第四章 隠遁する魔術師 4
「……何?」
不意を衝かれて壁に叩きつけられたダイは、痛む肩を擦りながら身を起こした。両手を壁に突っ張って転倒を堪えたヒースも、不審そうに皺をくっきりと眉間に刻んでいる。
馬車は、止まったまま。
馬の嘶きが、聞こえた。
「どうした?」
小窓の向こうに控えるはずの御者に、ヒースが現状を尋ねる。しかし応答がない。しばらくして、遠くで悲鳴とも呻きともつかぬ男の声が上がった。
ヒースが、さらに表情を厳しくする。
「ヒース」
「出ましょう」
ヒースが素早く立ち上がり、扉を開く。ダイはその後に続いた。開ける視界。荒涼とした白い平原に、吹きすさぶ潮風。
その風に、鉄臭さを嗅ぎ取って、ダイは顔をしかめた。
「ヒース?」
ヒースは立ち止まった。彼の身体に、視界が覆い隠される。まるで、庇われているようだ。ダイは彼の背後に自分を押しとどめようとする彼の手を見つめて思った。
「どうし」
「何が狙いか?」
静かな、問いだった。
ダイの質問を遮って響いた、まるで相手を切り裂く刃のようなその声音は、間違いなくヒースのものだ。腕ごとダイの身体をヒースの背後に押し込む彼の手に、力が篭っている。見上げた彼の横顔からは表情というものが消し去られ、ただ細められた蒼い目の奥で、ぞっとするほどの冷ややかさが、氷の結晶のように鈍く光っていた。
ダイは身体を捻り、ヒースの身体の向こうを覗き見た。
息を呑む。
影が、自分たちのほうへ躙(にじ)り寄っている。
この平野と同化しかねない、薄汚れた白い衣装で全身を覆った男たち。その数は四。手には、人を殺すための銀色の獲物。
影のさらに向こうで雇いの御者が、胸部を掻き毟っているような姿で仰臥している。開かれたままの眼は瞬き一つなく、衣服に突き立てられた指先は赤黒く染まっていた。
絶命している。
思わず口元を押さえたダイは、風が運んでくる鉄臭さの正体を知った――血の、臭いだ。
「私が、狙いか――……?」
ヒースの問いに、影たちは答えない。
彼らは獣が獲物に飛び掛るときのように地を強く蹴り、短剣を構えたまま跳躍した。
殺される。
そう思った、瞬間だった。
ヒィイイイィイイィイイイイイイイィン!!!
その場にいたものを圧倒するほどの叫びは、馬車に繋がれた馬によるものだった。
「ダイ!」
ヒースによって腕が強く引かれ、ダイは半ば引きずられるようにしてその場を離れる。場の緊張に耐えきれなくなった馬の悲鳴が生み出した、一瞬の隙だった。人が恐怖に叫ぶことはあっても、馬が、とは思っていなかったようだ。不意を衝かれて空中で僅かに揺らぐ、白い影の身体。こちらの残像を引き裂くようにして銀が空間を一閃する様を、ダイは視界の端に捉えた。
馬車の壁面に、空を切った鋼が突き刺さる。がきっ、という硬質の音。さらに天から落下してくる男の影。馬車の屋根の上にもう一人いたらしい。そこから、飛び降りてきたのだ。
脳天を貫いていたかも知れぬ短剣の切っ先が大地に突き立ち、その傍らでゆらりと身体を起こす男の姿を見て、ダイは肌が粟立っていくのを感じた。
ヒースの冷えた手は、強く、ダイの手首を握り締めている。
彼の先導に従って、ダイは走った。走らざるを得なかった。ヒースの手はダイの手首を、爪が食い込むほどに強い力で拘束している。ダイ自身の意思で走っているものの、ヒースに引っ張られる形をとっているために、足がひどく縺れた。躓いてしまうのも、時間の問題だろう。
白い原野に、黒い染のような、影が滑る。
影たちが、追いかけてくる。その追走の仕方は、捕食する獣を思わせて、いっそしなやかなほどだった。
急激な運動に耐えきれず、肺が悲鳴を上げている。
空気が薄まり、意識が朦朧とし始めた。足の感覚はすでにない。こんなに走ったのはいつ振りだろうと自問したダイは、いや、とその問い自体を打ち消した。初めてだ。こんな風に走ったのは。
