第四章 侵攻する聖女 1
《魔の公国》メイゼンブル。
前進となった旧公国(スカーレット)のころを含めると、その歴史の始まりは神代にまで遡る。この世で二番目に古い国だった。
その国はあまりに長く栄華を極めた。聖女の名の下に覇は成った。だから、人々は――少なくとも、彼らに治められる立場であった下々は、その存在が未来永劫続くものと疑っていなかった。
だが、滅びた。
突然のことだった。先代公主がまぼろばの地へ旅立ち、継嗣であったアルマルディが公主の継承を放棄した。替わって彼女の兄アッシュバーンがその座に着いた。
それから間もなく、紅の都と人々が誉めそやした都ごと、国は魔の本流に飲み込まれ、本当に唐突に潰えたのだ。
その呆気ない幕切れは、大陸中の国々を震撼させた。ペルフィリアもまた例外ではなかった。
当時、ディトラウトは――まだ、ヒースだったころの自分は七つだった。使用人の見習いとしてイェルニの館へ常に勤めるようになり、自分の複雑な生い立ちと微妙な立場を目の当たりにし、妹が生まれたことによる両親への不信が綯い交ぜになった多感なころだった。自分は愛されて生かされているのだ。それを自らに言い聞かせて必死に生きなければならなかった子どもが記憶している事柄は多くない。だが、その中でもメイゼンブル崩壊の事件は、かなり明瞭なもののうちひとつだった。
宗主国の崩壊。その一報は大人たちを打ちのめした。真実を質すため、領主はヒースの父を伴ってすぐに王都へ発ち、残された使用人たちは成すすべもなく右往左往した。影響を図りかねていた大人たちは、政治的、経済的な理由とは別の畏怖を抱いてメイゼンブルの結末を受け止めた。
呪いは、真実だったのだ、という、畏怖だ。
男子は玉座に着いてはならない。男子を王に頂くと呪われる。それはいつ始まったのか。ひとつの慣習であり、暗黙の了解だった。教会の訓戒として浸透していた。聖女の血筋を確実に後世へ伝えるためだったのかもしれない。種は誰のものかわからずとも、子を産む胎は誰の目にも明らかなものだから。
聖女の血筋を絶やすこと。それは権力の失墜を意味した。だからどの国も律儀に男子を玉座に着けないという戒めを守り通した。
呪われるよ、と、告げた方が、信心深い皆に広まりやすかった。最初はおそらく、それだけだったのではないか。
だが、聖女の血を取り入れて以降、初めて男子を頂点に据えて、魔の公国はあっけなく、たった一日のうちに滅びてしまった。
逃げ延びた者たちは語った。
公主の居城より魔力が銀の波紋を描いて同心円状に爆発した。その魔に抵触して、生き延びたヒトガタはごくわずかだった。魔力抵抗の少ない――つまり、内在魔力の低いものは、外部の魔力の圧力に耐えきれず、発狂し、四散し、あるいは異形の獣となった。人のカタチを保てたものも、その畸形化した隣人に殺傷された。
人だけではない。動物も同様に、内側から魔に食い荒らされ、ときに異様の化け物にその身を変えた。
大気は荒れた。天空には紫電が走り、そこここに現れた旋風が建物をなぎ倒す。最後は紫電の檻に囲まれて膨張した魔力が、いきものだったものの多くを肉塊にかえながら、都を丸ごと押し潰した。
あたかも天から主神が手を伸ばし、熟れた果物を握りつぶしたかのようだったという。
都を中心として、かつてのメイゼンブルの領地は、畸形の獣が跋扈し、高圧の魔力に満ちた危険な土地となった。
そのときに、呪いは完成してしまった。
やはり男が玉座に着くと呪われるのだ。
公子が《滅びの魔女》に唆され、妹に替わって王となった。それが、呪いに抵触した。だから、あの、あらゆる魔術の研鑽が成されていた聖女の国ですら、滅び去ったのだと。
そう、多くの人々の心に刻まれた。
(男子が玉座に着いて本当に呪われるなら、なぜ陛下はこれほどに長く、玉座についていられたんだ)
それはセレネスティを支え続けた者たち全員の疑問だった。
イェルニの長子がセレネスティとなったとき、その期間は一年も満たない長さを想定していた。妹の代わりをするのであって、玉座を奪うのではない。だから、どうか。そう願いながら、ディトラウトの主人は女王となった。ひと月を乗り切ったとき安堵し、一年以上、女王となることが確定したとき、呪いを疑い、そしていまは呪いなどないと確信している。
