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第五章 舞踏する漂寓者 5


「すみません、ルゥナとセイスがこちらにいると伺ったんですが……」
 扉越しに青年の声を響き、ルゥナたちが顔を上げる。
 ダイは「どうぞ」と入室を促しながら、声にひっかかりを覚えて首を捻った。
(なんだか……聞き覚えがあるような?)
「失礼します」
 穏やかな声音で断りを入れ、丸縁眼鏡をかけた青年が、扉を開けて姿を見せる。
 茶の縮れ毛と同色の丸い目と視線がかち合い、ダイは驚愕に席を立って思わず叫んだ。
「ファ、ファビアンさん!?」
「ダイ!? どうしてこんなとこ……うぁあっ! なんでここにじょ、ま、マリアージュ様までいらっしゃるんだ!?」
 扉から手を放して、跳び退りながらファビアンが叫ぶ。ダイの背後ではマリアージュがうわずった呻きを漏らしていた。
「それはこっちが言いたいわよ……」
 ファビアン・バルニエ。
 昨年のペルフィリア表敬訪問の折にダイたちの脱出に手を貸してくれた、大陸中部に存在する小国《深淵の翠》ドッペルガムの筆頭外務官である。
 ファビアンの背後から若い女が現れて扉を閉じた。ダイたちを認めた彼女の反応は軽い瞠目に留まった。固まるファビアンの隣で丁寧に一礼する。
「ご無沙汰しております」
 栗色の髪をひっつめにし、腰に細い長剣を提げる女の名をクレア。ファビアンの従者だ。彼女にもペルフィリアで世話になった。
「マリアージュ……マリアージュ・デルリゲイリア?」
 ルゥナの掠れた呟きにダイは彼女を振り返った。彼女は愕然とした面持ちでマリアージュを凝視している。
「まさか、あなたが?」
「気付いてなかったの?」
 ルゥナの呻きに以外にもセイスが口を挟んだ。彼を見返したルゥナが焦燥を浮かべて激しく瞬く。
「えっ、ホントに、そうなの?」
「……あんたはいったい何なわけ……?」
 マリアージュがルゥナを睨み据えて低く呻く。その反応から己の予測を正しいと判断したのだろう。ルゥナがセイスに詰問する。
「どういうことなの? セイスは何でわかってるの?」
「何でって……デルリゲイリア王城の身分証をダイが首に提げていたし。それでご主人のお嬢さんがマリアなんだから、想像はつくよ」
 思い返せばセイスの言動には不可解な点がちらほら見られた。彼の頭にはダイたちの身分が常に念頭にあったのだろう。だからこそ政務とは関係のない村での滞在を休暇などと称したのだ。
「ファビアンさん、ルゥナさんたちとはどういったお知り合いなんですか?」
「ルゥナ? あー……僕の主人……なんだ、けど」
 ファビアンが視線を泳がせて言葉を濁す。が、誤魔化しきれていない。ばか、まるわかりだよ、と、叱責がルゥナから飛んだ。
 ファビアンが主人と呼ぶ者はおそらくたったひとりである。
 ダイはルゥナを振り返って呟いた。
「ドッペルガムの、女王……」
 昨年、ファビアンと別れて帰国したのちに調べた名を、ダイは懸命に記憶から掘り起こす。
 名を確か、フォルトゥーナ。
「フォルトゥーナ・トルシュ・ドッペルガム」
 マリアージュの囁きにルゥナが厭わしそうに目を眇めた。
(まさか、こんなところで)
 互いの故国ですらない異国の辺境で女王同士が対面すると誰が想像し得ただろう。
「信じられないこんなところにデルリゲイリアの女王が? 冗談じゃなく?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわよ。……どうしてドッペルガムの女王が御付きも付けずに大道芸なんかに付き合っていたのよ?」
 ダイはマリアージュの言葉に全面的に同意した。こくこくと首を縦に振って意思表示する。
