第十章 懊悩する青年 6
「リヴォート様!!」
乱入した声に、二人同時に身体を強張らせた。
眼前にあったヒースの顔が離れていく。ダイを抱いたまま上体を捻った彼は、書斎の入り口を振り返り、僅かに顔をしかめた。
扉越しに届いた声は、侍女頭のものだ。
彼を探していた、ローラ・ハンティンドン。
「リヴォート様、いらっしゃらないのですか? リヴォート様!!」
いつもの彼女らしからぬ焦りの滲む声。照明を落としてあるはずの部屋に飛び込み、声を張り上げるなどよほどだろう。
何かあったのかと訝るダイの頬を、ヒースが両手で挟んで上向かせる。そして彼は低く掠れた声で囁いた。
「部屋にいてください」
「……え?」
「別館の……貴女の部屋に。話があるから。後で行きます」
額をダイのそれとこつりと合わせ、ヒースは微笑む。
「……待っていて」
その声音は蜜のようにどこまでも甘く、耳にこびりついた。求められるままに頷いたダイを確認したヒースは、立ち上がって踵を返す。そのまま戸口に歩み寄り、素早い所作で扉を開いた。
「何用ですか?」
問い掛けながら隣室に顔を出し、ヒースは後ろ手に扉を閉じる。
「やはりこちらにいらっしゃったのですね」
扉越しに、ローラのやや硬い声が響いた。
「少し、お話が」
「明日の件ですか?」
「いいえ。別件で」
「別件?」
「えぇ。……リヴォート様」
急に、ローラは声音を低める。
「あのとり……たい……すか?」
沈黙を挟み、ヒースもまた語調を落とした。
「……場所を変えましょう」
「……でしょう」
「では……へ」
ほどなくし、足音と扉の開閉音が慌しく響いて、二人の気配は遠ざかっていった。
静寂が、戻る。
しばらくその場で放心していたダイは、膝の上に載ったままの毛布を抱えてずるずる身体を滑らせ、長椅子の上で横になった。胎児のように丸まりながら、身体の芯に残るむず痒さに低く唸る。
誰も様子を見に来なかったのは、非常に幸いだった。
開門を合図に、御者が馬に鞭を入れる。
ミズウィーリ家に向かって走り始める馬車の揺れに身を任せながら、マリアージュは呻いた。
「……だっる」
後日に行われる即位式の心得と言えば響き良いが、要するに説教である。あれをしてはならない。これをしてはならない。この時は右足から。この時は左足から。
社交界においても細々とした取り決めはあるが、女王の儀式のそれは想像以上だった。
マリアージュは決して物覚え良いほうではない。女王として選出されてから数刻で全てを覚えろというほうが無理な話である。他の候補者たちと比較して記憶力と運動神経は最低だと、マリアージュ自身も認めていた。
(……やっぱり、私が女王になったのって、何かの間違いなんじゃないの?)
今日たった一日で蓄積された疲労と鬱憤に、マリアージュは嘆息を零した。
今頃使用人たちは、酒宴を開いている頃だろう。
発案したのはヒースだった。祝賀会か、慰労会か。名目はともかくとして、女王選が終わったあかつきには、使用人たちにもそれなりの褒賞を出してやりたいと主張する彼に、マリアージュが許可を出した。苦しい中、ミズウィーリ家を支えた皆を労うべきだというヒースの意見に、素直に賛同できたからだ。彼と自分の間にある人を従える力の差は、こういった家人ないし部下に対する、気の配り方にあるのだろう。
しかし以前のヒースならば、そこまで使用人たちに対して何かをしようとまでは言い出さなかったのではないだろうか。父が存命の頃、そして父から代行の職を戴いて以後も、彼は一歩引いたところがあった。常に冷えていた目が気に入らなかった。血が通っているのだろうかと思った。信用ならなかった。
そのヒースの言葉にさほど抵抗を覚えなくなったのは、いつからだっただろう。腹立たしいこともあるが、納得できることも増えた。
ヒースの言葉に棘が少なくなったからかもしれない。
彼の目が、きちんと和らぐのだと知ったからかもしれない。
化粧師の少女を見つめる彼の目は、ひどく優しい。常に彼女を気に掛けて、視界の端に入れている。それは二人の仲が奇妙に捩れている今でも、変わっていない。
彼が本当に労いたかった相手は、きっと彼女だ。
ダイが、あの男を真っ直ぐに信頼するから。
どんな風に扱われても、彼のことを庇って信じるから。
マリアージュも、それなりにヒースのことを信用するようになった。結果、彼の態度も随分と軟化したように思う。
とはいえ、小煩いことには変わりない。
(帰ったら説教なのかしら)
城で顔を合わせた際、今日の出来栄えについてヒースは何も言わなかったが、打ち合わせ通りに事を運ばなかった件に関し、お小言がないとは言いきれない。もしあったとしても、手短にして欲しいものだった。城でうんざりするほど長話を聞いたのだ。そろそろ耳を休めたい。
耳だけではない。気だるい身体を早く横たえたかった。
(それにしても、まだ着かないの……?)
