第九章 煩悶する少女 7
顧客台帳を眺めながら、アスマは溜息を吐いた。
常連客は女王選の仕度に追われて、足が遠のいていた。それを補填している客が、異邦人である。しかし彼らの中には他国の娼婦達に対する扱いと同じ感覚で、芸妓達に乱暴を働く者が大勢いた。用心棒を増やすべきか。それとも、客に制限をかけるべきだろうか。頭を悩ませる。
彼らが単なる観光客ならば良いが、その来訪の理由は徐々に――……。
「アスマ」
軽い叩扉の音と共に響いた呼びかけに、アスマは顔を上げ、眼鏡を外しながら応じた。
「お入り。なんだい?」
招きに応じて姿を見せた童女が、頭を下げる。
「失礼しますアスマ。お客さまです」
「客?」
鸚鵡返しの問いは疲れのせいか、どことなく険を帯びていた。
「どこの馬鹿だいこのクソ忙しい時間に訪ねてきたのは。ドミニクかい?」
同じように娼館を営む男の名を、アスマは忌々しげに挙げた。先日もこの花街の方針について話が決裂したばかりのその男は、こちらに勝る考えを思いつくと居ても立ってもいられぬようで、互いの館が『営業中』であるにもかかわらず、頻繁にどかどか踏み込んでくる。
「いいえ。ドミニク様ではありません」
アスマの予想を、童女は首を横に振って否定した。
「……あの、それが、ですね」
彼女の歯切れの悪さに、アスマは眉をひそめる。
「誰なんだい? 早く言いな」
「私です」
廊下から、童女のものとは別の声が返答した。
聞き覚えのある声。アスマは驚いて勢いよく席を立つ。
「リリカ。無理に取り次ぎを頼んですみませんでした。もう仕事に戻っていいですよ」
「でも」
「忙しいでしょう。みんなの世話に戻ってください」
現れた小柄な影が、童女の背を外へ押し出す。
ちらちらと様子を窺う彼女に、仕事へ戻るよう手振りで示し、アスマは客人を部屋に迎え入れた。
「……仕事辞めてきたのかい?」
「いいえ。辞めてないですよ」
アスマの問いに否定を返した影は後ろ手に扉を閉めて周囲を見回す。そしてこの場に二人だけであることを確認し、頭の覆いを指に引っ掛けて肩口に落とした。
「お久しぶりです」
挨拶を口上した化粧師は、前触れなき訪問をアスマに詫びるように、静かに頭を下げたのだった。
アスマの書斎の中央で芸妓たちに取り囲まれたマリアージュが、びしりと凝り固まっていた。
『へええぇえええぇえぇぇ』
マリアージュをしげしげ眺めまわした芸妓たちが、声を揃えて唸る。露骨な視線を隠そうともしない彼女たちに、マリアージュは気後れしているようだった。
その様子を眺めながら、ダイは苦笑する。
ギーグたちに会ったとき以上に、マリアージュはここの女たちに対して相当の衝撃を受けたようだった。彼女の驚きはわからなくもない。肩口に落ちる長い髪を艶めいた仕草でかき上げる芸妓たちからは、貴族の子女が好むものとは異なる匂いの強い香が漂う。惜しげもなく太ももを晒し、裸衣の裾を翻す姿は、舞姫のように優美で、娼妓に相応しく淫靡だ。
その様は、きらびやかながらも厳かな雰囲気漂う貴族社会では、まず見られない。
「なぁにぃ? ダイの新しい職場のお嬢様だぁって聞いたからどんなものかしらって思ったけど、大したことなぁい!」
「お姫様、腰が引けてるわよ! それじゃぁ旦那様に突かれたときいいトコに当たんないわよ!」
「あぁんあんたってば下品! もうちょっと考えてものいいなさいな!」
「なんですって!?」
「ねぇ貴女って我侭とか気が強いって言われない? そんな目ぇしてるもの。生意気そー!」
「あらアタシは好きよぉ。おとなしーぃお姫様よりは気が強いほうが親近感持てる」
