第四章 休息する逗留者 1
砂を詰めたように重い瞼を押し上げたとき、目に入ったものはくるくる回る水晶だった。
透明度の高い球体の石だ。あわい銀に発光している。その後方には削り跡がむき出しの岩天井。赤茶けた色が、温かみを感じさせる。
ダイは息を吸って、吐いた。渇いた布の感触がしている。頭を横に動かせば、枕の色目の鮮やかな刺繍と――せわしなく瞬く目が、視界に入った。
「……え?」
ダイは呻きながら目の主を観察した。栗色の瞳と同じ色の髪。女だ。年のころは二十代半ば。
彼女はダイが目覚めたと認めるや、手放しで甲高い声を張り上げた。
「あっ、おきた!? おきたよ! ねーねー、セイス! おきたおきた! ダイちゃん起きたよ!!」
おきたよやったぁおきたよ、と、はしゃいだ様子で女が背後を振り返る。その肩越しに垣間見えた男は、開いていた本を閉じると、呆れた声で女を見やった。
「ルゥナ。けが人の耳元」
「あっ、ごめんねっ!? うるさかった!?」
もちろんだ、と肯定したいが、声が出ない。喉が渇いて張り付いているのだ。
そのダイの心中を読んだかのように、いつの間にか距離を詰めていた男が、陶器の杯に液体を注いで跪いた。
「起きられる?」
「……られます……」
「よかった」
褥に手を突いて声を絞り出したダイに、男が安堵らしきものに目尻を下げる。ダイは息を詰めた。微笑む男の目が初めて見る色合いをしていたためだった。
煙水晶めいた濃淡のある灰色。その奥に銀色が見えた。墨に水銀を溶いたような色だ。
顔立ちは端整だ。表情の乏しい顔のせいか、彫刻めいた印象がぬぐえない。肌は抜けるような白。それも、頬の赤みがなければひとであることを疑いそうなほどにくもりがない。
白髪にも見える銀の髪は顔の輪郭に沿って切られている。しかしざんばらぎみで、それが逆に男に雑然とした人間味を与えていた。
年は――わからない。ダイと同年代に見えたし、かなり年嵩とも思えた。
「これ、水」
女にセイスと呼ばれていた彼は、ダイの背に手を添えて陶杯を差し出した。
ダイは震える手を陶杯に添えて口元へ寄せた。喉にぬるい水が滑り落ち、息を吐くや力が抜ける。
枕の上に倒れ込んでもう起き上がれなかった。
「すみません……」
「飲めたね。なら大丈夫だ」
「あたし、マリアちゃんとアルヴィナちゃん呼んでくるよ。まっててね」
「マリアちゃん……?」
親しげな呼び方に目を剥いた。待って、と、制止しようにも声が出ない。女は小走りで戸口を出た。部屋を仕切る鮮やかな布がひるがえり、姿があっという間に見えなくなる。素早い身のこなしだった。
「すぐに戻ってくるよ……君の連れと一緒に」
「……あなたは」
「僕はセイス」
と、男は名乗った。そして女が消えた戸口を振り返る。
「彼女はルゥナ。ここはクラン・ハイヴのエスメル領南西部、ルグロワ河支流の河口付近にある村。岸に流れ着いた君たちを見つけたのは三日前だ」
「……君たちって……」
「君とアルヴィナとマリアお嬢さん。……ほかにはあるかな。いちおう、ふたりが知りたがっていたことをまとめて答えたんだけど」
「……ふたりは、ご無事ですか?」
「うん。すぐにくるよ」
ダイに首肯するセイスの背後から慌ただしい複数の足音が近づいてくる。
「ダイ!!」
部屋に飛び込んできた集団の先頭はアルヴィナだった。両手を広げた彼女はダイを目掛けて床を踏み切る。
「アルヴィいっふぐ!」
「よかったねー! 目が覚めて! どう? だるいところはないかしらぁ!?」
「……い、いきぐるしいです……」
胸の谷間に顔を押し付けられ、頭の髪をかき混ぜられながら、ダイはアルヴィナに訴えた。あらやだ、と笑ってアルヴィナがダイから身体を放す。ダイは再び仰向けに横になって深呼吸をした。窒息するかと思った。
