第八章 墜落する競争者 3
ダイに上着を投げ、ヒースは踵を返す。歩きながら外套を羽織る彼の後を、ダイは慌てて追いかけた。
「ひ……り、リヴォート様。一体何が?」
「馬車の中で説明します」
ヒースは即答した。それ以上、馬車に乗るまで何も言うつもりはないらしい。ダイも問い詰める余裕などなく、足早に階段を駆け下りる彼の後に付いていくことで精一杯だった。むやみに口を開けば、舌を噛む。
玄関先には、マリアージュと並んで年の頃四十前後の婦人が立っていた。面識のない女性。だが癖のない黄金の髪を綺麗に結い上げたその顔には、顔見知りの面影がある。
(アリシュエル様だ)
彼女の持つ、すっと整った鼻梁や碧い目は、アリシュエルのものと全く同じだった。
「ダイ」
婦人に目を奪われていたダイを、マリアージュの低い声が呼び止める。視線の先を彼女へと移動させたダイは、背筋を伝い落ちていく冷たい汗に息を呑んだ。
怒っている。
唇を引き結び、眉間に深い皺を刻む主人の顔は、癇癪を起こす一歩手前のものである。
「帰ってきたら色々みっちり教えてもらうから覚悟なさい」
「……え。え?」
「ヒースもよ。あんたたち二人、帰ってきたら説教だからね」
状況が上手く飲み込めず、ダイはヒースを仰ぎ見た。彼はマリアージュの怒りを気にした様子もなく、目礼だけを彼女に返す。そして開け放たれた玄関の扉の向こうへ、素早く歩いていってしまった。
腕を組み、その顔を憤怒に染めるマリアージュも、もちろん事態を解説してくれそうにない。
ダイは溜息を吐きたい衝動を堪えながら主人と彼女の隣に佇む貴婦人に一礼し、外へと駆け出した。屋敷の前に付けられた馬車に、御者の手を借りて乗り込む。そして席に着くやいなや響く馬を鞭打つ音に、何を急いでいるのかとますます困惑を深めた。
対面に腰を下ろすヒースは、腕を組んで俯き、だんまりを決め込んでいる。
ミズウィーリ家の門を馬車が潜るまで待って、ダイは口を開いた。
「もうそろそろいいんじゃないですか? 何があったのか教えてくださっても」
ヒースは夕方から夜に掛けて出かける予定があったはずだ。今から街へ降りるということは、その約束を反故にするということである。そんな火急の状況を、付いて来いといわれたダイが知らぬままでは不都合が生じるだろう。
「アリシュエル嬢が消えました」
ヒースが、簡潔に答える。
ダイは瞠目して反芻した。
「アリシュエル様が、消えた……?」
「だけならまだよかったんですがね」
ダイの様子をちらと窺ったヒースは窓枠に頬杖を突き、疲労の滲む嘆息を零す。
「問題はバイラム氏です。度重なる反抗に、見つけ次第彼女を抹殺しろとまで言い出したらしいんですよ」
「……なっ」
なんということを、言い出すのだ。
「それ、本当なんですか? ほ、本当に……アリシュエル様を、殺せ、だなんて?」
ヒースが嘘を吐くはずがないと知りつつも、真否を問わずにはいられなかった。
「言ったからこそ、ルディア夫人がおいでになられた」
「ルディア夫人?」
聞き慣れぬ名前に、ダイは鸚鵡返しに尋ねる。ヒースは既に過ぎ去ったミズウィーリ家の方角を一瞥した。
「貴女も先ほど見たでしょう。アリシュエル嬢のお母上」
「でもなんでミズウィーリ家に?」
「アリシュエル嬢が最後にまともな会話をした相手が、マリアージュ様だったようです。ホイスルウィズム家の夜会から戻り、今朝方侍女が部屋を見たらもぬけの殻だった、と。何か話を聞いていないかと、訊きに来られたのですよ」
なるほど、と頷き、ダイは続けて質問する。
「……ロウエンのこと、話したんですか?」
先ほどマリアージュは彼のことを聞き知ったような口ぶりだった。後で全てを白状してもらうと、彼女はダイに息巻いていたのだから。
「全ては話してませんよ」
ヒースは答えた。
「アリシュエル嬢の行く先に、心当たりがあると言っただけです。貴女の友人がアリシュエル嬢の恋人であった。そちらにいるかもしれない、と。……あなたが手紙を渡したくだりなども、話していません」
「……そうですか」
俯いたダイに、彼は言葉を付け加える。
「白を切り通して秘密裏に探しに出るというのも無理だったでしょうしね」
「……アリシュエル様を内緒で探すんですか?」
「ま、それもありますが……むしろ探さなければならないのは、貴女の友人たちのほうです。このままでは貴女や貴女の友人達の命が危うい」