「あんたもその気の強いところ直さないと。しとやかぁな私にガレットの旦那様寝取られても文句言わないで頂戴」
「あんたのどこがしとやかなのか言ってみなさいな?」
「あらんあそこもそこもここも全部よー」
甲高い笑い声を上げる女達を、アスマが一喝する。
「あんたたち! 油売るために呼んだんじゃないよ! アタシの言いつけが出来ないんだったらさっさと仕事に戻んな!」
『はい、アスマ!』
兵隊のように直立し、陽気に声を揃える女達に、アスマが頬杖を突いて嘆息を零した。
「やれやれ。返事ばっかりいいんだからあの子達は」
「すみません、ご迷惑おかけして」
ダイは萎縮しながらアスマに詫びた。多忙な彼女に一仕事させてしまって、申し訳ないことこの上なかった。
ギーグが用意した馬車を使って花街に入ったのは、半刻ほど前のことである。一旦マリアージュとアルヴィナを馬車の中に待たせて、ダイは一人でかつての職場に入った。アスマに助けを請う為である。
花街には女の客を抱える娼館もあるものの、案内できるアスマの娼館周辺とは区画が違う。女の客を基本的に歓迎しない場所を、自分たち三人だけで廻るより、芸妓を案内に付けたほうがよいだろうと判断した。しかし芸妓にそのような融通の利く娼館など、アスマのそれしか思い当たらなかったのだ。
無理な依頼にもかかわらず、アスマは二つ返事で了承し、芸妓を呼び集めてくれた。
「迷惑だなんてヤダァ、ダイってばつれなーぃ!」
耳元で声が弾け、すい、と伸びてきた白い手がダイの頬を横向かせる。音高く押し当てられる唇。突然のことに瞬くダイをそのぬばたまの黒瞳に映した女は、少し怒ったように息を吐いた。
「誰が迷惑って言ったの迷惑って。ちょっと教えてごらんなさぁい?」
「迷惑上等もうちょっとあたしたちに甘えればいいのよ」
別の女が私の子ってば馬鹿ねぇと呟いて、ダイの頬に付いた紅をまるっこい指先でちょいちょいと拭う。すかさず誰かが、あんたのじゃないわ、私たちのよ、と訂正を入れ、ぎゅうぎゅうとダイの身体を抱いた。
肉弾む柔らかい身体の下で、ダイは窒息しそうになる。
「いい加減におしよ、あんたたち」
眉間に刻んだ皺を指先でなぞりながら、アスマが嘆息を零した。
「何度も言わせるんじゃないよ。アタシの言いつけを聞けないんだったら……」
「さぁってまずは館の中案内してあげるからねぇ!」
アスマが皆まで言う前に、ダイから離れた芸妓の一人が、マリアージュの腕を取る。彼女の周囲に、他の女たちもわらわらと集まった。
「いきましょうかお嬢様。今宵は特別。アタシたちのあそこもここもそこもぜぇんぶ見せちゃう!」
「ちょっとまちなさ」
「いきましょいきましょー!」
芸妓達に廊下へと引きずりだされ、マリアージュが悲鳴を上げた。
「ダイ!」
慌てて立ち上がって後を追いかけようとしたところでアスマに袖を強く引かれ、ダイはつんのめりそうになった。
「アスマ?」
「案内はあの子らに任せてあんたはもう少しアタシに付き合いな」
「でも」
「別に構わないだろう?」
「大丈夫よ、ダイ」
今まで事の成り行きを傍観していたアルヴィナが、戸口に立つ芸妓の一人に並んで口を挟む。
「マリアは私が見てるから。のぉんびり、お話楽しみなさいな」
ひらりと手を振った友人は芸妓と連れ立って、マリアージュをのんびり追いかける。その背を呆然と見送るダイに、アスマがからかいの言葉を掛けた。
「あぁ言ってくれてるってのに、そんなにアタシに付き合いたくないのかね、この子は」
「……そういう言い方ないじゃないですか」
席にすとんと腰を落としてダイは口先を尖らせる。アスマは笑いに肩を震わせて、ダイの頭を優しく撫でた。
