TOP

番外 籠の中の鳥


「シノ様ご覧になって」
 女官の一人が忍び笑いを漏らしながら指をさす、その方向を見やれば、見慣れた主たちの姿。
「仲睦まじくあらせられますこと」
「羨ましい」
 奥の離宮の中庭の木陰で、寄り添って談笑しているのはラルトとティアレだ。水の帝国皇帝と、皇后として取り上げられるために査定を始めたばかりの女。
「仲睦まじくあらせられるのは、よいことですわよ。貴方たち――」
 くすくすと笑いを漏らしながら二人の様子を遠目に見守る奥の離宮の女官たちに、呆れた眼差しを向ける。彼らがああやって木陰で談笑するのは、今に始まったことではない。
「早く仕事に戻りなさいな。やらなくてはならないことは、まだまだたくさんあるのですから」
 呆れた眼差しをむけてやると、女官たちは華やかな笑いをあげて返事をし、それぞれの部署へと散っていった。誰もが口が堅く有能な女官ではあるが、主たちに馴れ馴れしい傾向にあるのはいかがなものか。
 と、思いかけて、その最たるは自分であると、自覚せざるを得なかった。ラルトもティアレも、主としてはとても気安い人間である。それと同時にラルトなど、幼少の頃からの付き合いであるのだから、気安いを通り越して家族に近かった。実際、実家であるテウイン家のどの人間よりも、ラルトのほうが近しいのである。
(そんなに長い付き合いになるのね)
 虫干しのために出した衣類を抱えなおして、シノは微笑んだ。それと同時にちくりと胸が痛む。
 離宮は、今日も平和であった。


 シノ・テウインが皇帝ラルト・スヴェイン・リクルイト、および宰相ジン・ストナー・シオファムエンと深い縁をもつようになったきっかけは、シノの奉公先の少女に端を発する。
 レイヤーナ。
 あの時代において、残酷なほどに美しく無垢な少女であった。無知であるが故の無垢。だが誰も彼女に知識を与えて汚そうとはしなかった。今の国の現状を事細かに説明し、彼女に理解を求めるよりも、彼女がこの国の最後の砦であるとでもいうように、護り、慈しむことを周囲は選んだ。
 そしてそれはラルトとジンも同じであった。いや、彼らこそ、彼女を甘やかす最たる人間であっただろう。少し生真面目すぎる嫌いがあるが、子犬のような人懐こさをもつラルト。ふざけているように見えて、人一倍寂しがりやのジン。彼ら二人が猫かわいがりする少女こそ、レイヤーナその人だったのだ。