上級貴族の本邸は基本、城に隣接するように配されている。距離はそれほどないはずだ。
苛立ちまぎれに窓枠に額を寄せたマリアージュは、そこでふと、馬車が走っていないことに気がついた。
待っていろ、とは言われたが、いつまで待てばいいのだろう。
自室の寝台の上で横になり、左右に転がりながらヒースを待ってしばらく経つが、彼の来る気配はない。もしかして自分は、からかわれているのではないだろうか。転がり続けることに飽きて仰向けに寝そべったダイは、盛大に溜息を吐いた。
(マリアージュ様も、帰ってこられないし)
かなり遅い刻限だが、マリアージュはまだ城で拘束されているらしい。
そろそろ宴も、お開きになっている頃だった。
片付けの手伝いに行かなければならない。そう思って上半身を起こしてみたはものの、腰が重い。
「……話って、なんなんだろう」
嘆息まじりに、ダイは独りごちた。
話がある、とヒースは言った。だから、部屋まで来ると。彼がそのように述べたのは初めてのことだった。
ヒースはダイの部屋にむやみに足を踏み入れぬよう気を払っていた。それは上司と部下という関係である限り、親しい姿を必要以上に他者に見せることをよくないものとして判断したからだろうし、性別が明らかになって以後は、ダイが女であるということを気にしてのことでもあるのだろう。彼が拒絶を見せるようになってからは――単純に、避けていただけだろうが。
彼の手の感触を思う。
どろりと甘い蒼の瞳を。傍にあった心音と吐息を。
熱が、身体を侵蝕していく。
ダイは頭を振り、水でも飲もうと思い立って寝台から降りた。
「うー……あたまいたい」
考えすぎからか重みを増した頭を押さえ、水差しの下へとふらふら歩く。小さな円卓の上に置かれたそれを手に取ったダイは、足元から伸びる影法師の異様な濃さに、はっとなって窓を見た。
月のない夜。
暗闇に沈んでいるはずの外で、光瞬いている。
それに遅れて響く、地鳴りのような音。
ごぉおおおおん……
「かみなり?」
呟きに応じるように、空は再び光にひび割れた。
数拍置いて、また雷鳴が轟く。
暗雲立ち込める空。雨はまだ降っていないようだが、時間の問題だろう。
まだ帰らぬマリアージュは大丈夫だろうかと案じたダイは、雷に照らし出された得体の知れぬ影に、思わずその場を飛び退いた。
どん、と、低い音がまた天を揺るがす。
その音に身じろぎも見せず、鳥が一羽、窓の外からじっとダイの様子を窺っていた。
「……鳥、ですか」
床に映った鳥の影が巨大な人のそれに見えたのは、光の角度によるものだろう。ダイは胸を撫で下ろし、気を取り直して水を汲んだ。
高杯に口をつけて、窓を横目で確認する。
鳥はまだ、そこにいる。
鷹か、鷲か。猛禽の類だ。このような人のいる場所まで降りてくるなど、珍しいものだと思った。
水を飲み干す。高杯を卓に置く。
鳥の闇色の眼が、ダイの姿をじっと映し出している。
さすがに奇妙さを覚えてダイが窓に近づくと、鳥は逃げるように飛び立った。
かか、と。
光の槍が天から突き下ろされる。
窓を開ける。湿度の高い風が吹き付け、部屋の空気をかき乱した。
空へと昇る鳥を見送ったダイは、ふと地上に見慣れた姿を見つけて瞬いた。
(ヒース)
そして、ローラ。
当主代行と侍女頭の二人が、庭の林に向かって歩いていた。その取り合わせは決して奇妙なものではない。先ほども話があると、連れ立って部屋を出たのだ。
不可解なのは、この時間帯だった。
深夜、しかもこれから、雨が降り出そうというのに。
か、と。
光が瞬く。浮き彫りになる庭の陰影。それはゆっくり闇へと埋没し、また雷によって照らし出される。
二人の姿は、光と闇が交錯する中、林の奥へと吸い込まれていった。
しばらく彼らの残像を追っていたダイは、窓を閉じて踵を返した。
外套を引っ掴み、鍵を掛けることももどかしく部屋を出る。
そして静まり返っている廊下を駆け出した。
