言葉にするよりも(FAMILY PORTRAIT)


 露子と電話していた最中、休憩室に踏み込んできた妹尾と目が合った。
 まだ残っていたのか、と暁人は瞬いた。相手も同じことを思ったようで、驚いた顔をしていた。どこかばつの悪そうな表情を浮かべ、彼は引き返していく。
『アキさん?』
 沈黙を訝る声が響き、あぁごめん、と呟いた。
 電話口で、愛しいひとは苦笑する。
『大丈夫ですよ――ただ、無理をしすぎないでくださいね』
 残業が早く終わること、祈っています、と露子は言った。そして就寝の挨拶をかわし、通話を切った。



 オフィスに戻ると、妹尾が笑っていた。
「帰ったのかと思ったよ」
「残念ながら」
 肩をすくめ、暁人は席に着いた。室内には自分たち二人しかいない。他は皆、既に帰宅している。暁人も今日は定時で帰社できるはずだった――ぎりぎりに、トラブルが持ち込まれなければ。
「エスコーバレーでボヤがあったらしくて」
「何? 大丈夫だったのか?」
「えぇ。手は回し終えたので、問題はないです。納期もずらさなくていいみたいです。工期が遅れるかと思って一瞬背筋凍りましたけれど、連絡もらう前に葛篭(つづら)さんがあらかた処理してくれたみたいで」
「あぁ……それは大変だったな」
「本当に。今度接待してくれって言われました。で、今は変更したデータのチェックを。もう終わります」
 実際にはかなり残っていた。
 だが妹尾は暁人のそんな嘘など見通していたのだろう。自身の分を手早く片づけ、彼はチェックを手伝ってくれた。おかげで言葉通り、残業はすぐに終わり――日付が変わることを覚悟していた身としては、非常にありがたかった。



 ロッカーからコートを取り出していると、既に身支度を整え終わった妹尾が尋ねてきた。
「成川、明日は何か予定あるか?」
「明日ですか? いえ、特には……」
 翌日は土曜だ。家事を片づけてから休日出勤し、データチェックの残りをしようと思っていた。が、妹尾が手際よく処理してくれたおかげで、月曜に回しても問題なくなった。葛篭から連絡が来ない限りは、とりたてて何もない。露子は大学のサークル活動とアルバイトだ。日曜まで会えない。
「じゃぁ、今から付き合わないか? 腹も減ったろう。おごるぞ」
「おごりはいいですよ――よろこんで」
 苦笑しながら暁人は、二つ返事で了承を示した。



 妹尾が案内した場所は、暖簾が出ているのかもわからない、ひっそりとした位置にある小料理屋だった。夜半から夜明けにかけて営業している店らしい。
「いらっしゃい……あ、音羽君」
 カウンター席しか見当たらぬ、昔ながらの飲み屋といった風情だった。着物姿の妙齢の女将が、目を丸める。
「めずらしいね。ユトちゃんじゃないの?」
「この間話していた、成川だ」
 初めまして、と頭を下げながら、上司は一体何の話をしていたのだ、と突っ込みたくなった。
「あぁ、そうなの。いらっしゃい成川君。ゆっくりしていってね」
 どことなく艶のある甘く幼い容姿は柳井を思い起こさせるが、気さくな口調に馴れ馴れしさはない。
「奥は空いてるか?」
「空いてるわよ」
「リオンさんは?」
「今、ちょっときらしちゃったものがあって買い出し。戻ったら顔出すように言おうか?」
「いや、いい。いい酒があったら熱燗で」
「ご飯は?」
「適当に……。あぁ、成川。嫌いなものとかはあるか?」
「いえ。ありません」
 首を横に振った暁人に、女将は微笑む。じゃぁ、今日のおすすめを用意するわね。



