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間章 枝葉を広げる 4


 マリアージュを真なる女王に。
 その大きな目的を達成するべく、物事に優先順位を決めて、ひとつひとつ丁寧に取り掛かる。
 子どもじみた我が侭は邪魔だ。これまでの自分の在り方には拘泥しない。過去への感傷は振り捨てる。
 成すべきことを幾度も口にする。
「私が、マリアージュ様を」
 幾度も、幾度も。
「女王にする」
 断言する。
「私が」
『女王にする』
 記憶のなかの男の声が、ダイの声に重なり響く。
 国章を縫い取った上着に袖を通して姿見の前に立つ。
 決意を暗く宿した双眸が自分を見返す。
 ――なぜだろう。
 出逢ったばかりの頃の、あの男を思い出した。


 花盛りの季節。いたるところで薔薇の開花する時期。温暖な気候が国内の移動を容易にする。遠隔地に居を置く貴族たちも王都に集う。本格的な社交の時季だ。マリアージュは最低限の政務を除いて、社交とその支度に掛かりきりとなってしまった。
 マリアージュが即位して以来、人気なくどこかひっそりとしていたミズウィーリの館は、貴族たちだけではなく、城からの女官や厨房方や文官を応援に迎えてのお祭り騒ぎとなった。初めの半月はどうにかそれで回していたが、最終的には予定のあまりの過密ぶりに人が倒れる事態に陥った。最後の三日をマリアージュ自身の静養に充てたのち、社交は結局、王城の離宮に場を移して行われることとなった。
 王城の正門にほど近い館。白い石造りの外観は瀟洒で美しい。王城の敷地に数ある建物のなかでも初期に建てられた由緒ある離宮だ。最大規模の収容人数を誇る大広間を持ち、歓談や密談に用いられる露台や小部屋も多く備えている。マリアージュが即位した祝いの晩餐会以来の使用らしい。当時は昏睡状態に陥っていたこともあって、ダイは登城二年目にして初めて足を踏み入れた。
 玻璃細工と燈明の招力石を連ねた照明器具が大広間を虹色に照らす。優美な弦楽の調べに乗せて、舞い踊る貴婦人たちの衣装が花びらのように閃く。
「カースン卿」
 ダイの声掛けに初老の域に差し掛かった男が振り返る。灰色の髭を蓄えた紳士だ。ミズウィーリ家と同じ上級貴族。女王候補メリア・カースンの父親。カースン家の当主である。
 男は不快感をその目の奥に過ぎらせたが、すぐに上級貴族らしく鷹揚に微笑した。
「これはこれは……セトラ殿。いかがなさいましたか?」
 本来であればダイから声を掛けるなどもってのほかだ。けれどもそれを女王に与えられた地位がダイに保証する。
 ダイは微笑んだ。
「商人の方をご紹介いただけたお礼に参りました。心より感謝を申し上げます」
「デルリゲイリアの一貴族として女王陛下に奉仕するのは当然のこと。陛下もますますお美しくなられる」
「肌は日々磨くことでより輝きを増しますが、此度はカースン卿のご尽力あって初めて成し得たこと」
「大仰ですな」
 男は太い声を哄笑に揺らした。
「私どもによくしてくれる商人です……。他にも陛下のお気に召すものもありましょう。今後ともぜひ深い誼を。なれば紹介した私もまた楽園に招かれる心地です」
 婉曲的な言い回しでマリアージュに取り次いでほしいと言われる。
 ダイは決まり文句で会話を締めくくった。
「私によくしてくださった方々については陛下も存じておいでです」
 ダイと関わった人間はマリアージュも知っている。有益なら声をかけるから大人しく待っていろ、である。
 無言の微笑を男から寄越される。ダイは彼の傍らに控えていた少女に向き直った。威勢よく胸を張っているが、扇を握る手に緊張が見える。今回が初の社交だと聞いている。メリア・カースンの妹君。
 彼女の手袋に包まれた手をそっと取り上げ、ダイは丁寧に感謝の礼をとる。
「リリスお嬢様、此度はお嬢様が商人に色々と助言を下さったと伺いました。陛下に代わって感謝申し上げます」
