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79 客人

 親友はやや緊張した面持ちで馬車回しの入口に立っていた。
「何しておる? 早く来んか……それとも何か可笑しなことでも?」
「いや……」
 ヒノトの問いにアリガは首を横に振った。悪戯っぽい微笑を口の端に浮かべた彼女は何でもない、と肩をすくめる。
「思ったより小さな家だなって思っただけ」
 その感想はアリガに限ったものではない。ヒノトは笑いに喉を鳴らした。
「みな、そう言う。……こっちだ」
 ヒノトは上衣の裾を裁きながらアリガを手招いた。


 ヒノトの自宅は左僕射エイ・カンウの邸宅に他ならない。左僕射といえば国内で第三位の権力者。それを知る者は広大な敷地を有する屋敷を想像するようだが、実際のところ、部屋数は十を少し過ぎる程度の三階建ての館に、敷地をぐるりと囲む薄い木立、そして菜園と花壇にて構成される裏庭がすべてといってよかった。
 しかしいくら麾下の官吏たちに呆れられるつつましげな館とはいえ、国の中枢に籍を置く男の住まいであることには代わりなく、警備の強固さもさることながら、入館は厳しく制限されている。当の左僕射が後見をする女の親友であったとしても来訪の許可はなかなか下りなかった。


「やっぱり、気を悪くしたのかな……」
 ヒノトに連れられて挨拶に来たアリガの表情を思い返しながらエイは書斎で溜息を吐いた。ひさしぶりに見る彼女の顔はやや強張り、ぎこちなさが感じられた。
 学院の在学中にヒノトにとって気の置けない友人となったアリガは西大陸生まれだという。民族違いの美醜にはとんと疎いエイでもわかる端整な顔立ちをした娘だ。立ち振る舞いも洗練され、下手な貴族よりよほど気品がある。そのせいか、諜報方に逆に警戒されてしまった。問題ない、というヒノトの主張を信じる一方で、エイとて身内に手を抜くわけにはいかない。
 ヒノトとアリガが皇立病院働くようになってからもう一年近く。家に招いても問題なし、と出自、人柄、あらゆる面から判断が下ったのはつい先日のことである。エイのことも含め、ヒノトの立場が立場であるから、身辺調査されることはアリガ当人も承知していたというが、これほどまで時間がかかるなど、決していい気分にはなれなかっただろう。
「アリガ様は今回のようなことで腹を立てる方ではないと、ヒノト様がおっしゃっていたではありませんか」
 エイの独白に呆れた声を上げたのはウルである。休暇中のエイに代わって様々な采配を揮う彼は仕事の相談といってふらりと姿を見せたばかりだった。
「ヒノト様のご友人ですよ。信じてさしあげてはいかがです?」
「……アリガ嬢が理解あるご婦人であることを? ヒノトの発言を?」
 ウルは笑って言った。
「両方ですよ」
 アリガはさる下級貴族の養女だ。異国へ出奔していた長男を長らく捜索していた末弟が件の人物の代わりに連れ帰った娘。すでに家督を息子に譲り渡して久しい老夫婦が移民と養子の手続きを行ない、ヒノトも通っていたかの医療の学院へと送り出した。そこまでの調査はすんなりと終わった。
 問題は彼女の出自だ。西大陸出だということは公然としていたが、はきとしたことまではアリガ自身も口を閉ざした。メイゼンブルが滅んで以後の西は平らかではなく、とりわけアリガが西を出奔したとみられる時期は、歴史書に載るだろう騒乱の元年だということもあって流民が多く、彼女の過去を辿ることは困難を極めた。それでもなかなか調査を打ち切らなかったのは、アリガが稀有にも、政治的知見を持っていたからだ。
 広い視野を生まれつき持つ者は確かにいる。しかしヒノトから伝え聞くアリガの言動は、教育を受けた者独特のものを有していた。そこを、諜報方は警戒したのだ。この国の内部に食い込みたい外野が雨後の竹の子のように湧いている状態だからこそ。
「ご安心くださいカンウ様。たとえ仮に今回のことでご気分を害されていたとしても、それを表に出すことはないでしょう。ヒノト様が悲しまれる」
「……やけに確信を込めていうね、ウル」
「結局のところ、私たちが調査を打ち切った理由もそこだからです」
 窓辺から庭先を見降ろすエイの隣に立ったウルは、花壇の前で笑い声を立てるふたりの娘を眺める。
「ヒノト様が都にいようが田舎にいようが、友人としてヒノト様を支えてくださる方。そう判断したから、私たちはこれ以上の詮索を控えたのです。……あなたの朴念仁ぶりに振り回されて怒れるヒノト様を宥めてくださる方です。……アリガ様はご理解あるご婦人かと存じますが、気分を害したと思われるのでしたら、きちんとご機嫌をとらんと努力してくださいよ」
 面倒臭がらずに、と小姑のような小言を吐く副官に、エイは苦笑を堪えきれなかった。


