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第一章 安寧に楔が打たれ 2


「とうとう嫁っこをもらう気になったのか」
 真水と穀物を定期的に売りにくる舟商の老人は、嵐の後の拾い物である女を見るなり、からかいの笑いを浮かべてそういった。老人は、九十近い年齢ながらも、いまだこの界隈を縄張りとする現役の舟商だ。小柄な身体は引き締まり、筋肉に覆われた、よく日に焼けた上半身を晒していた。頭には白い布を巻いている。名を、ドムといった。
「馬鹿とうとう耄碌しくさったかよジジイ、違うっつの」
 イルバは女を横に抱え、ドムの小舟に乗り込んだ。ぎしりと大きく舟は傾いだが、ドムはなれたもので素早く持ち上がったほうの床板を踏み込んで均衡をとる。小舟に乗せられている樽の中で、売り物の真水がたぷんと音を立てた。ひとまず女を舟に下ろし座らせて、樽を抱えて舟を降りる。肩にそれを担ぐ一方、ドムに向かって指示を出した。
「芋粉と、とうもろこし、あと五穀粉もくれ」
「五穀粉もか? お前こないだ買うたばかりだろう」
「一昨日の嵐で貯蔵庫が水びだしになって駄目になっちまったんだ。いいだろ売り上げが伸びるじゃねぇか。さっさと寄越せよ袋」
「一気に抱えられるのか?」
「ジジイに抱えられるのに何で俺ができねぇんだ」
「そりゃそうだな」
 穀物が詰まった麻袋は、赤子ほどの重量がある。それを三袋、軽々と担ぐドムは、白い歯を見せて豪快に笑った。彼は、イルバがこの島に来たときから全く年をとっていないように見える。かなりの高齢だというのに、まぼろばの土地へと行く気配が一向にない。彼に出来て自分に出来ぬはずがないと豪語してみたはものの、三袋と樽一つはさすがに堪えるものがあった。
 買い受けた食糧を家の中にひとまず入れて、駆け足で舟に戻る。新たに空間となった場所に身体をねじ込むと、ドムが待っていましたといわんばかりに櫂を水に差し入れた。
 狭い小舟の限られた空間で、出来る限り手足を伸ばす。舟の縁にもたれかかると、イルバは大人しく隅に腰を下ろしている女に視線を移した。
「フィル」
 仮初の名前に反応して、記憶喪失の女は面を上げた。物憂げな様子は全くみられない。むしろなにかに感心している様子だった。
「綺麗な海ですわねぇ」
「あ? あぁ……まぁなぁ」
 言葉を濁しながら目を細める。生れ落ちたこの土地を離れる機会はいくらでもあった。が、そうしなかったのは、ひとえに自分を飽きさせないこの美しい海のせいだ。
 この界隈の海は、透明度が高いことで世界的に有名だ。基本波も穏やかで、遠浅が続く。翡翠と瑠璃を敷き詰めたかのような美しい海原が、太陽の光に照らされ煌いていた。
 色も形も様々な魚が、薄布のように儚い尾ひれと背びれを水に流して群れを成し、珊瑚が海中を薄桃と紅で飾っている。空は色粉を溶いた様な蒼。筆で掃いたような真っ白な雲が水平との境に見える。点在する島の上では原生する椰子の木の葉が風に揺られながらくっきりとした濃い影を、太陽によって白く焼かれている砂の上に刻んでいた。
 潮の匂いを含んだ風。
 舟の軌跡に浮かぶ、酒の気泡のように優美で細かい泡。
「そらそうだお嬢さん。諸島連国から海の美しさをとっちゃ、何も残らんが」
 櫂を海に差し入れながら、ドムが白い歯を見せて笑う。フィルはぱちぱちと目を瞬かせ、小鳥のように首をかしげた。
「諸島連国……?なんですか、ここ」
「は?」
「あー説明してなかったっけか」