「……とんでもございません。また何かございましたら、いつでもこのリリスに申しつけてくださいな」
 頬をぱっと朱に染めて、うつむきがちに応じる少女に、ダイは微笑んで一礼した。
 彼女の手を離すと同時に背後から声が掛かる。次はホイスルウィズム家とその傘下の家々。
 謝辞を述べ、ときに雑談し、マリアージュへのこれまでの不満を聞き流し、彼女への今後の要望に重々しく頷いては、次に移る。
 繰り返し繰り返し。
「セトラ様」
 側用人の少年がダイに呼びかけた。
「お時間となりました。別室でオズワルド様がお待ちです」
 多くの貴族たちから推された商会がオズワルド。代表の男はまだ若いが、遣り手だった。何せ、マリアージュに就く前のダイのことを知っていた。裏町に居を構える職人たちについて把握しているらしい。初対面は離宮に社交の会場を移す直前のミズウィーリ本邸で、アスマの館で化粧をしていたことを言い当てられたときには背筋に冷たいものが伝った。
 それでも彼はダイに対する丁寧な姿勢は崩さない。
「お待たせいたしました」
 文官と護衛をひとりずつ伴ってダイは待合室に足を踏み入れた。すでに待っていた男は柔和な笑みを浮かべて長椅子から立ち上がり、歓待に両腕を広げた。
「とんでもございません。こちらこそ、お時間をとっていただき恐縮でございます」
 小麦色の肌と短く刈り込んだ同色の髪。中肉中背の体躯を黒の正装に包んでいる。瞳は薄い茶。目が光に弱いらしく、遮光に色のついた眼鏡をかけていた。年は二十代後半と聞いている。
 ブルーノ・オズワルド。
 彼が集めてきたものの品質はとりわけ群を抜いていた。特に色粉関係。総じて発色が美しく、肌上で乾燥しない。よって、時間が経過してもくすまない。マリアージュの肌への負担がとにかく軽い。
 加えて、蜜蝋や蜂蜜。これらはブルーノに販路を任せることにした。この会合はその契約の確認のためだ。
 ブルーノが差し出す目録に目を通し、ダイは感嘆に息を吐いた。
「よくこれだけの量を確保できましたね。……本当に品質は均一なのですか?」
「最初にお渡しした見本通りでなければ、今回の納品分の御代はお支払いいただかなくても構いません。ご不安でしたらその旨を条項に盛り込んでいただければと」
「今後も頼ってよいのですね?」
 色粉はデルリゲイリア国内で生産されているようである。しかし原材料は蜜蝋や蜂蜜と並んで、すべて国外からの輸入になる。蜜関係の産地は大陸でも南西部に位置していたはずだ。昨年に近隣の小国が斃れた影響で政情が不安定な地域のはずだが。
 しかもブルーノがダイに寄越した蜜は化粧用に精製された高品質のものだ。今回に限らず、継続して発注できるのか。ダイが念押しすれば、ブルーノは眼鏡の奥で笑みを深めた。
「お任せください。ご心配いただいている産地ですが、大陸外からの輸入となります。……実はですね、かねてより販路を構築していたのですよ」
「大陸外から? それならなおのこと、販路構築は厳しいでしょう。前々から取り組んでいただなんて、オズワルド氏は先見の明がおありですね」
「質の良い蜜は大量に入用となると踏んでおりましたのでね。私はお待ち申し上げていたのですよ。陛下がその肌に乗せるにふさわしいものを探せと、私どもに命じる日を」
 待ち望んだ日はやって参りました、と、オズワルドは満足そうに述べた。
 文官の助けを借りて契約書を確認していく。隙となる曖昧な部分は質問攻めにして内容を詰め、新たに条文を書き加えながら双方の利益の均衡を調節する。そのあいだに、雑談を挟む。城下のマリアージュへの評判。貴族たち流行の甘味。そのほか、彼らの好みや苦手なもの。とりとめないようでいて、重要な情報。ダイとしても不要なことは口を滑らせないよう回答には細心の注意を払う。笑顔を常に貼り付けながら。
 毎日毎日。商人たちとやり取りを重ねていく。
「セトラ様?」
 ブルーノの呼びかけにダイは我に返った。慌てて居住まいを正す。
「申し訳ありません」
「懸念されることがまだほかにおありで?」