視界が霞み、平衡感覚が失われていく。やがて前をひた走るヒースの背中も歪んで見え始め――……。
「ダイ!」
ぱち、と。
頬に衝撃が走った。
「……ひ、す」
「ダイ、大丈夫ですか?」
いつの間にか、ヒースは足を止めていた。ダイの傍らに跪いて、こちらの顔を覗きこんでいる。
「……ここ……どこですか?」
正体不明の男達による、襲撃は夢だったのか。
その願いを否定して、ヒースは一度だけゆっくり首を横に振り、汗ばんだダイの額を撫でた。
「城壁の外の原野です。覚えていますか? 追いかけられて、此処までどうにか逃げ切って、貴方は気を失った」
「……逃げたところ、までは。でもここまで来たかは、覚えてないです」
「気分はどうです? どこか痛むところとかは?」
「……頭がぼっとするぐらいで……」
「横になっていれば多分楽になる。よく、頑張りました」
ヒースがダイを労い、汗で張り付いた前髪を梳く。そのままダイの頭をくしゃりと一撫でした彼は、立ち上がって踵を返した。
そしてダイが止める間もなく、彼はそのままどこかへと歩き去ってしまう。
彼の背が視界から消え、ダイは、改めて周囲を観察した。
ダイが横たえられている場所は、切り立った岩壁の影だった。天へと伸びる道を斜めに切断してできたかのような崖のふもと。
日暮れが近いのか、青だった空の色が薄い黄色と紫に染められている。ヒースの故郷の色だと、ダイはぼんやりとした意識の片隅で思った。
その空を、ふと黒い影が過ぎる。反射的にぎくりと身を強張らせたが、単なる鳥だと思い直してダイは嘆息した。
遠目でもわかる、猛禽の類の大柄な影。
鳥は空を旋回した後、大きく羽ばたいて視界の外へと飛び去っていく。
ダイは、ゆっくりと身体を起こした。
「……ヒース?」
立ち上がり、呼びかける。
「ヒース? どこですか?」
返事がない。
返ってくるのは、びょうびょうという風の音ばかりだ。
ヒースはどこへ行ったのだろう。空の色は群青に塗り替えられつつある。間もなく夜になる。潮の香りが微かにする風は肌に冷たく、それが防寒具を身につけていないダイの体温を奪いつつあった。ヒースもまた防寒具も身につけていないはずだ。それどころか、水も、食料も携帯していないはず。
おそらく地形を把握するために歩き回っているのだろう。方角を見にいったのかもしれない。
しばらく待ったが、ヒースが戻ってくる気配はない。ダイは仕方なく、様子を見に行ってみることにした。
そう遠くへは行っていないはずだ。
歩けば歩くほど、妙な場所だった。馬車の窓から覗き見ていた真っ平らな原野とは異なり、ダイが今歩く近辺には、岩のような巨大な壁が斜めに突き立っている。その並び方自体も実に奇妙で、ゆっくりと弧を描きながら並列していた。円形に、並んでいるのだ。手を這わせて順繰りに壁を辿って行けば、いずれはぐるりと一周してこちらに戻ってくるのだろう。
一点を中心にして周辺の大地が、まるで瘡蓋のように捲れあがってしまったかのような、その様相。
壁を伝い歩いていくうちに、地面がわずかばかり傾斜していることにダイは気が付いた。
どうも、下っている、らしい。
壁も徐々に高くなってきている。初めの頃は果てなく見えた空も、壁に阻まれ狭くなってきていた。
これ以上進んで、よいものか――躊躇に足を止めた瞬間、背後から声が掛かった。
「ダイ?」
「……ヒース」
振り返った先には、ダイと同じように壁を伝って歩み寄ってくるヒースの姿。
「こんなところにいたんですか? 突然いなくなったから探しましたよ」
安堵にらしきものに大きく嘆息して、ヒースがダイの軽率を咎める。肩を落としながら、ダイはぼそぼそと呟いた。
「私も、ヒースがどこへ行ってしまったのかと思って……」
