、自分は死んだ方が都合よいと考えていたひとなのだ。この地獄に幕を引きたいとも思っていたはずだ。
セイスが治療とは名ばかりの、延命の魔術を維持しながら、淡々とダイに問いかける。
「彼を刺した人、多分、セレネスティ女王が統治の初期に併呑したところの人だよね。侵略された国の生き残りに復讐されたことを、この人は当然の報いなんだと受け入れているように見える。その件も含めて、この人は生き残っても、多分、ろくな人生にならない。一生涯を償いに費やす。よくて軟禁。生涯幽閉かもしれない」
「それでも!」
ダイはセイスの言葉を遮って叫んだ。
「わたしは、この人に、死んでほしくないんです! 絶対に、死んでほしくない!」
ダイはヒースの頭を掻き抱いて呻いた。
「……助けてください……」
まるで子どもの駄々だった。
セイスの言う通りだ。ここで助けられても、またヒースと会えるようになるのかはわからない。彼は多くの罪を背負っているし、大陸会議での保護はあくまで一方的な断罪を防ぐためだけのものだ。
それでも生きていてほしかった。
完全に自分の独善だったとしても。
(わたしは)
このひとをあいしているの。
セイスは静かにわかったと言った。
「ファビアン、人払いは終わった?」
「終わったよ」
施錠の音が礼拝堂内に響き渡る。
セイスが懐を探って水晶の球を取り出した。
透明度の高い、たまご大の石。
彼が魔術の呪を紡ぐ。水晶の中に銀の光が広がる。
燐光を散らすそれが何か悟ってダイは呟いた。
「《加療球》」
「昔、君に使って、国に帰って宰相に怒られたんだ。人前で安易に使うなって」
クラン・ハイヴに初めて足を踏み入れ、ダイたちがルグロワ河に転落したときの話だ。
川岸に打ち上げられたダイたちをセイスたちが助けた。ダイはひどい怪我を負っていたらしい。その治療にセイスたちが使った魔術具が、彼の持つ《加療球》だった。
「聖女が生きていた時代の遺物だし。僕もひとつしか持ってない」
「学のない農民はともかく、ここにはそれの価値を知っている人間がうじゃうじゃいるからね」
方々の施錠を終えたファビアンが戻ってきて補足する。
「狙われて騒ぎになっても困るし」
「それに何度も使えない」
水晶をヒースの傷の直上に浮かべてセイスが告げた。
石から、光が零れる。晴れた日の雪のように眩い銀の光だ。それがヒースの傷の上に降り積もっていく。
ヒースの身体から力が抜け、ダイの上にさらに体重が圧し掛かる。ダイは面を上げ、彼の顔色を見た。
ひどい色だ。蒼白を通り越して紙のようである。
だが、息はしていた。
気絶しただけのようだった。
セイスが展開した術の陣を弄りながらダイに問う。
「ダイは魔女になりかけたレイナのした話を覚えてる?」
「……魔術装置のところでした話ですか? 覚えていますが……」
「聖女は治癒の魔術に長けていた。あまねく病を、傷を癒して回った。聖女シンシアは魔女だ。彼女の魔術は、魔法の域に近くて、通常の魔術体形からは大きく外れるんだって習った」
民は聖女に縋った。国は聖女の神秘性と重要性を高めるため、治療師たちを閑職へ追いやり、それまで行われていた治療の魔術は大きく衰退した。
レイナの話に付け加えてセイスが語る。
「……加療球は、その聖女に立場を奪われた魔術師たちが、作り出して残したものだって聞いた」
聖女の圧倒的な力がなくとも、人を救うことができるように。
「治療の術は難しい。僕でさえ初歩の術を使えるようになったところで、これ以上の術を使える気にならない。魔術で真っ先に廃れたものは治癒の術だ。この加療球は術の難所を解消してくれるけれど、大きな傷を癒すと、遣い手の魔力が作成者の魔力と反発して負担になる」
ぱき、と、水晶から音がした。
セイスが淡々と言う。
「ルゥナに怒られるかな」
「ルゥナよりもじーさんかな……」
ファビアンが額を押さえて答えた。
彼らは困った顔をしてはいない。
ぱしっ、と、水晶が再び音を立てる。