けれどもそれは男子を玉座に据えて長くなるディトラウトたちだからこそ持てる確信であって、ひとたび「ある」と信じた人々の意識を覆すことは容易くない。主神(かみ)の御業であると恐れられたからこそなおさらに。
――その結果が、ペルフィリアのいまの惨状だと、ディトラウトは王都の街中を歩きながら思う。
「――女王はなんということを!」
「だから戦が起きたのか!」
「ねぇ、どこへ逃げればいいの!」
「待て! その小麦はわたしのだ!」
「おかあさんおかあさんおかあさん! やだぁ、返事してよぉ……!」
聖女教会が大陸内の主要国に、ペルフィリアの女王は男子であると暴露した。それぞれの国は民の動揺を抑えるため、事実の隠ぺいに動いた気配があったが、聖女教会の方が上手ではあった。その連絡網を使って、速やかに大陸の各礼拝堂へペルフィリアの罪を発表した。教会の保護施設(アサイラム)に詰めていた流民は、自分たちの不幸は王の罪によるものだったと激怒し、彼らから国内に混乱が伝播していった。
クラン・ハイヴと接する南方は元より、いまは王都も治安が悪化して、そこここで暴動が起きている。
窓という窓は雨戸が下りている。時折、破られた木戸が外れた蝶番をきしませながら揺れていた。狭苦しい路地には薄汚れた布の塊が蠢いている。逃げ遅れた子どもがわんわんと泣いている。
その街の通りを、ディトラウトはひとりで歩いていた。粗末な服を着て、ぼろの外套を頭から被り、顔をよごして歩けば誰も近づかなかった。大聖堂前の広場を横切り、目抜き通りを下る。途中で細道に入り、さらに左折。積まれた樽や、やせさばらえた犬猫や子どもや、腐敗臭を漂わせる何かの塊を跨ぎ越す。煙のような羽虫の一群が、ぶぅんと低く唸って飛び立った。
蜘蛛の巣のように絡まり合う、建物間に渡された洗濯紐を潜り抜けて進んだ先で、ディトラウトは壁とほぼ同化した古い木戸を叩いた。
「ロウエンだ」
ディトラウトは故人となった知己の名を借りた。
「弟からの荷を受け取りにきた」
「弟……?」
扉越しに問いかけられる。
「誰のことだ、そりゃ」
「カイト」
正しい回答に応じて扉が開く。
蝶番の立てる音がひどく耳障りである。そのわずかに開いた空間へ、ディトラウトは身体をねじ入れた。
そこは狭く暗い部屋だった。男がひとり立っている。剃り上げた頭を鮮やかな緑の布で包んだ老齢の男。顔の半分を見事な切り傷が横断している。これまで彼は顔の半分を布で覆っていたから、ディトラウトは初めてその傷を直視した。
「御見苦しくて申し訳ございません」
と、男は言った。ディトラウトは微笑んで首を振った。
「いいえ。傷みませんか?」
「古傷ですからな。まぁ、天候が悪いと疼く程度です。どうぞこちらへ。お足下にお気を付けて」
男が身を翻して部屋の反対にあった戸布を押し上げる。薄暗い廊下を抜け、傾斜の急な階段を登る男の後を、ディトラウトは黙って追った。
男はベベル・オスマンと言う。商工協会西大陸北部の長が彼だった。湾港整備の折に初めて面識を持ち、ディアナをデルリゲイリアに帰すに当たって色々と接触を持った。以後、様々な便宜を図り続けてもらっている。
「――お約束通り、五十、確保しました」
ベベルが営む宿の三階。限られた者しか招かれないのであろう、魔術による厳重な保護と盗聴防止策が施された小部屋で、彼はディトラウトに一枚の書類を出し出した。大陸間を運行する大型船舶――通称、無補給船の直近の出立日、およびその乗車方法が記載されている。それはこの不安定な状況下、誰もが喉から手が出るほどに欲しがっている情報だった。
現在、無補給船の乗車券の価格は跳ね上がっている。運よく券を手に入れられても、暴徒に襲われて命ごと奪われる有様だ。乗船希望者が殺到するため、船は港に係留できず、小舟や人が決して近づけないような、海流の激しい地点で待機している。
ベベルがディトラウトに便宜を図ったものは、その優先乗船席である。
ディトラウトは出立日時、乗船方法を覚えきると、その紙を返却して、自身が持参した書類を提出した。
「こちらが乗船者の一覧です」
「お預かりいたします。――……陛下のお名前がございませんが……よろしいのですか?」
「えぇ。お願いした席は、陛下を逃がすためのものではありません。わたしたちは、種を飛ばしたかっただけですから」
「種」