 頭を掻きながらイルバは呻いた。小屋の修理におわれて、女にいまだ何一つ説明していないことを思い出す。女も女で何も訊いて来ないので、女に説明したことといえば今日枷を外しに町へでることと、イルバという自分の名前程度だった。
「ここが諸島連国だとしらんでここにきたのかお嬢さん」
「ジジイ、フィルは遭難者だ。乗せられていた[・・・・・・・]船が難破したらしい」
「ほう? そりゃ災難なこった」
 こちらが言葉に込めた意味に、ドムが気付く様子はない。ごく普通に受け流した彼に舌打ちしつつ、イルバはフィルを指差した。
「そうでもないみたいだぜ。フィル、手見せてやれよ」
 こちらの言葉に即座に反応し、彼女はひざ掛けのうちに隠していた両腕を持ち上げて見せた。じゃらりという音と共に鎖がその禍々しい姿をあらわにする。ドムは眉をひそめ、沈黙した。
「おまけに記憶喪失ときた。フィルってのも、この姉ちゃんがうわごとで口にしてた名前からとったのさ。とりあえずアイザックんとこにいって、枷を外してもらおうと思ってよ」
「アイザックに開けられんのか? たかが鍵屋だぞ?」
「いざとなったら斧で叩き割る」
「お前相変わらず大雑把な奴だが」
「ほっとけ」
 舟の縁に頬杖をついて嘆息する。ドムは櫂を止めると身を乗り出し、左手をフィルに差し出した。
「改めて、はじめましてお嬢さん。ドムといって、この辺りの島の住民相手に商売をやっておる」
「自己紹介してなかったのかよジジイ」
「うっさいぞ。わしはお前と違ってツツシミブカイんだが」
「どこが……」
「こやつのところが嫌になったらいくらでもいえば、口うるさいババアがいる家なら屋根の下を提供できるが。遠慮なくいいないね」
「ありがとうございます」
 ドムと握手を交わしながら、一体何が可笑しいのか、フィルは口元に手を当てて忍び笑いを漏らしている。半眼で睨め付けると、女の紫紺の瞳と目があった。
 女が持つ色は、肌の色髪の色瞳の色、どれをとってもこの色彩鮮やかな土地に不似合いだ。だが強く目を惹くのは、彼女の存在が光の中に落ちた濃い影のようだからだろう。
 紫紺は懐かしい色でもある。
 胸の奥に沈殿する記憶の中に棲むものたちの色。
『あなた』
『お父さま』
「話は戻りますけれども、ここは一体どこなのですか?」
 懐古に耽っていた自分を、フィルの問いが引き戻す。口を開く機会を逃したイルバの代わりに、舟漕ぎを再開したドムが明快に答えた。
「諸島連国だが。その位置はわかるかね?」
「判ります」
 どうやら記憶喪失とはいえども、教養一般が抜け落ちているわけではなさそうである。フィルはドムの問いにはっきりと肯定を示した。
「内海の中心ですね。どちらかといえば、北よりの」
 そう言葉を続けるフィルに、イルバは深く頷いた。
 東西南北、四つの大陸に囲まれた内海の中心に位置する、中小規模の島の集まりで構成される国が、マナメラネア諸島連合国――通称、諸島連国である。登録されている島の数は百以上に上るが、人が住む島はごく限られていた。マナメラネア本島が最大の島で、その周囲に中規模の十三の島。少し離れて、数年前に諸島連国に新たに加盟したばかりの、マナメラネアに続く大きさをもつ島バヌアがある。
「今向かってんのはポリーア島っつぅ、町がある島ん中でも一番ちっさい島だ」
 イルバは戯れに海に指を差し入れながら呻いた。
「この辺りではみんな親戚単位で集落作って散らばってる。大抵ドムみたいな舟商が必要なものを売りにくるんだが、それじゃ足りないものが出たときには、ポリーアに出る。他国に出る場合は、ポリーアで船を乗り換えて、マナメラネア本島にいかなきゃなんねぇ」
「はぁ……」