アルヴィナの隣にマリアージュが立つ。ふたりとも、簡素な出で立ちだ。アルヴィナはゆったりとした上に脚のかたちに添った下ばき。マリアージュは農家の娘のような衣服を着ている。
彼女は腰に手を当てて呟いた。
「私より長く寝てるんじゃないわよ」
「……すみません……」
「ぷふふ。マリアちゃんってばすごく心配してたもんね!」
「うるさいわよ、そこ」
くちびるを手で覆って口角を上げるルゥナが、マリアージュからの指差にぴょこんと跳ねる。彼女は軽やかな笑い声を立てるとセイスの背後に隠れた。
「……あの……あなたがたが、助けてくださったんですか……?」
セイスとルゥナ。このふたりが。
しかし彼らは首を横に振った。
「ちがうよー。助けてくれたのはあたしたちもお世話になっている、大道芸のひとたち」
「だいどうげい……」
「流れのね。あたしたちは一緒にくっついて旅してるんだけど、あのひとたちからダイちゃんたちの世話、請け負ったんだー。あっ、あたしルゥナ。こっちはセイス」
「ルゥナ。自己紹介はもうすんでるよ」
「ええー、そうなの? いつ?」
「さっき」
ルゥナの問いに淡々と応じながら、セイスが宙に浮く水晶を回収する。彼の手の中で球体は銀の光を失っていった。直感する――見たことのない代物だが、あれは、魔術の道具だ。
「セイスくんにお礼を言ってねぇ、ダイ」
アルヴィナが寝台に両手を突いて身を乗り出して告げた。
「彼が治療してくれたの」
「ちりょう……?」
「えぇ。加療珠で。……本当にね、危うかったのよぉ。幸運だったの。感謝しなくっちゃ。……そんな魔術を使える魔術師さんって、昨今いないでしょう?」
アルヴィナがくちびるにひと差し指を押し当てる。沈黙をダイに求めているらしい。
アルヴィナは己が魔術師であることを、ルゥナたちに明かしていないようだ。
「加療珠の力だよ。治癒は僕の門外だ」
「使えることがすごいんじゃなぁいの?」
「それより加療珠を知ってるほうがめずらしいよ」
「メイゼンブルで見たの。昔」
「えっ、メイゼンブルにいったことあるの?」
「昔ねぇ……」
「ちょっと、そろそろダイを寝かせたいんだけど」
セイス、ルゥナ、アルヴィナの三人に、マリアージュが冷やかに水を注す。
セイスがいまだ枕から頭を上げられないダイを一瞥して、頷いた。
「そうだね」
「うっふふ……マリアちゃんってば心配性」
「うるさいっていってるでしょ……」
「じゃあ、私はだんちょーさんに報告してこよっと」
猫のように伸びをしてアルヴィナがさっと踵を返す。軽やかな足取りだ。その後ろにルゥナが続いた。彼女はひらひらと手を振って、お大事にね、とダイに明るく声をかける。最後を歩くセイスは部屋の戸口を前に立ち止まった。
「部屋、暗くする?」
彼は開け放たれた窓を指していた。その傍には椅子が一脚。彼が本を読んでいたときのものだ。
明かりを遮っていた人物が去ろうとする今、寝入るには少々眩しい光量かもしれない。
けれどもいま暗くしてはマリアージュに差し障る。
逡巡するダイから返答が得られぬらしいと悟ったのか、セイスがマリアージュの方を向いた。
「マリアお嬢さん。必要なら君が遮光幕を引いて」
セイスはマリアージュに言い置くと、了承を待たずに部屋から出て行った。
遠退いていく足音。
ひとの気配が失せるまで待って、マリアージュは肩で吐息した。そして下唇を噛みしめ、震えながら青褪める。
ダイにはわかる。
マリアージュは、怒っていた。
「マリアージュさま……」
「あんったね……」
震える言葉を区切った彼女はダイの頭を思いっきり叩いた。
「い……った……」
「目を離すとすぐこれよ! ほいほい誘拐とか襲われたりとかするんじゃないの!」
「……別に好きで誘拐されかけたわけじゃ……。どうしてわかるんですか……?」
「鳥が反応したんでしょ……。だとしたら理由なんてそれぐらいじゃない……!」
だいたいねぇ、と、マリアージュが地団太を踏んだ。