 ダイが出自を尋ねたとき、ルゥナは具体的な地名を挙げなかった。クラン・ハイヴの人間ではないのだろうとは思っていたが、まさかドッペルガムの女王とは恐れ入る。
 ただ肝心のルゥナの反応はまったくもって貴族らしくなかった。頬を膨らませて反論するさまはひどく子どもじみている。
「ちゃんと御付きはいるよ! セイスに付き合ってもらってるでしょ!」
「ルゥナに誘拐されたっていうほうが正しい気もするけどね」
「セイスひどい何その言い方!」
「ひどくない」
「セイスさんはルゥナさ……フォルトゥーナ女王陛下の護衛なんですか?」
 ダイの問いにセイスは首を横に振った。
「いや、護衛じゃないよ。よく借り出されるけど。道具類の調整や修繕が主な仕事かな」
 セイスが城勤めであることは間違いないようだ。つまりアルヴィナと同じ王宮魔術師なのだろう。
「ちょっと待って。ダイちゃんはちなみにどういう立場のひとなの……?」
「私ですか? マリアージュ様の専属の化粧師、に、なるんですけど……」
 ダイの回答にルゥナが訝しげに眉をひそめる。
「……専属の化粧師をふたりも雇っているの?」
「え? 化粧師は私ひとりですけど……」
「ルゥナ、ルゥナ。ダイは国章持ちだよ。……話したよね?」
 ファビアンがぱたぱたと手を振って会話に入る。ルゥナはますます眉間のしわを深めた。
「聞いてたけどっ、でもでもでも、ファービィはマリアージュの側近は女の子だって言ってた、じゃな、い」
 発言の勢いを急速に緩めて、彼女はひたりとダイを見る。
 ダイは片手を挙げて申告した。
「あー、すみません。私、女なんですよ。一応」
 ルゥナが唖然となって絶叫した。
「うそっ!?」
 性別をわざわざ言及する機会はなかった。ダイが例によって少年の出で立ちをしていたせいで、ルゥナは勘違いしていたらしい。
「ルゥナは気付いていなかったの?」
「えっ、セイスは気付いてたの!? いつから!?」
「最初から」
「えぇええぇっ!?」
 身分証と同様、怪我のときに身体を見たか、魔を識別したか。どちらかだろう。
 どう見たって美少年なのに、と、呻くルゥナを眺めていたマリアージュがため息を吐いた。
「面白いようにみんな騙されていくわよね……。どうしてなの?」
「ダイ様には性別の匂いというものがございません。そのせいでしょう。ファービィ様も勘違いされておいででしたし」
 クレアがファビアンを見る。彼女のどことなく冷たい色の混じる目に、ファビアンはうっと呻いて視線を外した。
「ダイちゃんはちなみに……何で国章持ちに……?」
「何で、と言われましても……」
 マリアージュと共に城に上がったとき、彼女の傍にいるために役職を拝命した。抵抗はなかった。当時の自分は国章を賜ることの重みを理解していなかった。
「国章持ちになる切っ掛けは人それぞれでしょう」
「国章を与えたのはあなたでしょう。何を他人事みたいなことを言っているの?」
 言いよどむダイに代わって答えたマリアージュをルゥナが睨む。
「国章を与える相手っていうのはよくよく吟味して決めるのよ」
「私はダイを傍におくために国章を与えた。国章は側近中の側近に与えるものと聞いたわ。違うの?」
「その通りよ。でも、ダイちゃんはお化粧をする人なんでしょう?」
 ルゥナがダイを一瞥する。その目には憐憫めいた色が浮かんでいる。ダイは不快感に身じろぎした。
 何を――憐れまれることがあるのか。
「化粧師に国章を与えてはいけないなんて、誰も言わなかったわ。女王がもっとも信を置く者に、とだけ言われたのよ」
 マリアージュの眼光はいつもにも増して鋭い。
「何か文句があるの?」