あぁああぁあああぁぁ……
甲高い女の声が、廊下に反響している。悲鳴とも歓喜とも微妙に異なる、初めて耳にする類の声に、マリアージュは足を止めた。
「何……?」
「お盛んなんでしょ」
マリアージュの呟きに、芸妓の一人が応じた。
「あれは誰かしらねぇ」
「ルミー?」
「違うわ。デライラよ。かわいそうに、今日はきっと嫌な客なのね」
だから声を上げて誤魔化してるんだわ。そうね。可哀相。
女たちのやり取りを、マリアージュは理解することができない。
「どういうこと?」
「ヤな男に抱かれてるってこと。お嬢様、私たちはここで身体を売ってるんだってご存知?」
くすくすくすと、女たちは嗤いさざめく。マリアージュは頬が恥辱にかっと熱を持ったことを自覚した。
「……さっきと態度が違うのね」
ダイがいた時と今とでは、女たちのマリアージュへの対応は随分と異なる。先ほどはただ明るいばかりだった。今はその目に軽蔑が覗く。
芸妓の一人が薄く笑った。
「当然でしょ。告げ口する?」
「しないわよ」
マリアージュは即答した。何故、自分が化粧師に泣きつく真似をしなければならないのだ。
「あらそう?」
むっと唇を引き結ぶマリアージュに、芸妓たちは意外そうな目を向ける。
「あなたは?」
「しないわよぉ?」
水を向けられたアルヴィナも、余裕たっぷりに微笑んだ。彼女に問いかけた芸妓は、明らかな落胆を見せる。
「つまらないわ」
「アルマ、早く終わらせてダイのところに戻るわよ。せっかく帰ってきてるのに、話できなかったらがっかりだわ」
「そうね」
アルマと呼ばれた芸妓は大きく頷くと素早く身を翻す。こっちよ、と、その白い手がマリアージュを奥へ招いた。
肩に掛けた天鵞絨の上着を揺らして歩く女の後姿は、マリアージュの目を通しても美しい。身体を売るというからには陰気な空気が漂っているのだろうという予想を、この娼館の女たちは見事に裏切っていた。立ち姿は堂々として、振る舞い一つ一つが目を惹き、自信に満ちている。
この女たちに、ダイは育てられたのだと、感慨を抱いた。
「あんたたちは、ダイが好きなのね」
「そうよお嬢様。もちろんよ」
アルマが振り向きもせずに答える。別の芸妓がマリアージュの腕を取り、耳元にそっと唇を寄せた。
「あの子に冷たく当たるようなことがあってごらんなさい。遠慮なく、あんたを裸にひん剥いて、男たちの中に放り込んであげるわ」
歩きながら、芸妓の身体を押しのける。マリアージュの身体からぱっと離れた女は、薄く笑っている。そこに本気の色を気取って、マリアージュは吐息した。
あぁ、彼女たちは本当にダイのことを大事に思っているのだ。
ならば、なぜ。
「どうしてあんたたちは、ダイをこの花街に、閉じ込めたの?」
芸妓たちが、一様に色を失くす。
ただ一人、アルマだけが、知ってるのね、と声には出さずに唇を動かした。
以後、彼女達はマリアージュたちを黙ったまま『連行』する役に徹した。飴色に磨き上げられた年季を感じさせる床に、こつこつ靴音だけが響く。遠くから女の声が時折それに混じって反響した。あぁあぁぁ。獣のようだ、とマリアージュは思った。獣の、咆哮のよう。
その声は徐々に靴音をかき消すほどに大きくなって、マリアージュの耳朶を打つようになった。
「見なさい」
廊下に並ぶ部屋の前で足を止めたアルマが、戸布を持ち上げ、マリアージュの腕を引き寄せる。飛び込んできた光景に、マリアージュは目を剥き、身を引いた。
男と女が裸で重なり合っている。その姿はまさしく、獣そのものだった。
ばさりと、戸布が下ろされる。
