Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 9
『ごめんね叶君』
彼女はそういった。別れの際に。涙ぐみながら頬を寄せて。
『ごめんね叶君』
何に対する謝罪なのか。母親を奪ったことか。それとも母親という役割を投げ捨てていくことにか。
繰り返し繰り返し、謝罪の言葉を口にする彼女に、叶はいいよといった。許しの言葉だった。自分ひとりでも、彼女に許しを与えなければ、ならない気がしたのだ。
思えば、笑うことを覚えたのは、この瞬間であったような気がする。
泣き、叫ぶ代わりに、笑うことを――。
朝も早いというのに、じりじりとアスファルトを溶かす勢いで照りつける太陽の光に目を細め、麦藁帽子を被りなおした。
サンダルのストラップに取り付けられたビーズがさらさらと音を立てる。早起きの蝉の聲が夕立に似た勢いで、まだ輪郭のぼやけた影の上に降り注ぐ。時折傍らを通り過ぎる車が、エンジンの熱でもって蒸し暑さを掻き立てた。街路樹の緑は濃く、けれども水分を失って心なしか精気を失っていた。塀に絡みついた朝顔の
最盛期よりは寂れたとはいえど、昼間はもちろんのこと、いつもは早朝でもそれなりに人通りのある商店街だった。いつもならば牛乳や新聞配達、犬の散歩をする老夫婦、千鳥足で朝帰りする酔っ払いの男たちに加え、気だるげに帰宅する水商売の男女がみちるに声をかけていくのだが、今日に限ってそれもない。背筋を粟立たせるに十分な奇妙な静けさを保っている。蝉時雨と、みちるの撒いた水がアスファルトの上にはじける音だけが、断続的に沈黙に波紋を投げかけていた。
だからこそ。
じゃり。
その、砂利を踏みしめる小さな足音は、みちるの耳にはっきりと届いた。
本当なら、放っておけばいいだけの話だ。
遊は道路を走りながら思案する。早朝だというのに、むっとした熱気が早くも立ち込め、そのせいかいつもにまして人通りが少ない。時折、排気ガスを吐き出しながら車が遊の脇を掠めていった。
時折立ち止まって、周囲を見回す。だが求める少年の姿はなく、遊が今向かっている方向が正しいのかどうかすら判らない。彼はサッカーの練習に参加するためのスポーツバッグを抱えていったのだし、グラウンドにひとまず向かってみるのが正しいといえる。
だというのに、遊は勘に任せて走っていた。商店街の、方向へ。みちるの家がある方向へ。
息をつきながら、遊は胸中で独白を繰り返す――放っておけば、いいだけの、話だ。
叶は、相変わらず自分にはかわいく優しい態度を貫いている。
遊自身にはなんの害もない。真砂のことも、忘れてしまえばいい。
けれども、このままではいけない気がするのだ。このままでは叶は子供でいられる時期を逃すことになる。甘えたいときに甘えられる。泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒って、いいたいことを好き勝手言って――それらは、子供だけの特権だ。年を重ねるにつれて、言葉に出すことができなくなり、押し込められた叫びは澱となって、心の奥底に沈殿する。そうして、心を少しずつ腐らせていく。
遊自身にそういう経験があるわけではない。けれども、そんな気がするのだ。
隻や棗が時折浮かべる、泣きそうな歪んだ笑いをみていると。
彼らの、何かを諦めた微笑を、見ていると。
それは少し、哀しい気がする。
真砂のことは、どういう形であるのかはわからないが、確かに叶の中で膿となって堆積しているのだ。それだけは、遊にも判る。
そして遊自身もまた、真砂のことを放り投げてはいけない気がする。彼女をこの家から追い出した決定的な出来事が一体何であるのか、遊にはまだわからない。けれども、彼女は遊の未来だ。一歩踏み間違えれば同じようにこの家に傷を残してこの家の話題から消え去らなければならなくなる。それは、嫌だった。いつかこの家を出て一人で働きながら借金を返していくようになっても、気軽に訪ねていけるような関係を築いていきたい――そう、思っている。
ならば、真砂のことを、放り投げてはいけないのだ。思い込みかもしれない。けれども、そんな気がしていた。
そう思い、唇を引き締めた遊の耳朶を――。
「ふざけるな!」
少年の怒声が、強く打った。
遊は我に返り、声のした方向に身体を向けた。早鐘のような心臓の鼓動を聞きながら、足をせかして裏路地をぬける。その奥はちょっとした空間になっている。連立する店の裏路地が導く、町の袋小路。