「文句じゃない。だってあなたのお国のことだもの。でも、忠告してあげる。国章は重いのよ。……何を考えているの?」
「……国章の重みにダイは相応しくないとでもいいたいの?」
「そうじゃないよ」
「そうじゃないなら何だというの」
 マリアージュが苛立たしげに吐き捨てる。その双眸には火花散るような昏い怒りが宿り、膝の上で握り合わせた手の甲には青筋が浮かんでいる。今にもその場にあるものをルゥナに投げ付けたい衝動を必死でこらえているように見えた。
 ルゥナが深く息を吐いた。
「国章は王と一緒に国の根幹を担う存在にこそ与えられるべきものだよ。ダイちゃんが相応しくないわけじゃない。でも、化粧をする人に与えられるものでもない」
「化粧師は王と一緒に国の根幹を担えないと? つまり、私の選択は誤っていると指摘していらっしゃるのね?」
「その通りよ」
「ドッペルガムの女王陛下はずいぶんと不躾で失礼なのね。……ふざけないで」
「あなたこそふざけないで」
 マリアージュの静かな憤りの声にルゥナが上から被せるように言い放つ。
「私だって彼女の仕事ぶりを見たわ。すごいと思う。でも、それとこれとじゃ話は別なの。あなたが背負っているのは国の行く末だよ。化粧がいったいどんな支えになるっていうの? 化粧しかできないひとに何ができるっていうの? ……国章を背負うに足ると思うの? 国章を背負うっていうことは遊びじゃないんだよ」
 国章を纏って女王に侍る。それを遊びだと思ったことは一度もない。
 だがルゥナの言葉はデルリゲイリアの王城でダイの立場に不満を持つ官たちの本音そのものだ。
(わたしが、マリアージュ様の隣に、立つ意味)
 ルグロワ河に転落してからしばらく忘れていた課題を突き付けられ、ダイは息を詰めた。
「ダダンがあなたについて話していたから、私自身もあなたのことを調べたわ」
 ルゥナが抑揚を殺した声音で告げた。
「マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリア。上級十三家に名を連ねるミズウィーリ家の長女。兄弟姉妹はなし。領地の本家ではなく都の館で育てられた箱入り娘。王女エヴェリーナ様を筆頭に、女王候補者数名が流行病で儚くなられたという幸運を経て女王に即位した」
 エヴェリーナは先代女王エイレーネの第一王女だ。アッセやロディマスの妹である。彼女が亡くなったために、デルリゲイリアでは女王候補が選出され、玉座を争うこととなった。
「いいわよね。最初から後ろ盾がある人は。すでにある平和な国をポンっと譲られただけの人は。私たちドッペルガムは国すらなかった。メイゼンブルに踏みにじられた、そこからが始まりだったのよ」
 ルゥナが侮蔑を込めた目でマリアージュに吐き捨てる。
「虐げられたこともない、ぬくぬく育ってきたから、自分をきれいにするためだけのお化粧する人に、国章を与えることができるんだわ。……甘ったれないで!」
「あ――……」
「甘ったれてなんかいません!」
 椅子から腰を浮かせたマリアージュに先んじて、ダイは机を叩いて立ち上がった。
「何もご存知ないくせに、憶測だけでぽんぽん人を馬鹿にするのはやめてくださいっ!!」
 ルゥナが目を剥いてダイを見つめ返す。ダイが怒り出すとは思っていなかったとでも言いたげな顔だ。気まずそうにダイの顔色を窺って許しを請うてくる。
「ごめんね。でも、ダイちゃんを責めてるんじゃなくて……」
 ルゥナのその表情にダイは煮えくり返るような怒りを覚えた。
「忠誠を誓った主君を罵られて平然としているような人間が国章を賜っているのだと思われているんだったら、その方が心外です。それとも陛下の国章持ちは、陛下が責められていても他人事みたいな顔をしているんでしょうかね? あぁそれなら仕方ないですね。陛下のご側近の方々こそ、お遊び気分なのでしょうね」
