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第二章 女王の候補者 2


 王城を近くに臨む屋敷の前で、馬車は停止した。
 馬車から降りたダイを迎えたのは立派な門扉である。
 重厚な扉。二輪の野薔薇と幾何学的な図形、そして古代文字らしきものを組み合わせた文様が、取手に彫り込まれている。扉自体の大きさこそはそれほどでないにしても、ダイにとっては十分に圧倒的な造り。これでも、使用人の通用口なのだという。
(アスマの館が霞んでしまう)
 アスマが所有する館はどれも花街随一の凝った造りをしていた――中級の貴族たちも、よい顧客だからだ。しかし使用人が使う通用口一つだけで、これほどまでに貴族と底辺を生きるものの差を見せ付けられる。比べることすらおこがましい。
 先ほどのやりとりといい、本当に自分などがこんな場所に足を踏み入れてよかったのだろうか。ダイは俄かに不安を覚えた。
「ダイ、行きますよ」
 遠巻きに扉を眺めていたダイを、馬車から降りてきたヒースが促す。脇を通り過ぎた彼は扉を開き、じっとダイを待っていた。
 唾を嚥下し、覚悟を決めて歩き出す。
 これほどまでに緊張するのは、久しぶりだった。


 初めて人の唇に紅をのせたとき、手元が震えていた。あの時、自分は母の意志を汲んで生きるために、未知の世界に足を踏み入れたのだ。
 そのときと、同じ緊張がここにある。


「本館は三階まで。屋根裏もありますが、行くことはほとんどないでしょう。外から見えた塔は見張り用です。屋根の上にもあちらから出ることができます」
 ダイを先導して廊下を歩きながら、ヒースは館の構造を手早く解説していく。
「庭師、厨房師たちの控えは一階。侍女と執事の控えは各階にあります。貴方と仕事をするのは彼女達になります。あとで一同を集めて顔合わせをしますからそのつもりで」
「はい」
 ダイはヒースの言葉を気に留めながらも、初めて見る上級貴族の屋敷の構造に目を奪われ続けていた。白く磨きぬかれた、廊下の床石。天井には絵画――あれはフレスコ画だ。西大陸でよく見られる技法。それが、玻璃のはまった窓から差し込む陽の反射光を受けてぼんやりと輝いている。
 天井、柱、扉の一角に至るまで隅を這うようにしてある文字は、魔術文字だろう。耐久性を上げる魔術がこの館の隅々に掛けられているに違いない。アスマの館にも掛けられているが、さすがにここまでしつこく魔術文様が刻まれているということはなかった。
「住居は塔を挟んである別館です。私も含め、マリアージュ様に仕えるものは皆そちらを住居としています。貴方の部屋もそちらに用意してあります。礼拝堂は別館の隣です」
「礼拝堂まであるんですか?」
 ダイは思わず驚きに声を上げ、足を止めた。
 信仰する主神や聖女に祈りを捧げるために、安息日に礼拝堂へと赴く者は多い。花街は無論、街の至る所に礼拝堂はある。しかし一つの住居に礼拝堂が併設されているなど、初めて耳にすることである。
「えぇ。こちらには別の家の皆と集う御堂はありません」
 一家に一つ礼拝堂がある。それが当然のことだとでもいうように言われて、ダイは唸った。本当に、感覚が違いすぎる。
 再び歩き始めたヒースの後を、ダイは慌てて追った。
「今はどちらへ向かってるんですか?」
「別館ですよ」
 迷いのない足取りで通路を曲がり、現れた階段を上り始めながら、ヒースが答える。
「まず部屋に荷物を置いて、湯浴みを」
「お風呂?」
「そうですよ。何か問題でも?」
 首を傾げて、ヒースが振り返る。ダイは少し思案して答えた。
「……いえ。あっちの館では、あまり湯浴みをする機会がなかったので。それに、使用人のためにも、湯殿があるんですね」
 娼婦達に湯殿は与えられていたが、化粧師含む裏方たちの使用は許されてはいなかった。デルリゲイリアは火山帯に位置するため地層によっては湯に恵まれ、湯浴みをする習慣が男女共、市井にも根付いている。とはいっても、そう頻繁に浴びるわけではない。一日の終わり、身体を拭いて済ませるものが大半だ。
「使用人にも清潔感が要求されますからね」
 ヒースが微笑んで言った。
「場所はこれから教えます。今の時間帯は使っているものも、いないでしょう」
「そうですか」
「その間に服を用意しますから、着替えてください。その後、マリアージュ様に貴方を紹介します」