目に見えて、亀裂が入っていた。
ダイは息を呑んだ。
この石は貴重だと言われたばかりなのに。
「セイスさん……」
「心配しないで。これはもうきっと、いまからの時代に必要ない。それに……」
蜘蛛の巣のような細かな線が、幾重にも重なって水晶を覆っていく。
その様をセイスは平然と見つめて言った。
「聖女に居場所を失われた人々の残したものが、聖女を要らないと言った人を救う。それこそ、主神の意思って感じがするよね」
水晶が砕け散る。
その破片は地に触れる傍から燐光に包まれ、雪のように解けて消えた。
ダイの握るヒースの手に、ほんの少し、ぬくもりが戻ってくる。
大きく取られた窓から光が差し、彼の頬を淡い橙に照らした。
――夜が、明けたのだ。
その日の昼、聖女教会の聖女急進派が煽動したペルフィリア王城の襲撃は、ゼムナムを中心に構成された多国籍の兵と、南部国境から引き返し、王都郊外に展開していた親女王派のペルフィリア軍により完全に鎮圧された。
ペルフィリア王都の中に残留していた一般の平民にはほとんど被害はなかったが、女王たちの予想より遙かに多くの人数が武装集団の一味として捕らえられ、彼女たちを驚かせた。
彼らにより破壊された王城の状況はよくなく、本宮と執務棟、特に門に面した側は大規模な修繕が必要なことが予想された。幸いにして東翼の迎賓棟が無事だったため、女王たちは船から降りてそちらへ移った。
方々の片づけと遺体の確認。親女王派のペルフィリア軍から情報の聞き取り。どこからともなく現れた別の無補給船に満載された食糧の配給、等々。
最優先事項をあらかた終えるまでに丸三日。
当初の目的だった大陸会議は、四日目の朝からに決定されたのだった。
早朝。ダイはペルフィリア王城の迎賓棟を歩いていた。先導者はブレンダだ。殿にはランディが付いている。ふたりの騎士に護衛されて向かった先は主君に割り当てられた客室だった。
扉の前で番をしていたデルリゲイリアの騎士が、ダイの来訪を告げる。
「セトラ様がお越しです」
「入れて」
応えはすぐにあり、騎士が扉を開けた。
マリアージュは応接室の長椅子で、上着を下着姿に引っ掛けただけの姿をして、アルヴィナと何やら打ち合わせを行っていた。
ダイは騎士たちを廊下に残して入室した。ふたりに挨拶する。
「陛下、アルヴィー。おはようございます」
「おはよーダイ」
「おはよう。体調はよくなったの?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
長旅に加えて王城の潜入。途切れぬ緊張と無理がたたって、ダイはこの三日間、寝台の住人だったのである。ペルフィリアまで来た人数が少なく、人員不足のなか、ひとり寝ていることには気が引けるが、監視付きなので仕方がない。ダイがひとり無茶をしたことに、近衛たちは皆、ご立腹なのである。
「アルヴィー、今日は早いですね。何の打ち合わせですか?」
「アッセ君が連れている、うちの魔術師の教育の話。セイス君と、カルーロさんだっけ? あのふたりを中心に、本宮と執務棟の修繕をぱーっと片付けることになったから。魔術師がこんなに集まることも、お城の魔術の修繕に関わることも、滅多にないしね。教材にさせてもらおうかと」
「はぁ。なるほど」
王城には多くの魔術が仕掛けられている。
水道、ろ過、防音、防火。鍵にしたって魔術仕掛けのものもある。今回、敵方が派手に破壊活動を行ったせいで、そういった魔術もかなり破損していた。それを集まっている各国精鋭の魔術師たちで直してしまうことにしたらしい。
「ついでにマリアの入浴を手伝って、髪も乾かしておいたよ」
「それはありがとうございます。ヤヨイさんは?」
「わたしの着替えの準備中」
「あ、おはようございます、セトラ様」
寝室の奥からヤヨイがひょこっと顔を出す。
彼女は魔術師だが登録としては女官である。護衛もかねてマリアージュの傍に侍っている。
