第九章 忍ぶ懸想者 6
一瞬。
あの雷雨の夜を思い出した。
強引に舌でくちびるに割り入り、口内を蹂躙するなま温かな感触。
押し込まれる丸薬の、苦い味。
男のくちづけはあのときほど長くなかった。舌先で軽く口内を舐って離れる。細い糸が渡されて、途切れるさまを、ダイは息を吐きながら見る。
男の蒼の眼は揺らいでいる。水底に沈めた宝玉のように。理性と欲望。葛藤する男の吐息は苦しげだ。
震える手がダイの頭を抱えた。
男が、呼ぶ。
「ディアナ……」
あまい声で。
呼び覚ます。
あの雨の日からずっと蹲る少女を。
彼女が立ち上がって手を伸ばす。
ダイは男の首に腕を絡め、顔を上げた彼に口づけた。
男のくちびるは冷たかった。けれどもすぐに熱くなって、温度はわからなくなった。男がダイの身体をかき抱いて、口づけを深めていったからだ。
はじめは角度を変えるだけ。次にくちびるの表面を軽く舐めて。息苦しさに開いた口に入り、歯列をなぞり、その奥の舌先を絡め取り、強く吸い出す。
「……ふっ……」
軽く浮いた身体が壁に押しつけられる。絹に包まれた手が額を滑り、頬を撫で、耳を摘まみ、首筋をたどっていく。
男のくちびるがそれを追いかけた。額、頬、耳。その裏。
首筋に、舌が這っていく。
頭が白く焼けた。
何も考えられなかった。己の立場も、主君のことも、すべて頭から消え飛んでいた。
もっと、という欲望だけがあった。
この男に触れられたい。抱きしめられたい。抱きつぶしてほしい。
壊れてもいいから。
胸の膨らみと背と腰。それぞれの輪郭を確かめた男の手が、ダイの手首を掴んで壁に縫い止める。熱に浮かされ喘ぎながら、大きな手を見つめていると、胸元に強く吸い付かれた。
「いっ……」
走った痛みに身体が軽く跳ねる。腰を抱く方の男の手に力が籠もる。
男が吸い付いた場所を舐める。猫のように。丹念に。
やがてくちびるは首を遡り、生理的な涙が滲むまなじりに、軽い音を立てて接吻する。
ダイは手首を掴む男の手をふりほどいた。逆に彼の手を捕らえて、祈りのかたちに握りあわせる。男は強く握り返して、またすぐ、ダイの手を解放した。
頬を包まれる。ダイも手で包んだ。暗い欲望をたぎらせる男の顔を。すべらかな頬を、撫でて、整えられた金の髪に、指を通す。
蒼の双眸いっぱいに自分だけが映っている。
少女が歓喜する。
親指の腹でまなじりを擦り、男が目を閉じるように促す。
従えば、褒美のように、甘く、くちびるが重なった。
隙間なく密着した男の身体は熱かった。
もっとくっつきたくて、離れたくなくて、男の背を抱く腕に力を込めた。
行かないで欲しかった。どこにも。どうして行ってしまったの。どうして置いていったの。
どうして。
わたしたち、いっしょにいるはずだったでしょう?
「ヒース……」
男の腕が呼びかけに応じて、少女の身体を抱きつぶす。
それが泣くほどに嬉しかったのに。
ぎっ、と、窓のきしむ音に、頭が一気に冷えた。
男もまた同様だったらしい。
弾かれるように離れて大窓を向く。誰もいない。窓は閉じられたままだ。
荒い呼吸を整える。
互いの目には理性と――幾ばくかの恐怖。
「団長!」
窓越しに声が聞こえた。
ランディの声だった。
「……いたのか?」
「いえ。こちらにはやはり」
「広間に戻ってみる?」
「……あぁ……」
ディトラウトがダイの腕をとって歩き出した。急な動きにダイの足が縺れたが、彼は歩みを止めなかった。
仰いだ男の顔は強張っている。
彼は乱暴に大窓を開けて廊下へと出た。
大窓数枚分離れた場所に、アッセたちが立っていた。
「ダイ!?」
ランディが最初にダイの姿を認めた。隣でユベールが安堵の表情を見せる。ふたりと相対するかたちで、ダイたちに背を向けるアッセが、最後にゆっくり振り返った。
「ダイ……」
「……遅いんですよ、あなた方」
ディトラウトが三人を批難した。
ダイを支えたまま、彼は一歩踏み出す。
「いままで彼女を放置して、何をしていたんですか?」
「あなたこそ……そちらで何を?」
ユベールが問い返す。彼は警戒をあらわにしていた。
絡めたままのダイの腕を、ディトラウトの手が握る。
その手は熱く、そして、震えていた。
「彼女の気分が、悪くなったので。……風に、当たらせていました」
「本当ですよ」
ダイは男の震える手に指を添えた。微笑みながら、彼の言葉を保証する。
汗が、こめかみを伝った。