アルマが、冷めた目でマリアージュを見下ろしていた。
「これが私たちの仕事。けれど私たちはこの仕事に誇りを持ってる。この世界を壊されたくない。だから全てを脅かす可能性のあるダイをね、閉じ込めなければならなかったの」
「でも、大事なんでしょ?」
「そうよ。大事よ。あの子は、私たちの可愛い可愛い」
「……むすめ?」
マリアージュの言葉に、アルマは微笑んだ。
「もしくは、いもうと」
彼女は再び、歩き出す。
アルマたちはマリアージュたちを娼館のあちこちに案内した。女二人が芸妓たちにぞろぞろ付き添われて歩く様は、この場所で明らかに浮いている。しかしマリアージュはそれに臆するつもりはなかった。出来る限り、余さず見て帰る。そう決めたのだから。
芸妓たちは皆明るく、裏方も決して陰気ではなく、だからなおのこと、彼女たちが一丸となって取り組む事の辛苦がよくわかった。
ダイもかつて、この中にいた。
「つらくないの?」
「つらいわよ」
愚問にも、アルマは律儀に答えた。
「辛いけれど、技を受け継いできたあたしたちだからこそ、上手くできることだわ。それにあたしたちは誇りを持ってる。辛いからって逃げても、その先には別の辛さが待ってるのよ。皆が別々の辛さを背負って奉仕して、世界は成り立っている。あたしたちが貴族さまを嫌いなのは、優遇されすぎて甘ちゃんになって、しんどい責任から逃げるからよ」
「そう」
「お嬢様」
彼女はふいに立ち止まると、マリアージュを見下ろした。綺麗な黒の瞳だった。その眼差しは、貴族の子女たちのそれと比べ物にならぬほどに透明で、気高かった。
「あなたは辛い?」
「つらいわ」
正直に答えた。脳裏にはアリシュエルとその母、ルディアの姿があった。彼女たちの期待が重く、けれど逃げれば、屈辱が待っている。芸妓たちとは比べ物にならぬほど能天気な苦悩だと嗤われるかもしれないが、マリアージュにとっては辛かった。
アルマはマリアージュの辛さの意味を追求はしなかった。頑張りなさいと、彼女はただ静かに言った。
「四人も呼んでくれなくてよかったんですよ。みんな忙しいでしょう」
一人居れば十分だというのに、アスマが呼び寄せた芸妓の数は四人。売れている顔ばかりである。だというのに、アスマはダイに金銭を払わせなかった。
「いいんだよ」
煙管に火を入れながらアスマは言う。
「あの子たちは今客が取れないんだ。仕事っつっても雑用ばっかで退屈してたところさ」
「お客が取れない? 何かあったんですか?」
訊き返したダイに、アスマは紫煙を吐き出しながら答えた。
「客に乱暴働かれてね。怪我してんだ。あの子達」
穏やかでない話だ。ダイは思わず眉をひそめた。
「乱暴? 四人も?」
「本当は寝込んでる子がもう少しいるね。最近客の質が悪いんだ」
「どうして……?」
「増えたのさ。国外からの客がね」
アスマは煙管を指に挟んだままの手で、こめかみを揉み解す。
「ダイ。なんでこの街の人の数がこんなに膨れ上がっているのかわかるかい?」
「……聖女の祝祭が近いからですか?」
女王選出の儀が行われている間、この都では様々な催し物がある。それ目当ての客が街の目抜き通りは無論のこと、聖女の祝祭が近づくにつれ、路地にまで人が溢れかえるようになっている。
「そういう理由もあるね……でも、本当の理由は、外の治安が悪くなってきたのさ」
「そと」
「そう。デルリゲイリアの、外だ」
虚空に溶け往く紫煙を、アスマは倦怠感の滲む目で追っている。
その暗い眼差しに、ダイは喩え様のない不安を覚えた。