「今日はね、この髪型がいい!」
 少女はそう宣言する。髪の結い方のみを集めた、古い画集だった。同じくそれを覗き込んでいた少年たちは、一瞬眉根を寄せる。
『……むずかしそう』
 というのが、二人の少年の一致した見解らしい。だめなの? と首を傾げるレイヤーナに、二人は微笑んで承諾を示す。彼女に、二人は決して逆らわない。よほどの理由がない限り。
 あぁやって少年二人に髪結いをねだるのが、最近のレイヤーナの流行であるようだった。ラルトとジンが交代で、指定された通りの髪型に、彼女の艶やかな黒を結い上げていく。そして少年たちの指先は器用で、下手な女官よりも見事にレイヤーナの要望に応えてみせるのだ。
「楽しそうだね」
「フィル」
 三人の様子を遠目に観察していたシノは、背後からかけられた柔らかな声に振り返った。少し距離を置いて、一人の青年が立っている。
 フィリオル・シオ・トアーフォ。黒髪黒目。浅黒い肌。ごくごく一般的なこの国の人間の容姿をしたこの男は、物腰、話し方一つとっても穏やかさが滲み出る。歳は今年で二十歳。ラルトの近習であった。
 かさ、と落ち葉を踏み分けてくる気配に、ほんの少し緊張する。この年嵩の男が近寄ると訳もなく緊張し、頬が紅潮するのはいつものことである。ほんの少しだけ距離をとって――とはいえども手が直ぐ届くほどではあるのだが――立ち止まった気配に、安堵と、ほんの少しの落胆を覚えながら、シノはフィルを振り返った。それを待っていたかのように、彼が言う。
「殿下とジン様を呼びに参りました」
「……火急の用事ですか?」
 フィルは答えない。ただ微笑んでみせるだけだ。火急の用事とまではいわなくとも、それに近いものがあるのだろう。
 最近、そういった用事で少年たち二人が席を外すことが増えた。シノとて、わかっている。今のこの国の現状。彼らが何を思い、何を学び、何を選び取ろうとしているのか。ラルトもジンもとても賢い少年たちだ。哀しいほどに。
 そして、レイヤーナは、美しく無垢であったが、凡庸であった。彼女は、徐々に恐れはじめている。
 置き去りに、されることを。
 あの、二人に。
「また、後ほど拗ねられますわね」
 皮肉を込めて呟けば、フィルが小さく肩をすくめる。
「そろそろレイヤーナ様も、鳥籠の中から出して差し上げるべきだ。彼女にも、知る権利があるでしょう」
「……けれども、知らせてどうするのです? あの方は残飯のようと頻繁に食事を抜きなさるけれども、皆は一日に一食食べられればいいほうだとでも告げるべきだと? 国には、もう何年も食べるものに困って死ぬものが大勢いるのだと?」
 そんなことをしても、何も変わらないだろう。無垢で純粋だからこそ、現状を知ればどうなるか判らない。嘆くのか、怒るのか、それとも無関心なのか。
 あの少女には、笑っていて欲しいというのが自分たちの願いだ。何の穢れもなく。
「選択は、レイヤーナ様ご自身にさせて差し上げるのがよろしいでしょう。あなた方が行っていることは、甘やかしではない。一人の、囚人を作り出していることに等しいと、私は思います」
「……それを、ラルト様とジン様には」
「申し上げましたよ」
 フィルは唇の端をそうと判らないほど持ち上げた――どうやら、苦笑したようだった。
「あの方々は、それを判っていて、それでも言うのです。これは、自分たちのわがままなのだと」
 ならば私はもう何もいうことは出来ない。
 あの二人に。
 フィリオルはそういって、シノの横を掠めて歩き出した。
 中庭に響いていた笑い声がぴたりと止まる。レイヤーナの柳眉が不快感を露骨にあらわにしてひそめられる。少年二人は少女の頬に軽い口付けを落とし、それでも振り返ることなくフィリオルを先導して歩き始めた。
「シーノー!!!」
 少女の声が弾けた。シノは苦笑する。
 呆れを通り越して微笑ましくなるほどの子供っぽさで、怒りを顕にする彼女の様子が、想定できたからだ。


 時間が来たのだろうか。ラルトは躊躇うことなく立ち上がり、ティアレに口付け一つを残して執務室の方向へと消えた。ティアレはその方向をじっと見据えていたが、しばらくして意を決したかのように茶器を片付け始め、立ち上がった。シノは慌てて傍に駆け寄る。きちんと申し出なければ、皇帝の新しい恋人は、何でも自分で片付けてしまうからだ。
「シノ」
 ふわりと微笑む主に、シノもまた微笑を返した。
「そちらをお貸しくださいな。片付けます」
「でも、シノもお仕事あるのではないですか?」
「ティアレ様のお世話をするのが、私どもの仕事だと心得ておりますので」
 虫干しした衣類を、さっさと仕舞い直してきてよかった、とシノは思った。それを片手に携えていたら、ティアレは確実にシノからそれを奪いにかかっていたに違いない。娼婦上がりという経歴を持つこの女主人は、他者に対して腰が低いだけではなく、どうやら他者に何かを言いつける際には罪悪感を覚えるらしい。
 手伝いを頼んだら、一回手伝う。
 ティアレはいつも、そうしたがる。
 シノは密かに思った。ティアレは、穢れた世界を知りながら、どこまでも優しい。しかし鳥籠の扉を開いていたなら、レイヤーナもまた彼女と同じように、穢れを知りながらも強く、笑ってくれていただろうか。
 今となっては、詮無き事だ。それでも、思わずにはいられない。
 かつての主を貶めるわけではない。今の主を貶めるわけでもない。
 小さな鳥籠を思い浮かべる。二人の男とシノ自身のわがままによって閉じ込められ、哀れに笑顔を病ませていった少女を思い返す。
 彼女に全く罪がないわけではない。扉は自分でも開くことはできた。それをしなかったのは彼女自身だったから。
 その結果、自分とジンは許されない罪を犯し、多くのものを失い、そしてティアレが、この国にやってきた。
 今となってはごく一部を除いて幸せな結末。けれども、幸せな光景を目にするたびに、ふと思う。
 もし、レイヤーナが、生きていたら。
 横に並ぶ主のように、彼女は微笑んでいた?
 強さを秘めた、純粋無垢な笑顔を、口の端に載せていた?
 今の主に申し訳なく思う。が、そう思うことぐらいは許してほしい。
 ラルトとティアレの幸せな姿を見つめ、胸を引き絞られるような痛みに襲われるのは。
 果たして、自分だけなのだろうか。


TOP