「襲われて切り抜けたなら最後まで無事でいなさいよ!」
まったく、と、息を吐いて、マリアージュが寝台にばたりと倒れる。
ダイは驚きから上半身を起こそうとし、挫折した。身体がまだ言うことをきかなかった。
マリアージュは顔をふせたまま微動だにしない。
敷布を握る彼女の手は青白く、そして震えている。
ダイは手を伸ばしてマリアージュの指先を握った。彼女の冷えた手はいっとき戦慄いたが、やがてゆるゆるとその強張りを解いていった。
ダイは主君に笑いかけた。
「ご心配おかけしました……」
マリアージュが口先を尖らせて身を起こす。彼女はダイから解いた手をこめかみに当てていらいらと呻いた。
「まったく……あんたの生死で気を揉むのはこれで最後にしたいわ」
「尽力します」
自分としてもこれ以上の命が危うい状況はご免被りたい。
ダイは心から謝罪した。
「……本当に、すみませんでした……。マリアージュ様は、お怪我は?」
「とくにないわ。……擦り傷ぐらい」
確かに見たところマリアージュに目立った外傷はない。むしろ小ざっぱりとした町娘の装いは、彼女自身が放つ生命力のような輝きを引き立て、顔色をひさしく健康的に見せていた――目の下の隈の存在は否定しないが。
「マリアージュ様はすぐに気付かれたんですか?」
「そうね。……あんたに比べちゃ、すぐよ」
と、マリアージュは答えた。
マリアージュいわく、彼女もダイと同様に気が付いたときには寝台の上だったらしい。川岸で救助されてから半日が経過していた。
ダイたちの処遇を整えたのは誰よりも早く覚醒したアルヴィナだ。彼女はダイたちを発見した大道芸の一団に援助を請い、村の長老とも交渉して民家のひと部屋を借り受けた。
「すごいですね、アルヴィー……」
ダイは感嘆に吐息した。
「そういえば、私たちのこと、どう説明しているんですか? アルヴィー、魔術師なことを隠してるみたいですし……」
さすがに他国の女王だと名乗るわけにもいかないだろう。味方のいない土地でむやみに素性を表すことは危険だ。かといって身分も立場も違う女三人を言い表す適当な関係性は考えつかなかった。
「私はデルリゲイリアの貴族の娘。あんたは私の従僕。アルヴィナは侍女」
マリアージュが端的に答えた。ダイは意外さに目を瞠った。
「あっ、そのままなんですね……」
「そうね。……河に落ちた理由だけど、賊ってことになっているわ。用事があってルグロワ市に向かっていたら、襲われて河に落ちた」
「どんな用事ですか?」
「知らないってことになってるの。私は死んだ父の代わりに家を取り仕切っている鼻持ちならない狸に、いわれるまま旅をしただけ」
「あぁ……」
設定に捻りが何もない。
マリアージュは女王である前に、デルリゲイリアの貴族である。父親が死に、“あの男”が数年のあいだ家を切り盛りしていたことも事実だ。
ダイとアルヴィナのことを除けば本当に、嘘がない。だから疑われるような下手を打つ可能性が低い。
マリアージュがダイを見つめている。
過去を連想させる設定に対する反応を窺っているのだろう。
ダイは薄く笑ってマリアージュに言った。
「何にも知らない我が侭な貴族のお嬢さんっていう役なんですね。演じる必要がなくていいじゃだっ!」
ごん、と鈍い衝撃が拳と共に頭に振った。ダイは噛みそうになった舌をひっこめて枕に沈む。ひさびさに拳で殴られた。本気で痛い。
「……けが人に、暴力振るうのは、なしにしませんか……」
「あんたが余計なことを言わなければすむ話でしょ」
マリアージュが憤然と鼻を鳴らす音をダイは頭を擦りながら耳にした。
「だいたい、何がけが人よ。傷はないはずでしょうが」
「まぁ……無傷みたいですけど……」
ダイは両手をかざして眺めた。指先まできれいなものだ。切り傷ひとつ見当たらない。
「別に無傷だったわけじゃないわよ、あんた」
