
90 乳兄弟
「わたくしが、皇子の乳母に、でございますか?」
ケイティは主人の言葉に首を傾げた。
淡い金色の髪を結い上げた主人は、同じ色の瞳を伏せ目がちにし、開け放たれた障子戸の彼方を見つめた。その視線の先、山の緑に抱かれて存在する宮廷には暗雲の影が差し掛かっている。
それがあたかも主人の未来を示唆しているようで、ケイティは眉をひそめた。
(せっかく東まで逃れてきたというのに……)
ケイティの主人は西の大国の公女である。しかし政争に敗れた家の血を濃く継いでいるため立場が弱く、さらに貶められる前に、この東の土地へ逃れてきたのだった。
この世界でもっとも古い、祖国と同じく神の呪いを抱く国。
裏切りの帝国――……。
「ケイティ?」
「は、はい。申し訳ございません、シア様」
ケイティが背筋を伸ばすと、主人のシアは微笑んだ。
「いいの。突然だもの。驚くのは無理もありません」
「そ、うですね。……皇子の乳母とはいったい……」
「この間、陛下がお囲いになってしまわれた方がいらっしゃるでしょう?」
流浪の民の歌姫。なんでも大層な美姫で、彼女の澄み通った優しい歌声が皇帝の耳に入った。皇帝は彼女を妾に召し上げ、よほど気に入ったのか夜ごと苛み、その結果として歌姫は懐妊したのだった。
「無事に皇子をお産みになったのだけれどひどく衰弱されていて。とてもではないけれどお乳をあげられるお体ではないの」
「わたくしはよろしゅうございますが」
主人の頼みを断るつもりはないのだ、という意思表示を慎重に声色に乗せ、ケイティは前置いた。
「わたくしは西の者ですよ。それほどお気に召した方のお子様なら、陛下ご自身で乳母の方をお探しにならないのでしょうか。それこそ、名家の奥様方を」
「皇子は黒曜石色の髪に深緋(こきあけ)の瞳をしていたのよ」
あぁ、と、ケイティは息を吐いた。
シアがまだ見ぬ母子への憐憫に目を細める。
「陛下の足はすっかり遠のいてしまわれたわ」
「それは……そうでしょうね……」
研がれた黒曜石色の髪に火に透かした葡萄酒のような深緋色の瞳を持って生まれた子は、帝位を簒奪するという。
それは国を、君主を、永久に縛り付ける古き呪縛だ。
「旦那さまが哀れんで、わたくしが乳母になってはどうかと……」
「わたくしではなく?」
「えぇ。……あなたに押し付けるのではなく、わたくし自身も引き受けます。でも……きっとそろそろ、出が悪くなるでしょう?」
シアの子は件の皇子よりひとつ年嵩になる。乳母になってもそう長い間ではなく、つなぎの乳母が必要になるだろう。そこで彼女と同じく乳飲み子を抱えるケイティにも声を掛けたということなのだ。
「無理強いはしないわ」
「何をおっしゃいますか」
ケイティは呆れて主人を見た。
彼女について大陸を渡った自分がその程度で怯むものか。
「どうぞ、わたくしをお使いくんなまし。それがシア様の助けになるのでありましたら、いくらでも」
数日後、顔合わせの場が設けられた。
呪いの仔を生んだとされる歌姫は、離宮のひとつに幽閉されていた。
呪いの仔は玉座を簒奪する。しかも皇帝がその仔を殺そうとすればするほど、皇帝の命運は短くなるという。
そのようなわけで、生まれて来た仔を殺すに殺せず、かといって放逐することも恐ろしく、皇帝はかの仔と母を飼殺すことにした。
著しく古く、手入れのなっていない、けれども辛うじて人が暮らすには事足りる離宮に、身の回りの世話を担う母子をつけた若い娘――流浪の歌姫。
黒絹の束のように艶めく髪、射干玉の黒目。肌は発光するかのごとく白くなめらかで、なるほど、ひと目で皇帝が気にいったことも頷ける美しい娘だった。
流浪の民だというから、もっと出自の曖昧な顔立ちをしているのかと思いきや、そこにいたのは完璧な、東方人ばなれした美しさを持つ、けれど確かな東方人であった。
ケイティがシアに連れられて部屋に立ち入ると、彼女は口ずさんでいた歌を止めた。
ケイティもよく知る、西方の子守歌だった。
彼女はシアとケイティをひたと見つめた。
まるで来ることが分かっていたかのように。
そうして微笑んだ。
「あなたが――シンシア?」
主人の身体がびくりと強張る。