なにかひどく、嫌な予感がしていた。
「もーダイってば、どこへいっちゃったのかしら! まぁたお酒に酔ってどっかで眠っちゃったのかなぁ」
ダイのために取り分けた菓子を前に、ティティアンナが口先を尖らせている。ヒースは侍女頭と共に宴に姿を見せていたというのに、彼を探しに行ったダイが戻る気配はない。
「ダイってお酒にそんなに弱いの?」
酒をちびちびと舐めながら、アルヴィナは尋ねた。
「うん。かなり。前それ知らなくて、二杯ぐらい飲ませたら、よっぱらって廊下で眠りこんでたらしいの」
「へーそんなことあるのねぇ」
アルヴィナは声を立てて笑った。本当に話題に事欠かぬ、飽きない子だ。
しかし付き合うのも、そろそろ限界だった。
城に上がるという彼女と、これから会う機会を作ることは難しいだろう。一度は挨拶に顔を合わせるとして、これ以上関わるつもりはなかった。
他者というものは、暇つぶしの為の都合良い存在。それでいい。
自虐的な気分と共に酒を飲み干し、アルヴィナは立ち上がった。
「廊下で倒れてないにしても、気分悪くなってお部屋で休んでるんじゃなぁい?」
たった一舐めしただけの酒が、ダイにどこまで影響を及ぼしたのかはわからない。だがそこまで酒に弱いというのなら、ありえぬ話ではない。
「あ、そっか。それがあるね」
「そのお菓子、持っていってあげる?」
「うん。そうしよ。それで元気そうだったら片付け手伝ってって言お」
「そうね、もうお開きだしね」
仕度するティティアンナを待つ間、アルヴィナはぐるりと広間を見渡した。料理もあらかた平らげられ、綺麗になった皿は重ね合わせて卓の端に置かれている。誰もが上機嫌で談笑に徹していた。
「アルヴィナさんの部屋も整えないとね」
「ありがとう。お手数お掛けします」
「いいのいいのー。こういうときじゃなかったら、ダイと三人で枕並べても楽しそうだけどね」
そうねとアルヴィナは微笑み返した。
二人並んで広間を抜け、明かりの絞られた廊下に出る。ふいにティティアンナは立ち止まり、窓を眺めて眉をひそめた。
「雷だわ」
断続的に、外から光が差し込んでいる。宴席では皆の歓談に紛れていた音が、屋敷との距離を少しずつ詰めながら響いていた。
「マリアージュ様、大丈夫かしら」
「そうね。……門番の人たちはこういうとき、どうしてるの?」
「門の横の小屋の中にいるんだけど、土砂降りになったらあそこに閉じ込められちゃうわね。今のうちに余分目にお夜食持っていってあげようかしら。まぁ、お腹いっぱいだとは思うけど」
「そうね」
彼らも交代で宴に参加していたらしい。今頃は見張り小屋の中で、膨らんだ腹を擦っていることだろう。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「人が……」
アルヴィナの問いにおざなりに答えたティティアンナは、皿を抱えたまま駆け出した。彼女の後を追いかけ廊下を曲がると、ぐったりと壁にもたれかかる男の姿が視界に飛び込む。屋敷の警護を担っている男の一人だった。
ティティアンナは窓越しに彼の姿を見つけたのだろう。ここは先ほどの場所から中庭を挟んで丁度反対側にある。庭に出るための出入り口で、男は意識を失っていた。
その場に膝を突いたティティアンナは皿を床の上に置き、男の肩を蒼白な顔で揺さぶる。
「ど、どうしたの? ねぇしっかり……!」
「大丈夫よ。この人眠っているだけだわ」
「……え?」
アルヴィナは腰を屈めて、男の手元に転がる杯を拾い上げた。広間で酒を振舞う際に使われていた杯と同じものだ。
「おかしいわ……」
ティティアンナが立ち上がりながら、混乱した面持ちで呻く。
「だって、キリムさんが、警備のみんなにはお酒出さないようにって」
「口にしたとしても、こんな風に眠り込むまで飲んだりしないわよねぇ。みぃんな、我慢してたし。酒瓶も見当たらないしねぇ」
