第三章 渦旋する因習者 2
「それでねっ、ダイったらねっ、レイナの肌をすごく褒めてくださってねっ」
あと髪もねっ、きれいねっておっしゃってくださって、それからねっ。
と、今朝のダイの様子を延々と語るレイナに、マリアージュは心底うんざりしながら、相槌を打ち続けていた。話題に窮してダイの手入れの感想を尋ねたことがそもそもの誤りだった。
シーラが同席していれば主人を諌めたに違いない。しかし彼女は別の近衛と役目を交代して場を離れており、初めて見る顔の青年兵は表情ひとつ動かすことなくレイナの斜め後ろに控えている。どうやら彼はシーラと異なり、発言は許されていないらしい。
レイナの衛兵と同じくアッセもマリアージュに助け舟を出さない。気の利かない男だ。彫像よろしく佇む男をマリアージュは横目で睨んだ。
アッセは明後日の方を向いている。咎めかけてやめた。彼はマリアージュの視線から逃げているわけではないらしい。
「どうしたの? アッセ」
「あぁ、いえ……」
河を挟む断崖を注視していたアッセは、マリアージュに向き直って頭を振った。
「失礼いたしました。崖に……何か見えて」
「どこに?」
「あちらです」
アッセが示唆する方角にマリアージュは面を向けた。
甲板はすでに夕闇の傘に覆われ、燈篭には火が入れられていた。しかしその灯りは川岸を照らすには頼りない。黒く塗りつぶされた岸壁に違和感を見出すまでには少々の時間を要した。
「あれは……家?」
絶壁から突き出る巨大な岩。さながら小石から生える六角水晶のように整えられた人工的な形。
小窓と思しき穴から橙色の光がちらちらと漏れていた。
「あらいやだわ」
レイナが不快さあらわに呻いた。
「あんなところにまただれか住みついているのね。……掃除しないと」
レイナの物言いにマリアージュは目を剥いて振り返った。
「掃除って、あそこに住んでいるのはひとではないの?」
「あそこにいるのはルグロワ市民ではないのです。住んではいけないと言っているのに勝手に家を建てるのだから、虫のようなものでしょう?」
「いったいどういう者たちがあそこに住みついているの?」
「素性はわかりません。でも勝手に入り込んで、勝手に家を作るのです。だれか、シーラ……は、だめね。えぇっと」
レイナが楼甲板の隅に控えていた少年に執政官向けの託を預けて船室へと走らせる。漏れ聞こえてきた指示の内容はまさしく害虫を駆除せよといわんばかりのものだった。
顔を強張らせながら何かを言い募ろうとするアッセをマリアージュは制した。彼に代わってレイナに尋ねる。
「あれは……西からの難民ではないの? ルグロワ市は受け入れないの?」
「受け入れる?」
レイナが鸚鵡返しに問いながら失笑した。
「それって街に入れるってことでしょう? そんなことをしたら街の中が安全ではなくなってしまうわ」
「街の外は? 城壁の外に新しい街を作らせてみるのは……」
「マリアージュ様。ルグロワはクラン・ハイヴの都市なの。勝手に領内に町を増やすわけにはいかないでしょう」
「でも追い出したところで彼らは何度でも戻ってくるわよ。そうして元あった町や村を襲う」
「だれも寄せ付けたりしないわ」
「どうやって? 警邏しようにも兵は限られる。対して流民の数は右肩上がりよ。いつか対処しきれなくなる」
難民のおそろしさはその数にある。
マリアージュは彼らの流入で朽ちた町を昨年末に視察した。町のいくつかはそれなりに堅強な外壁を備えていた。飢えた旅人たちを拒絶した町も当然あった。それでも暴徒と化した彼らによる簒奪の憂き目に遭ったのだ。膨れ上がった集団は互いの肩を梯子として壁をよじ登り、一方では岩の如き塊となって門を突き破った。自警団の者たちはただ圧倒されて終わった。
門を開放した町のほうがまだ残存している。
しかし難民たちを受け入れてもじりじり荒廃していくことには変わりない。
客を乗せすぎた船が荷重で沈むように。
その対処の道を共に模索する相手を探すべくマリアージュはクラン・ハイヴまでやってきた。
「たくさんの虫が集まると大変っていうお話はわかりましたわ」
マリアージュの話に耳を傾けていたレイナが微笑んだ。
「でもね、マリアージュ様。それは集まる前に、殲滅すればよいのではないのかしら」
「……なんですって?」
今度はマリアージュがレイナの発言を反芻する番だった。
「マリアージュ様は蟻の巣ってご覧になったことあります?」
「蟻? ……ないけど」