ケイティは急ぎ彼女の前に出た。だれが漏らしたのか。主人の元の名を知る者は限られているというのに。
「あぁ、ごめんなさい。違う名で通っておいでなのね」
虚空に向けて瞬き、歌姫だった娘は呟いた。
「ごめんなさい。この子のために来てくださったのに。なんてお呼びすればよろしいかしら?」
「……どうぞ、シアとお呼びくださいまし」
我に返ったらしい主人がケイティを横に押しやって名乗り出る。
西の公女らしい威厳をもって、彼女は元歌姫に向き合った。
「こちらはケイティ。わたくしの侍女です。陛下からわたくしの名を聞かれたのでしょうか?」
「いいえ。あなたの身体に染み付いた音を聞いたのです」
魔術の類だろうか、と、ケイティは目を瞠った。特定の魔術の才に先天的に恵まれて生まれる者はたまさかいるが、いまどき珍しい。あの故郷でも滅多に見ないほどだ。
「この子のためにお越しくださったのですよね。ありがとうございます」
彼女は穏やかにそう言って、抱えていたおくるみを揺すった。中には赤子がいた。
噂通り、生えたての柔らかな髪は黒々しく、覗き込んだシアとケイティを見上げる瞳は、濁りのない、美しい深緋色だった。
禍々しさはない。むしろ精錬で、将来はさぞ美丈夫になるだろうと予感させる、無垢なだけの赤子だ。
「……お聞きかもしれませんが、わたくしとケイティが、この子とあなたを支援いたします」
シアがかみしめるように告げる。
「でも、伺うことができるのはほんの時折。助けてあげられるのはわずか。これはわたくしの夫の、温情によるものなのです」
叶うことなら呪われた仔に早世してほしいと、皇帝は考えている。
そこで母子を放置することにした。しかし完璧に彼女らを捨て去るのも、己の死期を早めることにつながるのではと恐れた。
その身勝手な苦悩を見たシアの夫が、母子に手を差し伸べることにしたのだ。
そうしてケイティとシアはここにいる。
シアをぼんやり見上げていた元歌姫は、ふとケイティの抱える子を見て、花開くように笑顔を浮かべた。
「シア様。あなたにも、男の子がいらっしゃるのね」
「え? えぇ……」
シアが母であると迷いなく断じた元歌姫への困惑を、ケイティの主人は取り繕う。
「ですが皇子よりもすこしだけ早生まれなのです。わたくしが皇子にお乳を分けて差し上げられる時間はそう長くないでしょう」
「あなたの……?」
名を言い当てられても、シアたちがどのような支援をするつもりなのかまではわからなかったようだ。
皇帝の捨てられた妃はぱちぱちと瞬いた。
「では、この子とその子は、兄弟になるのですね?」
微妙にかみ合わない会話。
ケイティは眉をひそめる。
(もしかしたらこの方はとうの昔に、気が触れていらっしゃるのかもしれない)
元歌姫は皇帝に召され、二度と家族と会えなかった。離別の言葉をいう間もなく、彼女の家族は帝都から――この国から追い出された。
シアのご夫君の言葉を思い出す。
(彼らは逃げたのだ)
歌姫の家族を皇帝は殺してしまうつもりだった。歌姫を取り戻しにこないように。
だがそれをどのようにか察して、歌姫の家族は逃げ出した。気づけば国の領外まで逃げおおせていた。
そのことをこの妃は存じているのだろうか。
「家族と二度と会えないことは知っていたわ」
ケイティの胸の内を見透かしたように、唐突に元歌姫は口を開いた。
「この子は変革の子」
おくるみの中の赤子を指して、彼女は鼻白むケイティに告げる。
「陛下をひと目みてわかった。わたしは家族から離れ、この人の子を生むのだろうって。そして生まれた子は、激動の時代を駆け抜けるのだろうって」
彼女は目を細めて微笑んだ。
「お二方。覚悟はおありでしょうか。わたしに、わたしの生んだこの子に、手をのべるということは、あなた方の子もきっと変革の時代を生き、数々の苦難を味わうこととなる。だってあなた方のお子は」
――この子の、乳兄弟になるのだから。
それは変革を生む役目を神より賜った娘からの警告だったと、のちのケイティは思う。
ケイティの主人は彼女の手を取った。子どもたちは兄弟となった。
政争から逃れてこの地に流れた主人が、なぜ己の子を激動の時代に差し出すことにしたのか。
ケイティはついぞ、推し量ることができなかった。