「アッセたちがちっとも来なくて、結局、イェルニ宰相に送っていただく途中に……。その……息苦しくなりまして」
下着云々を避けた言い回しに、まずユベールが事情を察した。
彼は脱力した。
「そういうことですか……」
「それではお返しいたしますよ」
ディトラウトがダイを解放する。
馴染んでいた体温が、離れていく。
アッセの前で立ち止まり、ダイは補助の手を求めた。
「向こうの様子は? 大事になっていませんよね?」
「いや……すまない」
アッセの伸べた手にダイは指を乗せた。
「ごめんなー。実はけっこう騒ぎになってる」
「……そんな気はしていましたけど、ランディ。だれにも噛みついていませんよね?」
「それはしてない! してないって!」
「ダイ。謝罪は後でいたします。アッセも急ぎますよ。正餐に……」
ユベールの声が止まる。
彼は凍り付いたようにダイの背後を見ている。ランディとアッセも同様だった。
ダイは彼らの視線の先を追った。
ディトラウトが立っている。
白皙の美貌を持つ男。その怜悧さは氷像のよう。けれども――……。
常なら超然と周囲を見る蒼の目が、炎のように揺らぐ暗い光を宿して、三人の男たちを鋭く射貫いていた。
男の目が眇められる。
狂おしげに。
その目の焦点が自分にあることを知る。
肌が粟立つ。
駆け出したい。
いますぐ。
彼の首に縋り付きたい。
ダイの足を止めた声は、廊下の後方から響いた。
「ディータ! お前どこ行ってたんだよ!?」
ディトラウトがゆっくり瞑目する。
次に目を開けたときの彼はもう、ペルフィリア宰相そのひとだった。
ダイも、瞼を閉じ、開いた。
泣き叫ぶ少女は、首を絞めて黙らせた。
ゼノがダイたちの横をすり抜ける。
「心配するだろ。勝手に動くなよ!」
「だったら早く迎えに来なさい。どこで油を売っていたんですか?」
「うっ……違うって俺はちゃんと……」
「行きますよ。まったく……」
ディトラウトたちがダイたちに軽く一礼して踵を返す。
彼らは早足で場を立ち去った。
ダイもアッセたちに声を掛ける。
「私たちも急ぎましょう。……時間、ありませんよね?」
ユベールとランディが釈然としない面持ちで頷く。
アッセは動かない。ダイは彼の手を揺すった。
「アッセ」
アッセが身体を跳ねさせる。
ぎこちなく微笑み、彼は謝辞を述べた。
「すまない」
広間まであと少し、というところで、ゼノが口を開いた。
「あの子……お前の何なの?」
「なに、とは? ……わかるでしょう? デルリゲイリアの国章持ち」
「俺にまですっとぼけんな。俺は、あの子は男だと思ってた」
知っている。
彼だけではない。セレネスティもヘルムートも。
彼らはディトラウトの最初の報告から情報を更新していないのだ。
黙って歩くディトラウトに業を煮やしたらしい。
ゼノが深くため息を吐く。
「ディータ」
「何ですか?」
「口に口紅付いてる」
ぎょっとなって立ち止まり、手の甲で口元をぬぐった。
気づいたときには遅かった。犯した失敗に舌打ちする。
ああー、と呻く友人を、ディトラウトは睨んだ。
「ゼノ……」
「カマかけだったんですけどねぇ……」
見事に引っかかった。
いまの自分にどれだけ余裕が欠けているか、思い知らされる。
ゼノが来た道を一瞥した。後続はまだ来ない。
「お前、奥であの子、抱いてたろ」
「来ていたんですか」
「俺ってば気が動転して引き返したよ。お前は軽率にそんな真似をしない。何なんだよアレ。……ディータ!」
先に歩き始めようとしたディトラウトの肩をゼノが掴む。
「陛下もあの子のことに気づいた! 追求する気満々だぞ! 先に教えとけ! 何なんだ!?」
「黙ってください。招力石(いし)を灯していたからいいようなものの……」
「真面目に答えろ! 殴るぞ!」
「それぐらいされた方が、今の私にはちょうどいい」
「お前……」
愕然とする友人に、ディトラウトは懇願する。
「ゼノ、時間をください。……いまは……うまく話せない」
近づく足音に振り返る。後続が追いついていた。
黙って足を動かす。ゼノが続く。
広間に到着する。弦楽の優美な調べ。満ちあふれる光。人々のざわめき。
長い旅を終えた心地にさせられる。
儀典官の案内を受けて中二階へ。ほとんどの組が着席している。
「……あにうえ」
怒りめいた感情を滲ませて、セレネスティが自分を呼ぶ。
歩み寄ったディトラウトに、主君は視線で見ろと促した。