「いいえ。オズワルド氏とこの契約についてはもうありません。今後ともよろしく頼みます」
 ブルーノは了承の徴に深く頷き、唐突に神妙な色を顔に浮かべた。
「もしお許しいただけるなら、セトラ様におひとり、人を紹介したいのですが」
 ダイは文官と顔を見合わせた。彼が首を横に振る。ダイも同意見だ。
 ダイはブルーノに向き直った。
「申し訳ございませんがなりません。それに私と顔を繋いだところで陛下には取り次ぎ致しません。先方にもそのように伝えてください」
「あぁ、そのようなことは期待しておりません。ご安心ください……」
 ブルーノは弱った顔でダイの憶測を否定した。
「私としても、このような機に人を売り込む真似はしたくはありません。しかし、紹介したい男はゼムナムの貿易商で、この蜜の輸入の件でもずいぶんと骨を折ってくれました。セトラ様にお会いできるだけでよいと……。お声を掛けずとも結構です。どうか顔を見るだけでもしてやってくださいませんか」
 ゼムナムはこの大陸の南端にある国家だ。ペルフィリアと同様に大規模な港湾と無補給船を有するという。海を隔ててはいても距離的に近い東や南の大陸の国々と国交が盛んだ。ダイがときおり目にする東や南からの輸入物はたいていこのゼムナムを通じてデルリゲイリアまで運ばれる。
 ダイは再び文官を見た。彼は黙考したのち、ダイに頷き返した。会ってもよい、ということらしい。
 件の貿易商は付き人と共に隣室で待機しているとのことだった。ふたりを呼びに部屋付きの侍女が退室する。ほどなくして彼女は貿易商たちを伴って戻った。
 ダイは呼吸を止めた。
 貿易商の男に、ではない。
 問題は、その付き人のほうだ。
「ご無理を申し上げて誠に申し訳ございません。私はゼムナムより参りました、アーダム・オースルンドと申します……」
 褐色の肌と焦げ茶の巻き毛をした壮年の男が胸に片手を当てて恭しく腰を折る。
 彼の背後では砂色の髪と赤褐色の肌をした体格のよい男が、居心地悪そうにぎこちなく礼をとっていた。
 その灰色の双眸が苦笑に細まってダイを見る。
「ダ――……」
(ダダン)
 知己の情報屋の男の前でアーダムと名乗った貿易商は不敵に笑った。
「お目通り叶いまして光栄です。セトラ様」


 王城の執務室。
 確認すべき書類の山から抜き取った一枚を睨み据えながらマリアージュは毒づいた。
「何だってゼムナムの貿易商なんかにくっついてくるのよ、あの男は」
「彼はデルリゲイリアの人間じゃないんだ。そういうことだってあるだろう」
 わかっていたことじゃないか、と、傍らのロディマスは呆れ顔だ。マリアージュは彼を鋭く一瞥して、書類に裁可の署名をした。
「彼の話はダイが聞いてくるだろうさ。すべての判断はそれからだ」
「……そうね」
 書類を引き取るロディマスに生返事で応じてからマリアージュはため息を吐いた。
 ダイが新たに化粧品の件で新たに関わりを持ったオズワルド商会が引きあわせた男、アーダム・オースルンド。彼はブルーノの宣言通り、ダイに名乗っただけで引き下がった。どこに、いつまでの滞在であるかすら、告げることはなかった。ダダンが顔を出すことで、こちらが追求することを、見越していたようだった。
 ダイが持ち帰った話を議論した結果、晩餐会の翌日にはオズワルド商会にアーダムたちの宿を照会することとなった。さらに一夜明けた今日、ダイは午前の空き時間を縫ってアーダムたちと接見中だ。
 最初は召喚状を出した。が、返答は否だった。
 恐縮だが宿までご足労願いたい。その折には《防音》の招力石をご持参くださいますよう――。
 貴族街にある宿とはいえ検問にほど近い一角に、ダイはわざわざ出向かなければならなくなった。やっかいごとを運んできた件の貿易商とダダンには、ぜひ扇の角をお見舞いしたい。
 マリアージュは次の書類を捲りながらロディマスに問うた。
「にしてもよ。いつ報告を聞けばいいの? あの子、昼はカースンのところに行くでしょう」
