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43 ある夜の林檎のお話

遊が風邪を引いて寝込んでいると、叶から聞いたみちるが、がさがさと買い物袋を携えて妹尾家にやってきた。夕食を作ることを面倒がった叶が、みちるに依頼したらしい。僕が作るよりも、栄養あるもの、作ってくれるだろうしね。とは、彼の末っ子の弁である。
台所に立つみちるを、遊は綿入れを羽織って炬燵で温まりながら眺めた。近頃、みちるに背がぬかされそうだと、叶がひそかにぶーたれているのだ。
(みっちゃん、本当に背ぇ伸びたなー)
去年初めて会ったときに比べると雲泥の差だ。成長期なのだろう。遊も彼女ぐらいの年の時に今の身長まで伸びたクチだった。
(うーん……あったかそう……)
小学五年生にして主婦も顔負けにてきぱきと家事をこなす彼女は、パン屋の店主の趣味なのか、もこもことしたペールグリーンのセーターを着ている。しかもなんとなく手触り良さそうな。
ぼんやりしていると、急に喉の渇きを覚えた。うーん麦茶飲みたい。飲もうかな。
 のっそりと炬燵から這い出た遊は、麦茶を求めて台所に立つ。ぼーっとしながら麦茶をコップに注ぎ、ぼーっとしながらそれを胃に流し込み、ぼーっとしながら。
 とにかく、ぼけーっとしていた。
「……えーっと、ユトさん」
 呻くみちるの頭に顎を載せ、遊はふへ、と笑った。
「ふにゃ、きもちいい」
 みちるはちょっとひんやりしていて、ふわふわだった。
 背後からぎゅう、と抱きしめる遊への、みちるの反応はぎくしゃくとしていた。
「え、えっと……」
 何故か顔を真っ赤にしたみちるは、まるで潤滑油の切れたロボットみたいに、ぎしぎしと強張った動作で面を上げた。
「あの、と、とりあえず、もうすぐ晩御飯できますから! しんどいなら寝てていいですから!」
「うん」
「ユトさん、あのですね。ちょっとコンロの火をとりあえず止めなければならないというか」
「うん」
 手を伸ばして火を止める。
「ユトさんっ……!」
 仕事から帰ってきた棗が、みちるを救出するまで、遊は彼女でもふもふしていた。



「というか、ユトちゃん。熱が高いんだから横になってなさいよ」
 氷枕をがしゃがしゃと言わせて、棗が嘆息した。
「帰ってきたらみっちゃんが捕獲されてるし。あぁ、びっくりしたわ」
「だきこごちがよかったんです……」
「そうなの? ……ほら、頭上げて」
 棗の指示に従って頭を上げる。枕が氷枕に交換される。後頭部に触れるごつごつとした、けれどひんやりとした感触に、遊は気持ちよさから息を吐いた。
「まぁ面白かったけど。みっちゃんすごく真っ赤になってるし。前から頭撫でたりすると困ったような顔するけど、スキンシップに慣れてないのかしら」
「かなぁ……」
 棗に頭を撫でられれば誰だってフリーズする気もするが、指摘するのがすこぶる面倒である。それにひどく眠い。
 うとうとする遊に棗は笑って、枕元に膝を突いたまま、お役御免となった枕を机の椅子の上に置いた。狭苦しい部屋の中では、動きが制限される。すぐ傍にある形良い桃尻と細い腰を眺めながら、遊はさすが棗姉さん美しい曲線美と感心した。
 なんとなく、その腰に腕を回してみる。
「えっ……何、どうしたのユトちゃん?」
「ねーさん腰ほそいー」
「そうかしら?」
 ごく自然に首を傾げる妹尾家長女に、貴女が細くなければ全世界の女子が泣いてしまうところです、と遊は胸中で突っ込んだ。
 風邪引きがぺたりとくっついているというのに、棗は嫌な顔ひとつせずじっとして、きちんと手入れされた細い指で、遊の汗ばんだ前髪をゆっくりと梳いている。
 棗は、美人だ。氷女を連想させるような、畏怖すら呼び起こさせる整った造り。同じ圧倒的美形でも、ひとなつこさを宿す隻とはまた違った、他を隔絶したうつくしさ。
 けれど棗の本質は、とてもやさしい。
「熱を出して、人恋しいんでしょう」
 ふふ、と笑って、棗が指摘する。
「お休みなさい、ユトちゃん」
 その声は夢心地に遠く響いた。


