Simple Site

88 いとしいひと

 奥の離宮でひとり、水の帝国の歴史を読んでいると、背後から声を掛けられた。
「シファカさん」
 軽く手を上げて歩み寄ってくるのは、他ならぬこの国の皇帝である。国の頂点がそんなふうでよいのかと思うほどに、ラルトはとにかく気安かった。故郷のロプノールでも義弟は今や国王のハルシフォンだし、旅の途中で出会ったアレッサンドロだって同様だ。しかし水の帝国が大国だからかどうかはわからないが、シファカはラルトに対して奇妙な緊張をいつも覚えていた。今日も例外ではない。
 振り返って一礼するシファカに、ラルトは穏やかに笑う。
「いいよ、勉強を続けていて」
「ありがとうございます。……ラルトさんは休憩ですか?」
「あぁ、ティーの様子を見に来た」
 臨月に入り、予定日間近のティアレは、体力を消耗するのかよく眠る。今も自室でゆっくりと休んでいた。
「勉強ははかどってる?」
「実はあまり。……なんというか、すごいですね」
「あぁ。この国は歴史だけなら無駄にあるから。全部覚える必要はない」
 そういわれてシファカは内心胸を撫で下ろしていた。さすが世界で一番古いと言われる国。歴史を追うだけで、かなりの時間が潰れている。
「特に重要なのは、建国の神話と、ここ五百年ぐらいの歴史だな」
「五百年前になにかあったんですか?」
「とても有能な皇帝がいて、国の色んな変革がなされたんだ。今の制度も結構そのころのものを引きずっていたりするから」
 その他も、査定への前準備的なことをいくつか助言してもらう。それは言葉少なくも的確だった。
 最後に話を締めくくった彼は、苦い笑いに肩を震わせる。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「あ……う、ごめんなさい」
 ラルトがすとんと横に腰を下ろす。風が縁側から吹き渡って、やわらかい藺草の香りを掻き立てる。この大陸でよくみられるという畳みという床板は、高温多湿のこの国ではとにかく心地よいものだった。裸足でうろうろする点も気に入っている。
「なんでですかねぇ。……こんな大きな国に来たことがなかったから、でしょうか」
 北大陸は領土がかなり細分化されている。かつては統一されたひとつの帝国だったというけれども。
「その一番上の方って……やっぱり前にすると緊張しますよ」
「ジンもそんなに変わらないんだが。立場も血筋も」
「あーあのひとはなんというかあのひとですからねぇ……。血筋も?」
「ジンからきかなかったか? シオファムエン家はリクルイトの分家なんだ。リクルイトの血筋に継嗣が絶えた場合、あちらから養子をとる。ぎゃくにあちらに継嗣が絶えてもこちらから誰かを養子に出す」
「あぁ……そういえば聞きました」
「ここ数代は血が濃くなり過ぎたんで、血縁を結んでないけどな」
 色々問題があって、とラルトは言った。どうやら出生率が互いに下がったらしい。
「ご兄弟はみんなお亡くなりになったんですね」
「あぁ……ほとんど俺たち自身が殺したな」
 ぎょっとなって見返すと、ラルトは悲しげに微笑んだ。
「ひどい時代だった。……俺もジンも、こんな未来は予想していなかったよ」
 前を向いたラルトが、立てた片膝に顎を載せる。皇帝の懐古に細められた目には見覚えがある。ジンが時折そのような目をする。
 遠い遠い、まなざし。
「ジンって、小さい頃はどんな風だったんですか?」
 シファカの問いに、ラルトはおかしそうに笑った。
「人見知り激しい奴だったな。いっつもシア様の後ろに隠れてた」
「シアさま?」
「ジンの母親。あの人の上着の後ろからいつもこっそり顔をだすようなやつだった。大人に話しかけられると顔を真っ赤にして泣いてたな」
「……ずうずうしさには定評のあるあの人が? そんな可愛らしい男の子がどうしたらあんなのになるんです? 頭でも打ったんですか?」
「……シファカさんってあいつの事だけは時々めためたに言うよな……」
 そうだろうか、とシファカは首を傾げた。
「まぁいいか……」
「どうやって仲良くなったんですか?」
「覚えてないな。気が付いたら一緒だった。乳兄弟だよ」