「……さっきと言ってること矛盾してませんか?」
「してないわよ。……いまはどこにも傷はないはずっていったの」
「……怪我、してたんですか? 私」
「してたわ。背中をざっくり」
河の中で岩に衝突したのだろうとのことだった。骨も損傷していたようだ。
が、それも当然かもしれない。船の沈没に渦を巻く急流に落下したのだ。無傷なほうがおかしい。
よく、生きていられたものだ。
マリアージュはダイの生死に気を揉んだと述べた。それは真実、言葉通りだったのだ。頭を叩かれても仕方ない気がした。
ダイは無意識に背へ手を伸ばした。衣服に包まれた背には痛みも引き攣れもない。服の下に指を滑らせてみたが、伝わる肌の感触はなめらかだった。
「……セイスさんが、治してくださったんです、よね……?」
ダイの問いに、マリアージュがそっけなく肯定する。
「そうよ」
「……そんな……ひどい傷を……?」
アルヴィナから説明されたときにはそのまま聞き流してしまっていたが、改めて考えれば人の傷を治療するなど、彼はとんでもない腕の魔術師だ。
人の傷を治療する魔術は絶えたと聞いている。魔術の構成があまりにも複雑すぎるせいで扱える術者が根絶されたのだと。
「別に治療の魔術が使えるわけじゃないみたいよ」
ダイの思考にマリアージュが水を差した。
「かりょーだまっていってたでしょ。治療の魔術が使える宝珠なんですって」
「招力石とは違うんですか?」
「知らないわよそんなこと。治ったんだからいいでしょとりあえず。気になるならあとであんたが訊きなさい」
「そうします……」
幸い、マリアージュと話しているうちに思考も明瞭になってきた。身体にもまもなく力を入れられるようになるだろう。
起き上がれるようになったら、セイスとルゥナ、そして世話になっているという大道芸の一座にも礼を述べなくては。
「……そういえばマリアージュ様、ルグロワへの連絡はどうなっているかご存知です?」
ダイたちはレイナの目の前で急流へ落下した。おそらく生存は絶望視されているはずだ。早急に連絡を取る必要がある。
ユマたちの安否も気がかりだった。船は沈没しかかっていたのだ。ダイは黒々と渦を巻く水に呑みこまれる船乗りたちの姿を思い返した。デルリゲイリアの邦人たちもそうなっていない保証はない。
それに、ルグロワ市が――レイナが、デルリゲイリアからの一団を保護するという確証もなかった。彼女はダイに危害を加えようとした。その結果が今なのだから。
「連絡はしていない。できないの」
「……アルヴィーの遣い魔は……?」
マリアージュが首を横に振る。
「核になるものがないらしいわ。長距離を飛ばすには銀がいるのに、適当なのがないんですって。……あんたの遣い魔の核も、河に流れてしまったらしいし」
「あぁ……鳥、そういえば見ませんね。……銀はここじゃ手に入らないんですか?」
「入らない。……あんたも起きて外に出てくればわかるけど、この村には何にもないのよ」
窓の外へと視線を移し、マリアージュが呟いた。
「家と、集会場だけよ。街と連絡が取りたいなら、隣の町へ行けって言われたわ。そこそこ大きな町だそうよ……馬車で半日? って言っていたかしら」
「じゃあ、その町へ行けば……?」
「行けないのよ」
マリアージュが苛立たしげに息を吐く。ダイは布団の中で身を縮こまらせた。
「すみません……」
「あんたの怪我のせいじゃないわよ。言っておくけど」
「あれ、違うんですか?」
意表を突かれてダイは瞬いた。てっきり自分が昏睡していたせいで、身動きがとれなかったのだと思ったが。
だれを真似たものやら――十中八九、祖国で留守を預かる宰相だろうが――、マリアージュが足を大仰に組んだ上で頬杖を突き、ぶすくれた表情を浮かべる。
「ダイ、私たちにはね」
女王は実に深刻そうに告白した。
「おかねがないの」