第一章 娼婦の顔師 5
母は美しかった。幼子の目から見ても美しかった。
そして儚かった。母の美しさは、その儚さに起因するものだったのかもしれなかった。
だからこそ、今の自分がある。
ダイは鏡の中の自分の姿を見つめながら嘆息した。
緑の黒髪、月色の目、白磁の肌。ミズウィーリ家からの遣いの男が口にした形容詞を、胸中で反芻する。母が愛したダイを形作る色合いは、決して優しいものではなかった。最後の最後まで、母を苦しめたものだったのだ。
それが自分を苦しめたのかと問われれば、ダイにはわからないけれど。
ダイは母の形見である小さな化粧箱に指を滑らせた。いつも仕事に持っていくものとは、別のものだ。黒の漆塗りに金粉と螺鈿が施されたそれは東大陸の細工物で、父からの贈り物だったという。今は、化粧道具の代わりに、母の形見など、数少ない私物が収められている。
昼下がりの花街は静かだ。世界と反転してあるこの場所は、今は眠りの最中。窓辺から外を見下ろすと、動く人影は雇われの清掃人のもののみで、通りは気だるい空気に覆われていた。
この街が好きだった。この街で生まれて、この街で育てられたのだ。
もしもこの腕が役に立つというのなら、最後までこの街で働いていきたかった。しかしそれは、自分を育ててくれた者達に対して、本当の意味で報いることにはならない。
いつかは、出て行かねばならぬと知っていた。
強く生きる女達の優しさに、いつまでも甘え縋っているわけにはいかなかったから。
ダイは空気を入れ替えるために開けていた窓を閉じ、遮光のための布を引いた。寝台を軽く整え、上着に袖を通し、仕事道具を取り上げる。そして住まいを後にした。
ヒースが、二回目に自分を訪ねてきてから、十日目。
今宵は、ヒースに返事をしなければならない、約束の夜だった。
日常は繰り返される。
女達のさざめくような笑い、甘い香り、酒に酔う男達の陽気な声。
「ダイ」
芸妓の一人に化粧を施していたダイは、アスマの呼びかけに手を止めぬまま応じた。
「待ってください。もう少しで終わります」
「いいよ。終わったらアタシの部屋に来な」
女の唇から筆を離す。布で筆先についた紅を落としていきながら化粧の出来栄えを確認し、ダイは背後を振り返る。
もうそこに、この館の女主人の姿は見当たらなかった。
アスマの部屋には、ダイを招いた彼女以外、誰の気配もない。煌々と灯された明かりが、設えられた調度品の輪郭を映し出している。
「そこにお座り」
言われた通り、指示された長椅子にダイは腰を下ろした。
「リヴォート様は、まだ?」
「あぁ、まだ来てないよ。仕事の都合で多少遅くなると遣いが来た。律儀なことだ」
てっきりもう来たのか、もしくは来ないという連絡があったかの、どちらかだと思ったのだが。
最後まで彼のほうから要望を撤回してくることを期待している自分に、ダイは笑いたくなった。
「じゃぁ何故私をここに?」
ヒースへの返答ならば決めている。そして決めた時点で、ダイは真っ直ぐにアスマの下へ報告の為に足を向けたのだ。しかし彼女は、ダイにその答えを述べることを許さなかった。選択の結果を、ダイはまだアスマに告げていない。
「あんたに渡したいものがあったからね」
そう言って微笑むアスマは書籍の並ぶ戸棚の奥を探り、小さな箱を取り出した。手のひらほどの箱だ。
「何ですか? これ」
「あんたの父親が残したものだよ」
アスマは答えながら、箱の上に積もる埃を吹き払う。勢いよく巻き上がったそれに軽く咳き込んだ彼女は、鼻を啜(すす)りながらダイに歩み寄ってきた。
「あぁやだやだ。もっと離して埃払うんだったよ。こっちの棚も掃除さぼってちゃ駄目だねぇ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。……ほら」