「あぁ……そうか。すみません」
苦笑しながら、ヒースが謝罪する。
「見回りに。言っておけばよかったですね。地形や方角も把握したかったので……心細かった?」
「そりゃぁ……そうですよ」
ヒースが居ない間に襲われたら、自分ひとりでは対処できない。いや、ヒースでも不可能だろうが。
大体、人の気配のない原野で置き去りは勘弁願いたい。引きずってでも連れて行ってほしかった。
「盗賊に襲われたわけですし」
「……盗賊?」
「さっきの町で聞いたんです。あの町と城壁の間で、盗賊が出るって」
物騒な話だ、と林檎を買った店先の店主が口にしていた――と、思いかけて。
「……おなかすいた」
意図せず呻いたダイに、ヒースが、肩をこけさせる。
「なんなんですか前触れないですね」
「り、林檎買ったお店で話を聞いたことを思い出したらつい……」
「そんなこと言われたら私も空いてきたでしょう」
「ご、ごめんなさい……」
先ほどまで完璧に忘れていた食欲が、一気に身体を侵食し始めた。ダイの身体を支配する倦怠感も、単純に盗賊から逃げて原野を駆け抜けたせい、というよりも、空腹からくるものなのかもしれない。
「ともかく、戻って休みましょう。この辺りは狭い。視界が悪いし、襲われたら逃げ切れない」
そういわれて、改めて周囲を確認する。空が狭くなってきただけではなく、この壁を形作る岩と岩の間隔もまた狭く、そして弧も鋭角に近くなってきている。そのことに、ダイは今更のように気が付いた。
まるで、地下へと潜る、螺旋階段のようだ。
そう思った矢先、ふと視界に入った影に、ぎくりと身を強張らせる。
「ヒース」
「なんです?」
すでに踵を返していたヒースが、呼びかけに応じて足を止める。ざり、という砂の擦れ合う音を響かせて、彼はダイの隣に並んだ。
「どうしたんですか? ダイ」
無言を返すこちらを不審に思ったらしい。ヒースが顔を覗きこんでくる。彼を見返したダイは、その『一点』にまっすぐ指先を向けた
「あそこ、家が、あるみたいなんですけれど」
斜めに切り立つ巨大な岩。それに囲まれる白い平原の向こう。白い布に落とした染みのように、黒い影がある。
ダイの視力で、しかと認識できる距離。
そこに、一軒の家が建っていた。
「あぁ、最低」
椅子の背に腰を引っ掛けて、長い足を組みながら彼女は呻く。茶器を引き寄せ中身を口に含めども、すでに冷めてしまった紅茶の味はそっけなく、彼女は苛立ち顕にして眼前にふわふわと浮かぶ術式をぱちりと指で弾いた。
「まぁったく、確かに解けないものじゃないけど、めんどうねぇ」
美しい銀の粒子で描かれた陣。こんな精緻なものを描き出すのは、彼女の友人ぐらいなものだ。面倒臭さが先に立ち、彼女はしない。魔術の陣は美しくなればなるほど、解析に複雑怪奇なものとなる。それが二重三重に展開している。彼女の目を通せば質の悪い悪戯で終わるが、他の魔術師が見れば、悪戯ごときにこのような術式を組むなど、正気の沙汰とは思えないだろう。
「こちらの退屈しのぎにこんな悪戯しかけてくるなんて余計なお世話よ。こんなことするんだったら、ご飯ぐらい一緒に食べてくれたっていいじゃなぁい」
一人に不都合を覚えることなどないのだが、一度誰かと見(まみ)えると会話が恋しくなってくる。そのことを彼も知らないわけではなかろうに。
独り言が多くなって仕方がない。
彼女は嘆息し、長い髪にくしゃりと指を差し入れ――……。
「ん?」
結界が揺らぐ気配に、顔を上げた。
「家」
「家、ですね……」
行くあてもないし、このままでは飲まず食わずの野宿確定。それならば、ということで、発見した家まで黙々と歩き続けてみたものの、いざ辿り着けば、異様な家だった。
朽ち掛けた柵に囲まれた、一軒屋。それだけでも無論異質だ。しかしこの家をもっと浮いたものに見せているものは、家の壁を覆いつくす緑である。
