第十章 蜂起する復讐者 4
廊下を足早に進むレオニダスを追いかけながらダイは尋ねた。
「蜂起したのは、町の人たちじゃなかったんですか?」
大勢が武器を持って砦に押しかけたところで相手は素人だ。日頃を訓練に費やす本職の兵士が、烏合の衆に遅れをとるはずはない。
しかしレオニダスたちの旗色は悪く見える。
彼らは明らかに同業らしき者たちを多く相手にしていた。
「兵の中に……町の人の味方がたくさんいた?」
「少なくはないですが、予想の範疇です。そういった者たちは監視していましたし、すぐに押さえられました。……傭兵の一団が手を貸しているようです」
「傭兵」
「残念ながら今の世の中、雇い主を失った騎士や兵士崩れが、たくさんいますからね」
「大丈夫……なんですか?」
ダイの隣を歩いていたユマが不安そうに尋ねる。
レオニダスは微笑んだ。
「他の騎士団がこちらに向かっています。夜明けまでには到着する予定です」
彼は言葉を切って立ち止まり、頑丈そうな扉を押し開いた。
広い空間だ。床を掘り下げて天井に高さを出している。正面左右すべて棚であり、所々に鋲が穿たれていた。木箱も散乱している。ただし、中身はない。
どこもかしこも空っぽだ。
「武器庫です。現在こちらが一番安全です。内側から鍵が掛かりますので必ず施錠を。またお迎えにあがるまで、着替えてお待ち下さい」
彼の部下が頃合いよく現れて、服と毛布と水袋を差し出した。
ふたり分のそれをダイがまとめて引き取る。それでは、と、レオニダスは一礼し、兵と連れだって去っていった。
ダイはユマの手を引いて武器庫に入った。扉を閉めて、言いつけ通りに鍵を掛け、階段を降りる。
軽く蹈鞴を踏むと足首に違和感を覚えた。
(まぁ……怪我ぐらいしますよね……)
むしろ目立った負傷がないだけ幸運だろう。アルヴィナの守りのおかげかもしれない。
「ユマ……とりあえず着替えましょう」
「……うん」
全身泥まみれだ。下履きはずぶ濡れ。このままでは風邪を引く。
脱ぎ去った衣服から比較的きれいな部位を探し、清潔な水で湿らせた。裸になって身体を清める。
腕や脚は打ち身だらけだ。
(……身体中、痛くなってきた……)
ダイは嘆息して用意された着替えを身につけた。男ものの平服だ。だれかの私物かもしれない。
余った袖を折り返し、裾をたくし上げる。湿った靴には乾いた布を詰めた。水を少しは吸うはずだ。
「ダイ……これ、どうすればいいの?」
男物の服に袖を通したものの、留め方がわからないらしい。困り果てた顔のユマにダイは向き合った。
紐を穴に通す。
結びながらダイは尋ねた。
「一緒にいた皆は……無事なんですか?」
「うん。……どうにか振り払えた。……ちゃんと、陛下の後を追ったと思う」
ダイは安堵の息を吐いた。女官たちの悲鳴を聞いたから、安否が気になっていたのだ。
「ユマも落ちたんですか?」
「違うよ。ダイが……落ちてたから」
荷馬車から飛び降りたのだと彼女は言った。
ダイは唖然として呻く。
「なんて無茶を。どうして?」
「心配だったからに決まってるでしょ!」
声を荒げたユマが固く目を閉じる。
彼女のまなじりから涙がぽろぽろ零れた。
「無茶してるのは、ダイの方じゃない」
しゃくり上げながらユマが訴える。
「あの、あのときも、槍に飛びつくなんてっ……!」
「……陛下が危ないと思ったら、つい」
「馬鹿! ついじゃないよ! 死んだらどうするの! 陛下をだれが支えるの!?」
「それは……皆がいますよ」
危険分子にしかならない自分は、ロディマスにいずれ処分される。
マリアージュが化粧を欲するなら、腕のよい職人を探せばよいだけだ。
ユマが手を振り上げる。
平手がダイの頬を打った。
「いい加減にしてっ……!」
ユマは悲鳴じみた声を上げて、その場に崩れ落ちてしまった。
ダイはユマの傍らに膝を突いた。
「……ユマ」
「何で……何で自分の代わりはたくさんいるみたいな言い方するの! ダイに代わりはいないんだよ!」