杯を観察していたアルヴィナは、魔の跡を見つけて目を細めた。
(……魔術、じゃない。丸薬。あぁ、泥酔じゃないのね。ただの、昏睡)
杯に入っていたものは確かに酒だ。しかしその中に薬が含まれていたようだった。
呪術に則って作られた、即効性の睡眠薬。
そこまで見極めたところで、アルヴィナの意識下に張られた糸が、りん、と音を立てた。
守護を施した者に生死の危機が訪れたときにだけ揺れる、不可視の糸だ。
「……ねぇティティ。他の警備の人たちがどうなってるのか見て回ってくれる?」
「え、えぇ。それは構わないけれど」
「出来ればみんなで見回ったほうがいいかもしれないわ」
「……わかった」
低めた声が、事態の深刻さを言外に告げる。
ティティアンナは神妙に頷き、皿を抱えて広間へ引き返していった。
その姿を見送ってアルヴィナは嘆息した。
守護を掛けている相手は二人だ。外すことを忘れていた。
「あーんまり、関わり合いになるのは、遠慮したいんだけどなぁ」
しかしこれだけただ酒をご馳走になったのだ。一回分ぐらい働いてやってもいいだろう。
アルヴィナの呟きは、自身の姿と共に虚空に溶けた。
階段を駆け下り、ヒースたちの姿を見かけた中庭に出る。外套の前を掻き合わせて、ダイは鬱蒼とした林の中に飛び込んだ。
胸が、逸(はや)る。
何かが、警鐘を打ち鳴らしている。
急かされるようにして走りながら、ダイは胸中で呟いた。
(鳥)
ダイの様子を窺っていたあの鳥。どこかで、見たことがあった。
最初は、そう、確か。
(ヒースと一緒に、荒野で野党に襲われたとき)
鳥が旋回していたことを覚えている。やけに大きな鳥だと、朦朧とした意識の片隅で思ったことも。その次はいつだっただろう。あぁ、女だとつまびらかになった日。ヒースと共に、屋根の上で朝焼けを見たとき。彼に名を初めて呼んでもらったときだ。あの時も、まだ白み始めたばかりの空を鳥が飛んでいた。たった一羽だけ、飛んでいた。
次はいつだっただろう。覚えていない。だが庭で髪飾り用の花を摘んでいるとき。窓辺に立つとき。街へ降りるとき。度々、視界の端に鳥がいた。
鳥などどこにでもいる。見覚えあるというほうがおかしいのかもしれない。しかし、確信があった。
ダイをいつも見つめていた鳥は、あの鳥だ。
(さっき、ハンティンドンさんが、鳥って、言ってた)
ヒースを探しに執務室に来た彼女は彼と相対し、何かを尋ねていた。言葉全てを聞き取ることは叶わなかったが、確かに彼女は『鳥』と口にしていた。
思い当たるものが一つある。
『遣い魔』。
アルヴィナが連れていた鳥は鴉を模していた。ヒースはそれを一目で見破った。以前にも彼女とやり取りをしていたからこそ一瞬で看破し、遣い魔についても詳しかったのかと思っていたが。
――……もしもそうでは、なかったとしたら?
彼もまた、遣い魔を連れていたのでは、ないだろうか。
(だってあの鳥がいたのはいつも、ヒースと一緒に、いるときだった……!!!)
あの鳥が、遣い魔であるとは限らない。
気のせいならばいい。思い過ごしならばいい。
だが、符号が揃いすぎていた。
雫が、頬に当たった。
とうとう降り始めたかと空を仰ぐ。空を厚く覆う漆黒の塊が、ぽつぽつ水滴を零し始めている。ダイはさらに足を速めた。腐葉土は柔らかく、ヒース達の足跡を明確に残して道を示していた。
少し、開けた場所に出る。円形の空間。草木、疎(まば)らな。
その中央に、二人の影があった。
ダイは立ち止まった。ざり、と、土を踏みしめる。
「……ヒース」
呼びかけに応じて、男が振り向いた。
その拍子に、彼の傍らにいた老女が、ゆっくりと地に伏していく。
どさ、という、人の倒れる音。
雷が、男の顔を照らし出す。
彼は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
その手を、血に濡らしたまま。
雨が、激しさを増して大地を叩いた。