「最近、っていうよりね、もうずっとずっと悪かったんだ。こっちはエイレーネ女王陛下がいらっしゃったから、そこまで影響を受けてこなかっただけなんだろうがね。街を見ていて気がつかなかったかい? 観光にしちゃ毛色の悪い奴らが多いだろう」
アスマの指摘を受け、街の様子を思い返してみたはものの、感想としては、せいぜい人が増えてきたな、という程度だった。
「流れ込んでくるのは難民やら傭兵崩れやらだ。そういうやつに限って、金もないのに女遊びに興じたがる」
アスマの口調から、その深刻さの度合いが窺い知れる。
「そんなにひどいんですか? 外……」
「メイゼンブルが滅びた後に、荒れなかった国はほんの僅かだ。デルリゲイリアはそのうちの一つなんだよ、ダイ。覚えておおき」
ダイに忠告したアスマは煙管を咥え直し、先ほどマリアージュたちが消えた扉に視線を移した。
「それでもこの国もそろそろ洗礼を受けるときだろう。次に女王になる娘さんは大変だろうさ。しっかりと立たなければ、荒れている外から庇護を求めて人が雪崩れ込む。よからぬ輩も大勢混じってくるようになるだろうね。野党、傭兵崩れ、滅びた国の兵士たち……」
「その人たちが雪崩れ込んでくるとどうなるんですか?」
答はわかっていた。しかしダイは敢えて訊いた。
アスマは愚かしい問いを嗤う様子もなく、淡々と答える。
「怪我する子たちが増えるだろうさ。あの子らみたいにね」
アスマが顎で示したのは、明るく笑いながらマリアージュを連れて行った女たちだ。
表面的にはどこも悪いようには見えなかったが、客を取らせないというのはよほどである。一体、どこを傷つけられたのだろう。
「……あの子はどうなんだい? 『椅子』には近いのかい?」
マリアージュは女王になるのか否か。
ダイは頭を横に振った。
「わからないです。位置的には一番遠いところにいるんですけど」
最有力候補であったアリシュエルがその座を退き、女王候補は四人となった。最終的に誰が女王の座に就くかは、アリシュエルを支持していた層がどう動くか次第だろう。その中でマリアージュは勢力面において圧倒的に分が悪い。
「でも面白いお嬢さんじゃないか。こんな場末に降りてこようなんてね」
「面白くないですよ。大変だったんですから」
笑うアスマに、ダイは今日一日の苦労を訴えた。
「花街だけ見たいってわけじゃなくて、今日一日中裏街うろうろしてたんですよ。革細工の工房まで見学させてもらったんですから。革なめしの臭いでマリア様、後で倒れちゃいましたし。起きたと思ったら、開口一番花街に連れて行け、ですよ。日暮れまでに戻るってお屋敷には言ってあったのに、無理やり予定捻じ曲げて」
「倒れてもこっち見学したいだなんて光栄だねぇ」
「……アスマ」
睨みを利かせて呻いたダイに、アスマは軽く両手を挙げて降参を示し、紅の塗られた唇をより一層深い笑みで彩った。
「楽しそうじゃないか」
「楽しくないです大変なんです」
「充実してそうだね」
「人の話聞いてますか?」
「聞いてる」
娼館の女主人はくつくつ喉を鳴らし、磨かれた爪が飾るその細い指で、長い髪を掻き上げる。
「どんなものかと思っていたけどね。こうやって連れ回される程度にはあのお姫様に気に入られているってことじゃないか」
「……裏街案内できる人間が、私しかいなかっただけだと思いますけど」
「裏街の出身。ひいては花街の出。案内しろっていうことは、あのお姫さんはそれを知っているんだろう? それでもあのお姫様はあんたを雇っているわけだ。アタシは貴族のお姫様がどんなものかそれなりに知ってるけどね。奇特だよ」
「……わかってます」
わかっている。知っている。