唐突な話題の転換に困惑しながらマリアージュは応じた。
レイナがにこやかに解説する。
「ルグロワではね、蟻がすぐおうちの中に上がり込んでしまうのです。でも一匹ずつ殺していてはきりがありません……。だから蟻の後を追いかけて、巣を見つけて、熔けた鉄を流し入れるの。それから蟻を見つけたらね、必ず巣を見つけて、潰していくのです。蟻がおうちを穴だらけにするまで待つ必要はどこにもない」
それと同じだと思いませんか、と、レイナがマリアージュに尋ねる。
「流民は、集まってしまうから対処しきれなくなるのでしょう? そうではなくてね、ある程度、集まるまで待ってね、もしくは、巣穴を探してね、すべて駆除してしまうのです。……いずれ近づいてこなくなりますわ」
肯定も否定もマリアージュは返せなかった。
レイナの言葉に悪意は微塵も感じられない。己を不快にする者は虫も同然だとレイナは本当に思っているのだ。セレネスティの方がまだ人間味を感じられる。
マリアージュは膝の上で扇の柄をにぎりしめながら独りごちた。
(これだわ)
レイナに付きまとう、演技に酔う俳優めいた独特の薄さ。
ダイと出逢う前のディトラウトからも感じられた――これが、歓待されてもレイナを疑わずにはいられなかった理由だ。
「……飢えた者は何をするかわからない。たったひとりであっても、死にもの狂いで外壁を上り、中から食い破る者もいるわよ」
「だから施しを与えろと? ……マリアージュ様はお優しいのね」
感心した様子で大仰に頷いたレイナは、円卓の上に肘を突いて身を乗りだした。
そしてその眼をゆっくりと細めてマリアージュに問う。
「ね、マリアージュ様」
レイナの声音は媚びるようにも諭すようにも響いて聞こえた。
「本当にね、レイナに助けて欲しいのなら、きちんとお願いしてくれればいいと思いません? 水と食糧を分けてください。住む場所を貸してください。レイナの為に有益なことを、今できる精一杯をするから、って」
レイナはにっこりと笑った。
「でもそういう子たちって、何も差し出すことなく助けてくれって叫ぶの。だって自分は苦しいから。だって自分は弱いから。……何も持っていないから、他人の領域を侵していいと思っている。足りないものを持っているひとから奪えばいいと思っている。それが、当然の権利だとでもいわんばかりに」
レイナは変わらず微笑んでいたが、その眼には研いだ刃のような剣呑さがあった。
「マリアージュ様、レイナはね、愚かな者が嫌いなのです。相手に群がるだけならそれこそまるで虫でしょう? ……レイナだって、死にもの狂いでルグロワを守っているのだもの。それを蹂躙しようというのでしたら、容赦はしないわ」
麦を食い荒らす虫に手心を加えたりはしないでしょう。それと同じです。
マリアージュは唾を嚥下しレイナを見据えた。
この自分と同じ年頃の娘が安穏と市長の座に就き続けていると思っていたわけではない。
しかしセレネスティと比べれば亡父の地盤を引き継いだだけのお飾りに見えなくもなかった。
だが真にレイナが無能であるなら七年も市長の座にいるまい。だれよりもマリアージュ自身が身に染みてわかっているではないか。メイゼンブルが滅びて十余年。今の混迷の世で平穏無事を維持するということがどれほど困難であるか。
「わたしは……」
(甘かったのかしら)
各地に協力を仰ごうとした。それが最善に思えた。きっと間違ってはいない。けれども。
(わたしは見返りを差し出せない)
レイナはマリアージュと別の方策で難民に対処しているといえるのだ。それを敢えて別の方針に転換させるだけの利潤をマリアージュは示せない。
が、かといって手ぶらで帰国するわけにはいかない。
「……何をすれば、私の考えに賛同いただけるかしら? ルグロワ市長」
デルリゲイリアを守ってみせるとセレネスティに断じたのは自分だ。
「流民の支援ですね。ううーん……」
レイナがひと差し指を唇に押し当てて思案する素振りを見せる。しばしのち、そうだわ、とレイナは瞳を輝かせた。
「レイナに、ダイをくださらないかしら」
思考の停止から戻るには少々の時を要した。
「…………は?」
「ダイです。レイナ、ダイをとても気に入ったの。そうね。マリアージュ様がダイをレイナにくださるっておっしゃるなら、レイナは全力でマリアージュ様をお手伝いいたしますわ。ね、マリアージュ様。ダイをくださらない?」
「それは――……できません」