 視界の片隅でファビアンが表情を変えた。しかし彼に構う余裕をダイは持てなかった。ルゥナの失敬な発言の数々を諌めなかった彼やセイスにも頭に来ているのだ。
「マリアージュ様のことを調べた? そうおっしゃるんだったら、もっときちんとした情報を集めたらどうですか!? 誤解された情報がドッペルガムの皆様にいきわたっているとなると、後々に支障が出てはなりませんから、教えて差し上げましょう。デルリゲイリアの女王戦には五人の候補者が立ちました。マリアージュ様はその中で一番と皆に望まれたからこそ即位なさったのです」
 流行病さえなければマリアージュが女王はおろか候補者にすらならなかった点は事実だ。が、マリアージュが王都育ちであるのはミズウィーリ家の経済事情によるもので本当の意味での箱入りかどうかは疑問だ。いくつかの幸運な要素はあったとしても、女王の座が自動的に転がり込んだかのような表現は断固として否定したい。マリアージュはきちんと女王候補選に挑み、玉座を勝ち取ったのだ。
「化粧師が国政に役に立たない。それは事実です」
 ダイは掠れた声を喉の奥から絞り出した。腹の底に力を入れなければ発声できなかった。
「ですがそれでもマリアージュ様は、陛下は、取るに足らない私の化粧を、国政の一部であると、大切なものだとして扱ってくださった。……えぇ、フォルトゥーナ女王。あなたのおっしゃるように、国章とは、執務の能力の高い方や、外交の手腕に長けた方に授けることがよいのでしょう」
 たとえば、ペルフィリアの宰相。あるいはここにいるファビアンのような者に。
 ダイはルゥナを睨み据えた。
「……私の陛下は確かに私のような者に国章を与えてくださいました。けれどそれは、特別すぐれた者でなくとも……私のような、平凡な民であっても、見捨てない、というお心の現れです! 私はあなたの治める、能力のある人たちだけが政治をこねくり回す国には、欠片も住みたいとは思いません!」
 白く滲む視界の向こうでルゥナが顔色を変える。
 けれど、どうなったとしても知るものか。先に彼女がマリアージュに――デルリゲイリアに、喧嘩を売ったのだから。
 黙ってなど、いられない。
「えぇ、えぇ、ドッペルガムはさぞや優秀なものだけが集まった素晴らしいお国なんでしょう! 政治に力のない平民は見捨てられていくのでしょうね!」
「わたしは」
「ルゥナ」
 セイスが鋭く呼ばわって、ルゥナの肩を抑え込んだ。
「ここまでだ」
 皆が一斉に彼を見る。セイスの表情は常と同じく凪いでいる、が。
「謝罪するか。外に出るか。選んで」
 彼の淡白にも響く声音には有無を言わせぬ迫力があった。
 ルゥナはセイスに腕を引かれて一歩退いた。ダイとマリアージュを眺めやり、くちびるを幾度か震わせたのち、渋面となってゆるりと頭を振る。
「即位した経緯が認識と違っていたことは謝りましょう。でも……私の見方は間違っていないわ」
「ルゥナ」
「セイス。甘ったれた考えの王にはね、厳しい意見が必要だよ」
 ルゥナがセイスの手を腕から外しながら早口に述べる。
「国章持ちは女王の考えの体現者なんだもの。化粧師の仕事はすてきでも、国章にはふさわしくない。どれだけ政治を軽く見ているのかがわかるよ。生まれたときから大勢に傅かれることが当然のひとに、誰もが虐げられないような治世は築けない。だって苦しみがわからないんだもの」
 彼女はそのままダイたちとは目も合わさずにファビアンとすれ違って退室した。
 泥のように重い沈黙が部屋の中に満ちる。
「……ごめん、ダイ」
 喘ぐようにファビアンが呻いた。