貴族と平民という溝は深い。それでもマリアージュは花街出身のダイを変わらず傍に置いている。顔を触らせる。それがどれほど特異なことか。
花街は裏街の中でも一線を画して存在する。城壁の際に追いやられた区画。平民の女達ですら、そこで身体を売る芸妓を汚らわしい目で見る。芸妓でなくとも、その区画で生きている者たちは、すべからく同様に見られる。
それを鑑みれば、マリアージュのダイに対する扱いは奇特以外のなにものでもない。
「いいお嬢さんじゃないか」
「優しいですよ。ちょっと表現下手ですけど。あと乱暴はよして欲しいですけど……」
それから思いつきで行動しようとしないでほしい。振り回されるこちらの身にもなってほしいものだ。
彼女の突飛な我侭には、いつも閉口させられる。
が。
「私は好きです。できればあの人に女王になってほしい」
非常にわかりにくいが、マリアージュはとても優しい。人の話にもきちんと耳を傾ける。聞いていないようでよく聞いている。己に向けられる言葉が、真実の忠言か単なる美辞麗句か。話す人間の振る舞いもよく見ている。
彼女は己が目で見たものを基準に判断し、惑わされない。その真っ直ぐさはとても気高く目に映り、ダイを誇らしい気分にさせた。
「……アタシは経営者だからわかるんだけどね、ダイ」
煙管を盆の上に置いて、アスマは話を切り出した。
「人の上に立つっていうのは大変なんだ。その責を、背負う存在を理解していればいるほど、苦しみが増す」
花街で娼館を抱える女主人。彼女の肩には芸妓を筆頭に、化粧師、髪結い師といった裏方、次代で芸妓となる見習いの童女たち他、大勢の生活が覆いかぶさっている。
「あのお嬢さんが馬鹿ならさっさと捨てて帰っておいで。そうじゃないなら支えてやんな。辞めるつもりはないんだろう? 女王になろうがなるまいが、あのお嬢さんにとっちゃぁこれからが大変だろう。貴族様の生活は、女王次第でがらっと変わることが多いっていうからね」
女王はやはり、己の家とその従僕を重用する傾向にあるという。
もしマリアージュ以外の誰かが女王になれば、力のないミズウィーリ家は自然と追いやられていくだろう。
マリアージュはその気質からともすれば孤独になりがちな少女だ。自分が仕えたところで物事が好転するというわけでもないが、支えてやりたいと思っている。
「……身体のほうは、相変わらずかい?」
成長を止めてしまった身体のことだ。声を潜めて躊躇いがちに尋ねるアスマに、ダイは頷いた。
「多分変わってないです。……変わったようにみえます?」
アスマは僅かに身を引いて、ダイの様子を観察する。しばらく後、彼女は残念そうに首を振った。
「いや、正直言ってわからないね。障りのほうはどうなんだい?」
月の障り。ダイの年頃ならば、初潮は当に過ぎていておかしくない。
「来てないです」
だが、兆しも何も見られなかった。
「……いつまでそのままなんだろうね」
ダイの身体は中途半端だ。全くの子供というわけではない。全裸になればその線は曲線を帯び、胸も僅かに膨らんで、男には見えない。だが薄い身体はそれ以上まろみを出すことも、脂肪を蓄えることもしなかった。
女というにはどこか幼く、子供というには歪な身体のまま、もう五年。
「まぁ、どうにかなるんじゃないですか?」
アスマは意外そうな目をダイに向ける。
「ずいぶん楽観的じゃぁないか。どうにかなるっていう根拠はあるのかい?」
「根拠は……ないですけど」
性別も成長のことも、内在魔力から看破してみせた魔術師が、ダイがすぐに成長を始めるだろうと仄めかした。そのアルヴィナの言葉がダイを非常に楽観的にさせていた。しかし彼女が内在魔力を視る技をあまり他者に知られたくないようだったこともあり、アスマにそう説明することはできなかった。