デルリゲイリアの化粧師が、主君と顔を寄せ、何ごとかを囁きあっている。
ディトラウトは微笑んだ。
予想していた。
これから尋問が始まる。
いいのだ。
これでようやっと。
「あとで……すべて、お話ししますよ」
正餐の始まりを告げる声に、ディトラウトの声は溶けた。
大公アルマルディは姿を見せなかった。側近の官が慰労の言葉を代読する。
乾杯は大陸会議の提唱国たるクラン・ハイヴが行った。イネカに代ってレイナが華やかな笑顔で杯を掲げる。
「さぁ、皆さま、どうかたっぷりお楽しみくださいね。――聖女の仔らに祝福を」
『祝福を』
唱和を合図に料理が運ばれる。
温かな品々の香りが湯気に乗って食欲をそそる。
軽食は提供されていたものの、だれもが空腹には違いなかった。皆、歓談しながら次々と皿を空けていく。
「イェルニ宰相と長々と何を話していたんだ?」
席の近いサイアリーズが問いかけてくる。
あれだけ長い時間をふたりで過ごしていたのだ。話題は避けられない。
魚を切り分けながら、ダイは彼女に応じた。
「んー……。最初は騒ぎの発端についてですね。それからはお互いの護衛について少々」
「愚痴を言い合っていた?」
「そんなところです」
「お話は弾みまして? ぎりぎりにお戻りだったご様子ですが」
「途中で私の気分が優れなくなってしまって。介抱していただきました」
「介抱?」
「風に当たるのにお付き合い願ったんですよ……露台で」
近隣の席は女性ばかりだ。この手の話への食いつきがよい。勝手に想像力を働かせる彼女たちに、ダイは恥じ入るように笑って見せる。
「普段は男装で通していますからね。うっかり下着が苦しいって訴えたら、ものすごく怒られました」
「正直すぎだって?」
「そうです」
「あははは!」
サイアリーズが盛大に笑う。
周囲も拍子抜けしたのち、忍び笑いを漏らし始めた。
「イェルニ宰相も困られただろうな。少し見てみたかった」
「本当に紳士でいらっしゃること」
「鉄壁ですね……。うちの男たちにもぜひ見習わせなくては。今回は陛下がお困りでしたから」
「一番の被害者は彼女ですけれどもね……大変でしたね」
ゼクストの宰相から労われる。
ダイは微笑んだ。
「ありがとうございます」
――これでいい。
だれもわたしたちを疑わない。
ディトラウトもダイと同じ方法をとったらしい。
ふたりで露台に出たことを告白したようだ。
大々的に。さも何もなかったと言わんばかりに。
正餐から舞踏会に移行すると、踊りの相手を務める者たちが順々に、ダイの体調を案じていった。
ファビアンも例外ではない。
「具合が悪くなったんだって?」
「すぐによくなりましたよ。妖精光を見学していたぐらいですからね」
「あぁ、イェルニ宰相が言っていたね。きれいだった?」
「はい。とてもきれいでした」
「そっかー。僕も散歩に出たらよかったなぁ」
舞踏会の最初は全員並び、決まった数小節ごと、ひとりずつずれながら組んで踊る。ファビアンは数人目の相手だったが、なかなか先導が上手い。おかげで会話も弾んだ。元々の知人ということもあるが。
「なかなか有意義な時間でした」
「はは。そりゃよかったね。いっときはどうなるかと思ったけど。……僕はイェルニ宰相と君のやりとり、前にペルフィリアで見ているからさ」
彼の先導に合わせ、足つきを変えて、くるりと反転する。
女性陣の衣装の裾が、ぱっと、花びらのように開く。
「ダイは上手いねぇ。得意なの?」
「いいえ。……今回はこれがあるので、特訓してもらいました」
「君のとこには、いい教師がたくさんいそうだ」
「ファビアンさんだって上手じゃないですか」
「僕は他国での実践さ。いいね。君のとこのような国は、学ぶべき先達が揃っている」
うらやましいよ、と、ファビアンはしみじみ呟いた。
一組分の節が終わった。
ファビアンと一礼。
別れて、次の相手へ。
ディトラウトとは曲の終盤だった。
ディトラウトは左胸に手を当てて。ダイは衣装の裾を摘み片足を引く。
礼を済ませて、踊りの体勢に。
主旋律の音色が、始まりを告げた。
男女ごと一回転。
かかとの音が拍子をとる。軽快な舞踏。
男女が笑いさざめく。
自分たちも沈黙してはいられない。ダイが適当な話題を探していると、ディトラウトが先に口火を切った。
「どちらも踊れるんですか?」
「男女ともに? 踊れます。女役の方が……実は苦手ですけど」
ディトラウトがダイの片腕を上げて引く。