怒りすら覚えながらマリアージュは断じた。
「あれはだれにも渡せません。あれは、私のものです」
あの化粧師に色目を使う者はペルフィリアのあの男だけで充分だ。彼女はどうしてこうもほいほい為政者を惹きつけるのか。
「存じています」
レイナは言った。
「だって国章を与えているのですもの。それだけでマリアージュ様とダイが強い絆で結ばれているとわかりますわ。……どうかお怒りにならないで、マリアージュ様」
「冗談にしては度が過ぎましょう」
「ごめんなさぁい」
レイナはおどけるように舌を出すと、ぱん、と軽く柏手を打った。
「むずかしいお話はこれくらいに致しましょう。レイナ、疲れました」
それにね、と、彼女は天を仰ぐようマリアージュに手のひらで示す。
「そろそろ、妖精光がご覧いただける頃ですわ」
衣装方との相談を終えてダイが廊下への扉を開いたとき、それはすでに始まっていた。
ダイがいま辞さんとする部屋を訪れたとき、廊下はまだ薄暗かった。
日は落ち、月明かりも峡谷に阻まれて船内には届かない。細い通路には甲板と異なって常設の燈篭は見当たらず、代わって壁の低い位置にぽつぽつ並ぶ足元灯が物の輪郭をかろうじて照らす程度。窓の外は粘度すら感じさせる闇色だったのだ。
その様相が、一変していた。
何百という蝋燭を点したかのように、廊下に光が溢れている。
立ちすくむダイの背後から歓声が上がった。
「妖精光だわ!」
残っていた者たちが次々とダイを押し退けて部屋を飛び出し窓に張り付く。ダイも化粧鞄を手にしたままつられて数歩踏み出し、彼らの背後に付いた。
窓の向こうで燐光が躍っている。
ひとつの光が宙に円を描く。それを別の光が追走する。一斉に円を描く。明滅する。塊を成したかと思えば、ぱっと散る――……まるでひとつひとつの光が意志を持って戯れているかのようだ。
(これが、妖精光)
ダイは感嘆に吐息した。
魔術の発動時に見られる燐光は淡い緑だが、妖精光は粒ごとに異なった色をしている。よくよく注視すればすべての色に銀掛がかっていて、それが得も言われぬ不思議なかがやきとなって船の外を満たしていた。
「ダイ様」
ふいに呼びかけられたダイは面を上げて声の主を探した。
「シーラさん?」
ダイの位置からやや離れた曲がり角に、レイナの警備を勤める女が佇んでいる。
シーラはダイの応答に微笑んで、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「こちらにおいでだったのですね」
「すみません。これからマリアージュ様たちのところに伺うつもりだったんですが」
「急がれなくても結構ですよ。レイナ様と陛下は楼甲板で妖精光を観覧なさっておいでです。お部屋に戻られるのはもう少し先でしょう」
「そうなんですか?」
シーラは首肯して窓とその前に群れる人々を見た。
「魔術の燐光ともまた違いますでしょう? 気に入っていただけましたか?」
「はい」
「よかった。……もしよろしければ、違う場所に移動いたしませんか? ここはひとでいっぱいでしょう」
「そうですね」
皆、窓に張り付いたままその場所を譲ってくれそうにはない。ダイは微苦笑を浮かべてシーラに賛同した。
こちらです、と、シーラは素早く身を翻して、あっという間に先へ行った。ダイは化粧鞄を手に慌てて彼女を追いかけた。
船内はいざ歩いてみると想像以上の広さをダイに実感させた。厚みのある絨毯の敷かれた廊下と階段。大小の異なるいくつもの船室。厨房、浴場、倉庫。晩餐会を開ける規模の広間まである。
主動力は魔術回路。帆は補助だという。数百年前まではこういった船がルグロワ河を何百と往来していた。いまは五指に満たない。
妖精光は大規模な魔術を行使した名残なのだとアルヴィナは述べた。
ならばこの船の周囲を取り巻く光はかつての栄華の残り火のようなものなのかもしれない。
「ダイ様、こちらです」
シーラがふいに立ち止まって扉を開いた。船室に続くものではない。川手側の扉だ。
「シーラさん?」
「こちらからだとよく見えますよ。どうぞ」
シーラが示す扉の向こうをダイは訝りつつ覗き込んだ。見張り台だろうか。欄干の設けられた手狭な露台が見える。
ダイが躊躇っているとシーラが先に露台の床を踏んだ。
「お手をどうぞ。危ないですから、手すりに」
「あぁ……はい」
半ば流されるかたちでダイも扉をくぐった。
