キミガスキ

(あ、いる)
 沢山の人の中に埋もれる彼を、私は見つけた。
短めの黒髪を綺麗に撫で付けているスーツ姿の男の人。すっと伸びた背筋に、広い背中。そして横顔だけがちらちらと見える。
 黒縁の眼鏡をかけて、折りたたんだ英字新聞を読んでいる人。耳にはイヤフォンを着けている。
 私は知ってるんだ。そのイヤフォンからは、英会話が流れてる。新聞でよく見かける、スピードラーニングっていう奴だと思う。
 彼を見習って、私もお母さんから譲り受けたMDプレーヤーで、毎日通学時に英単語を聞いていたりするんだ。
 普段見慣れている高校生の男なんて、本当にがきんちょで、あまり友達みたいに、だれだれ君がかっこいいとかって騒ぐ気には全然なれない。
 サラリーマンがくたびれてるなんて、誰が言ったんだろう。ちょっと疲れた風だっていいじゃんか。
 あんなふうに毎日毎日、自分で自分を養ってる人たちは、素敵だよ。


 私が彼を見つけた――出会ったのは、学校帰りの電車の中だった。
放課後、友達とミスドで話しこんで、帰宅が晩御飯の時間を過ぎてしまった日だ。慌てて帰宅しようと駅にいけば、電車が発車しようとしている。
 息を切らしながら発車ベルのなる電車に飛び乗った私の目の前に、彼がいた。
 彼も多分、帰宅の最中だったんだと思う。
光沢のあるグレーのスーツによく似あう芥子色のネクタイを、骨ばった大きな手で緩めていて、その彼の目の前に、だん、と着地した私を、目を見開いて見つめ返してきた。
 私が彼のそんな様子に気付いたのは、電車に間に合ったことに「よっしゃぁ」だなんて声を上げてガッツポーズを決めた後で、彼の微笑みを見たあと、急激に恥ずかしくなってしまったのは、お約束。
 その時はただ恥ずかしくて、もじもじするだけで終わったんだけど、問題はその後だった。
 私が連絡もせず晩御飯の時間までに帰宅しなかったものだから、母に夜中までこっぴどく怒られて、翌日は寝坊を余儀なくされた。
 母に叱られながら飛び乗ったのはいつもより二本も遅い満員電車だ。これでも学校に間に合うけれど、ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、凄く混雑しているから、私も含め学生は皆乗ることを避けるんだけど。
 その中に。
 彼がいた。
 今日みたいに、英字新聞を片手に電車に揺られている彼の涼しい眼差しの目が、私を見た。昨日、彼の前で大失態をやっちゃった女子高生だって、わかったのかな。
 彼が、かすかに微笑んだ。
 それだけのことだ。
 それだけの、ことなのに。
 私は今まで感じたことのないような胸苦しさに、なきそうになりながら俯いた。
 彼を満員電車の中で見かけた翌日、私は同じ電車の、同じ車両に乗った。彼はやっぱりそこにいて、窮屈さをものともせず涼しい顔で新聞を読んでた。
 それから私も毎日息苦しいのを我慢して、同じ電車に乗ってる。


 でも、それももう終わるのかも知れない。
 お母さんが昨日言っていたんだ。お父さんの転勤が決まって、転校することになりそうだって。
 こんな時期に?って思ったけれど、私がどんな大学にいったとしても利便のよい土地に家族ごと引越した方が、後々楽だからって。
 引っ越したくない、なんて、いえない。
 叶ってもいない恋を理由に、引っ越したくない、だなんて。


「なんだ今日は元気ないじゃん?元気とうっさいのがお前のとりえなのにさ」
 同じクラスの隣の席の男友達が、いつも通り軽口を叩いて私の顔を覗き込んでくる。私はその顔をぐい、と押しやって、半眼でにらみつけた。
「うるさいのは、アンタ」
「ひでぇ。心配してやってるのに!」
「余計なお世話!」
 隣にいる奴にも、本当は引越しのこと言わなければならないんだと思うんだけど、今の私には余裕がなかった。