 一息に説明したためか、理解が追いつかなかったらしい。フィルが眉間に皺を刻み、生返事を寄越してくる。
 見かねたらしいドムが、苦笑しながら補足した。
「この辺りは諸島連国でも南に位置する、一番辺境だが」
「海と砂浜と椰子以外に、なーんにもねぇとこだ。魚介類は旨いがな」
 自分で呟きながら、自嘲したくなるのをイルバは[こら]えた。
 そう、何もないところだ。
 周囲を見回して改めて再確認する。
 何もない。しがらみも何も。
 ここにあるのは海と、砂浜と、空と雲。ただ、それだけ。
「イルバは一人であの島に暮らしているのですわよね?」
「あん?」
「そうだが。変わっておろう」
「ジジイ黙ってろよ」
 ドムに叱責を飛ばすと、おお怖いと彼は肩をすくめてみせた。イルバは口元を歪めて、フィルに頷く。
「日中は近くのガキ共がくるから賑やかだけどな」
 朝の漁を手伝った子供たちは、日中イルバの下へ手習いに来る。数学と文字の読み書きを習いにくるのだ。イルバの収入は時折近くの島の村民に頼まれる力仕事や内職、そして子供たちに勉学の基礎を日々教えることによって賄われている。
「七年前ぐらいにふらーときて、ずぅっとな。どうだがお嬢さん、こやつの嫁になっては」
「はぁ?」
「来たばっかの女に、んな話もちかけるな! つかどう考えても十は年下だぞ!」
 思わず腰を上げてドムを怒鳴りつける。その際に縁に力を入れすぎたのか、舟が大きく傾いだ。フィルの小さな悲鳴と水音が響く。船底を、縁を乗り越えてきた海水が叩きつけていた。
「阿呆! 売りもんが駄目になったらどうしてくれるが!」
「わ、悪い! フィルも大丈夫か?」
「えぇ。海水ですもの死にはいたしませんわ」
 頭から水を被ったらしいが、フィルはけろりとしながら顔の水を拭っていた。服の裾を絞りながら、ただ、と彼女は付け加える。
「多少塩っ辛いですけれども」
 彼女の口元に浮かぶ笑みは力強い。この女、本当に記憶喪失なのだろうか。彼女の余裕綽々の雰囲気に面食らいながら、そうか、と口ごもることしかできない。
「ところで失礼ですけれども」
 長い黒髪を絞りながら、フィルが口を開く。
「イルバは、一体おいくつでいらっしゃいますの?」
「はぁ? ……四十二だが、それがどうした?」
 フィルの唐突な問いの意図がわからぬまま、首を傾げつつ答えると、彼女はその紫紺の双眸を大きく見開いた。まどろむ猫のような細めの目が、これでもかというほど開かれている。ふと視線を動かせば、ドムもまた静止していた。
「おい、何だってんだ?」
「ふ」
「ふ?」
「老けていらっしゃいますこと……」
「なんだお前まだ五十いっとらんかったんか」
「いってねぇ!」
 全力で彼らの勘違いを否定して、ぐったりと脱力する。フィルもドムも口元に悪戯げな微笑を浮かべていた。
「あーもーやってらんねぇなんだってこんなに疲れなきゃなんねぇんだ」
「まぁそうカリカリするな。怒ると余計にふけるが」
「ジジイに言われると余計むかつくわ! 少しは黙ってろ!」
 イルバが怒鳴れば怒鳴るほど、フィルのたてる笑い声は軽やかに響いた。記憶喪失のものにありがちな、不安な様子などまるで見られない。女の陽気な笑いを耳にしながら、これからこの女の扱いをどうすべきか、イルバは考えあぐねた。


 奥の離宮は、まるで喪に服しているかのように静まり返っていた。春も近く、例年なら花々も順々に開花していく頃合だ。だというのに、今年は蕾一つ見られない。楼閣を包む冷えた空気に身体を震わせながら、ラルトは寝室に急いだ。