アスマが、ダイの目の前で箱を開ける。そこにあったものは、額縁に収められた、母子の肖像画だった。
「……父の絵ですか?」
「そう。亡くなる寸前のね」
「なぜ、もっと早くに渡してくれなかったんですか?」
父の遺品はない。母が、その手で全てを焼いてしまったから。
糾弾しながら、ダイはアスマから箱を受け取った。
「裏面をご覧よ」
腰に手をやりながら、アスマが促してくる。怪訝さに首を捻って、ダイは箱の中から絵を取り出した。
手のひらほどの大きさの肖像画は軽い。片手で持ち上げ、裏面に視線を落とす。木の板の縁には、父のものと思しき筆跡で、署名と絵の題名が記されていた。
その題名に、息を呑む。
「ダイ、これを渡すのは今がふさわしい気がした。だから渡す」
絵を箱に収め、泣きそうになりながらダイはアスマを見上げた。
「私、この場所を出たくない」
「それでも出るって、決めたんだろう?」
「お見通しですか」
「当たり前だよ。あんたのおしめ替えやったの、一体誰だと思ってるんだい」
長椅子に腰掛け、盆から煙管を取り上げながら、アスマは懐かしそうに目を細めた。
「赤ん坊の頃から見てるんだ。考えてることなんざ手に取るようにわかるさ」
アスマには感謝している。この館の娼婦たちも、すべてを飲み込んでくれたこの花街に生きる他の人々にも。
けれど、いつかは。
だから、今それを選び取る。
「あのひと、純粋に、私の腕を必要としてくださっているようでした」
ヒース・リヴォートと名乗った、ミズウィーリ家の遣いの男。
雇おうとしているからこその丁寧な対応だったのかもしれない。しかしそれを差し引いても、自分とは違う生まれであるだろう彼の態度は、ダイにとって好ましいものだった。
新天地を選ばねばならぬというのなら、少しでも好感を抱いた者のいる場所のほうがいい。
それでも。
「アスマ」
「なんだい?」
「私、行きたくない」
行きたくない。出たくない。
ここが私の家だ。ここが私の街だ。ここが私の生まれた場所だ。
けれどそれが、この館にいる娼婦たちを苦しめていることになる。
アスマを、苦しめていることになる。
「行きたくないです」
「けれどあんたは行くと決めた」
「そうです」
「帰ってきたくなったらまた帰ってくりゃいいだけの話さ」
煙管を吹かし、紫煙を吐き出しながらアスマは片眉を上げる。
「違うかい?」
「……違いません」
違わないが、思い当たらなかった。もし新しい仕事場で不当な扱いを受ければ、戻ってくればいいだけの話だとは。
「はぁ、アタシもこれから忙しくなるね。あんたの穴を埋める顔師を探すのは骨が折れるよ」
どこから引き抜こうかと、経営の競争相手の名前を列挙していく女に、ダイはほろ苦く笑った。
館を訪ねてきた男に、ダイが女王候補の顔師となることを承諾する旨を告げたのは、それから程なくしてのことだった。
こうして、享楽の街で腕を揮う化粧師は、表の舞台に引き出される。
誰も、その足跡に刻まれていくだろう歴史の意味を、知らぬまま。
物語は幕開ける。
長らく、夜、活動することを常としていたダイにとって、夜明けは一日の終わりを意味していた。
しかし、花街を出て行くことになるその日の夜明けは、新しい生活への始まりだった。
「それじゃぁ元気で、アスマ」
「あぁ、しっかりおやり」
馬車の前で、見送りに姿を見せた娼館の女主人と、軽く抱擁を交わす。今生の別れでないにしても、感慨深いものがあった。
見送りに来たのはアスマだけではない。仕事明けの芸妓達が、揃って顔を見せている。アスマは彼女たちに、地方の劇場の顔師として引き抜かれたと説明したようだ。見送ってくれる芸妓達の顔は朗らかで、心からダイの進展を祝福してくれているように見えた。
「リヴォート様、うちの自慢の顔師をよろしくお願いいたしますよ」