地質的に水捌けがよく、北の海から吹く潮風に常に晒されているこの大地に、生殖する植物の種類は限られている。ところが家の壁、屋根、至るところに絡み付いている緑は、この辺りではまず見られぬ類の蔦の葉だった。しかも、ありえないほどに覆い茂っている。
木枠の窓にはめ込まれているものは年代物の玻璃。厚みが斑になっている玻璃は光を屈折して、家の中を外から窺い知れぬものにしていた。
「どうします?」
見るからに無人だが、かといって、水も与えず、こんなにも蔦が茂るとは考えにくい。
「私が先に。先ほどの……盗賊、の、根城かもしれない」
ここにいろ、とダイに命じ、ヒースは先に門を押しやって庭先に踏み込んでいく。木製の門はどう見ても腐りかけていて、押し開かれただけでぱらぱらと木屑をダイの足元に撒き散らした。何事もなければいい。緊張しながら、ダイはヒースの背を見つめた。
家の周囲を調べる彼の姿を眺めてしばらく、突如、ごとっという鈍い音が耳朶を震わせる。恐ろしさに悲鳴を上げることも出来ず、ダイは息を飲みながら地面に視線を落とした。
そして、安堵する。
ひときわ大きな木片が、柵の根元に突き刺さっていただけだった。ヒースが門を開けた拍子に、腐っていた部分が落ちてしまったのだろう。物音一つに過敏になっている自分に、少し笑えた。
ふと、ダイはその木片の傍らに落ちている、板に目を留めた。表札のようだ。縁が研磨され、絵の具で野薔薇が描かれている。中央には名前と思しき文字が、控えめに刻まれていた。
胸中で、それを読み上げる。
(レノン……)
「すみません!」
どんどん、と、ヒースが扉を叩きながら上げる声で、ダイは我に返った。自分も開いた門を抜け、小走りでヒースに近づく。
「ヒース」
玄関の扉を叩くことを中断して、彼はダイを振り返った。
「……盗賊の根城というには、あまりにも手が入っていない」
「わかるんですか?」
「以前、その手の人間に捕まったことがあるんです。……マリアージュ様のお父上と、一緒にね」
それを聞いて、ダイはマリアージュの話を思い出した。賊に襲われた彼女の父親。そこに居合わせたヒースは彼を助け、それをきっかけとして彼はミズウィーリ家の使用人として取り立てられたのだという話を。
「人が住むと、もう少しマシなはずです」
「じゃぁ、声をかけても誰もいないんじゃないですか?」
「誰も居ないことを確かめているんですよ。声を掛ければ、いくら隠れていても気配が動く。居ないのなら、少しだけ場を貸してもらう……野宿するよりも暖は取れるはずです」
説明を終えたヒースは、叩扉を再開する。返事がなく且つ何人の気配もないことに、彼は安堵した様子だった。ダイと目を合わせて微笑んだ彼は、それでも警戒に表情を引き締めて、今度は扉の取っ手に手を伸ばす。
と。
がちっ
『……え?』
突如響いた金属が擦れる鈍い音に、ダイはヒースと共に間の抜けた声を上げた。
まだ、取っ手には、触れていない。
だというのに、扉はゆっくりと、手前側に向かって開き始めている。
ヒースがダイを腕で庇いながら、飛び退くようにしてその場を離れる。ダイも同様に退いた。自分を庇う彼の身体越しに扉を見つめる。城下町の民家でも良く見かけることのできる、人一人が通れる程度の木製の扉。
それは、中途半端な状態で、動きを止めた。
静寂が、場を支配する。
中から、誰かが出てくるといった様子は皆無だった。
ダイはすがり付いていたヒースの袖口から手を離し、彼を仰ぎ見る。
「……どうします?」
「叩いたせいで、鍵が外れただけでしょう」
家の無言の招待をヒースはそのように解釈して、ダイの肩をぽんと叩いた。
「行きましょう。ここでこうしていても、埒が明かないのだから」