「何か嫌なことでもあったのか?」
 ヒノトの問いにアリガはいまひとつ返事のきれが悪い。んん、と生返事をする彼女に、ヒノトは腰に手を当てて鼻息を荒くした。
「アリガ。不快なことがあるなら言わんか」
「別に不快なことなんてないよ」
「じゃあ何険しい顔をしておる?」
「そんなに険しい顔をしてる?」
 こくり、とヒノトが首肯すると、アリガは素直に謝ってきた。
「ごめん。ちょっと緊張してた」
 なにに、とヒノトはため息を吐いた。
「お主の生家よりも小さいと聞いたが?」
 さらに言えば、国家権力者のひとりやふたりで緊張するほどやわではあるまい。ヒノトがそう指摘すると、アリガは唇を尖らせる。
「するよ」
「どうだか。……で、何だったんじゃ? 実際のところ」
 アリガはヒノトとしばらく目を合わせたあと、ふいに花壇に視線を落とした。ちいさな花が咲き乱れている。株は恐れおおくも皇后直々にわけてもらったものだ。
 青や青紫の花々に何を思ったのか。懐古に、だろうか。しばらく瞑目した彼女はふっと笑った。
「緊張してたんだ。……初めてくる、友達の家だったから」
「……本当はもうちょっと早く招きたかったんじゃが」
「そうじゃないよ、ヒノト。……私は、故郷に、ともだち、って呼べるような存在はずっといなかった。それに知人の家を尋ねることは、単なる社交だった。……だからちょっと感動してたんだよ。初めて、友達の家を、訪ねることができたんだから」
 照れ臭そうな友人をぽかんと見遣った後、ヒノトは笑った。
「なんじゃ。こっちはお主がなにか気に入らんかったのかと気をもんでおったのに」
「それは心配をかけて悪かったね」
 ヒノトは学院の友人たちがしているように、誰彼かまわず家に招くことはできない。いつか招待するとアリガに約束してから一年近くもかかって、ヒノトは半ばあきらめていた。
 友情や人柄をひどく疑われているようで、アリガでなければ憤慨するところかもしれない。アリガであっても憤慨してもおかしくはないのだ。理性は冷静にものごとを判じていても、感情が追いつかないことは多々ある。
 アリガは繰り返し言う。事情は理解できる。気にすることはない、と。
 それでもこれから幾度でも、彼女が不快になるかもしれないことはあるだろう。
 ヒノトの立ち位置は、非常に特殊なのだから。
「ヒノト」
 アリガの手でぽんぽん、と頭を軽く撫でつけられ、ヒノトは息を呑んだ。目を合わせてくるアリガは笑っていた。
「本当にね、夢だったの。大好きな友だちの家に招かれて、くだらないおしゃべりをするの」
 何だそんなこと、と、思う者も多いかもしれない。
 けれどそれが容易に叶わぬものも、確かにいるのだ。
「庭を回ったら中に戻るか。今朝から家中、あまい匂いでいっぱいだったからの。これでもかというほど茶菓子があるぞ」
「楽しみだね」
「あぁあと緊張してたわけをエイにも言ってやってくれ。あいつもどうせ気をもんでおろう」
「ヒノトと同じ勘違いで? ……君とお館さまって、実は似た者夫婦でしょう」
 大丈夫だって言ってるのに。信用ないの? わたし。
 このとき初めて、アリガは憤慨した様子だった。