「……こちらの女王がとんでもない失礼をした」
「ファービィ様。ごめんなどとそのような軽い言葉で済ませるべきではございません」
「……本当に申し訳なかった。何と申し開きをしたらいいのかわからない」
 冷やかな声でクレアに指摘され、ファビアンが深々と頭を下げる。ダイは腕を組んで足を踏み鳴らした。
「……国官同士の貸し借りは国のものになるので、発言には重々に気を付けるようにご指摘くださったのはほかでもないあなたですよね? ファビアンさん。ドッペルガムは私の国にあきらかな敵意を持っていると解釈してよろしいんですかね?」
「ほんっとうにすみませんほんっとうに申し訳ないああぁああもう陛下どうするつもりなんだあぁあああ……!」
 ファビアンが頭を抱えてその場で蹲る。ごめんごめんほんとうにすみませんと、子どものように繰り返す彼をどことなく蹴り付けたい気分に駆られていると、隣に暗い顔のマリアージュが立った。
「……蹴っていいかしら?」
 主君と考え方が同じだという事実に頭が冷えた。ダイはマリアージュの腕をそっと抑える。
「……マリアージュ様、それはさすがにまずいと思います。堪えてください」
「僕からも謝る。ごめん」
 セイスが庇うようにファビアンの前に立って腰から丁寧に頭を下げた。
「此度のことは……フォルトゥーナ女王の意向ではなく、ルゥナ個人の意見として収めてもらえると助かる」
「あれだけ好き放題に言われて黙っていなさいっていうのぉ? それはさすがに横柄なんじゃないかしら」
 椅子に座ったまま傍観を決め込んでいたアルヴィナがセイスに微笑む。ただし、その目はかけらも笑っていなかった。彼女にとってルゥナから売られた論争はあまり面白くない見世物だったようだ。
「……アルヴィナさんの言う通りだ。だから今回のことは僕個人へのおおきな貸しにしておいてほしい」
「貸し?」
「……君たちはルゥナを助けてくれた」
 これだけでも、大きな恩義だったと、セイスは言う。
 ダイは足のつま先を睨み据えて呻いた。
「……恩義の貸し借りは……好きじゃありません」
 いつかの会話が脳裏に閃く。
『――これは、貸し、ひとつですからね』
『貸し?』
『そう。なんでも一つ、私の言うこと聞いてくださいね……』
 そしたら、許してあげます、と、賢しく言った自分に、《あの男》はちいさく笑って頷いたのだ。
『わかりました。貸し、ひとつですね』
 そのような約束は時間が経つほど忘却の彼方に追いやられて反故となる。
 ルゥナを魔狂いから救ったことに感謝しているのなら、セイスにはいまここで彼女を諌めてほしかった。
 沈黙するダイたち三人の前にクレアが進み出た。
 彼女は片手を胸に当て跪き、ダイたちに深く頭を垂れる。
「直言をお許しください、女王陛下」
「……許しましょう」
「ドッペルガムが外務官、クレア・ニコルソンと申します。我が国の者たちが次々と不敬を働き、誠に申し訳ございませんでした」
 殊更丁寧に謝罪するクレアにマリアージュの目が眇められる。
 三人分の怒気の矢面に立ちながらも、クレアは神妙な表情で陳謝し続けた。
「お怒りはごもっともでございます。……この首ひとつで御心を晴らせるとも思いませんが、なにとぞこの場をお納めいただきたく存じます」
「クレア!?」
 青褪めたファビアンを無視してクレアが淡々と述べる。
「上の方の失言は諌められなかった下の者の責任でございましょう」
 ダイはクレアを見つめた。彼女は、本気だった。マリアージュが死ね、と、命じれば腰に佩く剣で首を掻き切りかねない本気が窺えた。
 長卓に頬杖を突いたアルヴィナが面白がるように口を挟む。
「その子の首で手打ちにしてあげてはいかがですぅ? 何ならわたくしが今すぐ刎ねましょうか?」