ダイはヤヨイから衣装を受け取った。マリアージュが空にした茶器を置いて立ち上がる。
アルヴィナが上着をマリアージュから預かる。ダイは下着姿になった主人に今日の衣装を着付け始めた。
国色の天鵞絨生地に複雑に表面を削った宝石を縫い付けた正装。本来なら正規の女官が担当するが、残念ながらここにはいない。連れてこられなかったのだ。正装や着替え、装飾品といった必要最低限はヤヨイが持ち込んでいて、不足分はこそこそアルヴィナがデルリゲイリアへ取りに戻っているようだ。反則である。
物はどうにかなっても、人は機密漏洩防止の観点から、この距離を一瞬で渡らせるわけにはいかない。
と、いうことで、基本はヤヨイがマリアージュの身の回りの世話をしつつ、不足のときはダイやアルヴィナ、ブレンダが手伝う。衣装を簡素にすればマリアージュも自分で着替えられるので、ダイが寝ている間はおおよそ女王とは思えない、女官じみた服で仕事をしていたらしい。
茶器の横に散らばった報告書を一瞥し、マリアージュが嘆息する。
「あー、会議を思うと頭が痛い」
「昨日はロディと遅くまで話し込んでいたって聞きましたけれど、マリアージュ様こそ大丈夫ですか?」
「あんたほど悪くはないから。……わたしの支度が終わったら、あんたは部屋に戻って寝るのよ」
「うう、病弱扱いされてる」
「目方が減りすぎなのよ。どれだけ痩せたのか教えてあげるわ」
「いっ、いだだっ、いひゃいひゃいですって!」
マリアージュがダイの頬を摘まみ上げる。ダイの抗議を受けて彼女はすぐに手を放したが、手をわきわき動かしながら、肉がすくない、と、残念そうに呻いた。
「それに、寝台に入っても寝てないんでしょ、あんた」
主人の指摘にダイは苦笑だけを返し、彼女の背中の釦を留めていった。
眠れるわけがない。
ダイは寝台に縛り付けられている間、ペルフィリアの状況についてほとんど教えられなかった。デルリゲイリアが関係している部分のみ、近衛の口から聞く程度である。ディトラウトや梟、ゼノがどうなったのか。一命をとりとめたヒースは目覚めたのか。何も知らないまま三日が過ぎた。
寝台で布団に丸まって目を閉じるとセイスの問いがいまさらのように反芻される。
『この人は生き残っても、多分、ろくな人生にならない。一生涯を償いに費やす』
よくて軟禁。生涯幽閉。
「ダイ」
袖口から零れる透かし織りを自分で整えながら、マリアージュが呼ぶ。
「何をどうしたいのか、どうありたいのか、あんたはよくわたしに訊いてきたけれど、その逆はこれまでなかったわね」
何気ない世間話のように彼女はダイに尋ねる。
「ダイ――ディアナ・セトラ。あんたの望みは何?」
ダイは主人の衣装を整える手を止めた。
彼女の前には大きな姿見が置かれている。黒に限りなく近い赤――ばらの花びらの色を濃く濃く、重ねたような色。
それを身に着けた主人はうつくしかった。化粧をしていなくても、堂々と胸を張って、鏡に映るダイを真っ直ぐに見つめている。
その強くやさしい眼差しを見返して、ダイは震える声で答えた。
「あの人を――ヒースを、助けてほしい」
「……それだけ?」
追及する主人にダイは首を横に振った。
「一緒にいたい」
一緒に美味しいものを食べて、日常の他愛ないことを話して、時に喧嘩して、また笑い合う。
わかっている。夢のような日々には自ら別れを告げた。知っている。マリアージュに仕えながら、彼とまた共に生きたいなんて我が儘だ。
それでも――……。
ダイは目から涙を瞬きで追い出して告げた。
「一緒に、いきていたいんです」
「――わかった」
着付け終わったマリアージュがダイに向き直る。
そして彼女は命令した。
「なら、あんたはあんたの仕事をなさい。わたしの手が会議で震えないように、わたしの仮面を作ることがあんたの仕事でしょ。わたしの化粧師」
ダイは濡れた頬を手の甲で拭い、主君に恭しく頭を垂れた。
「かしこまりました、女王陛下」