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38 道を往く

 ことの発端は、ミズウィーリ家に出入りする小間物屋が、店主の座を息子に譲ると挨拶に来たことだった。
 彼自身は西大陸を回り、商業の版図を広げる心づもりらしい。その話題から広がって、全てが落ち着いて、職を辞したとしたらそのあとに、何をしたいか、という話になった。

「絵を描いて暮らしたいです」
 はにかみ笑って、化粧師は言った。
「絵を?」
 陶器の縁から口を離して、ヒースは首を傾げる。ディアナの父は絵師であるし、彼女の化粧も絵の技術を応用したものだと聞いている。だが彼女自身がそこまで絵を描くことを切望しているとは意外だった。
「実は好きなんです。描くの」
「へぇ。どんな絵を描くんですか? 肖像画?」
 ディアナの父の画だという母子の肖像を目にしたのは一昨日だった。絵の具を重ねた繊細な筆致。ディアナと重なる輪郭をした女の美しさと、彼女に抱かれる幼子のふっくらとした愛らしさが立体感をもって描かれていた。そのエムル・セトラの作品の素晴らしさは、絵に精通しているとは言い難いヒースの目から見てもよくわかった。
「風景画です」
 時々窓から黒檀を使って素描するのだと、ディアナは明かした。
「完成したためしがないんですけどね」
「今度見せてくださいよ」
「やですよ。本当に、木一本とか、屋根だけとかで終わってますし」
「いいじゃないですか」
「やーです。ところでヒースは、全部終わったら何かしたいことありますか?」
「全部、終わったら、ですか?」
「そう」
 マリアージュの女王選が終わり、女王が選出され、マリアージュのため、ひいてはデルリゲイリアのために尽くして、慌ただしい日々を積み重ねた、来るべき平らかな日に。
 ディアナの問いは、そういう意味だった。
 ――……そんな日は来やしない。永劫に。
 脳裏の深淵からこぽりと湧いた囁きを、ヒースは無視した。
「全部が終わったら……そうですね。……のんびりしたい」
「あぁ、ですよね。ヒースはだいたい働きすぎですよ」
「仕方がありません」
「でももうちょっと身体を労わってください。……それで、どこでのんびりしたいですか?」
 どこで、と問われてもすぐに思い当らなかった。どだい、ヒース自身訪ねたことのある場所の数などたかが知れている。国、街、村、すべては荒廃している。何もない牧草地や延々と続く白砂の荒野、針葉樹林に覆われたひとを拒む森。どこも長居したいような場所ではない。
 ゆいいつの、例外は。
「故郷に帰りたい」
 知れず口を突いて出た言葉に、ヒース自身が驚愕した。対面の席で、ディアナが笑う。
「ヒースの土地に?」
 背後にそびえる山脈と、紫と黄とくすんだ緑であふれかえる平野。子供のころに駆けた草原の、むせ返るような土の匂いが鼻腔によみがえって、ヒースは目を伏せた。
「……えぇ」
「いいですね。ヒースの花ってどんなのか見てみたいです。図鑑調べたんですけど、よくわからなくて。このあたりじゃ生えないみたいですし。綺麗なんでしょうね」
 それがどこにあるのかと、ディアナは尋ねてこなかった。ほっとした。西に山脈、東に果てない平野。そんな土地は、一箇所しかない。すなわち、ペルフィリア西部の国境だ。
「えぇ。たいしたものがあるわけでもないんですけどね」
 あの土地が一番安らげると思っている。
 “あの夜”のことを差し引いても、楽しいことばかりだったわけではないのに。
 あそこに帰りたがっている自分を発見して、ヒースは驚いていた。
「わたしも行ってみたいです」
 微笑みながら紅茶に口につける少女を眺め、ヒースはふと、彼女の手を引いてあの土地への道を歩く自分を夢想した。
 高く雲流れる水色の空。その下で、風にしなりさざめく低木の深緑と花々の色を区切るようにして渡された一本の道。農作物をついばむ鳥避けの、子供が作った小風車が突立てられた、その通りを。
 ふたりであるく――同じ方角を、目指して。
 彼女の目に自分が映っていることを確認しながら。
 あの土地を一望できる丘がある。夜、よく月を見に出かけた。少女の瞳と同じ色のまるいそれを。あの場所に画架を立て掛け絵筆をとる少女の姿が、瞼の裏に浮かんだ。
 馬鹿なことを。自嘲に、ヒースは嗤い出したくなった。
 だというのに、口は勝手に言葉を紡ぐ。穏やかに。紅茶の陶器に指を触れさせたままで。
「では、全部が終わったら連れて行きましょう。いけるかどうかはわかりませんが」
「本当ですか?」
「えぇ。ですが、本当に何もない土地ですよ。いいんですか?」
「いいですよ。だってヒースの故郷なんでしょう? 全部終わったら……約束ですよ」
 そういって何も知らぬ少女は、他愛ない約束に微笑んだ。



 全てが終わるのはいつのことだろう。おそらくその頃にはこのように互いを見つめ、暖かな紅茶を手に会話を挟むことなどありはしまい。
 所詮は仮住まい。目的が達成されようとなかろうと、いずれは国に戻り、主君のためになるような女を娶るか。もしくは。
 なんにせよ、いまヒースを雇用する娘と同じように、ヒースの目の前で無邪気に平らかな世を希望する少女もまた、供物にされる。
 玉座を贖うための、供物に。
 そのことに罪悪を覚えたりなどしない。
 それでも自分が道往くその隣に、この少女がいればと、ヒースはいっとき願ったのだ。
 柔らかに笑む瞳の中に、自分の影が映っていればと夢見たのだ。
 その祈りの意味を、知らぬまま。