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番外 禅譲


東の果て、水の土地、呪われた国があった。


 奥の離宮を、女が駆けている。
 医者である女は息を切らして部屋に飛び込む。そこには、既に大勢の人々が集っていた。
「あぁすまん! 遅くなった!」
「お疲れ様です。長引いたのですか?」
 皇后は振り返り、医者の女に微笑む。髪を結い上げ終わり、今は衣装の帯を女官に締めさせている最中だった。
「なかなか放してくれんでなぁ。エイが来てくれて助かった」
「エイが迎えにいったの?」
 宰相夫人は手元の装飾具の位置を指で調節しながら口を挟んだ。
「男共はもうあらかた準備が終わって、暇なんじゃと。妾が仕度をしている間に、着替えるつもりじゃと」
「羨ましいねぇ」
「ヒノト様、こちらへ。御髪をいたしましょう」
「あぁすまん……」
「ティアレ様、紅を」
「ありがとうございます。自分で」
「いいえ、させてくださいませ」
 皇后が選び奥の離宮に置いた女官は、昔と変わらぬ淡白な物言いで主張し、しかし寂しそうに瞳を揺らしている。
「レン、今生のお別れのわけではないのですよ」
「ですけれど……」
 どこか潤む瞳で唇を噛み締める女官の頭を、皇后は抱きかかえる。
「あの子たちをお願いいたしますね」
 肩を震わせる女官は、主人の願いに震えながら頷いた。
「シノ様……シノ様」
 泣き出してしまう部下達を、女官長はうっかりつられて涙せぬように心を奮い立たせて叱咤した。
「なんですかあなた達。まだ仕事は終わっていないのよ」
「でも、シノ様。これ、これでわたしたち、シノ様と、さ、さいごだなんて……」
「会うのは別に最後ではないでしょう。いつでも遊びにいらっしゃいな。どうせ暇しているんだから」
 これから女官長は、国を出る。
「最後の仕事がいい加減だっただなんて思い出を残させないでちょうだい」
「すみません……」
「シファカ、そっちの簪とってくれんか?」
 医者の女は簪を指差し、一足早く仕度を終えた宰相夫人は棚の上から指示されたものを取り上げた。
「いいよー。これ?」
「そうそう」
「あぁ、いよいよなんじゃなぁ」
「そうだね」
 離宮に並ぶ部屋は、片付けられている。
 かつて共に眠った部屋も、団欒に使った部屋も。どこもかしこも。
 仕度に使われる一等広いこの部屋も、これが終われば片付けられるのだろう。


永劫の裏切りと永劫の存続を約束させられたその国は、長き歴史の果て、その全てから開放される。


 机を、撫でる。
 長いようで短い日々の大半を、この場所で過ごした。
「あぁ、ここにいたの?」
「お前も来たのか」
 皇帝は面を上げ、正装の宰相は頷いた。
「見納め」
 私物の片付けられた執務室。これからこの部屋は、譲り渡される。
「あれ、陛下、閣下」
「おーお前らもいたのかよ」
 左僕射と右僕射が並んで部屋に入る。あぁ、と皇帝は頷いた。
「エイ、お前その呼び方、次は慣れろよ」
「あーそうですね。間違えそう」
「長年染み付いたものはなかなかぬけんよねぇ」
 はは、と宰相は笑って言った。
「最初から慣れさせておくべきだったか」
「いえ、大丈夫ですよ……」
 左僕射は苦笑した。
 皇帝は、全員を振り返る。
「皆、ありがとう」
 どういたしまして、と宰相は言い、左僕射は一礼し、右僕射は笑った。


それは。
偶然か、必然か。
人の意思か、神の定めた、運命なのか。


 玉座の前に一人の少女が立つ。
 その階下、かつて魔女が傾国の姫と謳われた娼婦として引き出されたその場所に、男達と女達が伏す。
「シノ」
 少女は言った。
「長らく、女官長としての務め、ご苦労でした。時に姉とし、時に母とし、私を、そして城に勤める女達を導き育て教えてきたのはあなたです。……その叡智が、貴女の新しい国の礎となることを祈ります」
 女官長だった女は一度面を上げ、再びまた頭を垂れた。
「イルバ」
 少女は呼びかけた。
「異国の出でありながら、この国を真に愛してくれた。私達の兄。私達の父。貴方の祖国が我らの兄弟として安寧を祈ります。どうか、これからも、貴方と、貴方の祖国共々、健やかであるよう」
 ありがたき幸せ、と右僕射であった男は微笑む。
「ヒノト」
 少女は笑った。
「貴女もまた、異国の出でありながら、この国を愛し、そして私たち全てのよき友人であり、理解者であった。貴女の精神が私達全てを癒し、支えた。これからも夫を支える妻とし、また医の徒として、どうか傷を負う全てのものにその手を差し伸べてください」
 本来ならこの場に呼ばれるべくもなき左僕射の妻である女は、その貢献により座を許された。その温情に医者の女は目を伏せる。
「エイ」
 少女は視線を動かした。
「最下の苦しみを知るものとして、その生を捧げた。この国の苦しみを取り除いたのはあなたの力に他ならない。その努力、その勤勉さは、貴方が育てたものたち全てに伝わっていましょう。この国の底辺に生きてきたものたちに代わって礼をいいます。これからは、妻を愛するよき夫として、幸せにあれ」
 かつて左僕射と呼ばれた男は過去に思いを馳せ、ここまでの道のりにあった日々に目を細めた。
「シファカ」
 少女は首をかたむける。
「貴女も異国の出でありました。しかし貴女の力強さ、不毛の場にあっても希望を見出すその不屈さ、その姿勢は、この国の民全てに染みわたったでしょう。我々も、貴女のように苦境と常に戦えるものでありたい。どうぞ、健やかに」
 宰相夫人であった女は、故郷の血を感じて胸に手を当てる。
「ジン」
 少女は目元を緩めた。
「長らく、この国の柱の一つであった。この国の闇を引き受け、この国に光あれと願い、力を尽くした。玉座の孤独を癒したのは貴方の忠義でしょう。私も貴方のような臣が、欲しいものです。妻を幸せに」
 宰相であった男は無論、と頷く。
「……母上」
 躊躇いながら、少女は中央に並ぶ男女を呼ぶ。
「父上」
 かつて皇后と皇帝であった二人は、声を揃えて呼びかけに応じた。
『は』
 呪いに終止符を打った賢帝。
 その賢帝に寄り添い続けた皇后。
 ただ、次代に血を繋げるものとしてだけではなく、愛を注いだ両親。
 その結果、体得する情が政務を妨げるものがあるかもしれない。それでも人であることはやめるべきではないと。
 頂点にあるまえに一個人であるのだと、少女を厳しく慈しんできた男女。
 交わすべき言葉は全て昨夜のうちに。
 少女の妨げにならぬようと、男と女はこの都を離れる。
 この場にいる全ての者達は、若き者達に席を譲り、各々の道へと進む。
「あなたがたが、慈しんできた国を、私もまた愛し、そして次代に届けることを、約束いたします」



銅鑼が鳴らされ、禅譲を知らせる。
その日、一人の少女が帝位を引き継いだ。
その手腕は目立つことなくとも穏やかな日々を民に約束し、その御世の安寧の不変さを称え、民人は国に終古の銘を与えるに至る。
神の殺しの土地。
神の土地。
水に祝福されたその土地がまた歴史の表舞台に現れるのは、遠き未来のことである。


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