 部屋に足を踏み入れると、御殿医であるリョシュンと女官のラナが立ち上がり静かに頭を下げてきた。
「ティーは」
「奥でお休みになられております。熱が高うございますが、落ち着いておられます」
「私どもは控えの間におります。また何かございましたらお声をかけてくださいませ、陛下」
 ラルトと入れ替わりに退室していく二人の背中を見送って、ラルトは部屋の奥へと足を踏み入れる。初春の穏やかな光が差し込む部屋の中央に設えられた寝台の上で、銅の色の髪を広げて眠る女が、一人。
 椅子を引き寄せ寝台の傍らに腰掛けて、彼女の手をとった。血の気のないその手は、外見に反して熱っぽく、元々象牙のような肌を持つ手は、病魔に蝕まれているせいか更に透き通って青白かった。
 ラルトはその指先に唇を触れさせて、名を呼んだ。
「ティアレ」
 その声に反応したのか、閉じられていた瞼が震えた。ゆっくりと押し上げられた瞼の向こうに、摩訶不思議な色の双眸が現れる。魔力の影響で七色に移り変わるその双眸。真っ直ぐな、何かを透徹した眼差しは出会った頃から変わらない。
「お帰りなさいませ」
 顔を僅かに傾けたティアレは、弱弱しく微笑んでそういった。寝台に手を突き、身体を起こそうとする彼女を、ラルトはやんわりと押しとどめた。
「いい。寝てろそのまま」
「ですが」
「不自由は感じないさ」
 笑って、女の額に手を添える。手も額も火に触れているかのように熱かった。髪に手を差し入れて、黙って梳いてやる。すると仰向けになったティアレが、天蓋を見つめながらぽつりと呟いた。
「シノは……無事、ですわよね? ラルト」
「当然だ。いっておくが、シノはこの国でおそらく一番の権力者だぞ。弱みに付け込んで皇帝や宰相を脅してくるような女官長が、そう簡単にどうにかなるものか」
 冗談混じりに呟くと、ティアレが小さく笑みを零した。シノはラルトが幼少のころから付き合いがある。年はさほど離れているわけではないのだが、ラルトの姉代わり、時に母親代わりの役もこなしてきた。よってその手にはラルトの知られたくない秘密が数多く握られており、それによって脅されることもしばしばである。もっぱらその脅しは、ティアレ関連のことで使われることが多いのだが。
 ラルトはティアレの手を軽く握り締めて微笑んだ。
「おそらく一時期どこかに身を隠しているだけだろう。大丈夫だ」
「ですが、身を隠さなければならないようなことが、あったことには変わりありません」
 この女は。
 ほとほと、時々嫌になるほど勘がいい。
 そうなのだ。あのシノが姿を隠すようなことがあった、ということを、見過ごしてはならない。
 シノの勤務は宮廷内であり、その内部で何かが起こったということはすなわち、城内に危険因子が潜んでいるということなのだ。それを見逃してはならない。
 ラルトは嘆息しながら女の手を握り締めた。
「ティー、あまり気にするな。身体に障るぞ」
 ティアレが布団のなかで軽く身じろぎし、視線をどこか遠くへと投げかける。彼女は汗ばんだ手でラルトの手を握り返し、消え入るような声で問いかけてきた。
「……ラルト。貴方は、大丈夫ですか……?」
 それから程なくして、薬が効いたのか女の穏やかな寝息が、ラルトの耳に届き始める。
 ラルトはティアレの手を握り締めたまま、唇を引き結んだ。
 大丈夫だとも、心配するなとも、答えることができなかった。
 体調の思わしくない女に今の城の正確な状態を伝えることは、非常に酷なことのように思えてならなかったからである。


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