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第五章 錯綜する使用人 2


 待て、と言われれば待つ。
 しかしこれは、生殺しではないかと、思った。


「終わりましたよ、ティティ」
 化粧筆を置いて、ダイはティティアンナに手鏡を渡した。そこに映った己の姿を確認した彼女は顔を上げて頬に触れ、満足げに紅の塗られた唇の端を持ち上げる。
「うん。ありがと! 毎回思うけど、ダイの化粧ってすごいわよねぇ」
「そうですか?」
 しみじみとしたティティアンナの呟きに、ダイは化粧道具を片付けながら問い返した。うん、と頷いて年嵩の同僚は笑う。
「私今でも忘れられないわよ。ダイが初めてマリア様に化粧を施したときの衝撃。マリアージュ様が貴族のご令嬢に見えたもの」
「ティティ、マリアージュ様は上級貴族のご令嬢ですよ」
「あら」
「あら、じゃないです……」
 己の仕えている主人に対してひどい言い様である。しかしティティアンナは悪びれた様子もなく、だってね、と言葉を続けた。
「本当に、そう見えたんだもの。私、化粧なんておざなりにしかしないけど……本当に、すごいんだなぁって思ったのよ。マリア様だってすごいって思ったから、ダイを化粧師として認めたんでしょうに。……一体いつまで、ダイに化粧させないつもりなのかしら」
 そろそろ一月よ、と、ティティアンナは言う。
 マリアージュに辞職を表明したものの、マリアージュに差し止められた。
 以来、ダイは一度もマリアージュの顔を触らせてもらえていないのでいる。
 マリアージュは現在、ダイではなく侍女の手を借りて化粧を行う。彼女の支度の手伝いに呼ばれることもなく、時々言い付かる雑務以外、ダイは大抵部屋に篭っていることが多くなっていた。
「ティティがこんな風に、練習台になってくれるので助かります」
 何せ人の顔に随時触っていないと化粧の腕が鈍る。今日も午前中非番であったティティアンナを捕まえて、ダイは自室で化粧の練習をしていたのだ。今のところ、ミズウィーリ家で最も行動を共にする彼女は、ダイの要請にいつも快く顔を貸してくれる。
「他にもいつも、助けてもらってますし」
 仕事をさせてもらえない上に、他の使用人たちからは煙たがられている。と、いうのも、マリアージュが招待されている晩餐や午餐を強引に断るようになり、その原因はダイに在りと見た侍女頭のローラから、冷ややかな目を向けられている為だった。かといって、マリアージュに辞めるな、と釘を刺されている以上、この状況から逃げることもできない。
 生殺し、同然である。
 そんな中で、他の侍女たちと自分の間を取り持ってくれるティティアンナは、ひどく在り難い存在だった。
「そう?」
 手鏡を覗き込みながら、ティティアンナが首を傾げる。
「私もダイにしょっちゅう雑用手伝って貰ってるし。お互い様じゃない?」
「ですか?」
「うん。そうそう」
 嘘偽りのないティティアンナの笑顔に、ダイは安堵を覚えながら手鏡を引き取った。鞄の中に鏡を仕舞い直し、ぱちりと留め金を掛ける。立ち上がり、卓の上に置かれていた盥を持ち上げた。それを満たす乳白色に濁った水の中には、肌の手入れに使った手ぬぐいが二枚浮かんでいる。
 盥の中の水を流しに捨てる。ごぼごぼと配水管へ落ちていく水を眺めながら、ダイはこっそりとため息をついた。
 ティティアンナの存在には、助けられている。
 しかし今の状況は、正直言って、辛い。
 年嵩の同僚はけろりとした顔をしているが、ダイと親しく付き合う彼女に、他の使用人たちがあまり良い顔をしないことを知っている。一度、距離を置いたほうがと口にしかけたが、やめた。マリアージュの『自分が引き下がれば』云々という言葉が、胸に引っかかっていたということもあるし、これ以上自分を追い詰めたくもなかった。