そこに、少女に馬乗りになっている探していた少年の姿があった。
「お前に何がわかる!」
「わかんないわよあんたの考えてることなんて!」
「牝豚!」
「ふざけんなはこっちの科白だ馬鹿男!」
「ちょっ……やめなさい叶君何やってんの!!!!」
叶を背後から羽交い絞めにし、遊は彼をみちるから引き剥がした。顔を林檎顔負けなほどに紅潮させた少年は、一瞬呆けたように瞬きを繰り返して遊の姿をその瞳に映す。頭が冷えたのか、彼は呼吸を整えて、信じられないといった様子で唇を動かしていた。
「ゆ……ゆとちゃん?」
「一体何やってんの叶君。ちょっと自分が今やってたことわかってる?!」
遊は視線で地面の上で身体を起こそうともがいているみちるに視線をやりながら、遊は腕の中の叶を怒鳴りつけていた。怒鳴りなれていないので、声が裏返りいまいち迫力に欠けるものの、叶は震えながらも脱力していた。遊は、嘆息する。これを見つけたのが自分でよかったと思う。もし、兄弟の誰かが見つけていたなら、もしくは、集が見つけていたのなら。
事情が事情であるだけに、みちるから手を出したということはないだろう。クラブで遊がマトノに襲われたときのような、正当防衛ではない。特別な事情がない限り、女には手を上げないのが妹尾家のルールであり、それに違反したら……どうなるのか、遊もよくは知らないがとにかく恐ろしいことが待っていることは確かだ。
脱力した叶を解放して、遊はみちるを抱き起こした。頬についた泥を手の甲で拭いながら、彼女は遊の肩越しに、叶を睨み据えている。それを引き受ける叶の瞳は、困惑の色が、多少見られるものの、酷く冷ややかだった。
「わかんないわよ……」
沈黙を破ったのはみちるの方だ。殴られたわけではないらしいが、地面に組み敷かれた折にすりむいたのか、頬は赤く血がにじんでいる。目は充血して、噛み締められた唇が傷ついていた。
「わかんないよ!あんたにはお父さんいるじゃない!お兄さんもお姉さんもみんないるじゃんか!何が不満なの一体何が不満なわけ?!」
みちるの叫びは悲鳴のように、狭い袋小路に反響する。遊を押しのける勢いで、身を乗り出して彼女は叫んだ。
「あんただってわかんないでしょ毎日毎日誰も家にいなくて、何日も何日も一人で寝て起きてご飯作って!授業参観も、運動会も、私いっつも一人だった!きてねって約束しても、そんな約束守られたことなかった!それでもお母さん、信じてたのに!なのに、なのに最後に、最後にぽいって、じゃぁ元気でねって!」
猫みたいに。
「あんたなんかにわかるもんか!一度も一人ぼっちになったことのない奴に、わかるもんか!!!」
預け置いて。
「わかる……もんか」
どこかへいったというみちるの母親。
何ともない風を装ってはいたけれども、それは幼い少女の心にどれほどの傷を残していったのだろう。
唇を噛み締めながら必死に泣くことを堪えている少女を、遊は見下ろした。泣くことすらできない、まだたった、十歳の子供。
だがそれに決然として反論したのは叶だった。
「一人のほうがまだマシだったよ!」
間に遊がいるためか、叶は飛び掛ってくることはない。けれども拳を震わせ、華奢な肩と唇を
「まるで囚人の気分だった!毎日毎日、誰かが一緒にいて、いなくなったお姉ちゃんの代わりに、僕が責められてるみたいだった!」
甲高い少年の声。痛々しいばかりの響でもって、みちるの叫びの余韻をそれはかき消す。
「いっそのこと捨ててくれたほうがどれだけ楽だったか!どいつもこいつもどいつもこいつも!いつもいつも、うわっつらばっかだ!笑って、ご機嫌取りして、どいつもこいつもころっと騙されて!そんな奴ら、要らない!家族なんていらない!そんなやつら――家族じゃない!」
ぱん、と。
遊は手の痺れとともにその音をどこか遠くで聞いた。日輪の騒動のときもおもったことだが、人を傷つけるという行為は、自分も痛みを伴う。叶の頬を平手打ちした遊は、右手をさすりながら嘆息した。
「叶君が、どうしてみんなから責められてるなんて思ったのか、私には理由なんてわからないけど……」
叶は頬を赤く腫らしたまま、微動だにしない。遊は、みちるを視界の端に捉えつつ、静かに説いた。
「だけどね、叶君。上っ面ばかりって、叶君はいうけど、本当に……本当に、叶君自身は、どうだった?うわべだけつくろって、人に接してなかった?家族の前でも、いい子演じて。みんな、見抜いてるよ。ただみんな優しいから、隻兄も、棗姐さんも、多分音羽もそして集父さんも……みんな優しいから、叶君の演技に付き合って、見ないフリしてるだけだと思うよ。まぁそんな優しさは、嘘っぱちだと私も確かに思うけど……」