「はい」
「では」
 参りましょう、というヒースの言葉に被さって、女の声が廊下に響き渡った。
「リヴォート様っ!!!」
 甲高い女の叫びに、ダイは思わず視線を廻らせて声の主の場所を探る。一方ヒースは、それがどこから響いてくるものなのかすぐにわかったらしい。上りかけていた階段の導く先を仰ぎ見ている。
「リヴォート様!!!! 丁度よかった!!!」
 かかかかっ、という踵の音を響かせ階段を駆け下りてきた女は、ひどく慌てた様子でヒースに縋った。年の頃二十代半ば。茶の巻き毛をした、細面の女だ。彼女はダイなど目に入らぬといった様子でヒースの腕を取り、来た道を引き返そうとする。
「早く来てください!!」
 困惑らしき表情を浮かべ動こうとしないヒースに焦れた様子で、女が叫んだ。
「マリア様が癇癪を起こされたんです!!」
「またですか?」
 女の様子に反して、ヒースは冷静だった。彼の言葉には抑揚がなく、仕草も小さく首を傾げただけだったが、瞳にはうんざりという文字が刻まれている。しかし女は彼のそんな様子もお構いなしで、掴む腕をぐいぐいと引っ張っていった。
「ロドヴィコ先生もお手上げで……手がつけられないんです!!」
「ティティアンナ、今私は」
 じりじりと階段を上ってはいたものの、ヒースの歩みは緩慢だ。悠長とも取れる彼の様子にとうとう我慢の限界が来たのか、ティティアンナと呼ばれた女は掴んでいたヒースの腕を乱暴に突き放し、階段を駆け上っていった。
「早く!!!」
 ヒースに念押しすることも、忘れずに。
 遠ざかる床に叩きつけているかのような踵の音は、彼女の焦燥を如実に表している。
 溜め息を零したヒースはこちらを一瞥して低く呻いた。
「仕方がありません。付いてきてください」


 ティティアンナに感化されたというわけではないだろうが、ヒースの足取りは忙しなかった。歩幅が違うので、彼の後を追うのも一苦労だ。そこで初めて、ヒースが先ほどまで自分に歩調を合わせてくれていたのだということに気が付いた。気遣い細やかな人だ。
 小走りで彼に付いて行きながら、ダイはヒースに問いかけた。
「マリア様って、マリアージュ様? 癇癪を起こされたってどういうことですか?」
 しかもヒースに、「また」、と表現されている。彼の表情を見る限り、これが二回目三回目のことではないように思えた。
「そのままの意味ですよ」
 ダイの質問に、ヒースが眉間に皺を刻みながら答える。
「言ったと思いますが、マリアージュ様には、少々、我侭なところがおありですので」
 そうはぐらかされて、ダイは押し黙る。頻繁の癇癪は、少々の我侭、という言葉に変換されるものなのだろうか。
 前を向くヒースの厳しい表情に、ダイは追求を諦めた。なんにせよ、会えばわかることだ。
 本当は、もう一つ尋ねたいことがあったのだが。
 息を切らしながらようやっと到着した場所は、三階の一番奥だった。扉が開き、数人分の人影が見え隠れしている。そこに飛び込んだヒースは、険しい表情で周囲に視線を廻らせた。
「一体何の騒ぎですか?」
「あぁ、リヴォート様」
 部屋に悠然と足を踏み入れた彼を認め、集まっていたうちの一人が歩み寄ってくる。黒の礼服に身を包んだ初老の男で、皺の刻まれた顔には疲労の色。
 彼はヒースに丁寧な礼をとった。
「お帰りなさいませ」
「えぇ。またマリアージュ様が? 理由は何ですか?」
「勉学に飽きられたそうです」
「いつものことながら、そんなことで癇癪を起こさないで欲しいですね……」
 呆れの滲む声音で呻いたヒースは小さく頭を振る。その彼を見守っていた初老の男は、こちらの存在にようやく気が付いたらしい。榛色の瞳を僅かに開いて、ヒースに視線を戻した。
「リヴォート様? こちらが?」
「えぇ。そうです。今しがた迎えに行ってきた化粧師です」
「……ですが……」
 男はダイを見つめながら唇を小さく動かす。声にすることは辛うじて堪えたようだ。が、その動きから彼の胸中を読み取ることは容易かった。要するに、ダイの子供子供した外見に、彼は驚きを覚えているのだろう。あまりにも、幼すぎると。
 男をダイに紹介しようと思ったのか、ヒースはこちらに向き直った。正確には、向き直りかけた。
 彼の動きを止めたのは、続きの間から響いた、陶器の砕ける音である。