 カースン家の侍女たちに化粧の講習へ行くのだ。近頃はそういった依頼も増えた。きりがないので上級貴族の家が主催したときのみ引き受けている。マリアージュに代わってダイが彼らに恩を売っているわけである。
「君の遊園会が終わるころに戻ってくるよ」
 遊園会は裁可待ちの書類を処理し終えたあとにある。ルディアの声で集められたガートルード家傘下の夫人たちが集う会だ。面倒な予定。マリアージュは渋面になった。
 ロディマスが軽やかに笑う。
「そんな渋い顔をしなくてもいいだろうに。……今日の夕方は空けてあるからゆっくりするといい」
「あら、急に。めずらしいわね」
 予定の変更はままあるが、空白になる機会は少ない。マリアージュは面を上げてロディマスに尋ねた。
「踊りの練習はいいわけ?」
「それは明日の午前に回したよ。夕方はダイが君の肌の手入れをしたいらしいんだ。それから明日はダイも練習に加わるからね。君とどれぐらい踊れるのか確かめたいそうだ」
「は? もう踊れるようになったの?」
「どれぐらいかは知らないけど。……熱心に練習しているのは知ってるだろう?」
「……知っているわよ」
 踊りだけではない。社交に必要な礼儀作法を洗練させ、貴族的な言い回しに必要な詩歌や上級貴族の家々の来歴を学び、ミズウィーリに雇われる以前の化粧を習い、商会の会合に歩き回っては戻ってきて、マリアージュの肌の手入れや化粧に励む。そしてそれらの合間に挟まる、茶会、午餐会、晩餐会。ダイはマリアージュの付き添いとして参加するのだ。
 文字通り、息吐く暇もない。
 張りつめた笑みを浮かべて身を粉にするそのさまは――……。
「むかしの……あいつに似てきたわ」
 独りごちたマリアージュにロディマスが首をかしげる。
「あいつって?」
 マリアージュは目を伏せた。
 父に連れられて現れた美貌の男。賊か、暴漢だかに襲われた馬車に乗り合わせたのだという。身寄りのないその男を父は重用した。彼はすぐに頭角を現した。
 すべての一挙一動に針金を通したかのごとき緊張が見られた。
 成すべきことを見据えたその蒼の双眸には決意だけがあった。
「あいつは、あいつよ」
 ロディマスは怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上を追求してくることはなかった。
「……ダイも、陛下も、頑張っているよ」
 マリアージュは書類に目を通しながらロディマスのささやきを聞いた。
 信じられぬほど細かな文字の羅列。二年前までの自分なら、きっと発狂している。
 けれども、読むだけでは、足りない。
「頑張るだけじゃあね、駄目なのよ」
 ダイはマリアージュを選択した。
 あの娘にそれを後悔させてはならない。
「大事なことだよ」
 ロディマスがやさしく諭す。
「あるべき姿を求めて誠意を尽くすことは大切なことだ……。君たちを国の中枢に戴けて、この国は幸せだと、僕は思うよ」
 歯の浮くような台詞をロディマスが吐く。マリアージュは渋面になった。
「寝言は寝てからいいなさい」
「ひどいなぁ。たまに褒めるとこれだ」
「あんたが褒め言葉を口にするときは、だいたい碌でもないのよ。面倒くさい案件でもあるんじゃないの?」
「おや、察しがいいね」
 マリアージュは唖然とロディマスを見つめた。
 まさか、本当にあるのか。難儀な話が。
「皆が揃ったときに改めて話そう」
 ロディマスが抱えている書類の中から一通の封書を抜き出す。
 宝玉と双頭の蛇、そして剣をあしらった、クラン・ハイヴの国章。
 ――クラン・ハイヴを離れる間際にレイナ・ルグロワが言った。
『また近々お会いできればと思います』
 旧メイゼンブル公国領小スカナジア宮で開催される大陸会議。その詳細が。
「ようやっと来たのね」
 ロディマスが人差し指と中指に挟んで掲げる封書をマリアージュは睨み据えた。


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