 カウンター席ばかりと思っていたが、奥に座敷が一席だけ用意されていた。コートをハンガーに掛け、掘り炬燵に脚を入れる。自宅に帰ってきたかのような虚脱が暁人を襲った。
「ユトさん、っていうのは?」
 じわりと解れていく手足に吐息しながら、暁人は妹尾に尋ねた。
「家内だ」
 件の奥方のことらしい。遊(ゆとり)という名なのだと、彼は言った。
「俺たちとここの女将は同郷……というか、昔、近所に住んでいてな。飯を作るのが面倒なときここに来る」
「なるほど」
「味は保証するよ」
「期待しています。その、奥さんを今日放り出して大丈夫なんですか?」
「残業だといったら、さっさと義姉……兄夫婦が近くに住んでるんだが、あっちに遊びに行った。兄が出張でいないからな」
「仲いいんですね」
「あぁ……」
 妹尾は四人兄弟で、彼はその次男らしい。兄と姉、そして弟が一人ずつ。兄と姉は年子。そして彼らと弟と、係長はかなり年が離れている。そんな家族の状況を、運ばれてきた酒や料理をつまみながらぽつぽつと話してくれた。ずいぶん賑やかな家らしい。
 暁人も問われるまでもなく、兄について話していた。酔いが回っていたのだろう。両親についてや、幼いころのことまで。わかってはいたが、妹尾は恐ろしく聞き上手だった。些細なことまでかなり話した。
 かなり滑りやすくなっていた口を止めたのは、妹尾の問いだった。
「さっきの電話、露子さんなんだろう?」
 恋人なんだろう、と。
 彼は言わなかった。
 だが、同じ響きだった。
 暁人にはつい数か月ほど前まで婚約者がいた。彼女と別れたばかりで、新しい女に手を付けるそれが対外的に見て、よくないことはわかっている。けれど暁人自身にしてみれば、露子のほうが本命であって――……。
 婚約者と別れた経緯を説明することは難しい。
 答えに窮する暁人を、妹尾は笑った。
「そんな困った顔するな。責めてるわけじゃない」
「……彼女の名前はどこで?」
「俺が最初に勘違いしたとき。名前を訊いたら、フルネームで名乗ってくれた。丁寧な子だな」
 妹尾は露子に対して好感を抱いているようで、彼女のことを褒められると素直に嬉しかった。
 幸せそうで何よりだ、と彼は言った。そしてそれ以上、追及するつもりはないようだった。
「あのとき、婚約者じゃないと聞かされて、驚いたぐらいだったからな」
「僕、彼女に一体何してたんですか?」
 あの酔っていた間のことは記憶にない。妹尾は、本人に訊くといいと笑って、取り合ってはくれなかった。
「長い付き合いなのか?」
「……彼女が中学生のころから」
 家庭教師と生徒だったのだと、暁人は正直に告げた。どうしてこんなことまで、妹尾に話しているのだろうと訝りながら。
 彼女の家の扉を初めて叩いた日のことを覚えている。寒さに鼻の頭を赤くして現れた、少女のことも――生まれたての赤ん坊のように無垢な瞳でじっと暁人を見つめ、そしてふいに、笑ったのだ。
 その瞬間、堕ちていた。心のすべてを抉られるように彼女にもっていかれた。
 七つも年の離れた、子供といっても過言ではない少女に恋に落ちた自分を、同級の友人たちは信じられないような目で見た。三十の足音を聞くようになった今では、その年の差は大したことはない――互いに成人しているからだ。それでも大学生相手だといえば興味の目で見られることは間違いない。
 だが、妹尾はその点には触れず、なるほどな、と言った。
「そういう感覚は、俺にも覚えがあるよ」



 自分に惚気る趣味があったとは思わない。
 けれどなぜかその日、露子の存在の大切さについて訴えたかった。酔っていたのだ。取引相手に企画の重要性を説くような真剣さで、暁人は滔々と自身の心をとらえて離さない娘について存分に語った。後に、穴に入りたい気分に駆られるのだが。



