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57 no name

ソレには名前がなかった。
アレ、コレ、ソレ。オマエ、テメエ。汚いの。黒いの。
呼ばれ方は様々だったが、ソレだけを指すモノは与えられなかった。自らを名付けるという発想もなかった。
ソレはとある男の数いる愛人のそれまた数いる子どものひとりだった。
いや、もしかしたら拾われたのかもしれなかったし、そういった子どもらに自らついていって、知らぬ間に引き込まれたひとりだったのかもしれない。
量産品の道具同然の使い捨ての駒がソレの立ち位置であり、物乞い、すり、強盗、殺しまで、何でもした。
生き延びるため、ではない。周りがそうしていたから、自分もそうした。生きていることと死んでいることの差は食にありつき、怪我や病を得ず、あるいは乗り越えて動き続けているか否かである。
他の駒とほんの少し違っている部分があるとしたら、ソレはそう、回りより、目が善かった。
他の駒のように痩せていたが、状況を見る目に長けていた。物事の二歩、三歩先が読めたので、先回りして動くことで、怒りを買わず、殴られず、病むこともなく、食を得て、動き続けた。

――名もなき何かだった最後の夜に出会った女がXXXだった。

「まぁ、わたくしを殺しにきたのはあなたなの?」

と、女は言った。ソレは驚いた。女が殺されることをわかっていたことももちろんだが、これまで出会っただれよりも、女が圧倒的に異なっていたからだ。
彼女は星の数ほどの有象無象の中で、別格の美貌と品格を備えていた。
後年、ソレは何度もその女の輪郭を眼裏でなぞった。背に沿ってまっすぐに落ちる黒髪は、融けたアスファルトにてらりと広がる油のように、七色に偏光しながら輝いている。真冬の夜空に冴え冴えと浮かぶ曇りひとつない膚。温かい体液の色が透けた唇。けぶる睫毛を震わせて真っすぐソレを見る瞳は、ソレにあれこれと命じてくる男の背後の水槽で、身をくねらせる魚と同じ銀色をしており、身体の線に沿う上等な紅の布では、十重二十重と満開の華が咲き誇っていた。
寝台の傍らに置かれた円卓の席に着いて、ひとり盃を傾けていた彼女は、きれいに揃えた華奢な足先の向きを変えて、ソレに言った。

「最後のバンシャクぐらい許してくださらない? この一杯が終わったらあなたに従いますから」

女が金属の盃を軽く掲げる。
ソレは眉をひそめた。殺されるとわかった相手はたいていぺらぺらよくしゃべる。殺さないでくれだの。金なら出すだの。オマエを雇いたいだの。許してくれだの。よくわからないことを話し続ける。しかしこのように落ち着いて話しかけてくる輩はかつていなかった。女はむしろ陽気ですらあった。

不思議に思ってソレは尋ねた。

「バンシャク、とは、なんだ?」

女の言動がわからなかったので、バンシャク、が理由だと思ったのだ。しかしそれには学がなく、意味をくみ取ることができなかった。
女はそれの発言が意外だったのか、瞬いて、ほほ笑んだ。
「晩に飲むお酒のことよ。良い気分になってから眠りたいの」

ワンジュオ、ズイジーシウ、と鈴を鳴らしたような声で女は囀った。
ソレはますますわからないと目を細める。
よい気分? 酒を飲んで?

「酒は人を馬鹿にする液体だろう」
「そうね。飲み方が悪いと、そうなるわね」

ふふっと笑った女はふと、ことりと盃を卓上に置き、低めた声をその中に落とした。

「いえ、あなたの言う通り。……だれもかれも、馬鹿ばかりでしたわ」

わたくしも含めて。

女は自らに呟くと立ち上がった。

「眠る場所は選んでよいのかしら?」
「好きにすればいい」

女を永久に動かなくさせる以上のことは命じられていない。
立ったままでもでもそうさせられるし、横たわっても難しくはないだろう。何か思惑があるのでは、刃でも隠しているのでは。用心深く見ていたがその様子はなく、女の身体は、ただただ、なよやかだった。
女は寝台に上った。枕に頭を横たえる。敷布に広がる黒の髪は羽ばたく間際の烏(からす)の翼を思わせた。
ソレはふとその黒髪を梳いてみたいという欲求に駆られて手を伸ばした。
女の目がソレを捉えてくちびるを動かす。

「あなた、名前は?」

ソレは手を止めた。
にわかに苛立ちが募って、手を髪ではなく首筋に添える――首を折って動かなくしよう。そう決めた。
女はそれの目を覗き込み、あぁ、と細く息を吐く。

名が、ないのね。

自分と他を区別する言葉がない。その事実に何かを思ったことはない。しかし女に問われた瞬間にソレは混沌とした感情の波に襲われた。
後になって思えば、羞恥、だったのだと思う。

「あなたは、XXよ」

名状しがたい感情に混乱し、衝動的に女の首を折る。

「わたくしの――……」

鈍い音が室内に響き、絞められた女は、ひと啼きして動かなくなった。寝台の傍に吊るされた透かし彫り艶やかな角灯が揺れて、花を象った影を女の白い膚の上に投げかけた。
女が何を言おうとしたのか定かではない。
ひとつ確かなことを言うなら。
ソレに名が付いたのだ。


ソレはXXの意味を知るべく学んだ。そしてXXの意味を知ったあとも学び続けた。女が自分をXXと最後に呼んだ理由がわからなかったからだ。
そのうちXXは学ぶ過程で頭角を現しはじめ、仕事を振っていた男の立場を追い抜いた。兄弟、大哥、老板、頭目、大佬。様々な呼称で存在を示され始め、望めばあらゆることを知りえる立場を得たももの、あの女の詳細を調べることをソレは控えた。

魔都を暗闇から治めるようになったソレの最初にして唯一の名を、知るものはいまも、手折られた名もなき華、一輪のみである。