「そんなことは……」
『化粧なぞ……女官の仕事と何が変わろう』
『あんたを見るといつもリヴを思い出す』
『どうしてあなたが生きているの? ……エムルじゃなくて』
わたしはいつも。
だれかのかわり。
ユマの肩に躊躇いがちに触れる。
「……ないですよ、ユマ」
「あるよ!」
ユマは跳ね起きてダイの手を振り払った。
「百歩譲って! 誰かにダイの代わりが務まるとしても! 私はやだ! ダイが死んだら私は嫌だ! ……どうして自分は、死んでもいいみたいな、ことを言うのよぉ……!」
ユマがダイの首に縋り付く。その身体を受け止め、ダイは尻餅を突いた。
泣き喚く彼女は熱かった。
叩かれた頬も。
焦げるような熱に濡れていた。
鼻を啜ってユマが身体を起こす。
俯いたまま彼女は呟いた。
「もう……もうずっと……ダイ、大丈夫じゃないのに、大丈夫って、いうし……この間も……ずっと……ずっと様子がおかしくて……体調だって、よくなくて……」
大陸会議中に初潮が来たとき、ダイは三日三晩、熱に伏せった。普段通りに過ごしている今も微熱はある。それをユマは知っている。
「自分を痛めつけたら、駄目だよ。私や、リノや、アルヴィナさんや……陛下も、ダイが幸せじゃなかったら、嫌だよ」
「でも、私は」
「どんな理由があっても、自分に、不幸を許したら駄目だよ。自分を軽んじたら駄目。私たちにとって……陛下にとって、ダイは換えのきかない、本当の本当に大事なひとなんだよ。……わかってよ……」
「……すみません」
ダイは呻いた。謝るほかに言葉を見つけられなかった。
ユマがダイの手を彼女のそれで包む。
泥に汚れた――けれども、やわらかく温かい手だった。
「ダイは……陛下の、忠臣でしょ。女王の化粧師でしょ。だから……ちゃんと、帰らないと」
「……はい」
「一緒に帰ろうね。……必ず、私はダイの味方になるからね」
どんなことがあっても。
友人を、ダイは縋る目で見上げた。
(……話せるだろうか)
あの男。
最初に、自分を求めた男のことを。
いまはディトラウトと名乗る、ヒース・リヴォートについてを。
そうして何も知らぬ彼女から、すべてを赦して欲しかった。
だが轟音が足下を揺るがし、ダイは開きかけた口を噤むしかなかった。
ちいさな悲鳴を上げ、ユマが天井を仰ぐ。
「な、なに……?」
「セトラ様」
扉越しにレオニダスの声が響く。
ダイが腰を浮かせる前に彼は早口で告げた。
「自分が迎えに上がるまで絶対に扉を開けないように。よろしいですね」
「ルウィーダさん」
忙しない足音が扉の前を行き交う。指示が怒号に乗って飛ぶ。
ユマが怯えた顔で震えた。
「だ、大丈夫なのかな……」
「ユマ、端に移動しましょう」
空間の真ん中にいては何かあったときに対処できない。靴を履いて入り口にほど近い壁際へと移動する。木箱を積んで作った物陰に、ユマと身体を押し込める。
毛布を被って耳を澄ます。
騒音はまだ続いている。
(夜明けには、救援が来るって、言っていた)
残念ながらまだ時間がある。
待つことは苦痛だ。
新しい蝋燭の芯のように、時は緩慢にしか進まない。
「ねぇ……ダイ」
ユマに揺り起こされて、ダイは瞬いた。うたた寝していたらしい。記憶にあるより時間が飛んでいる。
「外……静かになってない?」
吐く息の熱さに気づかれないよう口元を覆って、ダイはユマの問いに頷いた。
「そうですね……」
あれほど騒がしかった外から物音ひとつしない。
「外……見てこようか」
「駄目です。ルウィーダさんに言われたでしょう。絶対開けるなって」
ユマが焦れる気持ちはわかる。クラン・ハイヴでの経験がなければ、ダイも彼女に賛同したかもしれない。
この状況は農村で襲撃を受けたときと似ている。
扉を開けてはならない。
敵か、味方か。
訪れを待つのだ。
ユマの顔には憔悴の色がある。ダイは彼女の手を固く握った。握り返される。ダイの心を奮い立たせた。
(静かなのは……鎮圧したから?)