 割れるというよりも、叩き付けて砕いたと形容するにふさわしい破砕音。続く女の悲鳴。扉近くにいた者達の顔から血の気が引き、ヒースは冷静な面持ちではあったものの、ダイを置き去りにして奥の部屋へと消えていった。
「マリアージュ様!」
 一体何が起こったのか。ヒースに続いて、ダイは彼の消えた方へと歩を進める。
 続きの間は、明るい陽光に満たされた空間だった。
 玻璃のはまった大きな窓。その向こうに広がる空と城を含んだ眺望は美しく、高名な画家の手による一枚絵のようだ。部屋の中央には木目鮮やかである大きな机が鎮座し、それを取り囲むようにしてヒースを含む数人が存在している。
 その彼らと対峙して、一人の少女がいきり立っていた。
 可愛らしい、少女。
 それがダイの抱いた感想だった。
 背は高くはない。中肉中背。しかし少女らしい華奢さと共に、まろみを帯びた線がある。美女ではないが、それなりに整った顔立ちには年頃の少女特有の愛くるしさがあった。しかしそれも今は、怒りめいたものに歪んでいる。
 ゆるく波打つ豊かな髪は紅茶色。それを山吹色の髪飾りで纏めている。身につける品の良い衣服は淡い緑色で、それが彼女の髪の色を引き立てていた。
 少女は今、大きな胡桃色の双眸を吊り上げて、ぽってりとした唇を尖らせている。そばかすの散った色白の頬は、今はりんごのような朱色だった。
「もううんざりなのよ!!!」
 少女は叫んだ。本、筆記具、それの受け皿。手近なありとあらゆるものを、床に叩きつけていきながら。
「毎日勉強勉強勉強!!! 一体これの何が役立つっていうの!?!?」
 少女は地団太を踏み、さらに物を投げ続けた。彼女の足元には様々なものが散乱している。その中には、砕け散った茶器もある。先ほどの破砕音の原因は、十中八九、それだろう。
「女王になられたときに役立ちます」
 少女と対峙するヒースは、さも当然という風に応じた。その淡白な響きが、少女の勘に触ったのだろう。彼女はますます鼻息を荒くしてまくし立てる。
「あんた馬鹿じゃない! 私が女王になれると本気で思ってるわけ!?」
「なれます」
 ヒースは即答した。鼻白む少女に対し、彼は丁寧に言葉を重ねる。
「なれます。ここにいる一同皆、そう思っております」
 抑揚がないからこそ、ヒースの言葉には迫力がある。部屋に反響する、少女の怒声よりも。
「昨日の晩餐会だって……」
 腰の傍で作られた拳に力を込め、唸るように少女は言った。
「あんた聞いてたでしょ! 見てたでしょ! みんなガートルードのあの子が女王になるって思ってるわよ! 人だってホイスルウィズムやカースン、あのベツレイムのところに集まったって、私のとこには見向きもしない!」
「それは貴方様に自信がおありでないからです、マリアージュ様」
「そうね、全部私のせいね、ヒース」
 ダイが仕えることになる女王候補は、自嘲ととれる笑みを浮かべた。
「当然でしょ! 私にはあの子達のような美貌も才覚もない。家柄だって……あの子たちの足元にも及ばない」
「女王候補に選ばれた以上、家柄は関係ございません。選出された時点で、皆同列に数えられます」
「それと同じことを、昨日集まったやつに言ってみなさいよ!」
「いつも公言しているはずですが。私の風評をご存知でない?」
 意外だ、とでもいうように、ヒースが肩をすくめて微笑を浮かべる。その笑みは、実に酷薄なものだった。
「そのようなこと聞かずとも、身をもっておわかりになられていると思いましたが」
 違いますか、と確認を求めるヒースに、マリアージュは沈黙を返す。
 冷笑を深くし、ヒースは言った。
「貴方は女王になります。私が貴方を女王にいたします」
 さらりと為された宣言に、マリアージュは下唇を噛み締めて押し黙る。周囲は水を打ったように静まり返った。それは無論、ダイも同じだ。呼吸さえしてはならないような圧迫感が、部屋を支配している。
 マリアージュはヒースに根負けしたように視線を逸らし――胡桃色の目に、部屋の入り口に立ちすくむダイの姿を映し出した。
 不審そうに眉をひそめ、彼女はダイに向けて唸る。
「……誰?」
 マリアとヒースのやり取りに向けられていた注目が、一斉にダイの下へ集まった。
「あ……と」
 荷物を抱えたまま、ダイは返答に窮した。不躾な視線には慣れているが、さすがにこうもあからさまだと居心地が悪いものだ。
 助け舟を出したのは、ヒースである。
「ダイ、こっちへ」