「……首などいらないわ。わずらわしい」
 マリアージュが細く長く吐息してクレアに背を向けた。
「消えなさい」
「恐れ入ります」
 クレアがもうひとたび頭を下げて引きさがる。彼女はファビアンとセイスの脇腹に容赦ない手刀を叩き込んだのちにマリアージュへ一礼して退室した。
 クレアの行動にか、それとも彼女からの攻撃に対する痛みを堪えてか、微妙な顔で沈黙している男ふたりにマリアージュが言い放つ。
「彼女に免じてこれはドッペルガムへの貸しとするわ。……ファビアン・バルニエ外務官」
「はい」
 ファビアンが背筋を正した。
「あなたの願いを聞き入れることに関しては、昨年あなたに助けられたことへの借りを消すかたちとします」
「ありがとうございます」
「セイス……」
「ユーグリッド・セイス、と、公の場では呼ばれています。魔術師団の長の任に就いています」
 ドッペルガムの魔術師を統括する立場、になるはずだ。国の上層にいるはずのふたりがこのような場所に雁首揃えている現実にダイは改めて頭痛を覚えた。
「……魔狂いの件はあなた個人への貸しとします。……いつか返してもらうわよ」
 絶対に、むしりとる、という意気込みをマリアージュの発言から感じる。
 セイスの視線がマリアージュから動いてアルヴィナを捉える。目を合わせた彼女はふふっと笑ってセイスに告げた。
「公式の場での出来事じゃあないからってあとで知らないふりをしたらぁ、私があとで取り立てにいくわね」
 セイスは了承の徴に頷いてマリアージュへ礼を取り、足早に部屋から去った。ファビアンもその後に続く。彼はダイを見て申し訳なさそうに眉尻を下げ、また今度ね、と、くちびるを動かし、改めてマリアージュの前を辞去した。
 扉が閉じられ、部屋に三人が残される。
 マリアージュが崩れ落ちるように椅子に座り込み、ダイは慌てて駆け寄った。
「マリアージュ様」
「……虐げられた者にしか、女王の資格はないと言うの?」
 マリアージュが震えた声で呟いた。
 その頬を一筋の雫が滑り落ちる。
「苦しみを味わった者でなければ、国を治めることなどできないというの? 私には玉座に就く資格がないというの?」
「そんなことはありません!」
 ダイは咎める声音でマリアージュの発言を否定した。彼女の前に跪いてその手を揺さぶる。
「あなたは誰よりも国の安寧を望んでいる。弱き者の立場に理解を示そうとし、必死になって努力なさっている。あなたは玉座の責務から逃げたことなど一度もない。あなたは紛れもなく、私にとって唯一無二の女王です」
「あなたがひとり信じたところで、動かない事実もあるわ。ダイ」
 自嘲から口元を歪める主君に、ダイは息を詰めてうな垂れた。繋ぐ手の甲に額を押し当ててくちびるを噛みしめる。
(わたしのせい)
 マリアージュへの非難はダイ自身が己の有用性を示せないことに由来する。
 どこまでもついて来いとダイに居場所を用意したマリアージュに非はないのに。
 マリアージュは暗愚な王だと嘲られつづける。
 ダイはマリアージュの手を強く握った。
「……ならば、わたくしが、あなたを女王にしてみせる」
 ダイは面を上げた。主君の見開かれた目に泣きぬれたこちらの顔が映っていた。
「わたしが、あなたを女王にしてみせる」
 打てるあらゆる手を尽くして、この身を粉にして――……ダイはひび割れた声で宣誓した。
「私が、あなたを、誰もが相応しいと認める女王にしてみせます! 真なる国主にしてみせます! 絶対に……!」
 かつてダイたちの下を去った男が、マリアージュを表舞台に押し上げたように。


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