 ティティアンナ以外で唯一、親しく接してくれるヒースも近頃は多忙らしく、姿を見ていない。
 流しの中に、乳白色の濁りが残る。洗い流さなければなるまい。しかし水差しの中身を補給するために階下に下りることも億劫だった。飾りの蛇口を見つめて思う。水道が生きていれば、この部屋から出ずにすむのに。
「ダイは今日の午後、街に下りるんだっけ?」
 ティティアンナが前掛けを身につけながら、歩み寄ってくる。彼女の問いにダイは頷いた。
「えぇ。お店に、注文していたものがあるんです。それを、取りに」
 つまるところ、一月前にミゲルに頼んだ商品の、不足分を取りに行くのだ。
「ダイ、一人で行くのよね? 大丈夫?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
 ティティアンナの面持ちがまるで幼い子供を一人で遣いにやるときの母親のようで、ダイは思わず笑ってしまった。古巣に戻るだけの自分を心配する必要などどこにもない。
「それじゃぁ私はそろそろ仕事に戻るけど……」
 部屋の戸口に立つティティアンナが、案じるようにダイの顔を覗きこんでくる。彼女の懸念を払拭してやるつもりで、努めてダイは明るく笑った。
「はい。ありがとうございました」
 ティティアンナもダイの肩を軽く叩き、微笑んで応じてくる。
「うん。気をつけて、息抜きしてらっしゃい」


 ミゲルの店にかねてから注文している品が揃ったことをダイに伝えたのは、アスマから届いた手紙だった。
 花街の顔師であったというダイの経歴を少しでも匂わせぬようにとの配慮だろう。手紙は、わざわざ花街の外の知り合いの名を借りて送られてきた。久方ぶりに目にする育ての親の文字は、彼女を含む花街の人々の近況を簡素に綴り、新しい生活に慣れているとよいのだが、という願いの言葉で締めくくられていた。顔を見せろとは書かれていない。それが、アスマらしいと思う。彼女は自分に愛情を与えても、甘やかしはしないのだ。
 マリアージュを思い浮かべながら、彼女に似合う化粧の型を何種類か考え、紙に描き起こす。そして早めに昼食を取り、ダイはミズウィーリ家を出た。


 坂を下り、門を抜けた先で乗合馬車に。
 ダイが目的地に到着したのは、少し昼を回った頃である。
 青灰色に塗られた雑貨屋の扉を開けたダイは、珍しいことは続くものだと瞬いた。
「ミゲル、なんで起きてるんですか?」
「あんた、店来て早々その挨拶はないんだわさ」
 店の奥の長机に頬杖を突いて、店主がげんなりと呻く。扉を閉じながら、だって、とダイは肩をすくめた。
「今日は起こさなきゃいけないなぁとか思ってましたから」
「あんたこそ今日は一人? 人ごみに流されずによく来れたんだわ」
「……すぐに裏道に入っただけです。横道に逸れれば、人もそういないですよ」
 一人でやってきたことをダイが主張すると、ミゲルはひどくがっかりした様子で顎を机の天板につけた。彼の落胆の理由は、訊かずともわかる。
「すみませんね、一人で来てしまって。ヒースは忙しい人なんです」
「男前に会いたい。男前といちゃいちゃしたい」
「お願いですから、ヒースの前でそういうこと言わないでくださいね」
 この男と友人をやっている自分の人格が疑われてしまいそうだ。
 ヒースがここを訪ねることなど、もうないだろうが。
 盛大にため息をつくミゲルを睨み返して、ダイはさっさと本題に入ることにした。
「化粧品届いたってアスマから手紙来ました。……アルヴィーがこっちに来たんですね」
 一月前、荒野で世話になった魔術師を思い返す。ダイがミゲルに頼んでいた品は皆、彼女の手によるものだ。
「あぁあの女、アルヴィーっていうの?」
「アルヴィナです。名前訊かなかったんですか?」
「客の名前は極力訊かないようにしてるんだわ」
「そうなんですか?」