それとも――……。
ユマが鼻をひくつかせた。
「なんだか、臭いがする」
「え?」
「焦げ臭いような……」
ダイは臭いを嗅いだ。
武器庫は独特の臭気がする。鉄と、火薬の臭い。加えて自分の髪から漂う泥くささのせいで、ダイの嗅覚はほぼ麻痺している。
だが言われてみれば微かに――火の臭いが。
「ダイ、やっぱり」
「駄目です」
「でも」
「駄目です。ここの構造じゃ、燃えません」
火薬を収めるからだろう。武器庫の基幹は石だ。よく見れば壁には魔術文字が掘られている。そちらは防護の働きをしている可能性が高い。
「でも……あのルウィーダって人が、私たちを陥れようってここに閉じ込めたのかもしれない」
「ユマ。違います。それは……ルウィーダさんは、誓ってくれました。私たちを守ってくれるって」
「でもあのひと、ペルフィリアのひとだよ? どうしてダイは信じられるの?」
「わたしは――……」
(何を言えばいい?)
ダイがレオニダスを信ずる根拠を、どこから説明すればよいのだろう。
ダイが逡巡している間に、火の臭いははっきりと嗅ぎ取れるようになっていた。
ユマが毛布を落として立ち上がる。
「ユマ! いっ……!」
彼女に続いて腰を上げたダイは、足首に走った痛みに膝を突いた。
顔をしかめて面を上げたダイに、ユマは微笑む。
「ダイはそこで待ってて」
「駄目です、ユマ! ……ユマ!」
手を突いた木箱が崩れて、ダイは体勢を崩して横転した。
ユマが施錠を解き、扉を開けて飛び出していく。
もたつきながら身体を起こし、ダイは消える背中に手を伸ばした。
「だめだよ! そっちへ行かないで……!」
だん、と、扉が閉まった。
(追いかけないと)
すぐに。
連れ戻さないと。
ダイはひっくり返った木箱から転がり出た剣に目を留めた。
濃紺の宝玉を口に咥えた獣の装飾が鍔の部位に施されている。柄には赤茶けた布。つや消しされた黒の鞘に収まっていた。
彫金の見事な、同時に獰猛さを感じさせる、美しい剣だった。
ダイは細身の剣を掴んだ。不思議と軽い。化粧筆と同程度の重量だ。鞘の中身は空なのかもしれない。
剣を支えに立ち上がる。
一歩、踏み込む。
今度は痛まなかった。
ダイは剣を手にしたまま駆けだした。
外は武器庫にいたときには想像していなかったほど暑かった。暗い廊下に火の粉が舞う。確かに近くで火が燃えている。
開け放たれた扉の傍には事切れた男たちが数人。ダイは口元を覆った。胃液を飲み下す。喉の灼ける感覚に閉口しつつ移動する。
「ユマ……返事をしてください! ユマ!」
危険だとわかってはいても、声を上げずにはいられない。
行き止まりまで行き、武器庫まで引き返す。ユマはいない。今度は逆の道を行く。行く先々で、部屋を覗く。
数多の遺体を目にして、石畳の上にできた血だまりを、幾度も踏み抜きながら。
そして二階へ上がる階段の入口で、絹を裂くような女の悲鳴を聞いた。
足が竦む。
段差に掛ける足がもつれる。
どうにか二階に辿り着く。
影から飛び出した男が、剣をダイに振りかぶり、破裂音をまた響かせて、血煙となって霧散した。
赤い霧に軽く咳き込む。
どうにか呼吸を整えたダイの目に、床に横たわる友人の姿が目に入った。
「ユ、マ」
肩から腰までを裂かれた娘は玻璃玉の目で天井を見ている。
弛緩した四肢が赤い泉に沈んでいる。
ダイはよろめきながら歩み寄った。
ぱき、と、玻璃の割れる音がした。
ユマの周囲に包帯の束といくつかの小瓶が転がっている。
ダイは彼女の横に腰を落とした。
(薬を……)
「探していたの?」
ダイの足が痛んでいたから。
熱が高かったから。
それに気づいていたから。
投げ出されたユマの手を取る。
まだ、温かい。
あたたかいのにもう。
握り返してはくれない。
その腕ごと胸に抱き、ダイは身体を折った。
「ユマぁ……!」
怪我の手当なんてよかったのに。