ヒースの緊迫した声音に、ダイは顔をしかめた。
「……どういう意味ですか?」
「……最後にロウエンと会ったときの別れ際、彼は言っていたでしょう? 最近、身の危険を感じることがあると」
確かに、言っていた。
しかし一体どういう意味なのか問う前に、彼は去ってしまったのだ。
「おそらくバイラム氏は、最有力女王候補に付く邪魔な虫でしかないロウエンを暗殺するために、刺客を放っていたはずです。あちこちに、彼を探す目があったでしょう。だから彼は身を隠していたに違いない」
それがロウエンが逃げ回っていた本当の理由だと、ヒースは言う。
その推論に、ダイは蒼白になった。
「……じゃぁ、手紙を渡しに行ったとき」
ロウエンを探していたバイラムの刺客に、ダイの姿が見られていたかもしれない。
ダイがアリシュエルとロウエンの間を取り持ったとバイラムが知っているならば、ミズウィーリ家は彼からその報復を受ける可能性がある。かつてダイを叱り飛ばした時のヒースの危惧が、真に迫った。
「大丈夫ですよ」
予測に硬直するダイに、ヒースは言った。
「彼は安全を確信していなければ貴女の前に姿を現さなかったはずだ。貴女と彼が会っている姿を直接見られていることはないでしょう。ただ、彼を探してあちこちを嗅ぎまわっていた輩に、貴女の存在が引っかかっていることは、十分にありうる」
何せ自分は、ロウエンが出入りするミゲルの店に頻繁に通っていた。そこからロウエンと自分との間に繋がりを見出すことは容易い。
「だから、ルディア夫人に話したのは一種の保険です」
「ほ、けん?」
話の筋が見えず訊き返したダイに、ヒースは小さく頷いて話を続けた。
「あなたは偶然、友人の医者とアリシュエル嬢が親しい仲だと知るに至った。私はその場に居合わせた。が、それ以上は何も知らない。やましいことは、何もない。彼女を隠しているといったこともないし、彼女を、探すことにも協力する」
戻った後も手紙云々のことは一切口外するなと、ヒースは暗に言い含め、膝の上で手を組んで断言する。
「これで、バイラム氏がさらに貴女を尋問しようとすれば、ルディア夫人が黙ってはいないでしょう」
「どういう風に?」
「協力までした他家の者を不当に扱おうなどと、誇りあるガートルード家の矜持に反する、とね」
確かに、ヒースの言うことには一理ある。
しかし、だ。
「……ルディア夫人は、ご当主に頭が上がらないって聞きましたけど」
ティティアンナから受けた説明を思い出す。表舞台に滅多に姿を現さぬガートルード家の貴婦人は、当主たるその夫に従順だと。また娘のアリシュエルも、同様のことを述べていた。
「それは誤解です」
ヒースはきっぱりと否定した。
「あの女性はなかなかしたたかですよ。私は敵に回したくありません」
ヒースがそこまで断言することも珍しい。ならばこの件に関しては、ルディアを味方につけておけば大丈夫なのだろう。
やや間を置いて、ヒースが控えめに付け加える。
「……貴女に関しては保険をかけましたが、ご友人たちが危うい立場にあることは変わりない」
ロウエンはもちろん、彼の弟やその付き添いの男、たまり場になっていた店の主であるミゲルも。
「アリシュエル嬢まで殺そうというのですから、彼らに関してはもっと容赦がないでしょう。……早めに彼らを保護しなければ」
焦燥らしきものを滲ませ、ヒースは歯噛みする。彼のその様子を見つめながら、ダイは言葉を失った。
(なんて)
なんて、人なんだろう。
アリシュエルが失踪したとヒースが耳にしたのは、ダイと同様、つい先ほどに違いない。だというのにどうして彼は短時間で、こうも多くの人に救いの手を差し伸べようと、思索を廻らせることができるのだろう。
本当ならば、ミズウィーリ家のことで手一杯のはずだ。その上で、彼はダイの友人たちをも守ろうとする。
どうしてこの人は、こんな風に動いてくれるのだろう。
(だきしめたい)
抱きしめて。
全力で叫びたい。
ありがとう。ありがとうって。
「……ヒース」
囁きは、耳に届かなかったのだろうか。ヒースは目を伏せたまま、反応を示さない。
「……リヴォート様」
今度こそヒースは面を上げ、その蒼の目でダイを捉える。
狭い馬車の中。膝の触れ合う距離。しかし自分たちの間には、目視できぬ壁がある。
その隔たりに苦く笑いながら、ダイは感謝の言葉だけを述べた。