芸妓達と順番に別れの挨拶を交わしていたダイは、アスマとヒースの会話をふと耳にした。
「えぇ。誉(ほまれ)を耳にする日を、楽しみにしていてください」
言葉は平穏だし、二人とも笑顔だ。だというのに薄ら寒さを覚えるやり取りに見えるのは、気のせいだろうか。
見送りには、ダイをたまさか顔師として雇ってくれていた、他の娼館の経営者たちも姿を見せていた。一回りも二回りも年上の男達は、ダイの頭をくしゃくしゃと撫で、背を強く叩く。乱暴に見送られ、苦笑しながらダイはヒースに続いて馬車に乗り込んだ。
遠ざかっていく見知った通り。慣れた街並み。
「そのように感傷的になる必要はありません」
慰めにも取れる言葉に、窓から外を眺めていたダイは対面へと向き直った。
仕事だろうか。馬車に腰を落ち着けるや否や取り出した書類を、ヒースはゆっくりと繰っている。
「休暇のときにでも、また顔を出せばいい」
「出していいんですか?」
「あまり頻繁なのはよくありませんが、出るなと禁止するつもりはまだありません。貴方の素行次第です」
そう言って彼は紙面から視線を上げる。蒼の双眸は笑っていた。
「貴方はあの花街の人間すべてに、好かれているようだ」
「私はあの場所で生まれました。皆、家族のようなものです」
ささやかな誇らしさを胸に告げると、ヒースは複雑な色を瞳に宿し、視線をまた下げてしまった。
「……何か?」
失礼なことを言ったのだろうか。
「いえ。でしたら納得がいく、と思っただけです」
「納得?」
「アスマに脅されましたのでね。貴方を不当に扱うようなことがあれば、街を挙げて、全力で報復すると」
冗談のような台詞に、ダイは呻いた。
「まさか」
「娼婦たちの報復は怖い。この国では彼女らは力を持つ。この国は――芸妓の、国だ」
ヒースの意味するところを汲み取って、ダイは口を噤んだ。
芸技の小国。
またの名を、芸妓の小国。
そう呼ばれるほどこの国の娼婦達は評判高く、国内外に強く根を張り、貴族たちと拮抗する社会を形成している。
「もちろん、不当に扱うつもりなどありませんよ。お約束の通りの扱いはさせていただきます」
ヒースは契約をダイと結ぶ際に、ダイが信じられぬような額の給金や保護を約束した。
高名な芸術家相手ならばともかく、ダイは娼婦を相手に仕事をしてきた顔師である。ヒースの持ち出してきた契約内容の充実さは、ダイの出自を鑑みれば、とても稀有なものだった。
「……貴方は、何のために、そこまでして、マリアージュ様を女王へ押し上げようとなさるのですか?」
マリアージュの為に、有能な者を年齢や出自を問わず集めようという気概が、ヒースからは覗える。皆無ではないにしろ、貴族階級の世界ではなかなか見られぬ傾向なのではないか。館に来る客と会話する機会はダイにもあるが、そこから知れるのは血と家と歴史を重んじる世界だ。才能だけを重んじる人間がいたとしても、慣習を振り切ることは難しい。
それは決して貴族だけの話ではないのだ。ダイはよく知っている。
ヒースはそうですね、と思案する風を見せた後、その、蒼い目を細めた。
「私の主が、真の意味で、国の主と、なるために」
そのために、手段も、使う人材も、優れているなら利用することを躊躇わないと、彼は言った。
その意思に介在する彼と女王候補の絆とは、一体どんなものなのだろう。
これから、自分が仕えるその少女は、どんな娘なのだろう。
ダイは再び、窓の外に視線を向けた。
静かに目覚めを待つ街を、馬車は走る。
やがて街の外壁の彼方から姿を現した朝日が、ダイの目を強く焼いたのだった。
舞台は西。長らくに渡り、魔術大国によって支配を受け続けていたその土地は、魔女の手により白紙となった。
これは、その空白となった覇者の座を求めて足掻くものたち、それを傍観するもの、そしてその影にあった、一人の化粧師の物語である。