「――陛下が男であると聖女教会は糾弾し、他の国々もこちらに味方しているとは言えません。国境の兵たちが一気に瓦解しなかっただけましとはいえ、困惑から士気が大きく下がっています。まもなく、クラン・ハイヴに押し負けるでしょう。……民衆も」
窓の外から響く、罵声と悲鳴にいっとき耳を傾け、ディトラウトは嗤った。
「――理性を保っているとは言えない。国を立て直すときに必要な、優秀な文官、技官、護衛兵に、女王を生むかもしれない、貴族の生き残りに嫁いだ、女子。そういった最低限を貴賤問わずに逃しておきたい」
セレネスティは立てこもった城の奥でいまも政治を裁いている。この国が砕けないように足掻いている。
だが、保険はかけたい。
『未来はいつだって不確実だ。だから何事も、分散させておくのが大事なんだよ、ディータ』
師であるクラウス・リヴォートは、いつもそう述べていた。
「他国に渡れば、彼らは戻ってこないかもしれませんが」
「かまいません。死ねば何も残らない。生き残れば――何かの形で寄与してくれるかもしれない。それだけの話です」
ディトラウトの回答にベベルが黙り込む。
ディトラウトは続けて言った。
「人格的にも問題ない人員を選別しました。懸念点があるのならいまのうちに。まだ誰にも告知していないことです。元よりこちらが無理を願っている。削減や入れ替えは可能です」
「いいえ。問題ございません。……しかと、オスマンが承りました」
ベベルが名簿を細く丸めて、懐から入れた金属の筒に入れて懐に治める。その筒は見慣れないものだった。魔術文字が刻まれていたから、何かの魔術具なのだろう。
「……お帰りもおひとりで? 誰が護衛を都合しますか?」
「ご厚意はありがたいですが、結構です。ひとりで戻れる――と、いうより、宰相であると、ひとりになれる機会はとても貴重なものなのですよ。満喫しなければ損です」
ディトラウトの軽口にベベルが小さく笑う。
「差し出口を」
「いいえ。実際、ひとりの方が目立ちません。……わたしたちを襲いたくてたまらない者たちは、着飾った女王や宰相が護衛を連れて現れるのを、門前で待つばかりですからね」
「……内乱であれほどまでに何もなくなった国を誰が立て直したのか。……忘れるものなのですな」
聖女教会が主張した。セレネスティは男子であると。
騙されていた、と、憤る民衆が王城に押しかけている。
幸いだったのは彼らの剣幕に恐れを成した大多数の王城関係者が逃げ出し、セレネスティに真実をつまびらかにせよと迫る者たちがおらず、政務に集中できていること。
また、その中でも残ってくれた人員は、ただ何も聞かず黙々と国の平定と戦争の諸々の解決に努めてくれている点も僥倖と言える。
いや、国境付近で焼け出された避難民を国の東部へ誘導させるために城から叩きだした、ディトラウトの近衛たちは、文句を言っていたが。
『いいか、ディータ。俺はぜったいに戻るからな……全部、説明してもらうからな!』
「――閣下」
用事を終えて立ち去ろうとしていたディトラウトをベベルが引き留める。
訝るディトラウトに彼は端的に告げた。
「荷はアリガ殿に届けられました」
ディトラウトは足を止めた。
知れず、笑みが零れた。
「そうですか」
「国境のうちの支部から伝達が。六花、街、初対面」
正常な国交を持つ国々でも使われる《伝令》系の招力石は、文字数制限を持つものの、長距離間における短時間の遣り取りを可能とする。
(……そういう、ことか)
荷受人からの暗号は理解できる。自分たちはどうやら四方を敵に囲まれてばかりというわけではないらしい。
凍えた手のひらを、やさしく握られた気分だった。
ただ、不可解な点がある。その発信元だ。
「国境?」
「ダダンが来ます」
何のために来ようとしているか、ベベルも知らないのだろう。
要件を述べて沈黙する彼に、ディトラウトは尋ねた。
「……あなたは――彼と会いますか?」
「おそらく。ここを離れるつもりはありませんので」
「なら、伝言を」
ベベルにいくつか託けて、ディトラウトは外へ出る。
再び遠くから聞こえてくる怒号、悲鳴。饐えた臭いが鼻に吐く。そのことに胸が塞ぐ。
それでも焼けていない。まだ、すべては。
ディトラウトは外套の裾を翻して歩き出した。
己が定めた戦場に戻るべく。
「ダイ!」
明るい顔で名を呼び、距離を詰めてきた男は、ダイもよく知る人物だった。