「ありがとうございます」
「……なんのことですか?」
とぼける男に、ダイは言った。
「私の友人も、気に掛けてくださって」
再び頬杖を突いたヒースは、こちらから視線を外す。
「先ほども言いましたが、ルディア夫人はしたたかな女性だ。ガートルード家を実際に掌握しているのはあの婦人に他ならない。彼女に恩を売っておいても損はない。……貴女方のことは、そのついでです」
淡々とした解説に、ダイは笑った。
「いいんです。ついでで。……ありがとうございます」
ヒースは何も言わない。
彼は瞼を閉じ、会話の終わりをダイに告げる。そして目的地に到着するまで、彼は終始無言だった。
彼女は走っていた。
息を切らして走っていた。
自ら糸を切り、自ら舞台を降りた人形を、迎え入れるものなどもうないだろう。
それでも走っていた。
この命が絶えるのならせめて。
せめて愛した男との思い出を、最後に掻き抱いて眠りたかった。
ミゲルたちにも危険が及ぶとヒースから警告を受けた時点で、覚悟はしていた。
しかしその予想を上回って、彼の店はそのひどい有様を、辿り着いたダイの前に晒した。
狭い店内に散乱した商品。引きちぎられた遮光幕。斬りつけられた痕が見え隠れする薄汚れた壁。
くすんだ玻璃のはまる窓から差し込む陽光が、薄暗い店内に残る襲撃の痕跡をくっきりと浮かび上がらせている。
変わり果てた様子の店内に、ダイの足取りは重かった。
先んじて店に入っていたヒースは、物陰を丁寧に調べている。人の不在を確かめているのだろう。彼を真似て、ダイも横倒しになった机の陰を覗き込んだ。不審な影がないことを確認して腰を上げようという矢先、床の上に点々とした赤黒い染が目に入る。
(血痕)
ぞくりと。
悪寒が背筋を這い登った。
ダイは立ち上がり、その染を追った。赤黒い斑点は店の奥へと続いている。
床に散乱する割れた玻璃を避けながら注意深く進んでいると、ふいに腕を取られた。
「ダイ」
いつの間にか背後に回っていたヒースが、苦い表情でダイを見下ろしている。
「むやみに進んだら危ない」
「でも血の痕が」
床の染に目を向けながらダイは言った。
「奥にミゲルたちがいるかもしれない」
「彼らの血とは限りません」
「それは、そうですけど……」
ヒースの言葉も一理ある。しかし血痕が店の奥へと続いているからには、襲撃されたミゲルたちがそちらへと逃げた可能性が高いのだ。
「ちゃんと、気をつけますから」
行かせてくれ、と訴える。だがヒースは首を横に振り、ダイの懇願を棄却した。
「落ち着きなさい」
そして彼はどこか侮蔑すら混じった眼差しでダイを見据え、嘆息混じりに付け加える。
「貴女が行ったところでどうにもならない。どうしてそう考えなしに行動しようとするんですか」
ロウエンに、アリシュエルからの手紙を渡した時といい。
そんな風に以前の失態を持ち出され、さすがにダイの心中は穏やかでなかった。
「だ……っ、だったら、どうして私を連れてきたりしたんですか!?」
ヒースの手を振り払いながら、ダイは反論した。
「そんな風にいうんだったら、連れてこなければよかったんですよ! ミゲルたちが怪我してるなら早く見つけてあげたいですよ! 私の友人なんですから!!」
本当は、血痕を見つけた時点で奥の部屋へと駆け出したかった。そうしなかったのは、何が飛び出してくるともしれない危険な状況であり、連れてきてくれたヒースに冷静さを欠いた行動を見せてはならないと、自制したからだ。
「ダイ」
「もういいです! 一人で様子見に行きます!!」
再び伸びてくる男の手を弾き飛ばすようにして、ダイは身を翻した。
「ダイ、落ち着きなさい」
「落ち着いてます」
「落ち着いてない」
「落ち着いてます!」
「ダイ」
ヒースの静止を、ダイは無視した。無言のまま奥へと進んでいく。
横倒しになった戸棚を踏み越え、作業机を迂回しようとした。
その刹那。
「ディアナ!!」
響き渡ったヒースの声は、まるで、悲鳴のようだった。
訳わからぬまま、乱暴に背後へ引き倒される。
銀色の何かが眼前を、目にも留まらぬ速さで一閃していった。
かつ、という壁に何かが突き立つ硬質の音。ゆっくり視線を動かして音源を探ったダイの目に、丁度壁から離れて落下していく銀鼠色の細い鋼が映った。
よく研磨された短剣。
それは床を滑り、かたかたと余韻を僅かに引きずりながら、ダイの足元で止まる。