「……係長も、奥方と結婚するまでに結構時間がかかってるんですね。高校の同級生だったんでしょう?」
 結局夜明け近くまでだらだらと過ごし――あの店の居心地は恐ろしくよかった――駅まで並んで歩いていた。到着するころには、始発が動いているだろう。
「同級生、な」
 言葉を濁した上司に対して追及する気は起きなかった。
 しかし妹尾は、プライベートを語りつくしたといっても過言ではない暁人に気が引けたのかもしれない。
「……あいつは、両親を亡くして、妹尾の家に引き取られてきた。十六の頃だった」
 暁人は息を呑んで妹尾を見上げた。道をまっすぐ見つめる彼の瞳は、回顧に僅かに細められていた。
「そのころ、うちの家は今ほど仲がいいわけでもなく……むしろ、瓦解すれすれだったと言ってもいい。その関係を繋ぎ直して、今の形にもっていったのが、遊だ」
 妹尾の家族をひとつにまとめた、赤の他人であった少女。
「強烈な女でな。人の孤独や悩みに敏感で、ずかずか土足で入りこんでは引っ掻き回す。どう見てもそれは、あいつの正義を振りかざしているだけにしか思えないのに、同調や反発を引き出して、相手を立ち直らせてしまう。人の心をごそりと動かす、恐ろしい女だ」
 それは、あなたのことではないのか。
 暁人は言葉を呑み込んだ。妹尾もそういうところがある。人の孤独や悩みに敏感で、それを放ってはおけず世話を焼いて、心を、ごそりと動かす。
 話を聞きながら、おそらく似た者夫婦なのだろうという感想を抱いた。
「ともかく、そんな風に人にぶつかっていくから、へこむのもしょっちゅうでな。どうしてそうまでして人と関わろうとするのか、わからなかった。長い間」
「……わかったんですか?」
「あいつはそうやって自分の存在を他人に刻み込もうとしていたんだ。生きている実感を得ようとしていたんだ……と思う」
 あいつは強くて、それと同じぐらい、脆い女だと、妹尾は言った。
「そんなことをしなくても、生きていてもいいんだということをわからせたかった。だから、甘やかした。甘やかして、甘やかして……そうしたら、あいつは病んだ」
 いやだと全力で反発し。
 こわいとわめいて。おとわはやさしくてわたしをすてきれないだけだといって。
「あいつは周りの人間の懐奥深くに踏み込みながら、自分に対しては踏み込まれることを拒んでいる。ある日突然いなくなられるかもしれない……そんな恐怖にあいつは耐えられないんだ。たとえ相手がある日突然、あいつとの関係を切ってしまっても、純粋に相手の幸せだけを祈ることができる立場に、相手を置いておこうとするんだ。そのラインぎりぎりを見極めるために、これだけの年数がかかった」
 どうして俺は、こんな話をしているんだろうな、と、妹尾は自嘲気味に笑った。
「俺もできることなら甘やかしたいが、それをするとあいつは病む。愛しているという言葉一つすら口にすることもままならない。ただ、態度で示していくしかなくて、それもやりすぎると危うい。いつもいつも、あいつとの距離を測りかねる日々だよ」
「それでも離れられない?」
 暁人の問いに、妹尾は微笑んだ。
「俺はあいつに家族をやりたいんだ。あいつが俺にくれたものを返してやりたい。ゆるぎない家族をあいつに贈りたい」



 何万もの愛を囁くことは簡単だ。大事にすると、守ると、誓うことも。
 けれどそういった言葉全てを呑み込んで、ただ態度だけで表していくことは、どれほど困難なのだろう。



 日曜日の朝、目覚めると既に来ていた露子が朝食の支度にかかっていた。
「いつきたの?」
「ついさっきです。すっごく早く目が覚めてしまって……」
 母に冷やかされながら来たのだと、彼女は照れ臭そうに言った。
 兄と違って、暁人は料理が得手ではない。露子と付き合う前までは外食も多かったし、朝はトーストとコーヒーで済ますこともざらだった。それを見かねて、露子は休日にやってきては、保存のきく惣菜を作り置きしていった。彼女は料理を母親と、遥人に習っているらしい。家庭教師をしていたころ、時々ご馳走になっていた久世家の味と、幼いころから慣れ親しんだ兄の味。露子の料理からは、二つの懐かしい味がする。
「昨日は何してたんですか?」
「夜明けまで係長と呑んでたから、昼過ぎまで寝てた」
「せのおさんと? よあけまで?」
 露子はぱちくりと驚きに瞬いた。
「どんな話をしてたんですか?」
「どんな――……って」
 互いのプライベートなことまで、かなり突っ込んで話した。彼の事情を露子に話してもいいとは思えない。彼も妻には話さないだろう。
 暁人は露子を手招いた。彼女は首を傾げ、それでも大人しく暁人の腕の中におさまる。
「色々、話したんだけど……」
 沈黙が落ち着かなくなり、暁人は露子の髪を撫でながら、とりとめなく口を開いた。
「ただ、すごいなって思った。元からすごいなとは思ってたんだよ。あの人と一緒に仕事してると、自分の限界を飛び越えられるっていうか、あの爽快感が本当にすごくて、一緒に仕事できることがすごくうれしいんだけどさ」
 今までの上司の中で最高だった。若くて仕事ができ、人格も完成されている人間は確かにいるのだと思った。
「でも、仕事だけじゃなくて、なんというか、すごいなって思った」
 人を大事にするということを、本当に実践している男なのだ。そして自分も、大事にされているという自覚がある。妹尾の手は知らぬ間に自分や、柳井や、天宮の背を支えている。
 きっと同じようにして、彼は彼の妻を支えて傍にいるのだろう。
「あぁ、あんなひとになりたいな……」
 独白してから我に返り、暁人は腕の中の露子を見下ろした。彼女はにこにこ微笑んでいる。
「アキさんって、妹尾さんのこと大好きなんですね」
「え? あぁ……うん……」
 好きというのとは少し違う気が、これは尊敬というものであって――いや、それを好意というのか?
 混乱する暁人を力強く抱きしめ、露子は言った。
「わたし、そんなふうに、だれかをすきになれるアキさんがすきですよ」
 ふふ、と機嫌よさそうに笑う娘に愛しさが募り、暁人はその華奢な身体を抱き返した。