 ミゲルは頷き、厄介事に関りたくないんだわ、と言葉を付け加える。得体の知れぬ人間を多く顧客に持つ、彼なりの自衛策なのだろう。
「あれからすぐに、あんた宛の荷物持って来たんだわさ。あんたに知り合いになったってきいちゃぁいたけど、本当にそうなったなんてねぇ……」
 アルヴィナの家で過ごした一夜についての話を冗談半分でミゲルが受け取っていたように、ダイもまた日を経るにつれて、あのときのことは夢であったのではないかと思い始めていた。しかし、全ては紛れも無い現実であったということだ。アルヴィナは約束通り、残りの品をダイのために届けてくれたのだから。
「アルヴィーに、また会いたいです」
 世話焼きな魔術師を思い返して心温かくなる。
 頬杖を突いたミゲルが、欠伸をかみ殺しながら呻いた。
「会えるでしょ」
「やけに確信ありげに断言しますね、ミゲル」
「そりゃそうさね」
 肩をすくめた彼は空いている手の指先を、気だるげに奥へと向けてみせる。
「今日も来てるし」
「……え?」
 ダイが指し示された場所に視線を移すのと、奥から女がひょっこり顔を出したのは、ほぼ同時だった。
「お手洗い貸してくれてどうもありがと!」
 助かったわぁ、と、やけに暢気な女の声が狭い店内に反響する。聞き覚えのある声にダイは息を詰め、目を瞠った。
「アルヴィー!?」
 奥から姿を現した女は、賊に襲われた自分たちを助けた、白砂の荒野に一人住まう魔術師に他ならない。
 ダイの叫びに足を止め、アルヴィナは目を細める。
「あらぁ、ダイ。嬉しいなぁ。また会ったね」
 嬉しそうな響きを宿したその柔らかい声に、思いがけず鼻の奥に熱が篭り、ダイは慌てて眉間に力を込めた。まさか慕わしげに声を掛けられただけで泣きそうになるなどと、予想していなかったのだ。親しく話しかけてくれる誰かにこんなにも飢えていたのかと、自分のことながら驚いてしまう。
 黙りこくるダイをよそに、アルヴィナはきょときょとと何かを探して周囲を見回していた。
「今日はヒースと一緒じゃないの?」
 首を傾げた彼女に、ダイは否定に首を振りながら笑った。ミゲルと交わした同じやり取りを、思い出したからである。
「今日は私一人です」
「あらそう」
 この店の主人と比べると幾分か淡白に、アルヴィナは納得を示した。
「それは残念」
「多分ヒースも残念がりますよ」
 そう、と彼女は微笑む。その横で対応の違いにぶつぶつ不平を漏らすミゲルは、きちんと無視しておいた。
 肩に掛かる銅色の髪を背に払い落としながら、ゆったりとした足取りで机を迂回し、アルヴィナが歩み寄ってくる。
「アルヴィー。この間はありがとうございました」
 眼前で立ち止まった彼女に、ダイはぺこりと頭を下げた。
「そしてすみませんでした。お礼言わずにいなくなって……。なんだか知らない間に、こっちに移動してたんです」
 就寝の挨拶をして眠り、朝目覚めたときには既に、このミゲルの店に居た。一体どのような方法で移動したのか定かではないが、アルヴィナに感謝の言葉を伝えそびれてしまったことは確かである。
「いいのよ、そんなこと気にしなくて」
 長い指先でダイの頭をくりくりと撫で回し、アルヴィナが笑う。その子供扱いに不満を覚えないでもなかったが、恩人の手を振り払うわけにもいかない。大人しくしながら彼女を見上げ、その含みある微笑にダイは首を傾げた。
「あれ、もしかしてアルヴィーが魔術でこっちに運んでくれたんですか?」
 時間の経ち方に疑問は残るが、移動に関してはそれで説明がつく。突如居なくなった理由を求めない、アルヴィナの訳知り顔の理由もだ。
「ダイ、馬鹿なこというんじゃないんだわさ」
 だがダイの思い付きを、ミゲルが否定した。
「魔術で遠くに人が運べるだなんて、そんなことできるはずがないんだわ。そんなことが出来たのは昔の話なんだわ」
 遠い昔、魔術師がまだ権勢を誇っていた頃の。