「ディアナ」
背後から、ヒースが囁いた。
「ディアナ。息を。ゆっくり吸いなさい。ゆっくり」
指摘されて初めて、ダイは呼吸を忘れていたことに気が付いた。
言われた通り、息を吸いたいと思うのに、上手くいかない。
ダイの身体を抱え込むヒースの腕に、力が込められる。その手にふと視線を落としたダイは、視界に飛び込んできた鮮烈な色に、喉を引き攣らせた。
「ひ、ヒース、手」
男の腕から手の甲にかけて、赤い、赤い、あかい、筋が通っている。
それがまるい雫を作って、床に落ちた。
「あ」
ぱた、ぱた、と。
血が。
ゆっくり、板の上に弾けていく。
「あ、あ」
「ディアナ」
しゃくりあげるダイを、ヒースは背後から抱きすくめた。
「ディアナ……大丈夫。かすり傷だ」
「で、も。でもヒース」
「大丈夫。大丈夫」
ヒースがそのように繰り返す一方で、ダイの呼吸はますます覚束なくなっていった。吸っているのか、吐いているのかがわからない。吸わなくてはいけない。息を、吸う――それはどのような行為だっただろう。
「落ち着いて。息を吸いなさい」
ヒースの声音に焦燥が滲み始める。しかしダイの身体はどうにも彼の指示通り動いてくれなかった。ただ空気を欠乏した結果として、痙攣を始める。視界は徐々に白く焼け、指先からは力が失われていった。
ぜんぶつめたい。
感覚というものが奪われていく中、ダイの手を握る男の力強さだけが、鮮明だ。
落下するような感覚に襲われ、たすけて、と喉を震わせた瞬間。
「ディアナ!」
頬に衝撃が走り、鋭い叱責が耳朶を叩いた。
男の無傷の方の手が、痛んだダイの頬をゆっくりと撫で擦る。
「いきを、すう」
彼の言葉に従って、ダイは朦朧としたまま息を吸った。
「はく」
言われるままに、吸い込んだ空気を吐き出す。
一度上手くいけば、呼吸が落ち着くのは時間の問題だった。
欠乏した空気を求めて喘ぎながら、ダイはヒースを仰ぎ見た。こちらの身体を背後から抱える彼は、何事もなかったかのような顔をしている。しかし負った傷が、痛まぬはずはない。
視線に気が付いたらしい。静かな蒼の目が、ダイの姿をその虹彩の中に収める。
彼の冷えた手が、ダイの頭をその胸元に引き寄せた。
衣服越しに響く、荒い心音。
ダイの髪に、彼の顎が押し当てられる。
安堵の吐息が、落ちた。
「無事でよかった」
ダイは、たまらなくなって、彼の身体にすがり付いて泣いた。
怖くて怖くて、泣いた。
一歩間違えば、死に直結する罠だった。今、ヒースを失っていたかもしれない。床に染作る鮮烈な紅は、その可能性の象徴だった。怖くて、怖くて、怖くて。世界が凍ったかのように温度を失った。彼が死ぬことを、考えたくなかった。そのことが、ただ怖いと、この上ない恐怖だと。
この人を、失いたくないと。
むしろ――……。
このひとと、はなれたくないと。
こげつくように、おもった。
しゃくりあげる肩を、ヒースがゆっくりと撫でてくる。
「ごめんなさい」
震える声で、ダイは謝罪した。
きっかけはヒースの言だった。しかし忠告を無視し、短慮を起こしたのは、自分だ。
叱責するわけでもなく、慰めの言葉を吐くわけでもなく、ヒースは無言のままこちらの頭に頬を寄せる。その体温に安堵し、ダイは幅ある彼の肩口に目元を押し付け嗚咽を堪えた。
ようやっと冷静さを取り戻し、男の傷の手当に意識が向く。
そして面を上げたダイの耳に、突如ぱきりという玻璃を踏みしめる音が届いた。
誰かが、来る。
ヒースが緊張に息を詰める。ダイは急いで身体を起こそうとした。このままの状況では、仮に足音の主が敵だとしても逃げるに逃げられない。
しかし先ほどの件で腰が抜けてしまったのか、上手く足に力が入らなかった。
ダイはヒースの身体を押しやろうともがいた。ひとまず彼だけでも身を隠して欲しかった。しかしその抵抗を上回る力で、彼に強く抱きすくめられる。
驚いて見上げた先の男には、ダイを見捨てる気などないようだった。彼は威嚇するように部屋の奥を睨み据え、その手にダイの足元にあったはずの短剣をいつの間にか握り締めている。
足音は、警戒しながらも獲物を追い詰めていく獣のように、ゆっくりと近づいてくた。
ぱき、と、ひときわ大きく、玻璃の砕ける音が響く。
そして。
「あれ、お前か、坊主」
部屋の奥から能天気な声と共に、見知った男が顔を出した。