熱だって我慢できるのに。
そんなものユマがいてくれればよかったのに。
心配して来てくれて嬉しかったのに。
ありがとうさえ言っていない。
けたたましい足音が耳朶を打って顔を上げる。
男がダイめがけて疾走している。
男は剣を振り抜きかけ、階段を猛然と駆け上がってきたレオニダスに、首を短剣で刺突された。
衝突された勢いのまま横転した男は、苦悶の呻きを漏らしてびくびくと痙攣する。
呆然としていたダイの腕を、レオニダスが乱暴に掴んだ。
「立ってください!」
「や……やっ! ユマっ!」
「立ちなさい!」
ダイをユマから引き剥がし、半ば抱えるようにしながら、レオニダスは階段を駆け下りる。
ダイは悲鳴を上げた。
「やだやだやっやっだあああぁ……! 放して! 放して!!」
「彼女は死んでいる! おわかりでしょう!」
「放ってなんかいけない!」
「なりません!」
レオニダスは今度こそダイを抱え上げた。優男に見えてその膂力は確かだった。暴れたところでびくともしない。
ダイはレオニダスの首にしがみついて泣いた。
ユマから遠ざかっていく。
「あなたは国章持ちだ。女王の唯一でしょう。閣下と同じ。なら、必ず生きて帰らねば。そうでしょう!?」
レオニダスが絶叫する。
ダイは鼻を啜って彼に尋ねた。
「……あなたは……わたしを、敵と、思わないんですね……?」
「敵をお守りするとは申し上げませんよ」
レオニダスは苦笑したようだった。
「私たちは主神に等しく創られたタダヒトです。その時々で利害が衝突しているだけ。状況が許せばよき隣人。ときには家族にだってなれるかもしれない」
「……ルウィーダさんは、楽天家ですね……」
「でしょう? 閣下にもよく言われるんですよ。自分の美点だと思っています」
レオニダスは誇らしげに言った。
「自慢できることは他にもいくつかありましてね。自分は美しいものを間違えない。奥さん、きれいなんですよ。世界一」
「……ご結婚を?」
「一昨年に。それから……あなたのお化粧、とてもよかった。自分は化粧について詳しくないですが、あの梟さんが女のひとに見えるって、すごいと思いましてね。妻にもいいもの見たって自慢しました」
レオニダスは興奮からか早口だ。
ただこの状況下で化粧を話題に選ぶ点に感心した。
ダイは大人しく彼に耳を傾けていた。
「騒ぎすぎだって、あとで隊長たちに怒られましたが」
「それは……災難でしたね」
「でもそのとき閣下が笑って、自分に賛同してくださって……」
柔らかい微笑みで宰相は、そうだな、と、頷いたのだという。
「あのひとがあんな風に笑うのってね、あまり、ないんですよ」
レオニダスが足を止めて扉を開ける。
眼前に森があった。
ダイを下ろして彼は静かに告げる。
「安全な場所へお連れするという誓いを破り申し訳ありません。この先はおひとりで……森の中にお隠れを。援軍は目と鼻の先だと連絡が来ましたから、それまで。半刻もないでしょう。少し北上して東に進めば、途中で彼らと合流できるかもしれません」
「ルウィーダさんは」
「自分はまだ味方が中にいますので、彼らをまとめなければなりません。敵はあらかた掃討しました。ご心配なく」
レオニダスは微笑む。
「あなたのご友人はお任せください」
ユマ。
置き去りにしてしまった彼女を、レオニダスは保護すると言った。
ダイはレオニダスを見上げ、忘れるまいと謝辞を述べた。
「ありがとう、ございました、ルウィーダさん。無理は、なさらないでください」
「はい。……またのちほど、お会いいたしましょう」
きしみを上げて閉じられた扉がレオニダスとの間を隔てる。
ダイは無意識に持ってきてしまった剣を抱きしめた。
今度こそ、ひとりだ。
血と涙を拭って森の中に足を踏み入れる。
そして、砦が見えぬほどの奥に分け入ったころ。
ダイは初めて――時と方角を知覚できないことに気づいた。