 熱を出すと、家族のぬくもりを、思い出す。


 ゆとり、ゆとり。あらあんたねつがあるの。ねえおとーさん。ゆとりびょういんにつれていってくれる?
 なんだかぜか。だいじょうぶか、ゆとり。


 さらりと髪をかきあげて、額に押し当てられる手がある。
「……おとーさん?」
「……具合はどうだ?」
 暗闇から引く声で返答があった。枕元に父が座っているらしい。遊は布団から這い出て、頭をもす、と硬い膝の上に載せた。
「へいきっぽいー……おしごとおつかれさまー……」
 躊躇いがちに、大きな手が頭を撫でる。それが心地よい。小さな頃に返った気分だ。
 ただ幼い頃にいつも嗅いでいた煙草の香りはない。
 その身体からは、かすかに林檎が薫った。


 翌朝目覚めると頭はすっきりしていて、大きな欠伸をしながら階下に下りると、隻が台所に立っていた。
「あ、おはよーユトちゃん。気分はどう?」
「おはよーございますにーさん。何作ってるんです?」
「ユトちゃんの雑炊。今日、棗はもう出たんだよ。だから代わりに」
「うわーすみませんありがとうございます!」
「食べられそう?」
「食べます食べます! 食欲もりもりです!!」
「うん。じゃああっちに行ってて。持ってく」
「すみませんお願いします!」
 雑炊の鍋を眺めながら居間を指差す妹尾家長男に頭を下げて、足取り軽やかに居間へ一歩踏み出した遊はふと気にかかることを思い出した。
「隻にーさん」
「んー?」
「昨日、私の様子見に来てくれました?」
「ん? うん。部屋はちょっと覗いたよ。よく寝てたからすぐに扉閉めたけど。もしかして起こした?」
 んん、と眉間に皺を寄せて首を捻り、遊は台所へと引き返した。そろそろかなぁ、と時計に目をやる長男を、背後から抱きしめる。
「うわっ。えっ、えっ、なに俺病人は襲わない主義だけど襲われるなら応えるのもやぶさかじゃないよ?」
「違うよ! 何勘違いしてんの!」
「えぇ……」
 隻は残念そうだが何を考えているのか。いや、勘違いさせそうなことをしたのは自分か。
 昨夜、両親の夢を見た。
 中でも頭を撫でてくれた父は妙にリアルだった。筋肉の感触。そして林檎の香り。
 父の腹は中年らしく妊娠数か月で筋肉なんてなかったので、もしかして、と思ったのだが隻ではないようだ。腰の感触が違う。
「ええー、ユトちゃん何やってんの!?」
 いつの間にか台所の戸口に立っていた叶が指差し叫び、隻から離れた遊の腹にどすっと突進してくる。
「ふぎゃっ」
 いくら幼いとはいえ小学生高学年。腹の衝撃はそれなりのもので、うう、と呻きながら叶を抱き返した。げんきになったの、と末っ子は無邪気だ。キミが頭突きをぶちかまして来なければ元気だよ、と遊は呻いた。
「おい、お前ら朝から何やってるんだ?」
 呆れの滲む低い声は音羽である。顔を洗ってきたばかりのようで、濡れた前髪が方々に跳ねている。
 無言で歩み寄ってきた音羽は眠いのか不機嫌そうな顔でぺりっと叶を遊から引きはがし、居間へと歩いていた。
「病人に何してるんだ叶。移るぞ。風邪が」
「わたしを心配してるんじゃないのか!」
「そんだけ元気なら心配する必要はないだろ」
 あふ、と欠伸をする音羽を睨んでいると、ふと台所のテーブルの籠に詰まれた林檎が目に入った。遊の視線を追ったらしい。叶も林檎を認めて弾んだ声を上げる。
「あれ、こんな林檎あったっけ? おいしそう。隻が買ってきたの?」
「棗じゃない? ユトちゃんの熱が高かったら食べさせるつもりだったんでしょ」
 音羽は長男と末っ子の会話に参加するつもりはないらしい。居間のこたつに足をつっこみ、欠伸を噛み殺している。
 隻がよそった雑炊を盆に載せて遊に差し出した。
「はい。……あとで林檎も食べる?」
 遊は次男の背中を見つめたまま、うん、と頷いた。
「食べる」