 もう失われてしまった術だと、こちらの予測をミゲルは一笑する。彼の発言に、アルヴィナは沈黙を貫いたままだ。
 ダイは肩を落とし、話題を切り替えることにした。
「アルヴィー、今日は薬草を売りに?」
「そぉよ」
 頷いた彼女は、部屋の隅を一瞥する。つられてそちらへ目をやれば、紐で括られた草花の類が、木箱の中で小さな山を作っていた。
「この間も来たのよ。ダイに頼まれていたものを先に持って。でも、まだ受け取ってなかったのね」
「あぁ、そうでした!」
 話を振られて思い出した。自分は注文していた商品を取りに来たのだ。
「ミゲル」
「はいはい」
 やる気の全く感じられない返事で応じてきた店主は、緩慢な動作で包みを机の天板の上に置いた。茶色の包みにはダイの名前が走り書きしてある。アルヴィナがこちらに持ち込んだ時点で彼は荷を一つに纏め、取り置いてくれたのだろう。
「私もあんまりこっちにくるわけじゃないんです」
 包みの中身を確認しつつ、ダイはアルヴィナに言った。
「なかなか、出てこれなくて」
「そうなんだ?」
 瞬いたアルヴィナは、嬉しそうに微笑む。
「じゃぁ今日会えたのも、すごい偶然なのね」
 素敵、と笑う彼女に、ダイは同意した。
「本当ですね」
 ミゲルの店には長年通っているが、知り合う以前にアルヴィナと顔を合わせたことなど一度もなかった。だというのに、こんなに短期間で再会するなど。驚きだが、嬉しかった。
「あんた達」
 いざ近況を、と盛り上がりかけたところで、ミゲルが話に水を差す。
「長話するんならどっかよそに行くんだわ。まったく、最近誰も彼もがうちを茶屋かなんかと勘違いしていて困る」
 その声音は、ひどく気だるげだった。
 というよりも。
「眠そうですね」
「その女に叩き起こされたんだわ」
 ダイの指摘を受け、ミゲルが恨めしげにアルヴィナを見上げる。一方の魔術師は頬にえくぼを作って小首を傾げ、彼の視線を受け流していた。
「あんたらといいロウエンといい、もうちょっとうちの開店時間を意識してくれなきゃ困るんだわさ」
 これ見よがしに嘆息を零したミゲルは、椅子に腰を落として身を伏せる。この場で一寝入りしそうな気配だ。奥に入ってしまわないのは、間もなく正規の開店時間となるからだろう。
「ねぇ、ダイ、この後お暇?」
「え?」
 客の相手を放棄した店主を呆れ眼で眺めていたダイは、唐突なアルヴィナの問いに瞬いた。
「暇、ですか?」
「うん」
 魔術師は頷く。
「ちょっとでいいの。そんなに時間はとらないから、一緒にお茶しない? 丁度私、行ってみたいお店があるのだけど、そこ、一人で入るには気が引けちゃうところなのよね」
 行かない? とアルヴィナはダイを誘った。
 暇を貰っているのは夜までだ。時間的に余裕はあるものの、躊躇を覚えてダイは俯いた。今日もあくせくと働くミズウィーリ家の同僚たちを思い返し、気が咎めたのだ。かといって自分が早々に戻ったところで、彼女らの仕事が楽になるというわけでもないのだが。
 何せ自分は現在、マリアージュから距離を置かれている立場なのだ。仕事といってもせいぜい裏方の雑用が関の山。その上、要領がわからぬ自分は、仕事のやり方を指導してくれるティティアンナの手が空いている時にしか手伝えない。
「駄目?」
 ダイの手首を取って追及するアルヴィナに、ダイは微笑んだ。
「……少し、だけなら」
 誘いを受けたのは、息抜きしてこいというティティアンナの言葉が甦ったから、ということもある。
 しかし誘いを受けたもう一つの理由は、彼女に再会できた時に尋ねたいと思っていたことがあったからだった。
 些細ではあったが、不思議でならなかったのだ。
 彼女の『あの』行動が。


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