 幼い頃の楽しいものも、苦しいものも、すべて分け合った幼馴染。
 ラルトを正気の縁に引き止め続けた、楔。
「だいじなんですねぇ」
「ホントにな」
 ラルトは顔をくしゃりと歪めて笑った。
「……あいつには幸せになってほしかった」
 なのにどうしようもなくなって国からあいつを追い出すことになって苦しかったと、彼は言った。
「そんなだから、ジンがシファカさんと旅をしているとわかった時、本当に嬉しかったんだ。あいつはそう簡単に誰かを近づける奴じゃないし、旅が独りでないならそれでいいと思った。それが、今はこの国にいてくれて、とても」
幸福だと。
 少し照れ臭そうに、幼い顔で笑うひとを横から眺めながら、シファカは笑い出したくなった。
「こんなに想われてるのに、国に帰りたくないとかいってたんですね、あの人」
「ひどいだろ? なんとか言ってやってくれよ」
「これからはきちんとラルトさんに奉仕するように監督します」
 表情を引き締めて断言したシファカに、今度はラルトが笑い出した。可笑しくてたまらないと、身体を折って、肩をぶるぶるふるわせている。
 ひとしきり笑い終えた後に、ラルトは立ち上がった。
「ありがとう。いい気分転換になった」
「えっ、あ、いえ。私の方こそありがとうございます」
「今度こっそり剣の打ち合いに付き合ってくれよ」
「! 是非!」
 ラルトの剣術の腕前は神がかりの域だという。ジンでさえ必ず負けてしまうらしい。実は帰国してほどなくして、何回か打ち合いをしているようなのだが、必ずラルトが勝つといって、ジンはひどく悔しがっていた。
「そういえば、こっそりってどういう意味ですか?」
「あぁ、内緒って意味だよ。俺がシファカさんと打ち合おうとすると、ジンの奴いい顔しないから。危ないとかって」
「……どんだけ過保護なんだよもう……」
 恥ずかしさに顔が紅潮する。まったく、あの男ときたら。はるかに格が上のラルトが、そうやすやすと自分に傷をつけると思っているのだろうか。
「じゃぁ、また夜に」
「はい。頑張ってきてください。お疲れ様です」
 手を振って別れ、勉強に戻る。どこまで読んだかな、と歴史書の頁を繰っていると、ジンが姿を見せた。
「シファカちゃん」
「あれ? ジンどうしたの?」
「ラルトの奴がなっかなか戻ってこんからさぁ。様子を見に来たんだ。シファカちゃんと話してたんだって?」
「そうそう。ジンの子供時代の話をね。人見知り激しい子だったんだって?」
「うっわ、古い話を出すね……。ちなみに五歳ぐらいまでの話よ?」
「ちょっとみてみたいなぁ。胡散臭くないかわいいジンを」
「俺いつもかわいいと思いますけどね」
 シファカを背中から抱き寄せて、ジンが深く溜息を吐く。
「っていうかさぁ、シファカちゃん、ラルトと話した後大抵頬染めていらっしゃるよね。本当に何を話してたの本当のところ」
「だから、ジンの子供の頃の話だよ。頬染めるって……だって緊張するんだよ」
「緊張? 皇帝だから?」
「うん。それもあるんだけど……ちょっと、違うかも」
 今しがた話をしていて、ふと思ったのだ。
「ラルトさんは、だから、なんというか、憧れのお兄さんって感じなんだ。ぴかぴかしている感じ?」
 彼の周りは光り輝いている。落ち着いた声で話されると、なんだか守られているような気がして安心する。
 とおいとおい昔、まだシファカが年端もいかない頃に読んだ、童話に出てくる王子さまのような、あこがれの。
 ジンががくっと顎をシファカの頭に落とした。
「あこがれのおにいさんって……ラルトは俺の一つ下ですけどー?」
「ジンはでっかい弟って感じだよね」
「……おれ、あいされてないんですかねーシファカちゃん」
「うそうそ」
 ジンの声があまりに深刻だったので、シファカは笑って身体を男に預けた。
「あのさー何を考えたら愛されてないって思うんだ? ジンは。ラルトさんのこともそうだけどさぁ」
 好きでもない男を国を捨てて追いかけたりなどするものか。
 ばぁか、と言うと、なにおう、とジンは子供みたいに尖らせた口先を、そのままシファカのてっぺんに落とした。


「ところでさ。秘密は気が引けるから言うけど、ラルトさんに剣の稽古つけてもらったらだめ?」
「駄目。絶対駄目」