女性のみ、反転。
国章が、翻った。
「それもここ半年で?」
「そうです」
「これだけ踊れれば上出来ですよ」
「嬉しいですね。そう言っていただけると」
昔から。
ディトラウトは踊りが上手かった。マリアージュの練習相手を務める彼をよく眺めた。
「ディアナ」
呼ばれて心臓が跳ねる。
ディトラウトが真剣な眼でダイを見ていた。
「なぜ……応えた?」
くちづけに。
ダイは絶句して、はくはく口を動かした。衆人のただ中で問うことではない。
男が苦笑する。
「招力石(いし)は灯したままですよ」
「……だからって……」
「どうして応えた?」
「あなたこそ……なぜ私に?」
「……その答えはもう、伝えているはずですが」
一年前に。
ペルフィリアで。
城の地下牢で。
ダイを口説いた男の声を思い出す。
『――あいしている』
違う。
あれは嘘だったはずだ。
ダイを味方に引き入れるための。
マリアージュを裏切らせるための。
動揺を押さえながら、視線をさまよわせる。
ふと、こちらを見つめる目を見つけた。
壁際の席に座すひとりの女王。ディトラウトの妹、セレネスティ。
彼女がダイに、否、ディトラウトに、明らかな憤怒の目を向けている。
自分を抱く男に、ダイは問いかける。
「セレネスティ陛下は……お怒りなんですか?」
「そうです」
「なにに」
「私があなたの性別を伏せていたことに」
ディトラウトが凪いだ目で答えた。
ダイは彼が何を言ったか、すぐに理解できなかった。
ディトラウトが抑揚を殺した声で続ける。
「王はおそらく……私の、あなたへの執着に気づいた。ペルフィリアでの件も含めて、私はあなたに関して、後で追求されることになる」
「……私が……女だって? 言ってなかった?」
彼の言葉の意味を必死に整理して、ダイは尋ねる。
「隠していた? なんで……」
「あなたをあいしてしまったから」
言えなかったのだと、男は言った。
曲が変調する。
先より緩やかな調べに。
終わりが近づいている。
ダイは男の背に回した左手に力を込めた。
「わたしは……」
「ディアナ」
熱情の灯った蒼の双眸が、ひたりとダイを捕らえる。
「私はあなたが欲しかった。あなたが欲しい。いまも。そんな私に、あなたの振る舞いは毒も同じだった。もう、無防備にはならないでください。……今日のような機会は、二度と、ないでしょうけれどもね」
ディトラウトが目線でアッセを示唆した。
彼は違う列に並んで踊っている。
「正餐のときからずっと睨まれっぱなしだ。ずいぶん嫌われたと見える」
「違うと思います」
ダイは即座に否定した。
数列越しに見る友人の目は――ダイを見ていた。ディトラウトではなく。
「そうじゃない。彼は……アッセは、わかったんだと、思います」
ダイはディトラウトを見上げて、告げた。
「私が……あなたのことを、好きだって」
好きで、好きで。
「いますぐ、ぎゅっとして、口づけたいぐらい」
いとおしくてたまらなくて。
「あなたのこと、忘れられないのだって……」
曲が終わる。
踊りも。
両隣の女たちが相手の男から離れる。
彼女たちにダイも倣った。
男と向かい合う。
――思えば、いま初めて、男に想いを伝えた。
彼は笑った。
ほんの、刹那の間だけ。
子どもみたいに。
周囲に遅れること一拍、互いに別れの礼をする。
会場は、拍手で満ちた。
集団での舞踏はこれで終わりだ。以後は自由解散となる。夜明け近くまで踊ってもよし。酒と遊戯に興じるもよし。
ディトラウトが踵を返して、彼の女王の下へ足早に赴く。
セレネスティの兄を見る目はかつてなく鋭い。やがて彼女たちは護衛を率いて姿を消した。
彼らを見送っていると、背後から声が掛かった。
「……ダイ」
「……マリア、ジュ、さま……」
くちびるを動かすと、舌先を塩辛く感じた。
マリアージュが扇で目元を示す。ダイはのろのろと指先で下瞼に触れた。
濡れていた。
主君には心配を掛けた。背信に等しいダイの行為にも、彼女は気づいていただろう。
それでも。
責めるでもなく主君は言う。
「あんた……ひどい顔よ」
「マリアージュさま、わたし」
「帰りなさい。先に。もう、いいから。……アッセ!」
マリアージュが命じる。
「あんたは、ダイを送り届けなさい。ユベールとランディは、話があるからあとで返すわ」
ユベールたちが青ざめるなか、ひとり、アッセが前に進み出る。
彼は震えた手を、ダイに差し伸べた。