14. 憧憬
まだ、子供の頃のことだった。
※
アリシュエルは庭の隅、薔薇の茂みの影にへたり込んだ。透かし織りをふんだんに使った絹の衣装の裾が芝生の上に広がる。裾を持ち上げて覗き込んだ踵は、靴ずれて血がにじんでいた。それだけではない。足首が、腫れあがっていた。
その部位をふんふんと鼻先で探る黒い子犬の頭を、アリシュエルは撫でた。その拍子に、また足に痛みが走る。くすん、とアリシュエルは鼻を鳴らした。
(いたいよ……)
涙が、滲んできた。
(でも、いたいっていうと、おとうさまがおいかりになる)
いつも笑顔でいなさい、というのが父の弁だ。
隙を見せてはいけないよ、アリシュエル。
弱さを見せてはいけない。
いつも笑顔で。
いつも余裕を。
だから新しい靴が痛くても、踊りを頑張った。
その際に足を捻っても、我慢した。
でも限界だったので。
子犬を追いかけるふりをして、こっそり祝いの席を抜けてきたのだ。
(いたい)
「どうしたの?」
頭上から降ってきた声に、アリシュエルは息を詰めた。
つい先ほどまでアリシュエルの傍にいたはずの子犬を抱いて、同じ年頃の女の子が立っている。
「なにやってんの? そんなところで」
「あ、な、なんでもな……ひぐっ」
立ち上がろうとした拍子にまた痛みが走る。しゃがみこんだアリシュエルを、彼女は怪訝そうに見つめた。
「なにしてるの? 痛いの? 足」
唇を引き結ぶアリシュエルの傍に、女の子が屈みこむ。
「痛そう。血が出てる」
「痛くないよ……」
「でも血が出たら痛くない? 赤いよ。腫れてるよ」
「痛くないの……」
「じゃぁなんで泣いてるの? 顔だって真っ赤よ」
固く目を閉じ、ぽろぽろ涙を零しながらアリシュエルは呻いた。
「だって、お父さまが、痛いって、言ったらいけないって……」
「どうして?」
「……わかんない」
女の子は溜息を吐いて、髪を結んでいた飾り布をほどき、ぐるりとあたりを見回すと、薔薇の枝からぶちぶち葉っぱをむしった。
「……なに、やってるの?」
「はれたところはつめたくするといいんだって。葉っぱ、冷たそう」
そう言って、彼女は苦労しながらアリシュエルの腫れあがった足首に葉っぱを押しつけると、それを飾り布でぐるぐる巻きにして固定した。女の子の指先が触れた拍子に痛みを覚えたものの、確かに肌に触れる葉っぱはひんやりとして気持ちいい。
「わたし、お父さまには何も言われないから、よくわからないけど」
飾り紐をぎゅっと結びながら、女の子は言う。
「でも痛いっていわなきゃ、ロドヴィコせんせいきてくれないし、痛いっていうときは、お父さまが言っていいよって言ってくれるの待ってたら、いつまでたっても言えないと思う」
胡桃色の瞳にアリシュエルを映して、彼女は真剣な顔をした。
「痛いっていうのを決めるのは、自分だと思う」
※
マリアージュは、覚えていないだろう。アリシュエルの七つの誕生祝いにと開かれた午餐の会でのことだった。
思い返せば、なんと拙い会話なのだろうと笑ってしまう。
ロドヴィコが医者だと知ったのはうんと後だし――幼い彼女は、『医者』という職を知らなかったのだ――葉を湿布替わりにしたことも。何故葉っぱをこんなに張り付けているのか、後で不思議がられた。
ただ、あのとき衝撃だったのは、痛いと叫ぶ時期を決めるのは、自分だと、促されたことだった。
アリシュエルを取り巻く人は多けれど、自分で何かを決めていいとアリシュエルに告げたのは、マリアージュだけだった。
ガートルード家を背負うことも、完璧を求めることも、勉学の予定も、女王候補として名を連ねることも、全ては周りの誰かがお膳立てした。誰もアリシュエルに自ら決めろとは言わなかった。笑う時すら決められていた。
それは何も、アリシュエルに限ったことではない。
貴族の子女たち、皆がそうだった。やがては付き合う相手も、何もかもを決めれていく。それを、不思議と思わなくなっていく。
そんな少女たちの中で、マリアージュだけが、自ら考え、自ら動き、自らの意思で言葉を紡ぐ。
それが、父に見放されていたことに端を発していたとしても。
人形めいた少女たちの中で、絡みつく糸を、他者の意図を、ものともせず立つその姿が鮮やかだった。
今も惑ったときに思い出す。
強い意志の光を宿してアリシュエルの姿をまっすぐに見据えた少女の姿を。
まるで暗闇に道示す星のように、眩しくあった――……。
故郷で唯一焦がれた、そのひとを。