 苦しさを紛らわせるために毎日毎日友達と部室で、部活のないときはミスドで、放課後を騒ぎながら過ごす。そうしているうちに、一日、また一日と、引越しの日付が近づいてくる。
 いわなきゃ。
 せめて、好きです、だけでも。
 こんなこと突然いって、驚くかもしれないけど、でも、好きなんです、って。
 引越し前日、私は挨拶のためだけに学校に行った。朝、彼はいなかった。
 皆お別れ会をしてくれたのに、そんな皆そっちのけで、最後の一日に電車の中でたった一人の姿を見つけることができなかったことをずっと胸中で嘆いている私は、なんてひどい子なんだろう。
 お別れ会が終わって、私は走っていた。電車に乗り遅れそうになっていたのだ。こんな日ぐらい、お母さんも車で迎えにきてくれればいいと思ったけれど、母も母でご近所のお付き合いでそれどころではないのだ。
 もらったプレゼントの入った紙袋をがさがさ言わせて階段を駆け上る。発車のベルが鳴って――あ、でも、ジャンプすれば間に合うか。
 でも私はふと、彼の姿が頭の中に過ぎって、足を止めた。二十分待てば、次の電車だってある。
 あんなふうにみっともない姿を誰かに見せるのはもう嫌だった。
 毎日余裕たっぷりに、涼しい顔をしている彼。そんな彼に、この恋が叶わなくとも、見合うような女の子になりたい。
 男前、とか、組長、とかじゃなくて。
 颯爽としているよねでも、清楚だよね、っていう風に。
 大人の女に、私もなりたい。
「今日は飛び乗らなかったんですね?」
「え?」
 私は、その声にびっくりして声を上げた。聞いたことないけれど、明らかに私に向けて発せられている声――。
「あ……」
 あの彼が。
 私の傍らに立って、小首をかしげて、微笑んでいる。
「……えっと」
「いや、すみません。覚えてないですよね」
 男の人はそれっきり前を向いてしまった。
 今日は黒のスーツに、ワインレッドのシャツ。色物も似あうんだなって思った。ネクタイはオフホワイトと黄色のストライプ。そのセンスに脱帽。
 覚えて、いたんだ。
 私のこと。
 今がチャンスだった。私も覚えてます。その節は、恥ずかしい姿見せてすみません。朝の電車も、一緒だったって知ってました?仕事帰りですか?何の仕事をしていらっしゃるんですか?
 会話を始める言葉は無限に見つかるのに。
 言葉が、出ない。
 感動で、胸詰まる。
 声がでないよ。
 彼はふいに自動販売機に歩み寄ると、小銭を入れてカフェオレを買った。甘いもの、好きなのかな。ブラックよりもミルクと砂糖入りがいいだなんて。
 自動販売機はくるくると光を点滅させて、ぱーぱっぱらーだなんて派手な音楽を流した。がこがこっという、缶が二本落下する音が聞こえる。
(あたったのかな)。
 自販機によくあるやつだ。当たればもう一本。当たった人を、見たことがないけれど。
 本当に、当たったみたいだ。彼の手には二本のカフェオレ。彼は私のほうを見ると、一本を差し出した。
「驚かせた、お詫びです。カフェオレが、好きなら。もう一本、当たってしまったので、気にしなくていいですよ」
「ラッキーですね」
 私がようやく絞り出した声は、すごく裏返っていた。
「えぇ、ラッキーでした」
 彼が微笑む。あぁ、声も素敵だ。
「……ありがとうございます」
 私は大人しくカフェオレの缶を受け取った。なんだか、飲んでしまうのももったいない気がする。
 話しかけなきゃ。
 話しかけるんだ。カフェオレを飲んで、美味しいです。ありがとうございますって。世間話をして、最後に。
 好きですって。
 いわなきゃ。
「あ、の」
 勇気を振り絞って私が面を上げると同時、彼の携帯電話がメロディーを奏でた。私も知ってる曲だ。ガーシュウィンの、ラプソディー・イン・ブルー。
 私の心情とはかけ離れた明るいジャズのテンポに、私は拍子抜けしてしまった。
「何?うん?……えぇ?俺もう駅のホームだけど」
 彼は電話に対してうんとかあぁとか頷いて、通話を続ける。そうしているうちに、ホームに電車到着のアナウンスが響いた。
「ったく仕方ないな。おごれよー」
 ぴ、と通話をきって、彼が私に微笑みかける。
「せっかく、早く仕事が終わったと思ったんですけれどね」
 電車が、到着した。
 彼の短い髪が、風圧に押されてふわりと浮き上がる。
 ネオンサインに照らされる彼の顔。
 とっても、綺麗。
「……がんばって、ください」
 名前も知らない男の人は、私の言葉に頷いて、駅のプラットホームを降りていった。
 電話の内容から察するに、同僚の人から会社に戻れとかいうお達しが来たみたいだった。
 これから彼はどこかのビルに入って、誰もが寝静まった夜まで、パソコンのキーボードを叩くんだろう。もしかしたら、書類を眺めるのかもしれない。同僚の人たちと、談笑するだけかもしれない。
 でも、私は単なる通りすがりの女子高生で、親の転勤にくっついていくしかない子供で。
 彼に、好きです、のたった一言でさえ、口に出来なかった。
 神様のくれたせっかくのチャンスを、無駄にするしかできなかった。
 こどもで。
 私は、まだ開けていないカフェオレの缶を胸に抱いて泣いた。
 行き場のない想いに、息を詰まらせながら。

 ねぇ、私は子供だけれど。
 単なる、通りすがりだけれど。
 でもこんなにも。
 こんなにも。




キミガスキ




あとがき:
初めましての方もいつもおいでになられているかたもこんにちは。コラボ企画「片思いリンク〜キミガスキ〜」第三走者、花鶏です。片恋がテーマのリンクの中で、私がテーマにしたのは、オーソドックスに電車での恋です。楽しんでいただければ幸いです。前走者の諒さんが書いてくれたかっこいい彼の片思いの相手は、当時、こんなふうに別の殿方を眺めていたのでした…(むくわれねぇ!)。オンノベ界老舗の方々がずらりと並ぶこの企画、まだまだ続きます。あー何はともあれ駅伝(笑)のたすきを無事次に渡せてよかったです。

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