「ファビアンさん! お久しぶりです!」
「うん、ご無沙汰だね。元気そうで何よりだ。会えてうれしいよ。こんな状況だけどね」
「わたしもです」
ダイはファビアンに笑顔を返して、震えに気づかれないよう注意を払いつつ、差し出された握手に応じた。
ファビアン・バルニエは《深淵の翠》ドッペルガムの筆頭外務官にして《国章持ち》だ。ダイと同じく聖女の再誕を寿ぐ特使である。
大陸会議がルグロワ市に特使の派遣を決めて二ヶ月弱。ダイは彼の率いる一団とルグロワ市手前の町で彼と無事に合流した。かの市へ向かう前に宿泊する大きな宿の広間。部屋割りと荷解きのためにざわめく一団を背景に、ファビアンの側近たちにも挨拶する。
「クレアさんもお久しぶりです」
「大陸会議ぶりでございます、ダイ様」
クレアが丁寧に一礼を返す。
栗色の髪をひっつめにした、隙のない出で立ちをした彼女はファビアンの副官、兼、近衛である。いつもは表情に乏しい顔に、彼女は淡い顔を浮かべた。
「ご健勝そうで何よりです」
「クレアさんも。ファビアンさんたちはいつこちらへ?」
「僕らは一昨日の夜だよ。人質になる前の骨休み中ってところだね」
「ファービィ様」
人質、の単語に反応したのだろう。クレアがファビアンを鋭く睨む。ファビアンはうえ、と呻き、叱られた子どものように反論した。
「いや、その、そういう心がけでね、いた方がいいって話でね」
「誰がどう聞いているかわからないという話です」
クレアの方が年下のはずなのに。相変わらず、姉と弟のようなその掛け合いに、ダイは笑った。
彼らふたりとも正しい。
聖女の新たなる誕生を寿いで帰るだけ。ダイはアッセにそのように説明したが、自分たちは大陸会議各国が叛意はないと示すために差し出された、人質のようなものだった。
あまりに長期に渡れば次は他国の国章持ちがご機嫌伺いに赴き、ダイたちとその立場を交代する。もっとも自分たちはその前に、聖女教会には弱体化してもらう心づもりであるのだが。
ルグロワ市へ赴く前に自分たちの置かれている現状を口に出して再認識することは重要である。ただ、クレアの言う通り、ここはすでにルグロワ市が管理する領土でもあって、言動には重々、気を払ったほうがよかった。
「ちょっと心配していたんだよ。ダイたちがちゃんと着けるのかって」
ファビアンが安堵した声音で言った。
「国境あたり、とても荒れているって聞いていたもの」
「東の国境ではなくて、南から迂回して入ったんです」
デルリゲイリアの南は緩衝地帯と呼ばれる、どこの国にも属さない荒れ地が広がっている。通常はその中を東に抜けて他国に入るが、今回はそのまま緩衝地帯を抜ける道を取った。理由はもちろん、ペルフィリアとクラン・ハイヴの戦に巻き込まれないためだ。
「幸い、天候に恵まれたのでどうにか安全に抜けられて……」
「よかったよ。あと数日待っても来られなかったら、先にルグロワ入りしようかって話していたんだ」
「ご心配おかけいたしました」
「ファービィ様」
クレアが呆れた声でファビアンに声をかける。
「いつまでもダイ様たちに立ち話を強いるのではなく、ひと休みしていただいてからにいたしましょう」
「あ、そうだね……ごめん」
「お気づかいなく」
ダイの苦笑にファビアンが首を横に振る。
「じゃあ、あとで落ち合おう。落ち着いたら予定を教えて。僕の側近の誰かに声をかけてくれたらいい……」
ファビアンが軽く身を引いて、視線で収集をかけた人々の紹介を始める。
「クレア。重要な事柄なら彼女に。トムソン、それからグリモア」
騎士らしき壮年の男と、線の細い青年が会釈する。連れている側近はまだほかにいるが、いまは席を外しているという。あとでね、と、ファビアンは言った。
続けて彼と同じようにダイも近しい人たちを紹介する。
「ユベールと、ブレンダです」
護衛につく騎士ふたりが一礼する。ブレンダは女性の騎士だ。ちなみにランディは荷下ろしの手伝いで不在である。
「こちらはアレッタ。何かあれば彼女に声をかけてください」
秘書の文官を示して、最後はダイにぴたりと寄り添う女官を。
「そして、彼女はヤヨイ」
東邦人の面差しのある、ダイとそう年の変わらない少女が、一礼に頭を下げる。
「わたしの侍女になります」
彼女が面をあげると、その纏めた黒髪に挿された銀のかんざしが、ちりんと鳴った。