ダイが小柄であるからこそ余裕を感じられるものの、床の面積は大人ふたり入れば上々という狭さだった。やけに間近に響くごうごうという河音がダイの高低の感覚を狂わせる。
足元に広がる川面は本来であれば黒くうねり、ここに立つ者に恐怖すら抱かせるに違いない。
しかし今は微光を含んで柔らかい薄墨色をしている。
水面に揺らめく船影からいくつもの光の粒が気泡のように宙へと吐き出された。そのうちのひとつが、ふわり、とダイの頬を掠める。
ダイはシーラに導かれた手すりを強く握って吐息した。
「すごい」
おびただしい数の虹の粒が宙を満たしている。
そのきらめきを水が鏡となって映し出している。
船の灯篭からこぼれる金の明かりが、まだらな紋様を水面に描いてさらに趣を添える。
空間のすべてが天地の別なく光に満ちている。
星雲を遊泳しているかのような。
幻想的な、光景。
光は気流に巻き上げられ、宙でくるりと踊り、そしてまた地へと落ちる。幾度となく繰り返されるその光景にダイはふと花びらを見た。
白と赤。
青空へと吹き上げられて、地にゆらゆら落ちていく。
隣には――……。
「ダイ様」
シーラが船の進行方向を差しながら言った。
「湖で見られる光は美しいですよ」
「あ、あぁ……」
幻影に囚われかけていたとわかって、ダイは安堵しながらシーラを見上げる。
「これ以上ですか? いまでも充分きれいですけど」
「えぇ。主神さまのおわす楽園とはこのような場所なのでしょうと思えます」
「そうですか……」
ダイはシーラに笑みを返して正面に向き直った。
自嘲に喉を鳴らす。
――このうつくしい光景を共に見ることができればと、願った。
心の臓の上を片手で握りしめる。
(さわぐな、ディアナ)
感傷は忘れたころに隙を突いて忍び寄る。脂汗がにじむ感触を覚えて、ダイは手の甲で額を拭った。
「ダイ様。ひとつ気になっていたのですが……」
「なんでしょう?」
「その鳥……とても大人しいですね。まったく動かない」
シーラはいつの間にかダイの肩口を注目していた。その焦点に視線を遣り、あぁ、とダイは納得する。遣い魔がいることをすっかり忘れていた。
「人にすごく慣れているんですよ」
「マリアージュ様の鳥ですか?」
「はい。貴族の位を賜る特別な鳥なんですが、私が世話をしているうちに懐かれて」
と、事情を知らぬ者には説明している。
ダイは指先で鳥のくちばしを突っついた。
羽音を立てて欄干の上に移った遣い魔は、ぬばたまの黒い瞳で妖精光を追い始める。質感はもちろん、首やくちばしの動きも本物さながら。触れなければ贋物であるとまずわからない。
「ダイ様」
おかしなほどの神妙さを見せてシーラがダイに呼びかける。
彼女はどこか精悍さすら漂う顔に苦渋をにじませていた。
「……こちらに、籍を移していただくわけには参りませんか?」
「……籍?」
ダイはシーラに向き直り、船内に戻る扉を意識した――シーラの方が近い位置にいる。
神経を研ぎ澄ませながらダイは赤毛の女に問いかけた。
「それはどういう意味ですか?」
「デルリゲイリアからルグロワ市に移っていただくわけには参りませんか、と申しております」
眩暈を覚えるダイにシーラがなおも言い募る。
「我が君があなたを御所望なのです」
「冗談をいわないでください」
「冗談でこのようなことは申せません」
シーラが自嘲の笑みをくちびるにうっすらと刷いた。
ダイは頭痛を堪えながら尋ねる。
「私の立場、おわかりですよね?」
「もちろんです。王より最大の信認を受ける最近接の従者」
「ならばなぜ。そもそも私は化粧しかできません」
「それがレイナ様の眼鏡に適ったのです。……そして、あなたの容姿が」
シーラはこれまでにない暗い色をその眼に浮かべてダイに請うた。
「すべてを承知の上でお願いいたします。こちらに籍を移していただけませんか。すべてをご用意いたします。地位も、財も、あなたの望むものを」
ダイは唖然とシーラを見返した。
一瞬おくれて憤怒が噴き出す。
「できません」
刃を返すようにダイは拒絶した。
「私はマリアージュ様の化粧師です。それを動かすことは陛下を除いて何人たりともできません」
シーラが微笑んだ。
わかっていた、とでも言うように。
彼女の手が腰に佩く剣に伸びる。その得物はいつもの長剣ではなかった。前腕ほどの刃渡りをしかない。この狭い露台でも振り抜ける長さだ。
ダイは肌を粟立てて半歩退いた。背が欄干に突き当たる。
シーラの手が剣の柄を握りしめ、ダイが漏らした悲鳴を上回って。
鳥が、鋭く啼いた。