 そう言って彼はダイを手招いた。彼の招待に従い、足を踏み出す。駆け寄りたい衝動を堪えて出来る限り平常を装ったのは、緊張を見せれば周囲に侮られてしまうからだった。
 ヒースの傍らに並ぶ。彼は安堵させるように軽くこちらの背を叩いて、マリアージュの方へと押し出した。
「紹介いたします、マリアージュ様。彼が件の化粧師です。ダイ、挨拶を」
 ヒースに頷き返し、ダイはマリアージュに向き直る。
「はじめまして、ダイと申します。お目にかかれて光栄です。……マリアージュ様」
 一礼するこちらの、つま先から頭のてっぺんまでを舐めるように観察した彼女は、腰に手を当てて憤慨を見せた。
「子供じゃないの!」
「年は貴方様とそう変わりませんよ、マリアージュ様」
 微笑むヒースに、マリアージュは眉をひそめる。
「いくつよ」
 ずい、と顔を少女に寄せられ、身を引きながらダイは応じた。
「十五です」
「私より二つも年下だわ」
「精神年齢だけで言えば、彼のほうが上です」
 マリアージュに応じるヒースは容赦がない。その毒舌っぷりたるや、援護されているはずのこちらが冷や冷やしてしまう。
 不快そうにヒースを一睨みした後、マリアージュは視線を彼からダイに移し、嘲笑を含んだ声音で尋ねてきた。
「聞いたわよ。あんた、私を女王にすることができるんですって?」
 何故、そのような話になっているのだ。
 ダイは驚きに瞬いてヒースを見上げた。だが彼は人を食ったような微笑を浮かべたまま無言を貫き、目を合わせてすらこない。
「いいえ、マリアージュ様」
 呆れに嘆息し、ダイはマリアージュに否定を返した。
「私は貴女を女王にすることはできません」
 僅かに動く、ヒースの視線。気配で傍らの彼の動きを読み取りながら、ダイは思う。
 自分にはマリアージュを女王にすることはできない。手助けは、できても。
 たとえヒースが、マリアージュを女王にするという役割を、自分に望んでいたとしてもだ。
 だからこそ、これだけは明確にしておかなければならない。
「私に出来ることはただ一つ、貴女を、貴女が望むように、美しくすること。それだけです」
 花街の芸妓達も、たまさか勘違いすることがある。
 ダイの化粧が、彼女らを花形まで持ち上げるのだと。
 だが、それは違う。
「貴女が女王を望むのなら、私の化粧は貴女を女王らしく見せるものとなるでしょう。あなたが望まないのならば、私の化粧は、ただの化粧です」
 女達を輝かせるのは、あくまで本人の努力と研鑽によるものだ。化粧は、最後の一押しをするだけにすぎない。
 例えば、胸を張って面を上げるための。
 たった一押しに過ぎないのだ。
「ヒース、話が違うわ」
 ダイの傍らの男を睨み付けるマリアージュに、非難された当人は表情を変えずに言う。
「私はマリアージュ様が女王になる手助けとなる者を連れて参りますと申しました」
「あんたお得意の、嘘つきじゃない真実じゃない、っていうやつ?」
「心外ですね」
 とはいったものの、マリアージュの皮肉らしき言葉を、彼は否定しなかった。
 険しい表情のまま鼻を鳴らしダイを睥睨した彼女は、やや置いてから、いいわ、と言葉を吐き捨てた。
「顔を触ることを許可してあげるわ。あんたのその化粧とやらを見せてみなさいよ。侍女の化粧とどう違うのかね」
「今からですか?」
「今からよ。今すぐに」
 断言したマリアージュは床に散らばった陶器の破片を跨ぎ、部屋の角に置かれた円卓のほうへと踵を踏み鳴らして近づいていく。そして椅子を引き出すと、どん、と腰を据え、腕を組んでダイを待ち始めた。
 ダイは、ヒースを一瞥した。マリアージュをたしなめるといった様子は、彼から全く見られない。
「何か、必要なものは?」
 そう尋ねてくるということは、彼女の指示に従えということだろう。
 別にそれが不満なわけでもない。驚きもない。こういったことはあるだろうと予想していた。採用試験のようなものだ。
「そうですね。水と……あと、手ぬぐいを何枚か用意していただいても?」
 ダイは微笑んでヒースに依頼した。一つ返事で彼は承諾し、ことを見守っていた侍女の一人に指示を出す。慌てた様子で部屋を飛び出していく侍女を見送ったダイは、待ち構える女王候補の下へと歩き始めた。


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