本当なら、問いただすべきだと思う。それが本当の優しさだと、思う。けれども請われてもいないというのに安易に人の事情に踏み込めるほど、人は傲慢にも、勇敢にも、なれない。
それでも、家族なら、勇敢で傲慢になるべきなのだ。家族とは、声なき叫びに耳を傾けなければならない。それをしなかったのは、おそらく妹尾家全員の怠惰で、同時に、彼らもまた余裕がなかっただけなのだろう。
知能、容貌、財力。全てにおいて完璧でありながら、完璧すぎて脆弱な人々。
脆弱でありながら、孤独に耐えうるだけの力を身につけてしまった、可哀想な大人たち。
「ねぇ叶君」
彼らを、責めることなどできない。できはしない。彼らはただ、自分たちを守るだけで精一杯だったのだ。
ただ、彼らも。
「助けて欲しい時は」
声なき悲鳴を、聞いていたのなら。
「仮面をかなぐり捨てて、全力で叫ばなきゃ、きっと伝わらないんだ」
全力で助けようとしたに違いない。
「泣いて、叫んで、縋って、そうでないと、人は他人のことまで手が回らないんだよ。叶君は、それをした?隻兄さん、棗姐さん、音羽に、集お父さん。誰かに、叫んだ?」
唇を噛み締める叶の頬から、大粒の、宝石のような涙が零れ落ちた。
遊はまだ少し痺れを残す手を見下ろした。赤くなった手の平。痛いな、と思った、人を本気で叩くとき、とても労力を要するものだと再確認する。
「叶君は、叫び方を間違ってる。みっちゃんが、騙されないから、向かい合ってくれると、思ったんだよね?」
「……そんなんじゃ、ない」
「そうでしょ。だったらどうしてみっちゃんな訳?なんでみっちゃんがむかついたわけ?騙されないのに、自分のしんどいこと辛いことに、理解を示さないと、思ったからじゃないの?判ってほしかったんでしょ?……でも、叶君がみっちゃんにしてることは、単なる八つ当たりでしょ?判ってもらえないことにイラついて、当たってるだけでしょ」
何か間違ってる?と問いただすと、叶は押し黙ったままだった。ただ、彼の頬からは大粒の涙が一定の重たさを宿して滑り落ちている。
遊は呆けたように座り込んでいるみちるに向き直ると、その手首を掴んで、彼女を引き起こした。
「私は、逃げも隠れもしないし。何ができるってわけじゃないけど……話だけならいくらでも聞くし。一緒に住んでるわけだしさ。……とりあえず、帰るよ叶君。みっちゃんも、二人とも、傷の手当てしないと」
みちるもそうだが、叶も身体のいたるところに擦り傷がある。首もとの引っかき傷は、おそらく抵抗するみちるによって付けられたものだろう。血が滲んでいた。
いくよ、と促しても微動だにしない叶に、遊は眉をひそめた。
「かなえく」
「ユトちゃんは……」
叶が、空を仰ぎながら瞼を下ろす。涙を、封じるように。
「ユトちゃんは、真砂お姉ちゃんとは違うね」
叶は遊に向き直ると、弱弱しく微笑んだ。涙で赤く腫らした目を、遊に真っ直ぐ向けながら。
「……え?」
「とても強くて、優しくて、真っ直ぐで。棗や集たちが、好きになるのも、わかる気がする」
叶が、隻や棗がよく見せる、泣き損ねたかのような引き攣った笑いに目を細めた。
「どうして家に来たのさ。ユトちゃん。ユトちゃんが来なければ、僕は真砂お姉ちゃんの味方でいられたのに」
叶のつぶやきは、遊に向けられているというよりも独白に近かった。遊を見つめながらも、その瞳はどこか遠くを透かし見ている。
一歩、叶は遊とみちるに向き合ったまま、後ずさりする形で足を踏み出す。
「集に、連れてこられた真砂お姉ちゃん」
二歩。
「一生懸命、家になじもうとしていたっていう、真砂お姉ちゃん」
三歩。
記憶をなぞり確認するかのような独白。
「僕を一生懸命、面倒見てくれていた真砂お姉ちゃん」
四歩。
ほとんど記憶はないはずだ。それとも、頭のよい子供であるから、明確に記憶しているのだろうか。
「隻を、好きになってしまった、真砂お姉ちゃん」
五歩。
「緑子さんを……殺してしまった、真砂お姉ちゃん」
六歩。叶は足を止めた。
そしてそのまま彼は踵を返す。絶句したみちると遊に一瞥を投げたが、彼は振り返ることもなく、走り出していた。
少年の背中が、路地の向こうに吸い込まれ消えていく。
蝉時雨が、その足音をかき消していた。