「でも今、無理に色々取り繕う必要がないんで、急いでどうにかなりたいっていうのはあまりないんですよね」
ぽろりとダイの口から零れた本音を、アスマは訝る。
「どういう意味だい?」
「マリア様、私の身体のこと知ってるんですよ」
彼女は瞠目して動きを止めた。
「成長止まってるってことも、性別のことも」
そうなった原因も何もかもを。
知っていて、マリアージュはダイを召抱える。
「だから気長に様子を見てみますよ。そんなことでうんうん唸ってたら、マリアージュ様に鬱陶しいって怒鳴られますしね」
人の機微に聡いマリアージュは、ダイが何かに悩んでいるとすぐに気づく。考えても詮無いことに鬱々として、彼女の機嫌を損ねたくはないものだ。
「まぁ、元気そうで安心したよ。女王候補の顔師なんてどんなもんかと思っていたけどね。貴族様がえげつないのはよく知ってるから」
「マリア様はあれですし、ミズウィーリ家の他の人たちもみんないい人たちばかりですよ」
すんなり馴染んだとは言わないが、当初あった様々な出来事が今では笑い話だ。ティティアンナを筆頭に、皆よくしてくれる。侍女頭のローラだけは宣言の通りダイと距離をとっているものの、仕事をする上では問題ない。
「あんたは生きられる場所を見つけたってわけだ」
アスマは煙管を指先で弄びながら微笑んだ。
「嬉しいね」
そして一拍遅れて、苦渋に似た色をその瞳に宿す。
「けどやっぱり少し、寂しいね」
母が死んで以降。
否、その以前から。
ダイを手元に置いて、庇護し続けた娼館の女主人。
ははおやがわりのひと。
自分は、彼女の元から飛び立ったのだ。
「アスマ」
「忙しいだろうけど、これからはちょくちょく顔をお出し」
手紙の中でも決して帰って来いとは述べなかった女が、ダイの言葉を遮って早口に告げる。
「事前に連絡くれれば、あんたのことを知ってるやつを門の前に立たせる。あとは館の裏口から入って、まっすぐアタシの部屋にくりゃいい」
時折、訪ねることを許される。
それは、ダイの生きる場所が花街ではなくなったことを意味する。
一抹の寂しさを感じながら、ダイは呟いた。
「ありがとうございます、アスマ」
アスマは煙管を咥えて微笑すると、ゆったりと紫煙を吐き出した。
虚空に消えていく煙をしばらく眺めていた彼女は、突如ダイに向き直る。
「そういやあの男はどうしてるんだい?」
「……あの男?」
「リヴォート氏だよ。ヒース・リヴォート」
ダイを、この花街から連れ出した男。
その名に、呼吸を奪われたような気がした。
「元気でやってるのかい?」
「元気ですよ」
ダイは微笑んで即答した。
ミズウィーリ家の方角に目を向け、男の近況を補足する。
「でも――……忙しくて。少し……しんどそうです」
蒼の目を、思い返す。
自分を拒絶する冷たいそれ。
嫌いなら嫌いでいい。ただ、彼がダイを拒絶する、距離を置きたがる、理由さえ教えてくれれば。
こんなにも気に掛かることはきっとなかった。
ない、はずだ。
日増しに焦燥と疲弊の色を濃くしていく彼は、毛を逆立てて保護されることを厭う手負いの獣のようだった。
アスマの沈黙を怪訝に思い、ダイは首を傾げる。彼女は煙管を口元から外し、呆然とした様子で瞠目していた。
「……どうかしたんですか? アスマ」
「ダイ、あんた……」
ばんっ……!!
アスマの言を遮って、扉が乱暴に開かれる。
「たっだいまぁー!!」
戻ったことを主張する芸妓たちの声が、賑やかに部屋に響き渡った。